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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己の大本

2015-03-17 19:44:18 | スピリチュアル
「貴方が一番幸福感とか充実感を持てるのはどういう時ですか?」
以前こう聞かれて、漠然としてるようですがこのように答えました。
「自分が自分でない、自分が誰だか分からなくなってしまうような時です!」と。
(そうなんです!私は通常思われているよりもかなりアブナイ人間なのです!もっともこのブログに親しんでいる方にとっては、今更の感がおありでしょうけど…)
これはとても逆説的なのですが、こういう時というのがもっとも自分らしい感じが持てるのです。
我を忘れてものを書いてたり、何かに取り付かれたように語っていたり…
まるでこの世に怖いものなど無い!ように感じるものです。

”人生の極地…それはエクスタシーである!
エクスタシー無き人生…何百年積み重ねようとも、そこに生の燃えるようなその瞬間が無ければ何になるだろうか!”

エクスタシーはしばしばエロいことに結び付けられたりしますが、元々は魂が自分から超え出るというような意味です。
芸術家や預言者に限らず、人生のどんな局面でもこういう事は起こり得るものです。
(ウーン!しかし…何にしても…人間の理性なんてものは儚いもんですな?)
では、これに反して、幸福感も充実感も持てない時というのは?
それは多くの場合、自分のことに捉われている時ですね。
自分は間違っているんだろうか? 変人ではないだろうか?異端ではないだろうか?
こんなケッタイなブログなんて書いてていいんだろうか…
皆さんも心当たりはありませんか?
これまた逆説的ながら、頭の中が「自分、自分」でいっぱいの時というのは、自分に迷っていて、自分を見失っている状態なのではないでしょうか?
そしてビクビクと戦々恐々、他人の目が気になってしまう…
こう考えると…そも自分、自己とは一体何なのか?不思議でしょうがないと思いませんか?
ま、大体チッポケな自分に捉われ始めると、自分を袋小路に追いやってしまうという事は、誰しも自覚出来るんじゃないかと思います。
問題はその”どうってことない器”のフタがなんかの拍子に開けられた時、中からお出ましになる巨人の正体です。
私はこの我ならぬ我がお目見えになっている時、自分らしさを感じていると言いましたが、それは主体的に感じているという事でもあると思います。
これはどうしても通常考えられている、自己のより深いところに自己の大本、本体がお在す、ということに行き着くと思われます。
つまりその人生の本当の主体者というのは、普段は隠れているこの自己の大本であったのです。
この巨人がアリアリと現前した時、チッポケな自分はそのものに明け渡さざるを得なくなるのですが、この事は本当の意味で自分を生きるという実にシンプルなことなのですね…。
何が自我で、何がエゴで、何が真我で、ハイアーセルフで…なんて頭ン中でアレコレ廻らしているより…今日の東京は気温が急上昇ですよ!
ときめきの春ですよ!エクスタシーではありませんか? どうも今日は脱魂…いや脱水症状になったようです。やたら喉が渇いて…







コメント
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