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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

超越にして内在

2024-10-31 09:42:50 | 現臨、ハタラキ
「創造する私にとっては、超越者とは内在的存在者のことであり、超越するとはかえって内在的になることなのである」(ベルジャーエフ)

神は人知を超えた存在、超越者として普通に信じられていますね。一方では、神は我々の内に在ると説く者もおります。
それを巡って”どっちが正しいのか”、なんて議論を戦わしてるヒマな人らも居るようです。
私がいつも言っている、”神の現臨”というのは、前者の代表とも言えるキリスト教方面から借りた表現なのですが、実はこの感覚そのものは、そのような区別などつかないものでして、”ここに臨在するもの”、としてこの二つで一つのことを含めて言い表しているつもりなのです。
この感覚が芽生え始めた頃から、内在するもの、中から何かを促し、催してくるものの感じはあったのです。
当初は、多分に倫理、道徳感と結びつく良心的なもののように感じていたのですが、その呵責とは関係無しにハタラクのを覚え、いつの間にか区別されるようになったのです。
いやもう、本当にこの超越的なものと内在的なものは切り離すことが出来ません。
神的なものを意識すれば、中から立ち上がって来るものが感じられ、内なるものを意識すれば、もうそのこと自体、自分が超えられてしまうということになる、という如くに...
とにかく、神的なものが現臨することは、自己実存が開かれることと一つのことなのです。
これを意志想念で、そう思おうとしたってそうはならないのです。それでは超越神や内在神を思い描くだけでしょう。
しかし、そこに順序として、まず自分の外(上)から臨んで来るという感じが最初にあるようです。
大体が、小池先生がよく言われる、”圧倒される”ような事態に出合わされることが多いようで、これは、正に考え、為そうとする自分からは、けっしてそうならないということを示しているのでしょう。
超えるということは、けだし思いを超えるということに他ならないのです。
そこで、ベルジャーエフが随所で語っている、霊性が開かれる上にも重要なこととされる、”創造的行為”のことについて、私にはどうもそれが意志想念で為されるものなのか、それを超えたものなのか、これまで判然としなかったのですが、それは、冒頭の言葉から創造的行為の主体者は、為そうとする自分のことでは無く、超越的にして内奥から発するあるものであることが知られるのです。
これはもう、超越者なのか内在者(こういう言葉はほとんど聞きませんが)分かりません。
要するに、神的なものなのか、真我的なものなのか分からないのです。
おそらく、それは(ベルジャーエフが好んで言及していた)”神人”の為せるものなのでしょう!...



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神の現臨なかりせば...

2024-10-26 10:25:13 | 現臨、ハタラキ
私がいつも精神的な道について書いていることは、もうほとんどが“神と共にある“ということについてと言ってもいいのです。
このことを主に、“神的なものが臨む“と言い表しているのですが、いつも言うように、神という言葉に拘る必要は無く、要するにそれは、自分の思い、力を超えたものなのだから、何か分からないものだけれど、アリアリとその現前、現臨は感じられるものなのです。
これは、私が考えたドクトリンのようなものでも何でもなく、イエス、ブッダ、老子始め、これまでの幾多もの、有名、無名のその道の教師などが伝えていたと言ってもいいでしょう。
しかし、数多もの宗教書などで、言葉に置き換えられて表現される時、正にそれが言葉に言い表され得ないものである故に、その中身が伝わらず、その意義も軽んじられ、蔑ろにされ、合理的に解釈されてしまう事態になってしまうことを私自身いつも通説に感じてならないのです。
このことが抜け落ちると...例えば、霊性を開くには、思考マインドから離れなければならない、意識を集中しなければならない、姿勢を正し、呼吸を整えなければならない、決まった祈りの文句を唱えなければならない、そして又、特定の神を信じ、拝まなければならない!...
と、このように思い、為そうとする自分が信じ、従い、為すことばかりが手動になってしまうのです。
しかし、神が臨むということは、既に霊性の道においては必須の条件とも言える、思考を離れて意識の統一が成されているということなのです。
それは言うまでもなく、こちらの信じ、従い、為そうとする意志想念を超えて、すべての“ねばならない“ことから自由に、そのものが手動となって、自ずとそうなるということなのですが...
私なんかは、僅か数分ですら、精神を集中することなど出来ません。
そういう気根が無いからこそ、それが如何に困難なことかが分かるのかもしれません。
ああ...このことを思うともう、他人行儀なことなど書けなくなってしまうではありませんか?
神の現臨なかりせば...
私はもしかして、コペルニクス的、革命的なことを書いているのだろうか?
それは、ですからイエス、ブッダ、老子の昔から言葉を超えて伝えられて来たものに他ならないはずなのですが...
到底、私には与り知れないことなのに!
ただ、私同様に自分が思い、為すことに限界を感じておられる多くの方には、この言葉に言い表せない、この驚くべき恩寵の事態の某かのことは、伝わることを信じ、願い、こうして書かされている次第なのです。...







