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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

あなたが幸福ならそれでいい!

2025-07-19 04:06:12 | 雑感
人は、本当に幸福で居られる時、有頂天という感じで迷いがありません。
遮るものが無い、通ってゆく、開かれるものを感じる...
私の人生を振り返っても、その節々にそういうものを感じて来ました。
しかし、今の私からすると、何でそんなことに幸福に感じたり、有頂天になったりするのだろう、と思うこともあります。
例えば、求道の初期の頃、それまでどうしても迷いから離れることが出来なくて、精神的に負担に感じていた、ある教団での信仰生活を辞めて、足かせが解かれたように、自由に感じた時...そして自由に様々な宗教的な教えを求め、それに出会い共感したことなどがありました。
それに対して、そういうのは、精神の表層で感じるようなことではないのか?、とか。
勿論、それは、あの思いを超えたところから来る至福というものに与る以前のことですよ。
しかし、本当に心から幸福に感じたことには違いないのです。一過性のものではありましたが...
それで今の私がその時の私に、又同じような経験を今している人に対して、“その幸福感というものは、心の表層部分で感じていることなのであって、来ては去ってしまうもので、本当の幸福では無いのだよ!“、等と言えるでしょうか?
霊性の道の高い段階に居る(と思い込んでいる?)私が何か教えを垂れようと...
そういうことをした途端、おそらく今感じている幸福感は、スルリと私の中から抜けて行くでしょう。
人が幸福に感じていることに、アレコレ言ったり、手をかけるようなマネは、実にズレていると言う他ありません。
例えば、私は先のように宗教信仰において不自由な思いをしたことがあるからといって、人がそれに幸福を感じているのなら、それはそれで構わないことなのです。(狂信ということとは別の問題です)
そのように言いたがることは、そういうカルマの表れであり、又余計なカルマを背負い込む要因となるものでしょう。
単純に、自由に幸福に感じていたあの頃...今は余計な小賢しい智慧、増上慢の思いが増えたことだけを思い知らされているだけなのではないか?
人が幸福に感じていることを挙げつらうことは、大きな罪だと思わざるを得ません。
幸福に感じる、与ることに優劣など無いのです。それとも、それを与えるものに優劣などあるだろうか?
あなたが本当にそう感じているか、そこに意識が向けられているかどうか、というだけでしょう。
あなたが幸福ならそれでいい!
他人の言葉におもねって、自分の筋を曲げたりする理由(迷う)もありません。
しかし、ある人が本当は別のところに幸福を感じているのに、何か中途半端なものに拘っている(それが迷い、遮るものということ)のを感じたなら、そこを突いたりすることはあるかもしれません。
もっともっと幸福になって欲しいからです。
あなたが幸福なら、私も幸福になれます。
皆が幸福なら言うことはありません。
それがますます強く感じられることを祈らずにおれません!...







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ただ一つの予言

2025-07-01 04:08:34 | 雑感
「キリストの来臨までは戦争が絶えることはないだろう。これは予言されたことである」
(ドストエフスキー「未公開ノート」)

