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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

あれが無ければ...

2024-12-10 10:04:16 | 雑感
今、なんかとてもジンジンしてます。
そう、いつもの、“あれ“...神的なものが臨んで来て...いや、そうじゃありません。
風邪でちょっと悪寒を感じてまして...今年一番の寒波が襲来するっちゅうことで、気をつけてたんですが、案の定ですわ。
で、あれは感じなくなってしまったのです。そうなってみると、“あれは一体何だったのだろう?“、と思えてきちゃうのです。(いつもの、あの“き~ん“という耳鳴りは聞こえず、“ぶ~ん“という鈍重なものしか聞こえて来ません。あの“き~ん“が現臨のシグナルなんだってことがハッキリ分かります)
何?、パッと意識を向けただけで、パッと何かが開かれるように、ああなってしまうって、そんなん別世界のことですよ。
何?、“神、真我しか存在しない“、だと!、そんなんどこにあります?...それは“あれ“あっての話なんですよ。
何?、“瞑想修行に励んでいる皆さん、ごくろうさんですね~“、なんぞよくそんなバチ当たりなこと言えると思いますよ。
そんな訳で、今日は神的なものの臨在について書くことが出来ません。
ということは、いつもそれを感じて、それに促されるように書いてたってことなんですよ!
こりゃあ、もう我ながらぶったまげてしまう、驚きしかないですよ。どこの世界の人間なのか、と!
あれが無ければ、私など何の取り柄も無く、うだつも上がらずでして、も、普通の人以下、私ほどミジメ人間は居ないでしょう?
ですから、今の私が精一杯伝えたいことは、“ああなる“ってことは、私の何かに依るんじゃなくて、私を超えたもの、神的なものに依っているということなんです!
ん?...そういうことはいつも言ってなかったか?
そのことは、この世でも冥土でも絶対に忘れたらあかんのですよ!(と、いうことを言っておったら大丈夫!...数日中に復旧、開通されることでしょう!)
“ホンマにそう思ってんのんか?“、ホンマですがな!...どうやったらああなるのか、特別な方法など無いから、どうやったら回復するかも分からないのです。ただ性懲りもなく、祈るように、そういうことを意識するしか無いのです。
ほれ、昼時に近づいて来て、寒さも一段落して、心なしか、何かがパッと開かれる兆しが!...

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生きる意味を超えて

2024-11-02 09:44:01 | 雑感
人は誰しも一度は、”人は何故生きるのか?、人生の意味は?”、ということについて考えたことがあるものでしょう。
大体そんな時って、何か苦しみ、悩みなどを抱えている場合が多いようです。
そうですね、考え出したら、人生って苦しみ、悩みごとの連続のように思えて来ます。
問題が解決して、その時は幸福に感じても、次から次に新たな問題が起こったりして...又外からニュースなどで悲惨な状況などを見聞きしたりして、そういう思いを強めてしまったりします。
そりゃあ、そういうこと考えてしまいますよ!...考えてしまうんです。
生きよう、生きよう、幸福になりたいと思うのだけど、悩ましいことにいつも阻まれる、それを得ても失うことになってしまう...
だけどね...いつも言っていることですが、朝起きたら、生活の状況は特に変わらないのに、心の状態はまるで生まれ変わったように、幸福に包まれていた、なんてこと私のみならずあるのではないでしょうか?
その幸福は、私が何かを思って、為して得たものでは無いのです!
起きたら、気が付いたら幸福に包まれていた!...これは、こういう言葉を使い出す以前から私には感じられていたもの...即ち思いを超えたもの、神的なものが臨んでいたということなのです。
私が思う以前からそれがある!...そこに私を超えた、あるいは私の根源からある意志というものを感じずにおれません。
それは、動物的な本能とは明らかに違うものです。(人間的本能は、動物よりヒサンではないか?)意志といっても、私がそう思っている意志とは別のもっと大きな、深いものかもしれませんが、要するに私を超えた意志だと言っておこう!
といってもそれは、私と別在しているものじゃないのです。いやもっと私そのものから来るようではないか?
だからだから、これは生きるということ、人生というものは、思い、為す自分だけがすべてでは無い、ということに尽きてしまうのです!
”生きる意味は?”、と考えることを超えて、”生きている”のが人間なのでしょう。
それを考えて何らかの答えを得たとしても、答はもう出ているではないか?(いや、答えなんか要らないでしょうけど...)
そして、この根源的な生きる意志のあるところに幸福、平安が感じられる、それがあるのです!
ですから、生きる意味は?、と問われたら、”幸福になることです。”、と一応は答えは出て来るのかもしれません。というより、それを願わずに生きていない人間など居ないでしょう!
だけど、”どうやってそれを得ますか?”、ってことになると、思い、為すことに結びつけざるを得なくなり、それには幾多の困難があり、ってことになり、答えること自体が困難になる訳で!...
これはどうしても、考える自分を超えた意志というものを意識することと切り離すことは出来ないでしょう。
そのコツは、ある時は幸福に感じられた、しかし、又苦しいことを考えて落ち込んだ、不幸になった、人生はそういうことの繰り返しなんだ、と考えごとで片付けてしまわないことです。
考えることの根底にあるものを意識する、感じてみるのです。意識付ける。
というより、本当は、それを考えようと為そうと、しまいとそのものと一個なる自分とは切り離されないものなのですけれども...それが私の大本にある、本来からある。
だから、人間は本来生きている、生かされているだけで幸福なのではないでしょうか!...



