・いま『聖書』は、「旧約」と「新約」の合体本となっています。
・ページ数でいうと、旧約が全体の4分の3,新約が4分の1、です。
・だが、その思想の神髄は、すべて新約にあります。
・旧約は、端的に言えば、付け足しのようなものです。
<影絵とホンモノ>
・「新約聖書」の思想の神髄は、全て、イエスの言葉でなっています。
・そのイエスは、次のような言葉を発しています。
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「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。
その聖書は、私について証言しているのです」
(ヨハネによる福音書、5章39節)
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・この時点では「聖書」はいまでいう「旧約聖書」しかありません。
・イエスは「旧約聖書は私のことを証言しているんだ」といっているのです。
・だが、旧約には、イエスという名は一度も出てきていません。
・ならば、どうやってイエスのことを言っているのか?
・他のものに投影させて、つまり、喩え、比喩を使って言うしかない。
・つまり、旧約は、「別のものにたとえてイエスを語っている本」ということになります。
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・実際、その観点から旧約を見ると、「イエスの比喩表現」と解読できるところが、次々に見つかってきます。
・そこで上記の聖句は、「同じイエスを、旧約は影絵で示し、新約は本物をそのまま示している」と解読できます。
・そうであれば、本物が現れたら、もう、影絵はいらない・・・という見解も成立するでしょう。
・実際、そうであって、旧約はイエスを知るための、必要不可欠な本ではない。
・でも、イエスを影絵で示しているのだから、くっつけておこう。
・そういう理由で収録されているだけのモノです。
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・それでも、利点はゼロではありません。
・イエスが現れる何百年も前に、イエスを(比喩でもって)預言していた、となれば、なんとも懐かしく、過去を追想する気持ちにさせてくれるでしょう。
・また、比喩を解読するという作業は、頭を良くしてくれます。
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・しかし、旧訳はそれだけの本です。
・『聖書』は、「新約中心」の本なのです。
(「聖書という書物の特性」 終わります)
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