                                               
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私に臨む神しか知らない

2024-10-06 09:21:21 | 現臨、ハタラキ
「私たち人間は神を知ることなど出来ないのが本当です。もし神を知ることが出来るというならば、それは神自らがご自分を現し、目に見えるように私たち人間の世界にやって来たもうからです」(手島郁郎)

いつも言うように、神がなんであるかは、人間の思考を超えているから分かりません。
思考している自分が分かった、と言うのはただ、そう空想しているだけなのです。
その神が自ら私たちに直接臨みたもうことほど人生で、画期(活気)的なことは無いと言っていいでしょう!(その有り様で、目に見えるように神を知るとは、思いを超えた世界においてであるのは言うまもありません)
私は手島先生に同調して、”私は、私に直に臨んで、顕わにされる神しか知らない!”、と言わずにおれません。宇宙の意志だとか法則のような神のことは知らないし、知る必要もありません!
又、神と一つになるとか、神人合一だとか、ご大層なこと言えた義理などありません。到底、手につかぬ自分のダメさかげんを知る故、そういう境地に達したことは勿論、目指したことも無いのです。
一個なる自分が、それを目指そうとも、そうならないのが本当ではありませんか?
思い、為そうとする自分は、それを超えたものと切り離される故、その一個なる自我に閉じ込められ、その自己を超えるという衝動は、自我の強化、肥大につながるものとならざるを得ないのです。
然るに、否応無しに、終末の様相を映し出す現代文明は、こうした”神無き”意識状態を表しているのではあるまいか?
しかし、その中にあって、どうにか我々の”かくある姿”らしき本来性のようなもの(人間らしい人間の有り様)が存しているのは、意識の深部では、神的なものと切り離されていない自己の”原態”が生きづいているからではないでしょうか?
つまり、この原態が完全に失われるならば、我々は我々で無くなる!...得たいの知れないモンスターと化するか、その性質上、自滅するよりないでしょう。
しかししかし、今、こういう今だからこそ、神は我々を超えた上からも、我々の中からも、ご自身を顕わにされようとしているのが感じられないでしょうか?
それは、神が上から臨むことと、我々の内なる本来からの望みとが合わさることを示しているのでしょう?
だから、神に意識を向け、祈ること、我々の祈願は、神の本願と切り離されないものなのでしょう?!

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私以上の私

2024-09-26 09:47:22 | 現臨、ハタラキ
私とは何か?、私はどうしてここに居るのか?...いつも言っているように、そうして意味を追求し、自分で、あるいは誰かが説いているものを通して、ある真理らしきものに到達した、分かった、と思ったとしても、それは理屈を知ったというだけで、本当?の私が分かったとは言えないのです。
いや、”分かる”ということ自体、大体そういうものでしかないのでしょう。つまり分かった自分と分かった対象とはずっと”分けられた”ままだということです。
これは、鏡を通さないと直接自分の顔を見ることが出来ないことと同じことでしょう。
これに従えば、自己以外の他者存在、その関係を通して自己を認識しているということは一応言えるかもしれません。
恐山の禅僧、南俊哉さんは、ずっとこうした実存的な問題に取り組んでおられるのですが、その著「自分をみつめる禅問答」(角川ソフィア文庫刊)を読んでいたら、その自己たらしめる他者と思しきものとして、”非己”という聞き慣れない言葉が唐突に出てきました。
”う~ん”...自己以外の何かだから非己?...これは言葉に表し難いことを表現しているのであろうから、語義に囚われる必要もないと思いますが、だからこそと言うべきか、”語感”というものも結構大事だと思いますよ。
何にせよ、この非己は、多く”他の人”のことを指しているのだろうと思われるのですが、”見えないもの”のことは、あまり伝わってきません。概して著者は、神的なもの、霊的なものといった、形而上的実体と結びつく、そうした超越的存在については触れようとしないようです。
これについて何度も言うように、見えないものにそうした、思念で思い描いたような神の実体や何かの霊体を持ち出す必要は無いのです。
見えないものとは、端的に思いを超えたもののことなのです。
そして、いつも現実には、非己というか他者存在は居なくとも、私というもの、実存というものを意識されるならば、同時に、直ちにこの見えない何かがここに臨む、あるいは私に内在していたものが顕わになるのを感じずにおれなくなります。
「超越的なものと内在的なものは切り離せない」(西田幾多郎)
どう呼ぼうと自由ですが、少なくとも私は、この神的な現臨のことを非己と呼ぶという風には感じて来ませんねえ...
何故ならば、それは私を在らしめるものに他ならないから!
このもの無しに、自己実存は示されないものだから!
私とは何か、私は何故ここに居るのか?、と私が考える先からこのものがある!
”自己は、この見えない他者との関係によってある”、とは、仏教の縁起論のように、一応説明出来ることでしょう。
だけど、この圧倒的な現存、臨在感の前には、それは所詮”私が居て、聞いた”という、説明されたものにしか感じられて来ないのです。
このものは、つまり私以上の私なんだ!...
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現臨は絶対的なこと

