goo blog サービス終了のお知らせ 

人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ブッダの裏読み

2023-08-07 10:02:19 | 仏教関連
宗教、スピで説かれる言葉には、文字通りに捉えると、誤解を生みかねないものが多々あります。
そこで、どういうことを主眼に言おうとしているのか、言葉の裏に隠されているもの、含まれているものを洞察し、その言い回しに留意する必要があるでしょう。
取り分け、ブッダが語ったとされる言葉などは典型的なものと言えます。
その中でよく認知されているものは、「自らを拠り所としなさい。他者に頼るなかれ!」と、他人の言説も、神とか○○霊といった、所謂形而上の存在を認めることも、勿論頼ることもしなかった、とされている教えです。
だから、仏教はキリスト教などの一神教と違い、神が人間、世界を創造したという教えを否定していたのだ、と。
これは、神、霊的存在といった、通常知ることも、感ずることも出来ないものを思い描き、思念に囚われることから離れること、言い換えると自己実存から切り離された想像(想いによって造られた像)を思念世界に持ち込まないことを言ったものと思われます。
何故ならば、それは偶像、定見となるものだから!
創造神を想像することも定見。考えても分からないものには何一つ定かなものは無い!、空想するだけ無駄!、そうすることで段々自己から離れてしまうであろう!...
このように、定見を退け、自己を明らかなものにすることを勧めたのです。だから神も霊的存在も否定した!
いや、待てよ!...そのように否定することは定見につながらないのか?
考えても分からないからといって、自分の思いの外では、創造神も何かの霊も存在しているかもしれないではないか?
それに...師はそう言われた、だから想像したものに頼ってはいけないのだよ!...って、それ他人の言葉に頼っているんじゃないのか?
いいや、そうは言ってもこれは原初のブッダの、根本仏教の教えなんですぞ!..って、又権威付けか!...それこそは、鼻持ちならない定見ではないか!
仏教もキリスト教も無い!...どこまでも自己を明らかに、自己実存に向き合わなければならないのです!
ブッダは又アートマン、真我的な存在を否定したとされます。これも先と同じように理解されるものでしょう?
本当の自分が示されるかどうかは、自分自身が自分自身にぶつかってみなけりゃ分からないんですよ!
その方法は、禅やテーラワーダ仏教などに瞑想法が示されているそうですよ!
だけど...よく考えてみよ!、方法論ってヤツは自己実存とは直接つながらないものですよ!...私が居て、そういうものに着手するのだから!
何故、ブッダはそのように定見となるものを退けられたのか?
分かりきったこと!...それが平安、安らぎに覆いを掛けるからでしょう。
だから、他の何ものにも拠らない自己自身に尋ねよ!...やってみるのです!
え?...尋ねようにも、ぶつかってみようにも、どう掴んでいいか分からない?
だから、人は容易く諸々のものを掴んでしまうのだ!...分かりますね!
掴もうとしても、掴めない...壁にぶち当たるのが普通でしょう?
つまりは...デ.キ.ナ.イ!
しかし...私には何もデキナイけど、そこに私の思いを超えて(想像する余地がない)、私が掴むのでなく、捉えられてしまうあるものに当たってしまうのを覚えざるを得ないのです。
それは自分自身であって、自分自身でないあるものとしか言いようがありません。

これを読んでどう感じるか(無闇に信じちゃ、ダメ!)はあなた次第です!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

