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=聖句=
「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。
また、生きていて私を信じる者は死ぬことはありません」(11章25節)
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ここ11章25節に対して日本のキリスト教会ではどうでしょうか?
概して言いますと、飛ばしていますね。何もいわずに避けている。
理由は簡単です。
日本の教会は、まだ、聖書の教えの中で霊という存在を本格的に認識しようとするに至っていないのです。
<ニッポン教会では霊認識が漠然>
霊が認識されねば、人間をおもに肉体で見ることになります。
肉体で見たら、「(イエスを信じたら)死んでも生きる」というのは
何いってるかわからなくなりますもんね。
もちろん、日本の教会一般にも多少は霊的な意識はありますよ。「死んだら魂が天国に行かれる」といった程度は。
だが、肉体が生きている間のことについては、霊はほとんど意識されていない。
霊がどういう影響を与え続けているのか、という意識は少ないです。
これでは、浄土仏教など他の宗教と同じですよね。
「死んだらいいところに行けるのではないか・・・」
という漠然たる期待を与える程度のものは、他にもたくさんあります。
ニッポンキリスト教の霊意識は概してこれと同じ状況にあります。
<だからやたら「愛」が叫ばれる>
その結果また、聖書の教えの最重要キーワードは霊でなく「愛」ということになっています。
さらに愛が最重要要素ですから、最も悪いのは「愛がない」ということになる。
さらにすすんで、この「愛がない」ということを指す言葉として「自己中心性!」というのが登場いたします。
そして、これが罪の概念に挿入され、罪の主たる中身となるのです。
かくして「罪とは自己中心的なこと」である、というあっと驚く論理が
ニッポンキリスト教では出てまいります。
これが、ニッポンの教会では「驚くべき」ことでなく普通のこと、正常なこととして行われているんですね。
これ自体が驚くべきことなのですが・・・。我が国の教会ではあくことなく
「愛、愛・・・」と信徒に訴求しています。
だもんだから、もう信徒は道徳的な要求に追い立てられることになる。
あるいは、自分で自分を追い立てることになる。
日本の教会人に平安がない、表情が萎縮している、振る舞いが演技的である、という理由は、そこにあります。
そんな集団(教会)に一般人は参加したいという気持ちになるでしょうか?
なりませんよね。これが我が国でクリスチャン人口比率は0.5%ということの主原因です。
~久方ぶりに読み返してみました。
(心の癒し)さんだったんですね。
米国でルター派の神学校でスカラーシップ生として 学んでおられたのは。
最近鹿嶋は、修行とか修養とかは、福音信仰者の最大課題でないような気がしています。
直接に課題とすべきは、戦い(悪魔、悪霊との)だと。
修養はその目標を持って行わないと、むなしくなると思っています。
いえいえ、「勉強か?」程度です^^)
>HPかブログをおやりでしたら、お知らせ下さい。
ありがとうございます。浅学の身ですので、もう少し、ここで勉強させていただいて、機会がありましたら、お知らせいたします。
Leafさんは勉強家であられますね。
HPかブログをおやりでしたら、お知らせ下さい。
訪問したく思います。
すみませんが、お教え下さい。
①「聖書の教えの最重要キーワードは、愛ではなく、霊である。」
②「かくして「罪とは自己中心的なこと」である、というあっと驚く論理がニッポンキリスト教では出てまいります。」
という事について、このHPの別のところで詳しい説明がありましたら、その箇所をお教えいただけませんでしょうか。
(探しても、よく分かりませんでしたので。)
あと、すみませんが、「罪とは自己中心的なこと」だと思っていたのですが、そうでないのなら「罪とは」何でしょうか?
それはそうだよね。
「修養会」ですからねぇ。
そういう場合、アメリカ人は
「ブーイング」で意思表示するんですけどね。
小生はそういう、[霊]とはかけ離れたことを話するのがあまり気に食わないのです。せっかく「修養会」に行ってまで、この先生のように自分の専門分野を見せびらかして、まったく「霊」や「心」のことは話さず、一体何のための「修養会」なのか、そのとき疑問に思ったことがあります。
こういう専門は必要な分野ですから、それはそれで専門にやっていただいたらいいわけです。わざわざ、「修養会]にまで来て、披露されなくてもいいんじゃないですか?それが私たちの霊的な鍛錬とどう関係があるのでしょうか?
>キングジェームズ版のイットと
>NIVのそれとは違うと、
>とうとうと説明を
春平太は、こういうの嫌いじゃないんですけどね。
聖書の解読をしていくと、この手のことはぶつかりうることでしょうし。
鹿嶋さんのご提案のように「聖書と向き合う」自然体の神との対話こそ、日本人のクリスチャンとしての修行ではないかという感じがしてきました。仏教のお坊さんは滝に打たれたりしていろいろ修行をされますが、日本のクリスチャンとしてはどんなことをすればいいか小生は日ごろ考えていました。日本人も韓国のクリスチャンに負けず、修養会は盛んに参加されますが、どんなことを「修養」されているのでしょうか?霊のことは話さず、まるで修養ならぬ収容になっているんじゃないですか?依然こんな人にあったことがありました。その人は、日本でもトップクラスの英語の聖書の権威だそうでキングジェームズ版のイットとNIVのそれとは違うと、とうとうと説明を聞かされたことがあります。この先生、ギリシャ語かヘブライ語ご存知なのでしょうか?鹿嶋さんは、こんな頭でっかちのクリスチャンなら、どう対処されますか?
