限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第59回目)『中国四千年の策略大全(その59 )』

2024-06-30 09:26:55 | 日記
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近代ヨーロッパはいうまでもなく、古代ローマにおける様々な戦いでは騎馬が大活躍した。騎士というのが貴族に継ぐ支配者クラスであり、馬に乗ることを名誉とした。中国でも、遠く春秋戦国時代から国の規模を示すに出陣可能な馬の数が使われた。例えば、『史記』巻69《蘇秦列伝》では蘇秦が燕の文侯に合従策を説いて、燕が秦を恐れる必要などない、なぜなら諸国と連合するなら秦と十分張り合えるといい、燕の国力を次のように表現する。

「地方二千余里、帯甲数十万、車六百乗、騎六千匹、粟支数年」(燕の領土は、1000Kmにもおよび、兵士は数十万人、戦車は六百乗、騎兵は六千匹、食糧は数年はもつ)

これらユーラシアの戦争における馬(騎兵)の重要性に比べると、日本国内の戦いでは馬が活躍する度合いは圧倒的に少ない。そもそも、武士は戦場まで馬に騎乗していくことはあっても、いざ戦いともなれば、下馬して自分の力だけで相手に向かっていくとされたものだから。 そういう日本式の考えでは、強力な遊牧民相手の戦争で、下記のような知恵は湧いてこないのではないだろうか。

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 馮夢龍『智嚢』【巻24 / 894 / 岳飛劉錡】(私訳・原文)

兀術(金の完顔宗弼、あるいは斡啜ともいう)は手強い騎兵を擁していた。全員、重い鎧をかぶり、馬3頭を綱でガッチリと連結した。これを「拐子馬」とよび、「長勝軍」と号した。戦いがヒートアップした時に、攻めかかってくるので官軍の兵士では全く歯が立たなかった。郾城の戦いでは「拐子馬」、1万5000騎がやってきた。岳飛は兵士たちに返り槍(フック)の付いた刀を与え、「決して上を見るな、馬の脚だけを見て斬れ」と教えた。敵の「拐子馬」は三頭連なっているので、一頭でも倒れれば、残りの2頭も動けなくなってしまった。官軍は奮戦し、大勝した。

兀術有勁兵、皆重鎧、貫以韋索、三人為聯、名「拐子馬」、又号「長勝軍」。毎於戦酣時、用以攻堅、官軍不能当。郾城之役、以万五千騎来、岳飛戒兵率以麻紮刀入陣、勿仰視、但斲馬足、拐子馬相連、一馬僕、二馬不能行、官軍奮撃、大敗之。
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この馬の脚を斬る作戦は、これ以外にもいくつか例がある。例えば、慕容紹宗と侯景の戦いの時に侯景が兵士に指示したのと同じ作戦だった。

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 馮夢龍『智嚢』【巻24 / 895 / 銭伝】(私訳・原文)

呉越王(銭鏐)が息子の銭伝瓘に呉を攻撃させた。呉の軍隊が応戦し、狼山で戦いとなった。呉の船は風に乗って進んだ。銭伝瓘は船を退避させて、呉の船を通り過ぎさせ、呉の船の後から追いかけた。呉は船の向きを変えて応戦した。銭伝瓘は風上から灰を撒いたので、呉の兵士たちは目を開けて射られなくなった。呉越の船は呉の船と接触した。銭伝瓘は自分たちの船には砂をばら撒き、敵の呉の船には豆をばら撒いた。戦って血が流れたので、豆を踏んで呉の兵士たちは皆倒れてしまった。そこで呉の船に火を放ったので、呉は大敗した。

呉越王遣其子伝撃呉。呉人拒之、戦於狼山。呉船乗風而進、伝引舟避之。既過、自後随之。〔辺批:反逆為順。〕呉回船与戦、伝使順風揚灰、呉人不能開目、及船舷相接、伝使散沙於己船、而散豆於呉船、豆為戦血所漬、呉人践之皆僵仆。因縦火焚呉船、呉兵大敗。
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灰で目つぶしをし、豆で足元をすくう、という二段構えの策略で勝った。



これ以外にも中国流の戦争の事例をあと2つばかり挙げよう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻24 / 901 / 鉄菱角火老鴉】(私訳・原文)

流賊犯江陰。県人以鉄菱角布城外淖土中、縦牲畜其間。賊争掠豕、悉陥。著菱角、不能起。擒数十人。後更不敢近城。

盗賊の集団が江陰城を襲った。村人たちは鉄菱を作って城の外の泥の中に撒いた。そこへ豚を放した。盗賊たちは豚を捕まえようとして泥の中に入ったが、足の裏に鉄菱が刺さって歩けなくなった。そのようにして、賊、数十人を捕えた。その後、敢えて城に近づく盗賊はいなくなった。
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 馮夢龍『智嚢』【巻24 / 901 / 鉄菱角火老鴉】(私訳・原文)流賊劉七等、舟泊狼山下。蘇人有応募献計用火攻、其名「火老鴉」、蔵薬及火於炮、水中発之。又為制形如鳥喙、持之入水、以喙鑽船、而機発之、以自運転、転透船可沈。試用之、已破一船、賊駭謂:「江南兵能水中破船、是神兵也。」乃捨舟登山、遂為守兵所蹙。勾践袁僑

劉七に率いられた流賊が狼山の麓に船を停泊させていた。その地方の人々は流賊を退治する方法を応募したところ、火攻めの案を提出した者がいた。それを「火老鴉」(火だるまのカラス)という。大砲に火薬を詰め、火を付けて水中で発射することができる。その大砲の先に鳥のくちばしの器具を取り付け水の中で大砲を発射するとくるくると回って船の底に穴をあけて船を沈めることができる。試にこの大砲を発射すると一艘の船がみごと沈没した。流賊たちは驚いて「江南の兵隊は水中からでも船を破壊できる。これは神技に違いない」と驚いて、船を棄てて山に逃げたが、とうとう官兵に捕まってしまった。
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『智嚢』にはこのように、中国の過去の戦争からいくつもの奇策が収められている。私は、これらの記事を読みつつ、常に日本との比較を考えてしまうが、とても日本人は戦争慣れした民俗だとは思えない。明治維新以降、日清・日露で勝利してから、急に軍事大国意識が国民全体に広まったが、根本的に日本はあらゆる面で、戦略的でなく、とりわけ勝敗がはっきりする軍事戦略の面では、とても世界と比較できるレベルではないと強く感じる。これは何も、中国や西欧・中東などの軍事先進国と比較しただけでなく、東南アジアなどとの比較においても然りだ、ということを数年前にベトナムの歴史書『大越史記全書』を読んで確信した。

続く。。。
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