もう、20年以上も前になるでしょうか、兵庫県尼崎に在住していた私は自宅近くの図書館で、尼崎市長を務めた誰かさんの蔵書のコーナーで、聞いたことない人の全集本が目に留まり手に取って読み始めるや、感激のあまり頭がボーッとなってしまった事が有りました。
それがどんな内容だったか覚えていませんが、とにかく私はこの全集を買わねばならない!という衝動に駆られたのです。
数か月後、京都の三条だったかの古書店で見つけて狂喜したのですが、値段を見ると…「高ッ!」確か10万円近かったと思います。私にはとても手が届かないこととて、諦めざるを得ませんでした。じゃ、しょうがないから図書館で借りて読もう(私は基本借りない主義なんですが)と思ったのですが、蔵書だという事で、借りれなかったと記憶しています。そして熱しやすくて冷めやすい性格からかいつしか念頭から消えてしまいました。
ところが最近、その著者の手に入り易い文庫本が出回っているのをネットで知りました!まるで数十年ぶりに恋人に出会えたようなものです。
その恋人の名は毎田周一(1906-1967)。
仏教思想家、詩人、教育者…真宗大谷派の傑僧暁烏敏に師事、哲学者西田幾多郎にも学び、晩年は信州でほとんど隠遁生活をしていたそうです。
その語り口からは浄土、禅ともつかない、否仏教云々といったことでも括れないワン・アンド・オンリーといった香気を漂わせています。
それはまず手始めに読み始めた、その処女作とされる「雑阿含無常経讃仰」(毎田周一選集13巻 中山書房仏書林)においていかんなく発揮されています。
”私はこの書を「狂気の書」と名づけたいと思います。それはこの私という人間が、一種の狂気に捉われた人間であることを物語ってをります。”
もう、自序からして読者に”うかつに近づきなさんなよ!”とカマしているようではありませんか? だから私はこの書を一人でも多くの人に読んでもらいたい、などとは間違っても思ってません。一度でも神仏に恋焦がれたことのある人に向いています。初期の仏教経典雑阿含経の解説などのつもりで読んだらとんでもない。表題の通り、讃仰というのか”私の遺言”(著者)というか、私がとっさに思いついた言葉は”酔経”です…正しく毎田師のこの経門、釈尊に酔いしれてしまった言葉を延々と吐露しているのです。
”雑阿九は私にとって「この一経」である。私はこの一経より他に何も知らぬ。”
”既に私に残されたのはこの一経である。私に与えられたるものはこの一経のみである。”
”私はこの一経を捨ててもよい。しかし捨てたとき私はこの一経とともに働いているのである。この一経が私となって働いているのである。”
書いてる私の方も酔っ払ってきそうですが、これは読みようによっては”狂信ここに極まる!”と感じないでもありませんが、同じ師による「生ける仏陀ーアッタカ・ヴァッガの研究」(選集4)では全く趣が違います。
”迷いが無いということは、ある見解を固執しないという事である。”
”無を啓示する基督教、仏教は、そこに自らを消滅せしめるのである。それをどこ迄も基督教・仏教を持ち回しているならば、それは基督教・仏教をまだ真に受けとっていないことになるのである。”
この書は実は私の記事「ブッダ三千年の夢」のネタなのですが、ここでは終始あらゆる定見に捉われない、自在なる在り方というものが強調されているのです。
私はこの両本から伝わってくるものに、何の迷い、矛盾など感じません。
師は”この一経”をなんら他のものに強いるということが有りません。
それはどこまでも師の絶対境の吐露なのです。人それぞれの絶対境です。
その絶対境が有識に捉われ、他に働きかけられると由々しき相対地獄が始まり出します。
そこに何も矛盾を感じないのは”あるものを在るがままにあらしめる”師の自在性からだと思います。
師にとっての雑阿九はおそらく字面を超越してしまっているのでしょうが、あくまで師一人のためにあります。
そしてここで読者に”君にそこに生き、死んでいく一経があるか!”と問うている気がします。
この選集はまだすべてに触れていないのですが、師の法縁として挙げられるのは、親鸞聖人、道元禅師、聖徳太子、とりわけここに紹介した様に釈尊かと思われます。またゲーテ、シラー、ブラウニング(英詩人)なども自在に語られています。
という訳で下戸の私でも近頃酔いが回っています…
