鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

35.エデンの楽園は超至福の空間だった

2018年04月22日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

前回の続きだ。

生産の機械化(産業革命)が起きて、人類の飢えの問題は解消に向かった~と前回言った。

医療も発達して、沢山の病が癒やされるようになった。

では、この動向が進むと、荒野の悲惨さはなくなると期待していいのか?

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それは「視界(パースペクティブ)」の問題だ。

我々人間が経験から得られる人間社会の歴史のなかでみると、楽観的にもなり得る。

だが、聖書のパースペクティブのなかでみると、話は違ってくる。

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聖書は、エデンの楽園をも含めた視界でものごとの有り様を見るのだ。

では、その楽園はどうだったかというと・・・

 
 

<楽園の状況>

まずエデンでは、すべてが豊饒で、二人は十二分に食べられた。

園の中央の一本の木の実を除いてすべての植物を食べてよかった。

アダムとイブは裸で暮らしていたにもかからず病気で死ななかった。

それからすると、そこには病原菌も存在しなくて、病も全くなかっただろう。
 
+++

だが、そんなのは序の口だ。

何よりも注目すべきは、二人には老化がなく、従って、死もなかったことだ。

これには、少し説明がいる。

+++

二人の心は、創造神の言葉を全面的に受け入れていていた。

だから、その意識波動は、創造神のそれと完全協和していた。

これは、後に導入される「律法の言葉」でいうと~後に説明する~「罪」のない状態だ。

そして、律法はこの罪に関する法則をも示している。

罪を犯すと「死」やってくる、という法則がそれだ。

これを短く「罪の報酬は死」という。

二人には、エデンでは罪を全く犯してなかったので、死はやってこなかったのだ。

ということはもちろん、その肉体に老化もなかったということである。



 

<生殖活動は要らない>

もう一つ見逃してならないことがある。

死のない二人には、生殖活動も不要だった~と言うことだ。

生殖活動というのは、死を迎えねばならない存在が、自分の種を保存しようとして発動するものだからだ。
 
だから、二人は、二人だけで十分だった。

エデンの楽園で二人は、子を産むこともなく長い間、蜜月状態で暮らし続けてきたことになる。

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どれくらい長く?

それを時間で示すことは出来ない。

二人は「永遠」の空気の中で暮らしたから~少し難しいが~だ。

「永遠」のなかにいると時間という感覚は生じない。

ただ、「持続」の感覚だけがある。

ふたりは幸福の持続感のなかですごしていた、ということだ。

(わからなかったら、これは放念していい)


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だから、二人は、創られてから楽園を追われるまでの期間はわからないのだ。

「時間」の自覚がないのだから。

聖書にも、その期間に関する記述はない。

「旧約聖書」の『創世記』には「アダムは全部で930年生きた」(5章5節)とあるが、それは、楽園を追放された後の寿命である。

エデンの楽園は、産業革命が起きた程度の荒野(あらの)とは比較にならない幸福世界なのだ。

機械生産が進み、医療が発達したなんてのは、そんなのは、五十歩百歩なのだ。


 

今回はここまでにしておくが、蛇足を一つ。

アダムとイブが楽園で暮らした期間について~。

我々は聖書の他の記述部分(聖句)から次のような推定~極々アバウトな~は出来る。

すなわち、その期間は、「霊のない人間」が増殖しつつ地に満ちていく期間に併行した長い時間であったろう~と。

それは長い長い蜜月期間であった。








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