巷には、「七月五日」に日本にとてつもない地震、津波が押し寄せる、とかそのことが予言されているらしい漫画を巡って、それは起こるとかいや、時期がズレたとか、喧しく言説が飛び交っているようです。
当事国でない香港では、日本への旅行キャンセルが相次いでいるなど、ちょっと考えられないことが起きています。どんだけその漫画が読まれているのか、って思いますよ。
私は来月か再来月、このブログを他社へ移行しようか、はた又このまま自然消滅するに任せようか(どうせ、すべてが無くなる、なんてことを見越ししている訳ではありませんよ!)、未だに決めかねている始末なのです。
私は大体そういうことは、まだ間があるんだからと、時期が迫るまでゆっくり現状のまま構えようとするクチなのです。これには時期ってもんがあるんですよ。いつ来るか分からない時期ってもんは、聞いてないし、どうしようもありません。
予言には時期がある。...日時が特定されている、いないに関わらず、時期について言い表さない予言など何の話題にもならないでしょう。
しかし、この時期に何で九州地方で地震が相次いでいるのかな、と思ってしまいますが、言うまでもなく、今の日本は、いつどこで地震、津波が発生するか分からないのです。
戦争だってそうです。これ又どうしてこの時期に...って思っちゃいますが、中東では核施設を爆撃するという、実にキナ臭い事態になっているし、それにあのブレーキがイカれたような指導者が構う米国が参戦し出したりして...いつ大惨事世界大戦が起こるか分からない事態になっているではありませんか?
我々は、そういう起こるのか、起こらないのか隣り合わせの状況の中で生きているのです。そのことを心のどこかに留めて置かなければならないでしょう。
このように、破局的な予言というものは、いつ起こるのか、いや起こるのか、起こらないか分からないものなのでしょう。
今や予言は、どうも破局的なものと結びついているものですが、聖書でも仏典でも大本教神示でも、それは本来、我々の救いと切り離されないものだったはずなのです。
例えば、そうした破局的な状況が迫る中に救世主が出現するとか...
救世主は、キリストか弥勒か?...いずれにしてもその出現を示さない予言などというものは、あり得ないのではないか?
言い換えれば、それをこそ予め言い定めているのが、そも予言というものではないか?
それは、神から来るからなのです。破局、滅亡ばかり告げるものはそうではない!
私自身感じられることを言えば...救世主の出現は必定であろう!...予言というものはこういうものしか無いのではないか?
といって救世主は、我々が見、仰ぐように雲に乗ってやって来るのではない!...又何か我々を救うべく何事かを施すのではありません!
それは、その出現自体が救いなのです。それは、その神の化身の如きものが我々のうちに顕わになることに他なりません。
神は信じ仰ぐものではない!...我々のうちに生きたもうのです。予言を信じたり、信じなかったりするのではない!...それは現実に感じるものでなくて何であろう!
何故、それが我々の救いとなるのでしょうか?...それは我々に愛、平安、リアリティがもたらされることに他なりません。
天災、戦争の危機を乗り越えるものは、それしか無いではありませんか?
神、救世主がわがうちに生きたもうことなのです。これは、もう確実なことだろう。
そうでなければ、我々には破局、滅亡が待ち受けているしか無いではありませんか?
いや、たとえそうしたことが無かろうと、救世主の出現は必定であろう!
私には、いよいよそうなるべくこの身に迫り、臨んで来るのをヒシヒシと感じてなりません。それはこの時期がそういうものだ、ということを示しているのでしょうか?
いつそれが起きるのか分からないものが予言。しかしそれは予め起こることを言い表すものなのでしょう。
(信じる信じないかは、あなた次第!...)


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今、感じていることを私に即して言うと...

2025-06-20 06:16:34 | 雑感
私はここで、私に即したことをありのままに書いてゆきたいのです。
私は何教の信者でもありません。
何かの哲学的な主義とか思想を信じている訳でもありません。
他から伝授された何かの修行方法に依拠している訳でもありません。
そのように特定の何かに寄りかかろうとしたり、信じ従うことには心の底から惹かれる、意識が動かされることがありません。
それらは、本当には私に直に即したものでは無いのだから!
だから、言うまでもなく私の言葉に無闇に信じ従う必要は無いのです。
私は神について語ることがあります。
当然のことながらそれは、聖書の神とかこの世のすべての造り主とか、ある信者が信じ、説いているような神のことを意味しているのではありません。
多神教で信じられている神のことでもありません。
本当は、そのようにある信仰と結びつく神という言葉は使うべきではないのかもしれません。
でも、私自身に即して、そこに立ち返ってみるならば、神という言葉に囚われるまでも無いけれど、この一コの私を超えたあるものを意識せずにおれません。
ここで語られる神とは、そのことを仮に言い表しているものに他なりません。
いや、そういう他人行儀な言い方は、全く私自身に即したものを伝えることは出来ないでしょう。
そのあるものこそが私自身を映し出すものなのではないか?
それ無しには、“私は在る“と言い表すことは出来ないのです。
これは、私流の実存哲学か何かの表明と思われますか?
どう思われ、捉えようと構いませんけど...
ただ、その一コの私から出る、その私が信じる信仰、考えた思想というものであれば、そこに私自身を見い出すことは無いでしょう。
私は、そのあるものと意識的につながることで私で在るのです。
私は、一コの私でなければないほど私になる!
逆に、この一コの私に固着すればするほど、私は私自身で無くなります。
どうしても、こういう逆説的なことを言わざるを得ません。
段々、日増しにそのように感じて来るのを身に覚えています。
今、私に即して感じているのはそのことです。
私は今日も神について書いています。
しかし、私はその神を信じている訳では無いのです。
信じる神は、“ここ“から浮いてしまう...考えられた思想も観念に浮いてしまいます。
どうか、ここで言っている神という言葉に囚われないで下さい!
繰り返しますが、私の言葉を信じる必要は無いのです。
しかしもし、あなたが何か言葉を超えたようなものをここで感じたならば...
それは、あなた自身の問題に関わるものなのかもしれません。
でしたら私からではなく、あなた自身に尋ねるべきなのです。
そうして、我々を超えたあるものに、言葉を超えてつながるかもしれません。
信仰は無いけれど、そういうことを願っているのは確かなことです。
この願いは、私を超えたものから来るのだろうか?
だから、こうして書いている...書かされているのでしょう?...







