限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

出口治明氏特別講義:『イスラムと西洋・キリスト教』

2009-06-26 00:01:50 | 日記
私は現在、京都大学の全学共通の教養教育科目として、
 『国際人のグローバル・リテラシー』( Global Literacy for Cosmopolitans)
を教えている。

この講義は、現代の若者が今後国際人として生きていくのに必要な文化理解を議論を通して学ぶのが趣旨である。毎時間のテーマは下記の通り。
 1.欧米 中世ヨーロッパの生活
 2.欧米 自由について(ギリシャ、ローマ、ゲルマン)
 3.欧米 (ギリシャ語+ラテン語)の受容と科学技術の発達・、出版物の流通
 4.欧米 アングロサクソンの誤解、現代のグローバリゼーションの問題点
 5.日本 科学技術の発達・、出版物の流通(江戸時代)
 6.日本 六国史、大日本史、中国の歴史書との関連
 7.日本 江戸末期・明治初期の西洋人の記録、日本人論
 8.イスラム イスラムの社会・文化、イスラムの科学
 9.イスラム イスラムと西洋・キリスト教
 10.中国 哲学(儒教、老荘、韓非子、墨子)、仏教
 11.中国 歴史(史記、資治通鑑)、科学技術の発達
 12.中国 庶民生活(唐、宋、元、明)、現代中国の諸問題
 13.韓国 哲学、歴史、科学技術、庶民生活、日本との関連
 14.インド、東南アジア・南米 歴史、社会、日本との関連

通常の授業では私がモデレーター(司会者)となって2人~4人の学生パネリストを中心にして、クラスの学生も巻き込みながら議論を進めている。

前回(2009/06/16日)は、趣向を変えて、ライフネット生命保険株式会社出口治明社長をお招きし、私の代わりに司会者になって学生と議論をすすめて頂いた。

出口社長は知る人ぞ知る碩学で、東西両文明に深い造詣をお持ちの方である。数年前には東京大学の総長室アドバイザーの重責も担われていた。最近の週刊東洋経済(2009/06/27号)『古典が今おもしろい』の52頁に顔写真つきで、出口社長の愛読する古典書籍が紹介されている。



さらにはライフネット生命保険を一緒に立ち上げた若き盟友の岩瀬大輔副社長のブログにもこの東洋経済の記事が紹介されている。

さて、本題に戻って6/16日の出口社長の母校京大での初講義は
 『9.イスラム イスラムと西洋・キリスト教』
についてであった。出口社長は読書が趣味というだけあって、濃密な薀蓄をご披露頂くとともに、学生の意見に対して的確なご指摘をいただき、学生の満足度も極めて高かった。

その様子を逐一、このブログで紹介できないのは残念だが、幸いなことに後日、出口社長自ら、当日の議論を彷彿とさせる要約を作られて、ご送付頂いた。

ご本人の承諾を得て、ここにそれを転載させて頂く。

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【2009年6月16日、出口治明氏の京大での特別講義】

イスラム世界の成立からフランクの侵略まで

 人間の創ったものは、すべからく人間に似ています。国家も宗教も社会もそうだと思います。イスラム世界を考える上で、ムハンマドがどういう人間であったかを考察することは、その意味でも極めて重要です。俗に世界の3大宗教と言われますが、宗祖である釈迦、イエスとムハンマドには、1つの大きな違いがあります。それは、ムハンマドが国際商人であり、軍人、政治家、大統領であり、そして普通の家庭を営んでいたということです。このような実務の世界に生きていた人が創った宗教は、常識的に考えればより合理的な宗教になるはずです。クルアーンやハディースを読めば、そのことは一目瞭然です。

わが国では、イスラム教は峻厳な砂漠に生まれた峻厳な宗教である、といった類の話をよく耳にしますが、そういう人は、おそらく、クルアーンを1度も読んだことのない似非学者でしょう。同じ神を崇めるセム的一神教(ユダヤ教、キリスト教)の最後に現れたイスラム教は、一言で言えば、むしろ商人の宗教なのです。

