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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ブッダ三千年の夢

2015-07-01 00:04:38 | 仏教関連
「思いを離れた人には結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には迷いが存在しない。思いと見解とに固執した人々は、他人と衝突しながら世の中をさまよう。」
(スッタニパータ)

これは現存する最古とされるゴータマ・ブッダの言行録で、その中でももっとも古い章アッタカ・ヴァッガの一節です。
いわばブッダの、仏教の原点ですね。
この言葉を味わってみると、一体全体仏教、否宗教とは何なのだろう…と、愕然とさせられるではありませんか?
宗教らしきものが生まれて数千年、我々は一体何を信じ、何を教え、何を守り、何を伝えてきたのでしょうか?
果たして宗教の名のもとに何人が悟り、何人が救われたのかは知る由も無いですが、私が生きている時代、私自身直接見聞きしてきたことに限っても、ハッキリ分かっていることは、何とこのものによって多くの人々が迷妄に陥ったことでしょう。
この国では宗教がらみでの大きな殺し合いこそない、というのは奇跡に近いことです。
日本人の心は本当に美しい、と思います。”冒涜”と言う意味が誰に教えられなくても分かっているのでしょう…
私が初めて宗教と関わった時、全く子供みたいでした。とにかくその教えを信じてさえいれば救われると思い込んでいたのですから…
大学の学内などで、迷ってる、真理を知らない者たちを一人でも多く、その宗教に導いてあげようと、それが人類の救いにつながるんだと、本気で信じて布教活動をしていました。
するとどうやら他宗教を信奉しているらしい人からこう言われました。
「迷っているんですね。お可哀想に…」そして”ぬあんだとーッ”と感情的になりましたが、内心”そうかもしれない、僕は一体何をしているんだろう…”という思いも霞めていました。
その後その信念がぶっ壊され、今度は信者だった頃とは打って変わって”定住出来ない”ワンダラー”、人呼んで精神的アナーキスト?となってからは逆に信仰の強要、独善的あり方が私に直接向けられた時、逆鱗に触れてしばしば衝突しました。もとよりそれも迷いのうちに居るのに違いないのですが…。
人はそれぞれ視点も、境遇も、宿根も違うものです。
自分の拠り所を持つのは勝手ですが、この自分の立場から”物申す”というのが実に危うい! 自分の足場など半径数メートルしかありません。
自分の立場というもの、自分の信仰、思想、修法…そんなもの自分が信じ思い込まなきゃ、何なのかわかりゃしません!
ただ与えられるものを受け入れることだけなのに…
それに一定した、固定したものなどありません。そうなったら既に生きたものではなくなります。
より高い、より深い、より正しい…これこれの価値基準、価値判断…もうキナ臭い匂いが立ち込め始めます。
”自分は分かってるんだから教えてあげよう、有難く拝聴し給え…”
そして迷った人間が血迷って人を、人類を!救わなきゃ…なんて、アリ一匹救えやしないのに…
今や宗教といい、精神世界といい、伝染病の様に迷妄が拡散しているではありませんか?
真理、救い、悟り…畢竟それは誰のためにあるのですか? 自己一人のためです!
誰にも信じてもらう必要なんてないです。伝える必要も本当は無い!
それは人それぞれに有るのだから…
本来捉えることなど出来ないものを有識に取り込み、”真理を掴んだぞ、人に教えなきゃ…”悟ったと思うのが迷いの初め…
これまでの宗教の歴史とはブッダの三千年にわたる夢みたいなものです。
夢から覚めたら皆ブッダでしょう…。
ただ、私は人が嬉々として、一人一人の道について語っているのに接することがとても楽しく、愛おしくなります。
私はそのような縁を借り、育てられてきたと思います。
未だ迷いから抜け切れていませんが、通りがかりで何か拾ってもらえれば…と性懲りも無く書いてます。











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ダンマが顕わになる

2015-05-04 17:19:44 | 仏教関連
手島佑郎さんは著書「ユダヤ教の霊性」(教文館)で、東欧を中心に展開したユダヤ教神秘主
義ハシディズムの全貌を浮き彫りにされました。
それまでその資料がほとんど無く、わずかに哲学者のM・ブーバーの研究を通じてしか知られ
ておらず、大変貴重なものだと思います。
これによると、その有り様はブーバーが描いているような熱狂的な祈りの集会というものばか
りでなく、実際は瞑想あり、観仏、念仏のような修練あり、カバラーに由来する魔術的なもの
あり、実に多様性が見られるものなのでした。
そしてこれらが目指しているところは、いずれも”神との密着”つまり、”神と共に有ること”
ださそうです。
私がこのハシディズムの素描に触れて感じたのは、まるで各宗派に分かれる以前の仏教のよう
である、ということです。それは平安時代の仏教に伺えるものなのですが、貴族社会に閉じこ
もり、民衆に浸透するに至らず、形式化も強めて行ったようです。
鈴木大拙師は、”日本的霊性は鎌倉仏教において発露をみた”としているのですが、このこと
は一面仏教の分派が起こり、各宗派の独自の展開を強めて、トータルな仏教理解は希薄になっ
てしまったとも言えると思います。
そして自力だとか他力だとかの議論も喧しくなり、教義や修行に関する枝葉的な方に捉われ、
肝心の仏教本来の面目から離れてしまう事態を招いたと思われます。
玉城康四郎先生は、一貫して形なき命、ダンマに目覚め、生かされることを強調されているの
ですが、ダンマとは相対以前の根源的なものであり、これが顕わに生きて働く時、自ずと一な
る命に和合するものです。
先生の遺著でも示唆されているように、このことはひいては仏教のみならず、他の宗教的伝統
にも通底するものです。
ここに日本的霊性の発露は、全く全的、グローバルな様相で開示されるものであることを強調
したいと思います。
そして現代の状況では、”目覚めに預かる”といった現象は全く宗教を超えたところで起こり
、宗教の外、なんらの特定の信者でなくとも起きているのはご存じのとおりです。
これは正しく、玉城先生の仏教的表現で”ダンマが顕わになる”というその時節を迎えている
ように感じられます。
かつては一流の僧侶とか賢人にしか預かることが出来ない、とされていたものが別にどおって
ことない?人に及び始めている訳ですね。
これは本当の意味で仏道が下々にも浸透したという証かと思われます…。
そう言えばこれからは禅にも念仏にも通底した道が開示される? と架空のマスター、ドクタ
ー・ザボーは言ってました…










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