「セカンドチャンス」論に対しては、反論もあります。「ペテロによる第一の手紙」が示唆するセカンドチャンスを全く否定するのではないのですが、「それは旧約時代に旧約の教えを信じていた人の霊だけに与えられているんだ」と考えるのです。
見解の根拠は次のごとくです。
~~旧約の教えとは、救い主が現れるという約束を含んでいる。その救い主とは、後に明かされるようにイエスのことである。だから、旧約の教えを信頼していたというのはイエスを信じていたことに通じている。
~~けれども、イエスを信頼して救われるという約束が効力を発揮するのは、イエスが十字架にかけられて血を流してからである。それまでは、旧約時代の人の霊はすべて死んでいる。イエスの血によってその霊は活きることになるのだ~~と。
「ヨハネによる福音書」の11章25節の聖句は、旧訳聖書を信じた人についてだけを言っているのだ~~というのですね。
+++
それも一つの論理ですね。けれども、ヨハネ伝のこの聖句が当てはまる対象がそうした人たちだということになると、なにやら不公平な感じもしませんか。
旧約時代のユダヤ人であっても、旧約聖書への信頼を持てなかった人たちはたくさんいたでしょう。下層の貧しい人々には、旧約聖書の教えに触れる機会も多くなかったのではないでしょうか。これは皆ダメということになります。
でもユダヤ人は、旧約のメッセージを知る可能性があったからまだいい方でしょう。過去の他の民族はそうでないんですね。旧約時代には聖書のメッセージはユダヤ民族だけに与えられていたんだから、他民族は「知る」チャンスすら与えられていない。
それでもってある時「ハイそれまでよ、あなたには救いのチャンスはありません」というのでは、「そんな殺生な・・」ということになるのではないでしょうか。
公平、というのは正義の一つですもんね。創造主は正義な方である、ということからいきますと、どうなりますかね。「いや、それでいい、それが創造主の計画なのだ!」と突っぱねる見解もありますけどね。春平太はなにかすっきりしないなあ。
<結論めいたことは言わないが>
で、春平太君、君は結局どう解するんだ・・・となりますと、答えは、「結論めいたことは言わない」です。読者各々が考えて、自分のレベルに応じた見解をお持ち下さることを期待します。
どう結論しても、地獄に堕ちることはありません。ここまで考えるに至ったと言うことは、イエスの教えを信頼してのことでしょう。イエスの教えに真理があると期待している。そして、その信頼感が、「罪許される(救いを得る)」必要にして十分条件です。だからみんな許されているんです。
それについては春平太は結論的に言います。だってそうでなかったら、聖書解読なんて、怖くて出来ませんからね。そのことと「真理は人を自由にする」という聖句とからして、春平太は「イエスに信頼する」時点で、罪は許されている、というのが正しい聖書解読だと思っています。
<聖書を自由に解釈する習慣はまだまだ>
それでも心が動揺する人は、次のことを知ったらいいでしょう。
キリスト教は長い間カトリック教団に支配されてきました。中でも、5世紀から16世紀までの1200年間は、完全支配でした。
この教団の僧侶をめざす人は、聖書を読まないことはなかったのですが、学び初めの時だけでした。最初にラテン語の聖書にざっと眼を通すだけ。以後は、カトリック教理(カトリックが正統とする聖書解釈)を学び続けるという修行様式でした。
彼らに聖書解釈の自由はなかった。既成の解釈(教理)を学習するだけ。セカンドチャンスはあるかどうか、など考えることも許されなかった。口に出したら宗教裁判です。そういう特殊な状況ですから、聖書をコンポンから考えてみるという生活はありませんでした。
この点は、ルター派もカルヴァン派も同じでした。彼らの宗教改革の重点は、教皇(法王)をイエスの代理人とする制度への抗議にあったのでして、聖書を自由に解釈させろ、という運動では全くなかった。ルター派教会も、カルヴァン派教会も聖句主義者を迫害してきました。
彼らは共にカトリックの中で育った人で、その運動は基本的にカトリック教団の改革運動でした。で、できあがったルター派教会もカルヴァン派教会も、相変わらずの教理主義教会でした。それは今日も変わりません。
いまでも教理主義教会は世の中の大半を占めています。だから、今日でも多くの人々の意識は教理主義から抜け出ていないのです。聖書解釈の自由に慣れていない。だから教わった解釈と違った解読を聞くと、反射的に動転する。それだけのことです。それを悟ったら、少しは精神も自由になるでしょう。
