人は、本当に幸福で居られる時、有頂天という感じで迷いがありません。
遮るものが無い、通ってゆく、開かれるものを感じる...
私の人生を振り返っても、その節々にそういうものを感じて来ました。
しかし、今の私からすると、何でそんなことに幸福に感じたり、有頂天になったりするのだろう、と思うこともあります。
例えば、求道の初期の頃、それまでどうしても迷いから離れることが出来なくて、精神的に負担に感じていた、ある教団での信仰生活を辞めて、足かせが解かれたように、自由に感じた時...そして自由に様々な宗教的な教えを求め、それに出会い共感したことなどがありました。
それに対して、そういうのは、精神の表層で感じるようなことではないのか?、とか。
勿論、それは、あの思いを超えたところから来る至福というものに与る以前のことですよ。
しかし、本当に心から幸福に感じたことには違いないのです。一過性のものではありましたが...
それで今の私がその時の私に、又同じような経験を今している人に対して、“その幸福感というものは、心の表層部分で感じていることなのであって、来ては去ってしまうもので、本当の幸福では無いのだよ!“、等と言えるでしょうか?
霊性の道の高い段階に居る(と思い込んでいる?)私が何か教えを垂れようと...
そういうことをした途端、おそらく今感じている幸福感は、スルリと私の中から抜けて行くでしょう。
人が幸福に感じていることに、アレコレ言ったり、手をかけるようなマネは、実にズレていると言う他ありません。
例えば、私は先のように宗教信仰において不自由な思いをしたことがあるからといって、人がそれに幸福を感じているのなら、それはそれで構わないことなのです。(狂信ということとは別の問題です)
そのように言いたがることは、そういうカルマの表れであり、又余計なカルマを背負い込む要因となるものでしょう。
単純に、自由に幸福に感じていたあの頃...今は余計な小賢しい智慧、増上慢の思いが増えたことだけを思い知らされているだけなのではないか?
人が幸福に感じていることを挙げつらうことは、大きな罪だと思わざるを得ません。
幸福に感じる、与ることに優劣など無いのです。それとも、それを与えるものに優劣などあるだろうか?
あなたが本当にそう感じているか、そこに意識が向けられているかどうか、というだけでしょう。
あなたが幸福ならそれでいい!
他人の言葉におもねって、自分の筋を曲げたりする理由(迷う)もありません。
しかし、ある人が本当は別のところに幸福を感じているのに、何か中途半端なものに拘っている(それが迷い、遮るものということ)のを感じたなら、そこを突いたりすることはあるかもしれません。
もっともっと幸福になって欲しいからです。
あなたが幸福なら、私も幸福になれます。
皆が幸福なら言うことはありません。
それがますます強く感じられることを祈らずにおれません!...
遮るものが無い、通ってゆく、開かれるものを感じる...
私の人生を振り返っても、その節々にそういうものを感じて来ました。
しかし、今の私からすると、何でそんなことに幸福に感じたり、有頂天になったりするのだろう、と思うこともあります。
例えば、求道の初期の頃、それまでどうしても迷いから離れることが出来なくて、精神的に負担に感じていた、ある教団での信仰生活を辞めて、足かせが解かれたように、自由に感じた時...そして自由に様々な宗教的な教えを求め、それに出会い共感したことなどがありました。
それに対して、そういうのは、精神の表層で感じるようなことではないのか?、とか。
勿論、それは、あの思いを超えたところから来る至福というものに与る以前のことですよ。
しかし、本当に心から幸福に感じたことには違いないのです。一過性のものではありましたが...
それで今の私がその時の私に、又同じような経験を今している人に対して、“その幸福感というものは、心の表層部分で感じていることなのであって、来ては去ってしまうもので、本当の幸福では無いのだよ!“、等と言えるでしょうか?
霊性の道の高い段階に居る(と思い込んでいる?)私が何か教えを垂れようと...
そういうことをした途端、おそらく今感じている幸福感は、スルリと私の中から抜けて行くでしょう。
人が幸福に感じていることに、アレコレ言ったり、手をかけるようなマネは、実にズレていると言う他ありません。
例えば、私は先のように宗教信仰において不自由な思いをしたことがあるからといって、人がそれに幸福を感じているのなら、それはそれで構わないことなのです。(狂信ということとは別の問題です)
そのように言いたがることは、そういうカルマの表れであり、又余計なカルマを背負い込む要因となるものでしょう。
単純に、自由に幸福に感じていたあの頃...今は余計な小賢しい智慧、増上慢の思いが増えたことだけを思い知らされているだけなのではないか?
人が幸福に感じていることを挙げつらうことは、大きな罪だと思わざるを得ません。
幸福に感じる、与ることに優劣など無いのです。それとも、それを与えるものに優劣などあるだろうか?
あなたが本当にそう感じているか、そこに意識が向けられているかどうか、というだけでしょう。
あなたが幸福ならそれでいい!
他人の言葉におもねって、自分の筋を曲げたりする理由(迷う)もありません。
しかし、ある人が本当は別のところに幸福を感じているのに、何か中途半端なものに拘っている(それが迷い、遮るものということ)のを感じたなら、そこを突いたりすることはあるかもしれません。
もっともっと幸福になって欲しいからです。
あなたが幸福なら、私も幸福になれます。
皆が幸福なら言うことはありません。
それがますます強く感じられることを祈らずにおれません!...