2024-09-09 09:33:24 | 現臨、ハタラキ
私は、ご存じのように、様々な異なった宗教、スピの教えに共感して来ましたし、異なった教師たちから多大なる影響を受けて来ました。
だから、ここでそういう一つの枠に囚われずに、自由に色んな教えに触れ、学んで行きたいと思っているのです...って、そうであるのですが、そうでもありません。
それだけだったら、あれとこれとかに意識が分散してしまって、焦点が定まらず、思いが巡らされるばかりで、それを超えたものなど臨んでこないですよ。
神的な現臨というのは、意識がそうして深まるところに開かれるのです。(これは、いつも言っているように、意志想念で、意識を集中させようとすることでなく、自ずからなるハタラキがあるということで、そういう場合、ハタラキにくくなるということなのです)
つまり、宗教、スピ、教えというものはいくつあってもよい。しかし、その大本には、一なる神の現臨、ハタラキがあって、全てで一つなる有り様がなされるということなのです。
もっともこれは、かつて狂信的な教団に入っていて、その在り方に耐えられないような不自由さ、苦悩を抱いていた私に開かれた道なのでして、枠を取っ払って、色んな教えを学んだらいい、何て短絡的に言っているのではありませんよ!
私も例えば”五井先生が好きで好きでたまらない”、という人を知っていますが、ホントに惹かれてしまうのなら、それはしょうがないことなのでしょう。(私の場合は、あの先生にもこの先生にも惹かれてしょうがないものを感じているのですから!)
だけど、”この先生のこの教え以外は真理でない、救われない!”、などとというのは、余計なことで、極めて宗我、自我意識に囚われているということを示しており、これの有る無しが狂信者かどうかの分かれ道ということにになるでしょう。
そして、一人の教師、一つの教えだろうと、それがいくつあろうと、その奥に形を超えた、霊なるハタラキがあるのを誰しもが感じられるはずなのです。そのものがこちらを惹きつけてやまないのではないでしょうか?...このことをもっと意識してみて下さい!
そのハタラキそのものは一つなのです。その表れ、感じ方、説き方などには異なる部分もあるでしょうが、自己実存に関わり、開くハタラキは一つ。そうでなきゃ、唯一無二の、本当のあなた自身に目覚めることは無いでしょう。
私に直接的に臨み、浸透してくるということは、思いの世界で信じたり、従ったりする、思想や主義や信仰などと違って、もう決定的なことなのです。
これは、相対的な表れに対して、絶対的なことと言ってもいいでしょう。といって、それは、いくつかあるうちのこれだけが正しい!...なんてのは絶対的に間違ってますよ!
あなた自身の神は相対を絶している!...それがあなたの思いを超えている、ということに他ならないのです!
私はこれまでその八方美人的に、次々に異なる教えに共感してゆく在り方に対して、”あなたには中心となるものが無い、根なし草みたいだ!”、などと批判的に受け取られることもありました。
だけど、こういう私の内奥の、裏側の消息のことは、ほとんど語られたことが無かったセイもあり、理解されてこなかったのです。
そこで、こうしてここで自分の言葉で、感じているままを書き表している次第なのですが!...
いやもう、書けば書くほど、ハッキリとその臨在感が増して来て、もはや、”私が生きているのではない、あの御方が私の内に生きているのてある”、という具合になって来たではありませんか!...
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