ところで、クルアーンの原義は「詠め」という意味です。通商都市マッカには、詩歌の伝統がありました。大祭には有力部族が詩歌を詠み、優れた詩歌はカアバ神殿に掲げられたのです。ムハンマドは、その伝統の中で育ちました。ヒラー山の洞窟で、大天使ジブラール(ガブリエル)が、ムハンマドの前に現れた時、最初にジブラールは(神の言葉を)「詠め」と諭したのです。

 イスラム教には、もう1つ、大きな特徴があります。正典の成立が早かったこともあって、クルアーンには異本の類がありません。ムハンマドは632年に亡くなりましたが、ウスマーン(3代カリフ)が、クルアーンを編纂したのは、650年頃と言われています。没後、わずか18年ですから、おそらくクルアーンは、ムハンマドの教えをほぼ正確に反映していると考えて良いでしょう。

お経は、この対極に位置します。例えば、わが国で馴染みの深い大乗経典は、釈迦入滅後4~500年も経ってから、教団の名もなき人々によって大量に書かれたもので、伝統的な上座部仏教から「大乗非仏教(釈迦とは何の関係もない)」と非難されたことはあまりにも有名です。

キリスト教の正典である新約聖書が最終的に成立したのは397年ですが、その中核をなす4福音書が成立したのは、60年頃から90年頃にかけてのことではないかと言われています。イエスの布教は、28年~30年頃と言われていますから、それほど時間は経ってはいないのですが、実は、イエスの教えがどのようなものであったかは、はっきりとわからないのです。多くの学者は、ユダヤ教の革新運動の1つであったと考えています。イエスの刑死後、エルサレムにはペテロやイエスの兄弟であるヤコブを中心とする教団が活動していました。この他に、愛された弟子と呼ばれるグループもあったようです。

イエスを含めてこれらの全員は、アラム語で布教を行っていました。これに対して、小アジアに散在していたユダヤ人の共同体を手掛かりに、ギリシア語でイエスの教えを体系化しようとしていたグループがありました。そのリーダーがパウロであり、キリスト教は、パウロを経て世界宗教へと変貌して行くのです。このようなプロセスを反映して、新約聖書には、正典以外にも多くの異本が残されています。興味のある方は、「ナグ・ハマディ文書」(岩波書店)などをご覧ください。

いずれにせよ、揺るぎない正典が早くに成立したことは、イスラム世界の団結力を高める上で極めて有効であったと考えられます。

 ところで、ウスマーンは、クルアーンを5部製本して、1部を手元(マディーナの宮廷)に置き、残りを、主要都市であるマッカ、ダマスカス、バスラ、クーファに送りました。既にこの時点で、シリアやイラクはイスラムの手中にあったのです。その後、半世紀足らずで、イスラムが大帝国を樹立したことはよく知られている通りです。661年にはウマイヤ朝が始まり、首都はダマスカスに移されました。

なぜ、短期間でこのような大帝国が成立したのでしょうか。俗に、「クルアーン(改宗)か剣(戦争)か」と言われていますが、銃火器が存在しない世界で人が人を殺すことには(殺される方も必死に抵抗するでしょうから)大変な労力を伴います。また、改宗もそれほど容易なことではありません。少数派のアラブ人が短期間で大帝国を樹立できた理由は簡単です。権力の空白があったからです。東西の両雄であるササン朝ペルシアとローマ帝国は、6世紀の中頃から、双方に精力的な君主が現れたこともあって(ホスロー1世対ユスティニアヌス1世、ホスロー2世対ヘラクレイオス1世)死闘を繰り広げ、その舞台となったシリア・エジプトやイラクでは、双方ともに疲弊尽くしていました。もちろん、アラブ人も、自分たちが圧倒的な少数派であることをよくわきまえていました。