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反面教師からの学び

2025-05-18 06:19:49 | 雑感
私には、ある宗教の教義、教祖、教師の教えを絶対視し、無批判に鵜呑みにして追従してゆく、宗教に未だに多くみられる、狂信、盲信という在り方は生理的に受け付けないものを感じています。
そこには、霊性の発露というものは全くみられません。
独りの自立した精神というものも何も伝わって来ません。
あの画伯のように、こういう小児症から抜け出せないような人間が、“完全解脱を目指している“、なんて宣うのは、自分が何を言っているのか分かっていないのでしょう。(いつもあの御仁について、とやかくつぶやいてしまうのは、あんな無知で傲慢な人間に悟りの道などのことを語って欲しくない、というのが私の偽りの無い本音なのです)
覚醒とか悟りというものは、全く個己の霊性、実存から発するものだからです。
それは、正しく集団的思念からの覚醒、解脱と言っても過言ではありません。そういうものに囚われていること自体が催眠、隷属状態に他ならないのです。
何度も書いているように、これは私がかつて、ある宗教集団に入っていたことで、この身を持って知らされたことなのです。そういうものに対する強い反感がまだ私にあって、先のようなことを言ってしまう要因になっているようです。(つまりは私もまだ迷いから抜け出せないのでしょう!)
だから私は、あのM教団、あの画伯を反面教師にしているのです。
それは、正規の教師(?)からよりも学ばされることは大きいかもしれません。(皮肉でなしに!)
私がいつもここで書いていることは、ああいう消えてゆく姿を通して学ばされることばかりでは無いか!

もうイヤだ!、あんな世界にはもう二度と戻りたくない!
私の周りには金科玉条で作られた壁が覆っていて、私の内奥に光が差さない...
あの光が直に当たる世界に何としても、どうあっても出たい!
何故、アカの他人からあの御方のこと(その実は金メッキで造られた虚像に過ぎないものなのに!)を厚かましくも、教え、信じ込まされなければならないのか?
何故、魂をそんなものに明け渡さなければならないのか?
私は絶対、絶対、ゼータイッ、にあの御方と直に出会わなければならないのだ!
私はこの苦しみ、悶え、迷える私は、わが主に魂を明け渡さなければならないのだ!
すべての私なる主に!...

もうハッキリ分かります。
私には、あの精神の牢獄のような壁の向こうにある、実存の光に照らされた世界を見ていたのです。
私が本当に出会うべき御方が居られることも知っていたのです。
その導き無しに、どうしてあの牢獄から脱することが出来たでしょう!
それは、あの苦しみ、迷い無しには、けっして私の実存に顕わにはならなかったのです!

反面教師よ、ありがとう!...



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ゆだねるしかない!

2025-05-01 05:34:46 | 雑感
gooブログ終了の知らせを知って二週間ばかり...
まだ実感が湧いて来ません。記事を書くことが、そういうこうした場があるのが当たり前のようにまだ感じてしまいます。
引っ越しをしようか、それをどこにしようか、あるいは...?、ということもまだ具体的に決まっていません。
ずっと記事は投稿出来なくなっても、それまで書いたものは残るものだ、と思っていました。それだったらいつでも辞められると思っていたのですが...でも辞められない感じもある。あの書くのを“促しているもの“も感じる。
実は、通知を知ってからどうもそっちの方は低調なようで...朝起きたらあの臨在感と共にスッバラシイことになってることもあまり無いようで...これは潮時なのか、と。...
いや、そういうこっちの状態が上がったり、下がったりすることに囚われるのはオカシイのでは無いか?
そういうことは無くて元々なんだから!...私が考えたものでも、修行して開発したものでも何でも無いのです。このちっぽけな私からは、ああいうものは何も出て来ないのです。
もう、手放し!...すると!...
直ちにあのものがジンジンと臨んで来たではありませんか?!
こういうことなのですよ!...伝えたいことはこれっきゃない!
“手放し“ってことすら、思い、為す私からは出来ません。こっちのことに囚われる必要の無いことは何とラクな、幸福なことなのでしょうか?
ゆだねるしかない!
このブログは、私の日陰の人生ではかつてない、日当たりの良い、高評価を示しています。
何かの“著述らしき“ことに携わり、それを公にするという、私の夢も叶えてくれました。
それは夢!...夢なら消えてしまうだろう...日陰者ならそれらしくこのままフェイドアウトするのもいいだろう!...
しかし、それはもはや私ごとでないものではないのか?
あの促しがある限り、続けるべきではないのか?
そして、通知を知った直前、余命宣告を受けているという、一読者からこんなブログからも啓発を受けたという、感謝と励ましのコメントを頂きました。
こういう読者がおられるだけで、“ああ書き続けて良かったなあ“、と思います!
やっぱり、私の都合だけでは決められない?
という訳で、まだ具体的にどうするかは決まっていないのです。
多分、このまましばらくは、当たり前のように続くでしょう...
その動向は...
ゆだねるしかない!...

ホントは、そういう知識もまるで無くて、引っ越しの手続きとか作業とか、考えるだけでメンドクサイだけだったりして!...



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