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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

知性、感性、霊性

2024-03-28 10:20:47 | 哲学・思想
私はいつも、思考マインドから離れ、超えなければ神的なものにつながることは出来ないと言っています。
これは、あらゆる宗教、精神的な道で等しく説かれていることと言ってもいいでしょう。又、もっと正確に言えば、神的なものが我々に臨めばそのように導かれるとも言えるのです。
しかし、これについて私は、“思考を無くさなければならない“、とは一度も言ったことは無いつもりです。
第一、何人にも出来ないのではありませんか?...持ち前からあるものを無くすことはバカげてると言う他ありません。
然るに何故、我々の思考、分別知というものは、その神への、霊性の道と言ってもいいものにかく立ちふさがるのでしょうか?...思考、知性的な道を通して、それにつながることは出来ないのでしょうか?
これが古来より哲学の道として知られていたものなのです。哲学とは思考を超え、霊性を開く道なのか?と思われる向きもあるでしょうが、古代ギリシアの、又インドを始め東洋に発祥した哲学をみても、本来はそういうものであることが分かります。
少なくとも私は、それを指向しない哲学など(それはヒマ人の知的遊戯にしか思えず)、全く関心がありません。 
霊性を指向する哲学(この哲学本来の在り方がその界隈では、神秘主義などと曖昧なレッテルを貼られ、傍系、異形のように扱われているのです!)は、それを究明してゆけば、必然的に思考、知性を超える地点に導かれると言ってもいいでしょう。
それは、思考を超えると言っているのだから、勿論知性のみからのアプローチでは、決してたどり着くことは出来ません。それと共に、いやそれ以上にパトス(感情というよりも、感性と言った方がピンと来ます)を必要とするでしょう。というより、そのように精神を促すものがパトスそのものなのではないか?
「私の主要な思想は内部の光明から発する稲妻のように奔湧する。筆をとって書き始めると、激しい勢いで自分が上方に引き上げられ、頭がぐらぐらすることがある」
この霊性を指向してやまない哲学者ベルジャーエフの言葉は、そのパトス性をよく言い表しています。
そして、その思考を超えた地点に立った時、我々の知性というものは、本来感性と分けることが出来ないものであることが示されるでしょう。
知性も感性も霊性に源がある...
霊性に根差したものこそ、本来の精神的な在り方なのではないでしょうか?
そこから知性的な部分ばかりが分離して、抽象論ばかり繰り返して、どこにも落ち着かない論理だけでカタが着いたなどと錯覚している、近代になり特に発達した主流の哲学とされるものこそは、異形と言わねばならないでしょう?
霊性を指向せず、それに根差していない哲学は、全く無機質で、生きた血のパトスが感じられません。又知性を欠いた宗教も感情論に走って盲信、迷信、狂信を生み出します。それも霊性の枯渇が要因になっているのでしょう。
知性は、感性と相まって本来の霊性へと統合されなければならないのです。
これは、知性が暴走している現代の諸相がそのことを浮き彫りにしているでしょう。
しかし一方で私には、その霊なるものの方が我々に露わになって来る、ということも感じずにおれないのですが!...



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表側と裏側の関係

2024-02-28 09:40:37 | 哲学・思想
改めてということなりますが、このブログの基調となっているものについて書いてみます。
(一般的)には、人生というものは、この思い、為している自分が居て、見たまんま、思っているまんまの世界や歴史の中で生きている、とそう普通に思っているもので、私はこれを仮に“人生の表側“と呼んでいるのです。
一方、又“人生の裏側“と呼んでいるものは、一般的なことは何も言えません。“これが一般的なんだ!“、なんて考えられている世界では無いのですから!...思考が超えられないと開けてこない世界なのです。
表側はそのように自分が居て、世界が在る、相手が居るという相対的世界であり、裏側は自分と世界が分離しているように感じない世界...って、何だか相対的に説明してるやん!...ごもっともです。
すべての説明的な表現というのは、表側に譲歩しているものなんだから仕方無いでしょ!...表側のこと(言葉がそう)を借りなければ、絶対に裏側のことは説明出来ないのです!
裏側のことは、表側のようにどうしても表すことが出来ない。隠されているのです。これも相対的な言い方してますけど、“表があるから裏もある“...相対のままのことは言ってません。
つまり表裏は相対に見えて一体なんだ!
私はこういう関係性のことをここで強く言いたいのです。
よく、悟り系のスピなどで語られる、“あなたという個人も世界も幻想なのです!“、何てこと言うつもりはありません。
“有る“とどうしても感じ、思ってしまうことを、“無いんだ、ナイんだ“、なんて思おうとする必要も無いし、現実に無いようなものを“有るんだ“、なんて思う必要も無いのです(これは妄想に通じる)。
それでも私が裏側のことを強調するのは、世の人はあまりにも思われた表側のことに意識が傾き過ぎているように感じているからに他なりません。
なるほど、思われた人生というものは、苦しいことばかり、苦難の連続のように思えます。
だけど、本当に苦しみを作り出しているのは、そういう思われた世界がすべてだという思い込みではありませんか?
そういう人でも、風向きが変わったら、小鳥がさえずったら、一晩寝たら、そういう思いから離れるかもしれません。
何度も言いますが、裏側の世界は隠れ、見えないと言っても、それは霊界のことではありません。
思いの世界に隠れている、それを超えた世界のことなのです。霊界でもあの世でもなく、この世界には我々が気付いていないだけで、見えてないものがいっぱいあるのです。
苦しみから解放されようと、何かを為そう、変えようとしなくても、成っている、成って来るのです。
といって、何も表側には苦難や不調和ばかりがあり、裏側にしか幸福、調和は無いと言っているのではありません。
この現実世界にはここでしか味わえない幸福というものはあるでしょう。(例えば動画や画像でない、現物のナニに触れるとか?!)
だけどだけど、この世(これは表も裏もひっくるめてということ)で生きている上での本当の幸福とは、表と裏が相俟ってのものでしか無いのではないですか?
私は確かに人生の裏側に踏み入れて、至福に与ったことがありましたよ!
だけど、それはまだ私の目が黒い、この現実世界、雑踏のど真ん中で起きたことだったのですよ!
そう、本当は表も裏も無い現実世界をあなたも私も生きているのでしょう!...