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今は草木ものを言う時

2024-10-13 09:10:38 | 雑感
時折、自分の書いた記事を読み返してみて、我ながら驚いてしまうことがあります。
”一体、これは誰が書いたのか!”、と...
”特別な修行も無しに、神の臨在のようなものに与ってしまったのだ、とか意識するだけでそうなってしまうのだ、とか...
これは余程の天才か、ほら吹きにしか書けまい!...
で、書いてるヤツはというと...ふははは!...アイツか、あの半分世捨て人のようなヘタレ、何の取り柄の無い人間ではないか!...ちっとは文章力があるらしいが、一流の宗教家か哲学者気取りでいやがる!...ヤツを見たら分かるではないか?...こいつあ、信用出来ない”、と!...

そうです!...多分、私が自分の分際も弁えず、いつもそのようなことを書いているのは何かの間違いなんでしょう?...
一流の宗教家や哲学者に比べたら、そりゃあ、足下にも及ばないですよ。だから別に信じてもらわなくてもいいのです!
けどね...これは、ただ私の意志だけだったら、そんな世迷い言などやらんでもいいでしょう!
しかし、どうにもこうにも迫られる、促されてしまうんだからしょうがない!
だから、こうして”草木ものを言う”ようなことをして、否やらされている訳なのです!
今のこの時は...草木ものを言っているぞ!、石が叫んでいるぞ!、ハエ取りグモが何かのお告げをしているぞ!...
私は、そういう時代相というものを感じてならないのです。
つまり、今は、偉大な宗教家、哲学者、霊性のマスターといった、特殊な人間だけが何かの真理を語り、それに与る時代では無くなって来た、ということなのです!
全く持って、それはあなたや私に開かれるものでなくて何であろう!
あなたや私が救われずして誰が救われるだろう!
何のための宗教的真理、霊性の教えなのか?
それは、エライ誰かへのお追従を通してしか与ることが出来ないものなのでしょうか?
それには、特定の教えやメソッドに従わないと得られないものなのでしょうか?
私は、草木を代表してかく言わざるを得ない!
”何の取り柄も無い私に、直々に神的なものが臨みたもうた”、と!
だからだから、特に強調したいことはこのこと...神の方が臨んでこられたのです。
人間の都合では間違いとしか思えないことでも、今はこうあるべきという、常識などグラついてしまうことばかり起こっているではないか!
そう、人間の思いを超えたことが始まっているのです!
草木ものを言い、石が叫んだとて多分バチは当たるまい!...
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私一人の救い

2024-10-10 09:19:02 | 雑感
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」(歎異抄)

