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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現実に即した実存主義

2023-09-10 08:53:34 | 哲学・思想
どのようなことでもそうなのですが、自分自身のこと、例えば実存とは何ぞや?、と知的概念によって、意味を追求したりしていると、すぐ行き詰まってしまいます。
実存とは?、と考え続けて行っても(頭では分かったつもりにはなっても)、永久に実存そのものには到達出来ないのです。
追求なんかしなくたって、最初から実存感覚というものはあるんじゃないですか?
即ち、“私は在る“という感覚のことです。
実存とは?、私とは?、と知的に追求したりしているのは、そうしたトータルな自己感覚から切り離されたところで為されているから行き詰まってしまうのです。
だから、この感覚的なものを意識したらいいのです。ていうか、人は皆自然にそうして生きているものなのですが...
意識している、なんて普段“意識していない“ので、すぐに考えてしまう...考えている自分などチッポケな頭の中にしかないのに...
つまり、私という感覚には、思考する私は超えられているのです。
思考を超えなければ、真理に到達出来ないんじゃなくて、最初から超えられているのです!
そういう実存的な広がりがある...超越的なもの共々が私なのです。超越的実存。
私は在るということは、しかし空性に消えてしまうことではありません。
消えてしまったら、私感覚は無くなるでしょう。
かと言って、ここまでが私という限定された輪郭というものも無いのです。
空性に無限なる広がりを感じさせながらも、個的に限定されたような感覚もある...というようなことは誰しもが自然に感じていることではないでしょうか?
現実にそう感じている...この現実に即していない、如何なる哲学的思弁も観念に浮いてしまう他ありません。
少なくとも、今の私には自然に意識が向かうということがありません。


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超越する実存

2023-08-21 09:56:00 | 哲学・思想
「我は、自己自身を超越し、その内的実存において、他の我、共同的な我、汝、神の世界に出て行くときにのみ自己の実存を実現する。...全ての他の我、汝からの我の孤立は、自己の破滅である」(ベルジャーエフ「孤独と愛と社会」/白水社刊)

ベルジャーエフのこの言葉で、“我“、“汝“とあるのは、ユダヤ系哲学者マルティン.ブーバーの有名な著書「我と汝」を踏襲しているのです。
これらの言葉は、我々の実存と関わらなければ、出て来るはずはありません。
私は今無謀にも、実存という言葉の意味、概念的理解のことなど深く考えないで、こういうことを語っています。
又、乱暴にも私はそれが分からなくても、“我は実存している“、と言ってしまいます。
逆に言おう!...それが分かったからといって、あなたは実存していると言えるだろうか?
実存について、いくら抽象的に考え、何らかの知的結論を得たとしても、“我は実存している“とは言えないでしょう?
考え、思っている私のみからは!...そこから出て行かなければ、超えなければ!...
否、我は、そうせしめるものにあって、かく言うことが出来るのです。
そして、何と多くの人間は、思いを超えたもの、神とは何か?、とこれ又抽象的に考え続ける...“考えたら“こんな滑稽なことは無い!
ベルジャーエフが言うには、我の実存には、超越的人間、超越者の存在が前提となっているという...
それは、言うまでもなく、我と別在しているものでも、形而上学的実体として思い描かれたものでは無いでしょう。
しかし、この思われた私からは、かく超越したものと感ずるしかありません。
多くの人は、通弊の如く、“私は私の思いを超えなければ実存出来ない!“と思念するのかもしれません。
だけど、私がそうであるように、“超える、超えられる“というのは、我々の本性からかくなされるものなのでしょう。だから、超越者が、神が何か?など考えるまでもなく...
このことは、“引きつけてやまないものがある“ことがそれを物語っているのです。
つまり、超えるものにあって、実存していることが我々の自然な有り様なのでしょう。
そして、一個の、思われた自己のみに閉鎖された時、“私は私でなくなる!“、実存を失うしかありません。
閉ざされた自己の状態から超え出ることは、同時に他者との交わりがあることを意味しています。
では、諸々の理由で孤独であることを余儀なくされている者はどうなのか?
私は今形の上では孤独ですが、それを感じてはいません!(都会で暮らして居るからかもしれませんが、いや、孤独、自己疎外を感じている人間の多くは、都会人なのではないか?)
“超越者“との交わりを感じているから!
これは、意識的にならないと感じて来ないでしょう。
私は何か?と考えるのでなしに、ただ“私が在る“ことを意識、感じていたらいいのです!(そう、意識的であることが実存していることとも言えるでしょう)
だから...ああ、もう...あの御方の臨在、迫りを感じてなりませぬ!...
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本質的なこと、普遍的なこと