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心象と実存

2024-02-04 09:49:04 | 哲学・思想
私は、言うまでもなく特定の宗教、思想などからは自由な人間です。
しかし強いて、私の精神的な歩みの、特に初期の頃は、日本神道的なものとキリスト教的なものの影響が強かったということは言えるでしょう。
これには、その二つを体現していたような霊感詩人、ジャーナリスト、故.西村忠義先生の「人類の復活」という著書と出会ったことが大きかったのです。
先生には、その敬愛していた手島郁郎先生と同じく、古来からの日本とユダヤの同祖性、関係性が常に心象に映っていたのは間違いありません。
そうです!...大本などの神道で、表に現れる元の神、国常立之尊とは、“在りてあらわになる神“、ヤハウェに他ならないのです!
そして、その神からこの地上に現身として現れた神人がキリスト.イエスであり、その原型は素戔嗚尊であったのです!
“平安京“を開いたのは、渡来民の秦人であった。彼らは太古のエルサレム(平安の都)から真の魂の故郷、メシア出現の地を目指し、これを造営したのです。
これは、再臨のキリスト、真のメシアは東方より出現することの黙示でなくて何であろうか?
私はこのことをここに実証...なんかされる訳が無い!
いや、実証されては、実証しようとしてはダメなのです。それは、霊的な実相界から思念世界に堕ちてしまい、生ける神を再び岩戸の中に閉じ込めることを意味しているのだから!
これは、あくまで内的心象に映し出されていることを言葉、表徴を借りて表現したものに過ぎないので、これは一種の霊界物語のようなものなのです。(ちなみに私は出口王仁三郎師のその大著述は、その当時数多あった、又大本教団に蔓延していた、そうした実証に駆り立てられて、妄想に走った試みに対するアンチテーゼであったと見ています)
実に内的心象に留められているか、強固に信じ込み、実証、妄想に走るかどうかが、真に霊的な現実からズレるか否かの分かれ道となるでしょう。
肝心なことは、その心象に描かれているものが、私の霊的実存にどう映し出されているか、ということなのです。
思念世界の岩戸を開いてそこに、顕わに現臨するものとは何か?
神人...神と人が合い、一つになる、その顕現とは如何なるものか?
それは思い描かれたものでなく、私自身と直に関わるものでなくてはならないはずなのです。
そして又、私の心象には、この実存に訴えてくるものと、日本神道にみる、ある種の寛容性とが、これからの宗教的、精神的な道において重要な要素となるように感じているのですが...
やっぱり、真の救世主はこの日本に出現する!、というような声もどっかから聞こえてくるような?...
それは、あなたの真の神のみぞ知るところでしょう!...
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新しい天国

2023-11-04 10:10:32 | 哲学・思想
「我々は楽園を追放されたことが人間にとって如何に大きな意味を持っているか認めなければならない。人間が自由というものをまだ知らなかった、元の天国から、自由を知った新しい天国に移ることはどういうことか、その意味を知らなければならない」(ベルジャーエフ)