煩悩即菩提

2023-06-06 03:44:29 | 仏教関連
大乗仏教では、よく「煩悩即菩提」などと説かれたりして、諸種の解釈があるようですが、私自身が感じたことを書いてみたいと思います。
その中に、”煩悩の本体は真如と一つなのだから、そのまま菩提につながるのだ...”、というようなのもあるようですが、一寸抽象的な感じを受けて、私の心根には響いて来ません。
煩悩というものは、外から眺めているようなものでは無いはずです。一般論のように語られるようなものに、煩悩がそのまま菩提に開かれる、ということが実存に即したものとして伝わって来ないのです。
煩悩の苦しみを味わっているのは、言うまでもなく私自身なのです。
当然、その苦しみから離れたいと願うものですよね。
しかし、この思い煩うばかりの自分からは、どうにもその宿業のように心根に絡み付くような苦しみから離れることは出来ないのです。
その現実が心底感じられた時、こちらの願いはあちらの願いにつながる...
それは、浄土系仏教、特に親鸞さん的には、”弥陀の本願”により頼む以外に救いの道は開かれないことに覚めさせられるということ...自分の思い、力を超えたものに意識が向かわせられる、ということなのです。
煩悩こそは、菩提に開かれる契機に他なりません。それは全く即してあるもの、直ちに開かれるものなのです。
言い換えると、煩悩というカルマ的な自分の力の及ばない作用が、そのままダルマ(ダンマ)という、自分の力を超えたハタラキにつながる、ということではないでしょうか?
その契機は、全く全託の契機でなくて何であろうか?
然るに、私の知人の如く何故、”目覚めるためには、過去世からのカルマをすべて浄めなければならない!”だの、”すべてのチャクラを開かねばならない!”だの、”霊的階層の何レベルまで昇らなければならない!”だの、何一つ自分自身に直接示された訳でもない、空想ごとに基づく、目覚めに致る条件をわざわざ設え、囚われなければならないのでしょうか?
かかる人間は、全託、覚醒に至る、自分が為し得る何かがあると、勝手に思念しているのです。それも自分自身が直接知り得たものでも何でもない、ある教師の言葉に追従しているだけなのです。
そして、こういうものが煩悩だ、ということに気付くことすらないようなのです。
彼は、おそらく煩悩の苦しみというものを味わったことが無いのでしょう?
お気の毒という他ありません。
煩悩こそは、菩提の開かれる種なのです。業苦に捉えられることこそは、本願に抱かれることにつながるのです。
どちらも人の思い、力を超えたもの...ただ弥陀の本願にゆだねるのみ!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通るものがある!

2023-05-29 09:43:37 | 仏教関連
「弥陀の五劫思椎の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄)

当たり前のことながら、私には私以外の人間が何を思い、何を願って生きているのか、ということは分からないのです。
まして、世界人類のことなど!...
そういうことは抽象的にしか伝わらず、あっしにゃ、直接関わりのないことなのです。
私は、どこまでも私自身に示されたこと、与えられたことをしっかり感受していくのみなのです。
それは、全くもって私に即したこと、実存的なことという他ありません。
例えば、神的な現臨にあって、愛、平安、リアリティに与る、という...それを他人事、一般論のようなもののように言い表すことなど、出来ようはずなどないじゃありませんか?
これこれ、こういう法則、メカニズムみたいなもので、そういうことになるのか、どうかは知りません。
ただ、私は如何なる虚飾もなく(性懲りもなく)、ありのままを伝えるだけなのです。
仏教的には、私にはそういう宿縁があるということなのでしょう?
それはね、そうなっちゃったんだから、しょうがないってことです。
それは、五劫からなのかどうか?...もう気が遠くなりそうですよ!...この私にか!
何かの間違いなのかもしれないけれど...しかと感受しなければならない!
感受されたものは、通る!...それは”ここ”を通って行くのです。そうならざるを得ない。
縁というものは、私のもの、私だけのものというものは何もないのだから!...
阿弥陀如来というのなら、それは”無量寿、無量光、無礙光”なるもの...はかり知れない永遠の命、はかり知れない、どこまでも障りなく、普く通ってゆく光なるもののことです。
そういう縁に出くわしちゃったんだから、伝えなきゃしょうがないのです。
そういう一人の私において!...一人であっても、私個人だけということじゃないのですよ!
通るものがあるのだから!...神的な現臨にあるとは、そういうことなのです。
通ったものは、無辺に広がってゆく...
一つがすべて!...”ここ”から切り離された、世界人類などあり得ようはずがないのです!
だから、今日も...
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...
世界人類が平和でありますように...

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブッダとダンマ

2022-10-22 09:52:03 | 仏教関連
「目覚めとは、個人ゴータマのなかに超個人的な法.ブッダが顕現したことであり、躍動していることである。...目覚めそのものは、もはやゴータマの個人を超えて、永遠のものとなり、世界そのものとなり、我々自身の現実の世界のものとなっている」
(玉城康四郎「瞑想と経験」/春秋社刊)