少数派が世界帝国を樹立する場合は、必ずと言ってよいほど、寛容な政策が生まれます。平たく言えば、服従して税金を払えば、これまでと同じ生活を保障するやり方です。大抵の場合、支配者が少数派であるため、税額も以前よりは少なくなります。アカイメネス朝ペルシアやモンゴル・ウルスがその典型例でしょう。因みに「残虐で殺戮を旨とするモンゴル」が実像と全くかけ離れていることは、京都大学の杉山正明先生がほぼ完璧に実証されています。イスラムの征服の実体は「降伏して納税せよ」であったのです。

キリスト教は、やがて、2つの大本山を持つに至ります。コンスタンティノープルに置かれた東の東方教会と西のローマ教会です。時代が下りますが、1453年、コンスタンティノープルは、オスマン朝によって陥落し、イスラム世界の宗主であるオスマン朝の首都となりました。それ以降も、東方教会は、イスタンブールに総本山を置いたまま現在に至っています。「降伏して納税せよ」の典型例ではないでしょうか。もちろん、成立したばかりのイスラムは志気が高く意気軒昂でした。

わが国でもジハード(聖戦)という言葉が有名です。しかし、ジハードの原義は、内面の努力をも含めた言葉であって、必ずしも軍事征服を意味してはいないのです。イスラム軍に攻め立てられたローマ帝国の皇帝レオン3世が、イスラム軍の強さが強固な信仰心にあると見て「モーゼに還れ」を合言葉に、イコノクラスムス(偶像破壊運動)を始めたことはよく知られている通りです。

 ともあれ、地中海がイスラムの海になったことによって「一神教革命」は成就しました。地中海の北半分は、キリスト教がローマ帝国の国教になったことによって、そして南半分はイスラムの征服によって。これにより、シュメールから始まりギリシア・ローマまで連綿と受け継がれてきた中東・地中海の豊饒な多神教の世界は終焉を迎えることになりました。

ところで、ギリシア・ローマの著作の多くは、イスラム世界で良く保存されたことが知られています。それは、なぜでしょうか。

1つには、メソポタミアには、世界帝国の伝統が脈々と受け継がれていたということです。帝国という言葉は多義的ですが、ここでは、複数の言語を操る人々を傘下に収めた広域国家ぐらいの緩い定義を与えておきましょう。世界で最初の帝国はアッカド朝だと思いますが、アッカド朝を開いたサルゴン大王は動物園を創ったことでも知られています。インダス文明圏から運ばれてきた水牛が飼育されていたとも言われています。人間をすべて支配下に収めた帝王は、次は、動物だと考えたのではないでしょうか。その次は、過去に生きていた人々をも支配することです。こうした思考の行き着いたところが、アッシリア帝国のニネヴェの大図書館です。アッシュル・バニパル王が、剣とペンを腰に挟んだ形で造形されていることは有名です(脱線しますが、文武両道に秀でたこの王は、ドラクロアによって「サルダナパルの死」として再造形されました。もちろん、アレキサンドリアの大図書館やナポレオンによって開かれたルーブル美術館もニネヴェの大図書館の系譜に繋がります。永楽大典や四庫全書も発想を同じくすると言ってよいでしょう)。

ササン朝は、この理念を受け継ぎ、ジュンディ・シャプールに大図書館を擁していました(この離宮は、259年エデッサの戦いで捕虜になったローマ軍が一部を建設したものです)。ローマ帝国では、偏狭なキリスト教が国教になったことによっていわゆる焚書坑儒が相次ぎ(テオドシウス帝が古代オリンピックを止めさせ、ユスティニアヌス帝はアテネのアカデメイア学園を閉鎖させました)、ギリシア・ローマの知の蓄積はほぼ消え失せましたが、アカデメイアを追われた教師達が亡命したササン朝では、しっかりと知の保存がなされていたのです。