2023-08-06 09:59:02 | 哲学・思想
”神は七次元の存在なので、神と一つになるにはその次元にまで進化しなければならない!”
”30数年後の未来、人類の大半は滅びてしまうので、それまでに覚醒しないとならない!”

真摯に道を求めている人なら何次元だとか、何年後だとかのことなど本質的な問題でないことはすぐ分かることでしょう。
いや、どっかの誰かの言葉を鵜呑みにしていること自体がそうだと思われるでしょう。
末節的なことに囚われている人間には、いつたどり着くのか知りませんが、ある人にはそこに本質的なことらしいことも織り込まれてあるのを見い出すかもしれません。
地域、時代を超えて道を求める人たちに深く関心を持たせるもの...それは普遍的なものと言えるかも知れません。
しかし、この本質的なこと、普遍的なことについてですが、私はほとんど意味というものを考えずに使っているところがあるのです。
ちなみにコトバンクなどを引っ張ると...
《本質》そのものとして欠くことの出来ない根本的な性質、要素
《普遍》広く行き渡ること、すべてのものに共通に存すること...
だそうです。皆知ってましたか?
その定義みたいなものによれば、それを知らないと大変なことになるように感じてしまうけど、それを知ったからってどうなるってんだ!
概念を知ったから、それが分かるってーのは大違いですよ!
本質的なことを言えば!...それを対象化してどうのこうのってことじゃないのです!
普遍的なことと言うのも、多分...本質的なことというのは、個的なもので、普遍的なことは、その他大勢に関わるものに思われているかもしれませんが...その他大勢は、一般的なこと、世間的なことしか知らないのであり、普遍的なことなど全く縁も所縁も無いと言っていいでしょう?
これは、個々が感じることなのではないですか?
つまりそれは、本質的なことと結び付いているのではないか?
けだし、それは実存的なことと言えるでしょう。
私がそう感じない、本質的なことも普遍的なこともあろうはずがないのです。対象化された意味の世界には無く、直観の世界に求められるものなのです。
個々の直観に基づくものは、各々異なる感じ方、観方があるのも当然のことでしょう。
しかし、その根底には本質的に、普遍、不変的に感じられるものも横たわっているのではないでしょうか?
これは、表層的思念の領域を超えているのは言うまでもありません。
本質的なこと、普遍的なことというのは、人それぞれの内奥に求められるのです。
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実存と人格と神

