鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.158『ユダにも自由意志はあった』(12章)

2006年07月19日 | ヨハネ伝解読





~~絵画は「使徒ヨハネ」(1866)by Peter Nicolai Arbo~~




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=聖句=
 「弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った『どうしてこの香油を300デナリで売って、貧しい人たちに施さなかったのですか』」(12章4~5節)
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 今回はユダについて考えましょう。
彼はどうして「香油を売って貧しい人に施したら?」といったのでしょうね。これに関して、ヨハネはこう記しています。

 「ユダがこう言ったのは、貧しい人に対して関心があったからではない。彼は盗人だ。財布を預かっていて、日頃そこからお金をくすねていた」(6節)。

 これは「香油をイエスの足に振りかけないで、売って貧しい人に施したらどうか?」という意見をどうしてユダが言ったのか、という疑問に対する答えとしては少しポイントがズレていますね。ユダの心理・動機の分析が欲しいところです。

 だが、ヨハネはそこには立ち入っていません。ただ、「ユダというのは貧しい人への関心を持つ人ではなかった。また、会計係であって、日頃そこからお金をくすねていた」という意味のコメントだけをしています(6節)。

             


 これを読むと、また別の疑問も湧きますね。
 イエスはどうしてこんな人物を12弟子の中に入れていたのだろうか、と。

 イエスの12弟子といえば、一番身近に置かれた弟子です。その外側に、さらに72人の弟子がいたときもあるくらいですから、文字通りの側近です。その中に、どうしてこんな人格の人間を入れていたのだろうか。イエスともあろう方が・・・。

 ユダについては謎が多いです。春平太にもわからないところがたくさんあります。しかし、わからん、わからんだけでは解読になりませんので、微力ながら少しやってみましょう。まず、どうしてユダのようなのが弟子になっていたか、から。

                    


 理由の第一は、イエスは来るものについては拒まなかったから、ということでしょう。弟子選びには、イエスの方から指名したケースもありました。このヨハネ伝の記述ではピリポはその一例でしたよね。彼はとても霊感が強い人だったことが、他の聖書箇所で示されています。

 が、向こうから望んでくるものをイエスが拒否したケースはほとんど記されていないのではないでしょうか。そのことから「弟子に加えてください」との強く意思表示をすれば、拒否されることはなかったと推測されます。イエスが宣教活動を始めた初期の時点ではとりわけそうでしょう。

 ユダは早期に希望を表明したのではないでしょうか。そこで「まあ、やってみなさい」と弟子のうちに入れてもらえた、と推測されます。で、事務能力を見込まれていつの間にか会計係をしていた、というイメージです。

              


 するとまた新しい疑問がわきますね。

~~しかし、彼は後にイエスを裏切ることになる。イエスは、それを知っていたはずだ。全知なる創主の子だから。なのに、どうして入れたのか?と。

 この疑問には人間の心の自由意志の部分を見逃しているところが見えます。
 ユダには人を裏切りやすい素質があったかも知れません。けれども、彼の心が、そういう資質を持ちながらも、以後、どう展開していくかは、ユダ自身の自由意志が関与する部分がある~~これが聖書の人間観ではないかと思います。

 裏切る方向に行くか、そうしないでイエスの教えを受け入れる方向に行くか、は最終的にはユダのこの自由意志部分による。そういう余地があった、といえるでしょう。

 もし、そういう自由意志部分ががなかったというならば、ユダはロボットと同じだったことになりますね。裏切りロボット、裏切りマシン。

 ~~そういうことはないでしょう。

 ユダはなにやら現世意識の強そうな男、計算高そうな男でした。そういうことはイエスにはすぐにわかったでしょう。けれども、そのユダがその後どうなっていくかは、彼の自由意志がどう展開するかに詰まるところはよるはずです。イエスもそういう人間観だったと春平太は解します。


               


 そしてある時点で、イエスは「彼はもうダメだ」と判断することになった、と。それまでは、別の方向に来る可能性をも認め期待していたのですが、もうダメとわかるときがきました。

 その時イエスは~~
  「その人(ユダのこと)は生まれてこない方が、当人のためによかった」(マタイによる福音書、26章24節)

  ~~と言います。これは、結果的にそうなったということでしょう。

               



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