私は人が如何に悟るとか救われるか、ということは知らないのです。
世界が平和になるのかどうかということも!...
まして、自分が悟っても救われてもいないのに、私が人を世界を救うなどというのはおがましい限りです。
しかし、こうして今、書いているだけで言葉にならない、平安に与っているのです。
いつも偉そうに、”思いを超えなければならない!”、などと口幅ったいこと言ってますが、私はいつもいつもその思いのがんじがらめ地獄に苦しんでいたのです。
そういう思いも悪しき欲望も次から次に起こってきて、自分で抑えることが出来ません。いや、今でもそうなんですよ!
だけど、その状態だけに閉じ込められることは無くなりました。思いを超えた世界が開かれ、そこから恩寵の光が差し込むではありませんか!
又、ものの本当を知るとは一体どういうことなのか、目の当たりにするとはどういうことなのか?...いつも私の前には分厚いベールのようなもので覆われていて、直に見る、触るということが出来ない感じしかない...どんなにその向こうにあるものにまみえたいと望んだことか!
だが、今、ここに向こうの方から臨んでくるものをアリアリと感じているのです。
これはささやかな救いかもしれないが、見方、感じ方を変えれば、あるいは大きな救いと言えるかもしれません。
何にせよ、このことを記さずにおれません。私一人のために!
こんな世捨て人の、浮き世離れした話など誰にも信じてもらわなくてもよい!
元より私一人の身に起こった、与ったこと...人がどうのこうの、人と比較して、上だの下だののことは知ったこっちゃないではないか?
オンリーワンの私に起こった、与ったことなのです!
このことを伝えずにおれません。
誰が読み、理解するのかあずかり知れないことだけれど...
私にあったことは、私だけにしかない、などと何で言えようか!
私一人...それは、一人であってもこの私だけのことではないのです(?)
私は私を超えたものと共にある!
それが私のささやかな、あるいは大きな救いの中身だったのです!




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今日も書かされている

2024-09-25 09:51:13 | 雑感
少しく自分自身について考えたことのある人なら、自分とは何か?、何故ここに居るのか?、何のために生きているのか?、などのことを問題にするでしょう?
本当にそのことに向き合っているのなら、”ある先生は本当の自分についてこう言っている、ある本では、生きる意味についてこう書かれている”、なんていう所与の定見などで、分かったつもりになり、満足など出来ないはずです。実存的な問題とはそういうことでは無いのです。
といって、考えたからといって分かる、結論が出ることではありませんが!...
私の場合、小さい頃あまりそういうことを考えたという記憶は無いのですが、突然、それまで当たり前のように感じていた、その自分というもの、自分がどこに居るのか、ということが分からなくなってしまったことがありました。
それで、考えようとしたようなのですが、考えられないのです!
周りに居た肉親らにそのことを告げると、”いいか、俺がここに居て、お前がそこに居るんだ、考えりゃ分かるだろ!”と、笑い半分であまり親身になって答えてくれません。
”そう言っていて、そこに居るのは誰だ?”...自己も他己も分からなくなってしまったようなのです。
相手が居るから自分が居る、なんていうのは考えられた理屈に過ぎません。
考えられないんだってば!...”考えてみよう”、なんて悠長なことじゃなくて、生きる上での大問題が起こってしまったんですよ!
”そりゃあ、分離の無い非二元の悟りの境地だっせ!”、だと!、バカなこと言っちゃいけない!
もう、本当に何もかもが立ち行けなくことなんだ!...ただ、自分も他人もない、全体しかない(いや、これは何が全体かすら分からないということなんだ!)みたいな境地を求めるなんてのは余程どうかしてますよ!
おそらく、こういう状態のことは、心療医はナントカ症候群とか言って、ある種の意識障害と看做すのでしょう?...
”おっ!”...と、こう書いてみて、私は由々しき問題が”今”、発生していることに気が付きました。
それは、この今、そういう状態みたいなことになっているということに他ならないのです!
ど、どうすりゃいいんだ!...誰も助けちゃくれないぞ!
聞こえる音といったら、部屋の外で秋の虫の声がするだけ!...
そして、”私はここに居る”...
これでいい!...すべてが立ち行く...
”ただ今、戻りました!”...ご心配なく!
何だか、アッという間のハプニング的な出来事ですが、今日のことは、虫の声が”自分を取り戻す”キッカケになったのでしょう?
でも、それが無くても、そうなりますよ。
私にはね、神様や守護霊様がついているのですから!...って、ここではそういう形而上的な実体を持ち出す必要は無いのです。(私は一応救われたのだから、私が勝手にそのように思うのは自由なんですけどね)
これがつまり、私は一個なる自分だけで生きているのではなく、自分を超えたもの、在らしめるものと共にある、ということなのです。”私が居る”、ということは”私を超えたものが現存している”、ということなんだ!
ああいうハプニングはたまにあるけど、このことは、書こうとするだけでいつもそうなるのです。意識が向かったままのことになるという...
あ、そうか!...実地に分からそうとして、何かがそう書かそうとしたということなのか?(読み手には何だかよく分からないかもしれませんが)
何にしても、こうして書いていること自体、オソロシイような、有難いことなんであります!...



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