2023-06-25 09:50:49 | 哲学・思想
例えば、AIによって如何に客観的に模範的な説明がなされようとも、どうしても”直に自分自身に目の当たり”に分かった感じにならない語句があります。
その最たるものは、”実存”というものでしょう。
それは、畢竟”私とは何か?、何がここに存しているのか?”、という問題に突き当たらざるを得ないでしょう。
しかし、そのうち”AIの語る実存”によって、私の魂が揺さぶられるような日が来るのも夢ではない気もしますが!...その時は、おそらく何かの実存的魂がAIに憑依するのではあるまいか?
私は主観的世界を超え出て、他者と実存的交わりを持つことがあります。
その他者は、必ずしも人間人格とは限らないのですが(だからひょっとすると...AIから愛の告白を受けたりして!...))、そこでは実存は、私と他者と二つに分割されることも、こっちの実存が他者の実存に移り変わるということもありません。
その交わりを目の当たりに感じているのは、”私の実存”にあってのものなのです。
そしてそれは、人格(猫格でもAI格でもいいですが)的なものを介してもたらされると言えるでしょう。
人格は実存と切り離すことが出来ない...従って、人格も又それについていくら普遍妥当的説明がなされようとも、それ自体に直に格ることはありません。
しかし、実存と違って人格的なものは、他者に見い出すことが出来ます。
正確には、他者存在に写し出されていると言った方がいいでしょう。それは上記したように私の人格を介して。
言うまでもなく、私の人格は、私自らによっては直接見ることは出来ません。
実存といい、人格といい、それはどこから来るのか?、どこに淵源が求められるのでしょうか?
確かに言えることは、それ自体のみからは絶対に求められないということでしょう!
ベルジャーエフなら神から来ると言うでしょうが、正しく思いを超えたところから来る、という他ありません。
このことはだから、所謂人格神というもの、神は人格を有するとか、神人同型説といった、合理的説明とは直接関わりがありません。
神はしばしば、”神がかり”とか人格神のような見えない存在が人間に憑依するようなイメージで語られたりします。
しかし、私にはどうしても、本源的なものは神の方であり、それが形ある人間存在を借りて、仮現しているように感じてならないのです。
本来、本源的なものは、形に”仮体“しても失われたりしないのです。それが失われた場合は、別のものに変種するだけでしょう。
人格は、時に神のペルソナ(仮面)と言われたりします。
見えないペルソナが、見えるペルソナを借りてそれを写し出す...
“私は私自身を直接見てみたい!”
そして今我々有機的存在は、コンピューターという本来無機的存在を借りて、我々の実存、人格を写し出そうとしているのでしょうか?!...
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超越者と包括者

2023-06-04 09:30:05 | 哲学・思想
あるものが存在しているとは、そこに存在せしめている空間、場所があるということを示しています。存在者はそれだけで存在出来ないのです。
このことだけを取っても存在論的には、私が存在しているのは、私を超えたもの無し(勿論、これにはもっと深い意味があります)にはあり得ないことが理解されるでしょう。
この超越したもの、超越者はどこまでも無限定、無制約なものと言うことが出来ます。
私は今、部屋の中に存在している...部屋にはそれを超えた家屋が存在している...家屋にはそれを超えた敷地が存在している...とどのつまり、超越者とは、どこまでも果てしなく広がる空間と結びついたもの、ということが出来るでしょう。
そのすべてに渡るものを“全体的なもの“として捉えられたりもしますが、全体という一つの括られたものということになると、無限定とは言えなくなりますね。
超越者は、どこまでも空なるものと相即されている...そして空なるものとは、如何に目に見えない霊体的存在?や、微粒子レベルで説明されるものだろうと、存在を超えたものと言わざるを得ないでしょう。
私はここで、しち難しい、ヘンな虫が寄ってくるような、哲学的論理を展開している訳ではないのです。(そうしようにも、頭悪いので出来ません!)
“私は在る“、という意識には、どこまでも超えたものが相即していることを感じずにおれない、ということを言いたいがためなのです。(どうか、読者もこのことを感じ取って欲しい!)
それは無限定であり、無制約なもの...他の何ものにも拠らず、それ自身に拠ってあるものでしょう。
ドイツの哲学者ヤスパースは、この超越的なものを、先の限界を感じさせる、全体的なものと区別させ、空的なものをも包括する、というニュアンスから“包括者“と呼んでいました。
包括者という言葉は、やはりヤスパースが曰く言い難いことを言い表す、媒体のようなものとしてキーワードにしていた“暗号“の、その最重要なものでしょう。
存在するものも、存在を超えたものも、すべてを包括するもの...
それは、単なる全体という言葉からは伝わりにくいもの...私に内在しているもの、私の実存をも包括しているのです。
そして、おお!...“私の実存は包括者とともにある!“...このような言葉が脳裏に過るだけで、現臨感に包まれてしまう!
この暗号は、念仏のような“名号“ともなるのか...?!
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