聖書の楽園神話に照らせば、楽園ではすべて神から与えられるまま、如何なる争い、障りもなく、何”不自由”もなく生活していたとのことです。
”いや、待てよ!”...神の定めた通りなのであれば、どこに自由などあるのか?、自由というものが分からなければ、不自由もヘッタクレもないではないか?
そうです。我々は自由になることと引き換えに楽園を追放されてしまったのです。
逆説的ですが、もし我々に自由というものが無かったとしたら、そこに天国的喜びを見い出すことが出来るでしょうか?
私は自由の無い世界など考えたことも、想像したこともありません。ましてそういう世界が永遠に続くことなど!...これ又あまりに逆説的ですが、それは永遠の地獄のようにも思えてきます。
”そうだ!”...そうなのです!、だから私の周りも中も地獄の様相が写し出されているのです!
地獄は、まさに我々の自由意志によって造り出されたと言えるでしょう。
そういう客観的な世界が実在するかどうかはともかく、観念的な主観が支配しているのは間違いないでしょう。それは善悪の観念から来る...善悪を知る木の実を食べたことから始ったのですから。
だから、もはや善悪、地獄を知らない幼子のような心性を失ってしまった我々は、神代の昔の楽園を回復することは出来ない!...逆に言えば(何回、こういう表現を使うことか!)もし、元の楽園に戻れたとして、我々の、又一人一人の歴史の苦しみ、悲しみとは一体何だったのだろう?、ということになるでしょう。
それでも、あらゆるものは、進展、創造されてゆく...
私が楽園に戻ることは出来ないと言ったのは、元のまま、そのままの再生ということは不可能だ、と言ったまでです。
我々は善悪を知る木の実の味をしめすぎている、地獄の門を通っている、そして失ったものはあまりにも大きい...天国の門を開く力など残っていないようにも感じます。
しかし、その門は神が自ら開き、自ら我々に顕わになるのではないでしょうか?
それが、一体どのような有り様でこの現実世界で展開されるのか?...私には分かりません!
いや、私はその予感は持ち続けていますが、来るのかどうかも本当は分からないのです。真の神に聞かなければ!
もし、最初からそれが定められているのなら、それは自由を知らない元の天国生活と同じではありませんか?
誰よりもこのことを力説したベルジャーエフが言うように、新しい天国は、人類がかつて経験したことが無いのは勿論、おそらくは神々も知らないであろう?、新たな創造過程によってもたらされるのでしょう。
そこには、すべてが予定されてはいない…未定なる自由にも開かれているだろう!
新しい天国を希求するかどうかは、あなたと私の自由なのです!
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理屈じゃない!

2023-09-11 09:19:57 | 哲学・思想
神とか超越的なものといったものなど本当は存在してなくて、すべて自覚されることの無い、潜在意識とか、自己の知られざる機能がもたらしているのかもしれません。
又逆にそういうものは、本当に我々の力を超えて存在しているのかもしれません。
真相は?...勿論分からないですよ!...だから、分かったようなこと、決めつけたことを言う方がおかしいのです。
一つ言えることは、潜在、深層意識、人間の知られざる機能だとして、表層意識では分からないという意味で、それは自分の思いを超えたものであるのは確かなことでしょう。
又、“それは科学的に証明されている“、と鬼の首を取ったようなことを言う向きもあるかもしれません。
だからそれは、ただ、誰かが言ってる、その証明されたことを信じているだけなのであって、自分の表層に直接示されたものでも、自覚されたものでも何でも無いのですよ!
要するに、具体的に自分は何を、どう感じているかどうかが肝心なことなのです。
そうでないものは、所詮理屈に過ぎません。
現実に意識が広がったり、深くなったりしてもいないのに、理屈で納得したつもりの人多くないですか?
私は、神的なものが自己実存に臨めば、愛、平安がもたらされると何度も言ってますが、そういう言葉をいくら信じてたって、それが感じられなかったらしょうがないのです!
身もフタも無いような言い方ですが、もしホントにそういうものを感じてみたいのなら、理屈で自分の頭を縛るの辞めてみたらどうですか?
自分の思いが自分を不自由にしていることに気付いてみたらどうですか?
そう、自分の思いから自由になることが愛、平安に与ることなんだ、とそう言っているのです!
だから、ヤッパシ、自己実存というものは、自己を超えたものと切り離されない、ということなんですよ!
だから神は居るんだ!...って、別に存在論的に信じる必要も無いのですが...
いや、信じたかったら信じてもいいでしょう。
ここでは信じようと、信じまいと思いを超えたものは感じることが出来る、と言っているのですが、決めつけたり、絶対視しなければ、それは基本的に分からないものだ、ということを弁えていれば何だっていいのです。
神や霊的存在が、絶対的なものではないけれど、仮に現れることもあることを私は否定してません。
そこでも、自分がどう感じているかがおざなりにされると、妙な、不自由な偶像崇拝に陥ったりします。
そうでなければ....“何を信じようと、信じまいと私の自由だ!
思いを超えたものは結局は分からない!
分からないから自由なのです。自由に感じることが出来るのです。
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