在主
心の癒し
いや、鹿嶋春平太「チャーチ」ですから、
色んな人がやってきていいのです。
「心の癒し」さんは、素直な方ですね。
「うーん、お見事!」と脱帽します。「井の中の蛙」に成って、習いたての神学を振りかざしていた自分が恥ずかしいです。おっしゃるように、「**神学」を学ぶとその神学の特定の「色眼鏡、サングラス」をかけていることに変わりありません。自分の、クリスチャンとしての未熟さがひしひしわかりました。まるで、小説宮本武蔵に出てくる、沢庵和尚に木刀でバシッ!と打たれた感じです。侍は、武術の下手なものほど、刀を抜きたがるといいます。小生は、習いたての侍が、さびた刀を抜いて刀を見せびらかし自分の腕のなさに気づくいたところのような感じを覚えました。そうです。心の土壌を養い耕すには、素手で色眼鏡をかけずに自然に、聖書のみ言葉とじっくり対決していくことでしょう。改めて、「目からウロコが落ちた」気がしました。これからも、青二才の小生の未熟な小生の、戯言に付き合ってください。
在主栄光
心の癒し
心の土壌を耕すには、「**神学」とかいった神学を学ぶのではなく、聖書の言葉、聖句そのものをながめ、読みその示すところを自由に、怖がらずに探求することが詰まるところは決め手でしょう。
神学はそのために、しばらくの間かけてみる眼鏡のようなものです。それは全く不必要なものではありませんが、聖句をとりあえず整理してみる道具でしかありません。
眼鏡は、いろいろ付け替えてみるとその限界も長所もわかり、効力を倍加します。しかし、いずれは取り外すべき道具であることにはかわりありません。
小生は最近、「キリスト教のことが面白いほどわかる本]を読ませていただきました。現在小生は、アメリカのミズリー系ルーテルの神学校で、研鑽を積むものですが、特に貴殿のこの本を読んで「キリスト教の歴史」についてはまるで目からウロコが落ちた思いです。いろいろ資料を調べるのに苦労されたことでしょう。ご苦労様でした。
さて、引き続き「霊について」のことの意見を披露します。ルーテルでは、「義認」といって自分が救われたことの確信の根拠を「信仰」に求めます。例えば、ある人が救われたのはこの人が正しい、よい行いを十件したからではありません。また、よいことを百件した人のほうが、十件した人より救われやすいのかということでもありません。神の恵みは万人に平等に与えてくださいます。つまり、私たちは何もしなくてもいいわけです。100%神の、御業です。そのために、人間にわかる形で、人の形を取り、人にわかる言葉を取って神はイエスとしてこの世に現れたわけです。それは紛れもない、「聖霊」の働きです。聖霊が人の心に何かの作用をし、昨日まで意味のなかった聖書の言葉、まるで違った意味合いを持ってくるわけです。これは紛れもない「聖霊」の作用です。日本で[霊のこと]を探求する人を「異端」呼ばわりするクリスチャンはこのことをどう思われるのでしょうか?また、彼らの「救い」の根拠、確信はどこにあるのでしょうか?「よい行い」をいっぱいしたからでしょうか?一度伺ってみたいものです。
一方、小生の学ぶルーテル神学がベストで、そのまま日本人の考えに移入することが出来るとは思いません。例えば、「三位一体」の件でも、小生の学んだ限りではあまりに「神(父)、イエス、聖霊」最初の「父」と「イエス」のこと学びますが、「聖霊」ことについてはあまり学びません。むしろ、まるで「茹でたてのジャガイモ」をあまりに暑いので、手の中で転がしているような感じに見えます。
これでは、三脚の三本の脚のうち二本を伸ばし、三番目の脚は、縮んだままにしている、アンバランスな状態です。
日本人の霊的な感覚は、日本人の霊を受け入れる心の土壌があまりにも痩せすぎているからではないでしょうか?普通、土に種を蒔き何かの作物を作るにしても、最初土を耕し、土壌に十分酸素を与える必要があります。今の日本人の心に、この酸素に当たる、肥料を与える必要があると思います。それをどうすればいいのかが小生の課題です。そんな、「特効薬」のようなものはないのかもしれませんが、聖霊がその役目をされ、日本人の心に何か変化を起こされることを祈るばかりです。小生の意見はそんなところです。
日本人は、外国から新しいものがはいると、それをなぞることしか考えない習性があります。
自分の頭で考えないで。
で、日本の明治時代にはいってきた最初のキリスト教が、霊を考えない教派のものだったんですね。
で、今日に至るまでその通りになぞり続けてるわけ。
で、そういうクリスチャンがどんどん増えますよね。すると大勢がそうなるから、ますますそれをなぞってね。
で、時折霊のことを探求する人が出ると、みんなで「異端(イタン)!」と呼んで迫害するわけです。
ホ~ントに、どうなってんでしょうねえ、我が国のキリスト教は・・・。