探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原信嶺  ・・・ 松尾小笠原家歴代

2014-03-03 19:59:14 | 歴史

                   松尾 

  小笠原信嶺

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小笠原信嶺
時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 天文16年(1547)
死没 慶長3年2月19日(1598・3・26)
戒名 徹抄道也大居士
墓所 埼玉県本庄市内の開善寺
官位 掃部大夫
主君 武田信玄→勝頼→織田信長→徳川家康
信濃国松尾城主→武蔵国本庄城主
武田軍三河攻めで、遠江に侵攻し、井伊谷の領主
織田信忠軍の先陣。信濃「高遠城攻略」
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原信貴
妻 正室:武田信廉の娘(久旺院尼)
子 娘(小笠原信之正室)、娘(榊原忠勝室)
養子:信之

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小笠原信嶺は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。弟に長巨がいる。

生涯
天文十六年(1547)、松尾小笠原氏出身の信濃松尾城主・小笠原信貴の長男として生まれる。父と同様に武田信玄配下の信濃先方衆として働いた。武田晴信(信玄)が天文二十三年(1554)の伊那侵攻で、城主の小笠原信貴・小笠原信嶺父子は武田氏に従い、鈴岡城攻めでは先鋒を勤めた。信玄の死後も引き続き武田勝頼に仕えて、遠江方面の要衝を守っていた。
しかし天正十年(1582)、織田信長による甲州征伐がはじまると、すぐに信長に降伏して織田軍の「高遠城攻め」の道案内役を務めた。同年六月、信長が本能寺の変で死去したため、天正壬午の乱では徳川家康に属し、家康の家臣酒井忠次の家臣として各地を転戦、松尾城などの知行を安堵されるとともに、天正十二年(1584)には、元武田家臣の下条頼安を誘殺するなど支配力の強化にも努めた。
天正十八年(1590)に家康が関東に入部した際、武蔵児玉郡本庄に1万石を与えられ、本庄城主(藩祖)となる。本庄氏時代の城を廃し、久城掘り西側に新たに城を築き、低地である花の木で生活していた住民を台地へ移住させ、新しい町造りを開始した。・・・移封の時、松尾城、鈴岡城廃城。
翌年の天正十九年(1591)には、夫人の兄である甲斐国永岳寺の救山宗温禅和尚を迎え、自らが開基となり、畳秀山の開善寺(小笠原氏の菩提寺と同名)を本庄宿の中宿に建立した。
豊臣秀吉の朝鮮出兵時には九州まで出向いている。伏見城の築城工事の際には人足200人を引率した。慶長三年(1598)二月、江戸で死去。享年52。家督は養嗣子の小笠原信之(酒井忠次の三男)が継いだ。



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