2点目は、アラブ人が極めて知的好奇心の強い人々であったということです。1つ、有名なアラブの諺をご紹介しておきます。「極楽は、馬の背の上、本の中、そして女の腕の中」というものですが、これ以上の説明は不要でしょう。3点目は、中国から製紙法が伝わったことです。あまり良くない表現かも知れませんが、まさに「狂人(アラブ人)に刃物(紙)」で、これにより、仏典の漢訳と並ぶ人類の2大翻訳活動が湧き起ったのです。ギリシア語の原典がアラブ語に翻訳され、例えば、アリストテレスはイスラム世界で深く研究されました。イブン・スィーナーやイブン・ルシュドなどの大学者が輩出し、その成果はアンダルシーアを経由して、ヨーロッパに伝えられました。それを学んで、トマス・アクィナスがキリスト教神学を大成したのです。12世紀ルネサンスがこうして用意されたことは、よく知られている通りです。

紀元1,000年、ローマでは、うら若いザクセン朝の皇帝オットー3世がローマ復興の夢を見ていました。彼が擁立した教皇シルウェステル2世は、オットーの家庭教師でした。シルウェステル2世は、知の最先進地域、アンダルシーアで学んだことがあり、その学識を認められて、皇帝の家庭教師に推挙されたのです。イスラム世界で勉学に励んだ人間がローマ教皇になる、それが、11世紀世界の現実だったのです。なお、文明の十字路であった南スペインについては、「アンダルシーア風土記」(岩波書店)という読みやすくかつ非常に面白い名作があることをご紹介しておきましょう。

 さて、次に、イスラム世界と西ヨーロッパ(フランク王国)の関係を考えてみましょう。20世紀の初めに、ベルギーの学者、アンリ・ピレンヌが「ムハンマドなくしてシャルルマーニュなし」という有名なテーゼを発表しました。このテーゼは、多義的な解釈が可能ですが、私は、概ね次のように考えています。まず、フランク王国の経済的な心臓部は、一貫してネーデルランド地方にあったのではないかと思います。メロヴィング朝は、ベルギーから興りました。そして、メロヴィング朝を簒奪したカロリング朝は、マーストリヒトの豪商の娘から生まれた庶子、カール・マルテルを始祖としています。なぜか、ネーデルランドは北海交易との拠点であり、富が集積されていたからです。

8世紀の中頃、ウマイヤ朝を滅ぼしたアッバース朝は、大帝国のありあまる富を背景として、更地に新しい首都、バクダードを創り始めます。さらに、その北方にサマッラーを建設します。100万都市を2つも造るという暴挙です。こうして巨大な有効需要が突然生じて、世界は未曽有の好景気に沸きます。好景気に沸いた政権はいつの世であっても長持ちします。これが、シャルルマーニュの王国を産んだ原動力だったと思うのです。もう1つ、シャルルマーニュには幸運が重なりました。聖獣の血を引くメロヴィング朝を簒奪したカロリング朝には、自らの政権の正統性について負い目がありました。一方、ローマ教皇は、ずっとコンスタンティノープルの皇帝に隷属しており、しかも、コンスタンティノープルの総主教というライバルの存在も目障りでした。両者の思惑は一致したのです。ローマ教皇は、カロリング朝に護って貰い、しかも自活する領土まで譲って貰いました(ピピンの寄進による教皇領の成立755年)。東のローマ帝国は、イスラムの侵攻を撥ね返すのがやっとの状態で、西方にまで手が回らなかったのです。お返しに、教皇はシャルルマーニュを皇帝に戴冠し(800年)、カロリング朝に正統性を付与したのです。こうして、ローマ皇帝は2名になりました。このように考えると、ムハンマド(イスラム世界)が、シャルルマーニュ(カロリング朝)とローマ教皇の自立を促したことは、どうやら、間違いがなさそうです。