見解の根拠は次のごとくです。
~~旧約の教えとは、救い主が現れるという約束を含んでいる。その救い主とは、後に明かされるようにイエスのことである。だから、旧約の教えを信頼していたというのはイエスを信じていたことに通じている。
~~けれども、イエスを信頼して救われるという約束が効力を発揮するのは、イエスが十字架にかけられて血を流してからである。それまでは、旧約時代の人の霊はすべて死んでいる。イエスの血によってその霊は活きることになるのだ~~と。
「ヨハネによる福音書」の11章25節の聖句は、旧訳聖書を信じた人についてだけを言っているのだ~~というのですね。
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それも一つの論理ですね。けれども、ヨハネ伝のこの聖句が当てはまる対象がそうした人たちだということになると、なにやら不公平な感じもしませんか。
旧約時代のユダヤ人であっても、旧約聖書への信頼を持てなかった人たちはたくさんいたでしょう。下層の貧しい人々には、旧約聖書の教えに触れる機会も多くなかったのではないでしょうか。これは皆ダメということになります。
でもユダヤ人は、旧約のメッセージを知る可能性があったからまだいい方でしょう。過去の他の民族はそうでないんですね。旧約時代には聖書のメッセージはユダヤ民族だけに与えられていたんだから、他民族は「知る」チャンスすら与えられていない。
それでもってある時「ハイそれまでよ、あなたには救いのチャンスはありません」というのでは、「そんな殺生な・・」ということになるのではないでしょうか。
公平、というのは正義の一つですもんね。創造主は正義な方である、ということからいきますと、どうなりますかね。「いや、それでいい、それが創造主の計画なのだ!」と突っぱねる見解もありますけどね。春平太はなにかすっきりしないなあ。
<結論めいたことは言わないが>
で、春平太君、君は結局どう解するんだ・・・となりますと、答えは、「結論めいたことは言わない」です。読者各々が考えて、自分のレベルに応じた見解をお持ち下さることを期待します。
どう結論しても、地獄に堕ちることはありません。ここまで考えるに至ったと言うことは、イエスの教えを信頼してのことでしょう。イエスの教えに真理があると期待している。そして、その信頼感が、「罪許される(救いを得る)」必要にして十分条件です。だからみんな許されているんです。
それについては春平太は結論的に言います。だってそうでなかったら、聖書解読なんて、怖くて出来ませんからね。そのことと「真理は人を自由にする」という聖句とからして、春平太は「イエスに信頼する」時点で、罪は許されている、というのが正しい聖書解読だと思っています。
<聖書を自由に解釈する習慣はまだまだ>
それでも心が動揺する人は、次のことを知ったらいいでしょう。
キリスト教は長い間カトリック教団に支配されてきました。中でも、5世紀から16世紀までの1200年間は、完全支配でした。
この教団の僧侶をめざす人は、聖書を読まないことはなかったのですが、学び初めの時だけでした。最初にラテン語の聖書にざっと眼を通すだけ。以後は、カトリック教理(カトリックが正統とする聖書解釈)を学び続けるという修行様式でした。
彼らに聖書解釈の自由はなかった。既成の解釈(教理)を学習するだけ。セカンドチャンスはあるかどうか、など考えることも許されなかった。口に出したら宗教裁判です。そういう特殊な状況ですから、聖書をコンポンから考えてみるという生活はありませんでした。
この点は、ルター派もカルヴァン派も同じでした。彼らの宗教改革の重点は、教皇(法王)をイエスの代理人とする制度への抗議にあったのでして、聖書を自由に解釈させろ、という運動では全くなかった。ルター派教会も、カルヴァン派教会も聖句主義者を迫害してきました。
彼らは共にカトリックの中で育った人で、その運動は基本的にカトリック教団の改革運動でした。で、できあがったルター派教会もカルヴァン派教会も、相変わらずの教理主義教会でした。それは今日も変わりません。
いまでも教理主義教会は世の中の大半を占めています。だから、今日でも多くの人々の意識は教理主義から抜け出ていないのです。聖書解釈の自由に慣れていない。だから教わった解釈と違った解読を聞くと、反射的に動転する。それだけのことです。それを悟ったら、少しは精神も自由になるでしょう。
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