尚、まだ目を通してないですが、一冊という事でしたらアンソロジーとして次のものが出ています。
「君気持ちを大きくもとう」(長風舎)
それがどんな内容だったか覚えていませんが、とにかく私はこの全集を買わねばならない!という衝動に駆られたのです。
数か月後、京都の三条だったかの古書店で見つけて狂喜したのですが、値段を見ると…「高ッ!」確か10万円近かったと思います。私にはとても手が届かないこととて、諦めざるを得ませんでした。じゃ、しょうがないから図書館で借りて読もう(私は基本借りない主義なんですが)と思ったのですが、蔵書だという事で、借りれなかったと記憶しています。そして熱しやすくて冷めやすい性格からかいつしか念頭から消えてしまいました。
ところが最近、その著者の手に入り易い文庫本が出回っているのをネットで知りました!まるで数十年ぶりに恋人に出会えたようなものです。
その恋人の名は毎田周一(1906-1967)。
仏教思想家、詩人、教育者…真宗大谷派の傑僧暁烏敏に師事、哲学者西田幾多郎にも学び、晩年は信州でほとんど隠遁生活をしていたそうです。
その語り口からは浄土、禅ともつかない、否仏教云々といったことでも括れないワン・アンド・オンリーといった香気を漂わせています。
それはまず手始めに読み始めた、その処女作とされる「雑阿含無常経讃仰」(毎田周一選集13巻 中山書房仏書林)においていかんなく発揮されています。
”私はこの書を「狂気の書」と名づけたいと思います。それはこの私という人間が、一種の狂気に捉われた人間であることを物語ってをります。”
もう、自序からして読者に”うかつに近づきなさんなよ!”とカマしているようではありませんか? だから私はこの書を一人でも多くの人に読んでもらいたい、などとは間違っても思ってません。一度でも神仏に恋焦がれたことのある人に向いています。初期の仏教経典雑阿含経の解説などのつもりで読んだらとんでもない。表題の通り、讃仰というのか”私の遺言”(著者)というか、私がとっさに思いついた言葉は”酔経”です…正しく毎田師のこの経門、釈尊に酔いしれてしまった言葉を延々と吐露しているのです。
”雑阿九は私にとって「この一経」である。私はこの一経より他に何も知らぬ。”
”既に私に残されたのはこの一経である。私に与えられたるものはこの一経のみである。”
”私はこの一経を捨ててもよい。しかし捨てたとき私はこの一経とともに働いているのである。この一経が私となって働いているのである。”
書いてる私の方も酔っ払ってきそうですが、これは読みようによっては”狂信ここに極まる!”と感じないでもありませんが、同じ師による「生ける仏陀ーアッタカ・ヴァッガの研究」(選集4)では全く趣が違います。
”迷いが無いということは、ある見解を固執しないという事である。”
”無を啓示する基督教、仏教は、そこに自らを消滅せしめるのである。それをどこ迄も基督教・仏教を持ち回しているならば、それは基督教・仏教をまだ真に受けとっていないことになるのである。”
この書は実は私の記事「ブッダ三千年の夢」のネタなのですが、ここでは終始あらゆる定見に捉われない、自在なる在り方というものが強調されているのです。
私はこの両本から伝わってくるものに、何の迷い、矛盾など感じません。
師は”この一経”をなんら他のものに強いるということが有りません。
それはどこまでも師の絶対境の吐露なのです。人それぞれの絶対境です。
その絶対境が有識に捉われ、他に働きかけられると由々しき相対地獄が始まり出します。
そこに何も矛盾を感じないのは”あるものを在るがままにあらしめる”師の自在性からだと思います。
師にとっての雑阿九はおそらく字面を超越してしまっているのでしょうが、あくまで師一人のためにあります。
そしてここで読者に”君にそこに生き、死んでいく一経があるか!”と問うている気がします。
この選集はまだすべてに触れていないのですが、師の法縁として挙げられるのは、親鸞聖人、道元禅師、聖徳太子、とりわけここに紹介した様に釈尊かと思われます。またゲーテ、シラー、ブラウニング(英詩人)なども自在に語られています。
という訳で下戸の私でも近頃酔いが回っています…
尚、まだ目を通してないですが、一冊という事でしたらアンソロジーとして次のものが出ています。
「君気持ちを大きくもとう」(長風舎)