 1,000年前後から、西ヨーロッパは、温暖化の時代に入ります。1,000年の西ヨーロッパの人口は2,500万人ぐらいではないかと思われますが、それが1,300年には3倍増の7,500万人まで膨れ上がりました。気候が暖かくなり、農作物がたくさんできるようになると人口が急増します。1,000年当時のフランク王国とイスラム世界のGDPを比較するとおそらく1対5では、きかなかったことでしょう。西方に、人口が急増している貧しい地域があり、片方で豊かな東方世界がある、しかも、東方世界のセルジューク朝は、政治的には乱れに乱れており、権力の空白が存在していました。このような状況下で、フランク族の東方への侵略活動が始まりました。後世、十字軍と呼ばれた運動です。

一般論として、人口と経済が歴史を動かす原動力であり、イデオロギーはそれほど大きな地位を占めているわけではありません。しかし、フランクの東方侵略では、ローマ教皇のアジテーションが大きな役割を果たしたと言われています。それは、なぜでしょうか。シャルルマーニュの王国は、シャルルマーニュの死後急速に衰えて分裂します。アッバース朝の蕩尽が終わって、世界がたちまち不景気に陥ったことがその背景にあげられます。教皇も守護者を失ってローマの有力家門の言いなりになってしまいます。この状況を立て直したのは、10世紀の中頃に現れたザクセン朝のオットー1世(大帝)でした(シャルルマーニュが討伐したザクセン族がフランク王国を継承したわけです)。

オットー1世は、帝国教会政策によって、フランク王国を再建しました。結婚できない、従って子どものいない司教を地方領主として活用することによって、有力豪族の世襲を防ごうとしたのです。皇帝はイエスの代理であり、ローマ教皇はペテロの代理にすぎないわけですから、皇帝は、司教はもとよりローマ教皇の首を自由に挿げ替えることができたのです。ところが、11世紀に入ると「戦う人、祈る人、耕す人」という新しい3身分思想が広まってきました。長子相続の思想も広まりを見せ(それまでは、嫡子間では分割相続が基本でした。メロヴィング朝、カロリング朝の歴史を見れば、そのことがよくわかります)、要するに、封建制の考え方が成熟してきたのです。戦う人と祈る人の分離は、教皇に有利に働きました。

こうして、教皇グレゴリウス7世による教会改革、有名な叙任権闘争(司教の任命権は皇帝ではなく教皇にあるという考え)が始まったのです。カノッサの屈辱(1077年)は、それを象徴するエピソードでした。グレゴリウス7世の愛弟子であった教皇ウルバヌス2世が、1095年、クレルモンで東方侵略へのアジテーション演説を行った背景には、こうした祈る人(教皇)の地位の向上があったのです。もちろん、教皇は、利益誘導も忘れませんでした。ローマ教会史上、初めて、贖宥状(わが国では、長い間、誤って免罪符と訳されてきました)という概念を持ち出したのも、この演説でした。これが、後の宗教改革の遠因になります。

また、教皇には、東西教会の大分裂(大シスマ。1054年)で失った豊かな東方への未練もありました。あわよくば、フランクの武力で東方を回復したいと夢想したのかも知れません。加えて、民衆の側にも、アジテーションを受け入れる素地がありました。人口が急増し若い人が満ち溢れれば、その社会には巨大なエネルギーが生まれます。パリのノートルダム寺院をはじめとして、天を衝くゴシック寺院のほとんどは、この時代に創建されたものです。この民衆のエネルギーが、教皇権を高め、対外的な膨張を促したのです。

フランクの侵略は権力の空白を衝いたものでしたが、これは、イスラム世界が政治的に統一されれば、彼我の国力の差が如実に出てきます。サラーフッディーン(サラディン)という英雄が現れ、シリア・エジプトのイスラム世界が統一された後、フランクの侵略が失敗に終わったことは、当然すぎるほど当然の結果だと言って良いでしょう。

(以上)
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