悟りというものについて、どのような心的境地を連想されるでしょうか?
例えば、無所有、自分のもの、所有という感じが全く無くなった境地...あるいは、煩悩はもとより、自分の思いというものが全く無くなった境地(いつも言ってる現臨にある状態というのは、その端緒となるものではあれ、直ちにそんな状態になることとは違いますよ。念のため)などを思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、ブッダは涅槃に入る以前、上記の境地を体得したとされる二人の仙人について、同じように体得したにも関わらず、“それは自分が求めているものではない!“、と、それぞれ立ち去ってしまったのですよ!
悟りと仏教は、すぐ結びつけられるものですが、このことは、如何に悟りというイメージばかりが一人歩きしているか、ということを如実に物語っているようです。
しかし何故、それがブッダが求めていた境地と違っていたのかについては、経典には述べられていないのです。
従って、それは想像する他無いのですが、玉城先生が仄めかしていることに深く共感を覚えずにおれません。
それは、無所有、非想の境地は、いずれも深い心境にあるものとはいえ、いずれも自分の内面の深まりを伝えるものであり、言わば自己の世界内に留まったものではないか?、自己の“思いを超えた境地“ではあっても、それは、“自己を超えた“世界へと導くものではなかった、のではないか?
微妙な言い方の違いですが、これはとても重要なことです。つまり自己世界に留まるものか、自他の世界、ひいては普遍世界へと開かれたものか、ということです。
ブッダの心根には、自分以外の衆生との関係性といったものが見据えられていたのではないでしょうか?
その縁起観というものも、ここから導き出されたのではないか?
しかし、こうしたものがブッダの悟りである、ということはやはり経典に明言されてないので分かりません。
きっと、ブッダ個人の悟りのことなどどうでもいいことなのでしょう?
ここに仄めかされてあるのは、悟りであれ、涅槃であれ、ブッダ個人の力によっては、導かれ得なかったということでしょう。
それはブッダ個人を超えた、法~ダンマによって為さしめられたことの何ものでも無いでしょう。
ブッダの悟りとされているものは、その実ブッダを超えたものであったのです!
それにしても、何故ブッダは成道以前に、そのことを“悟って“いたのか?
サッパリ分からない!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本願の普遍性

2022-10-15 10:14:15 | 仏教関連
「浄土は私にとってまだ見ぬ世界である。まだ見ぬといったところで、見ないという形で見ている。...そこはまだ見ぬ世界であるが、しかしそれが同時に懐かしい魂の故里である。
故里なら知っているはずである。見知らぬ世界でありながら、なにかそこへ心ひかれる」
(金子大栄「親鸞の世界」/徳間書店刊)

私が昭和58年夏、初めて“人生の裏側”を目の当たりにさせられた時、それは元より生まれて初めての体験だった訳ですが、同時にずっと心の奥で求め続けていた魂の故里に帰ることが出来た!、という思い~それは通常の思いでない、もっと意識の深いところから来るのであるが~が込み上げて来たのでした。
このことは、意識の表層では捉えられてはいなくても、その深層にはそれが息づいているということを如実に物語っているのです。
表層では諸々の思いに囚われていて、自分が本当に求めているもの、最善のものが何かが分からなくなって、次善以下のことに夢中でいる訳ですが、魂の故里にあって、神、キリスト、如来...~呼び名は何であれ、それは魂の親とも言うべき命そのものでしょう~の方が絶えず、こちらに帰郷を呼びかけ続けているのを感じました。
このことを心の深部を貫くようにも示され、もう全心全霊を激しく揺さぶられざるを得なかったのでした。
浄土系仏教、取り分け親鸞上人は、こうした消息を”弥陀の本願”として受け取られたのでしょう。
こちらが念仏行で浄土へ渡るというよりも、帰さんと呼び覚ますものがある。本願に裏打ちされた念仏(広い意味での祈り、瞑想)...これが浄土系仏教や真宗といった枠に収まる訳が無い!
これをその門下の者ならともかく、四十八願の成就であるとかの仏説を信じ、又、南無阿弥陀仏の名号を称えなければならない、ということは無いはずです。
現代は、親鸞上人在世時とは時代相が全く違うのだから...
魂の故里~浄土を、命のみ親を、その本願を持たない者など誰も居ないのだから...
この本願の消息を誰よりも強調されたのが、親鸞上人であったのです。
その根底には、誰にでも息づいている普遍精神があったのは言うまでも無いでしょう。
私は、この本願的な息吹に会わされ、意識が向かわされることで、“自分の思いで悟りなどを追い求めるのは迷いである”、ことに気づかされたようなのです。
そして、いよいよその見えない裏側からのハタラキかけ~本願というものが普遍性を帯びながら増して来るのを覚えてならないのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする