限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第58回目)『中国四千年の策略大全(その58 )』

2024-06-16 09:16:27 | 日記
前回

前回、中国の戦闘のようすを紹介したが、引き続き中国の凄まじい激闘を紹介しよう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻24 / 881 / 張巡】(私訳・原文)

安禄山の家来の尹子奇が睢陽を包囲した。張巡は城の守備を固めた。賊軍は車輪の付いた大きな梯子(雲梯)を作って攻めて来た。まるで、虹のような大きさで、200人もの兵士がその上に座っていた。雲梯が城壁に近づき、まさに敵兵が突入しようとしていた。張巡は予め城壁に穴を3つ開けておいた。敵の雲梯が近づくと、一つの穴から、端に鉄のフックを付けた大木を突き出して、雲梯をひっかけて後退できなくした。もう一つの穴からも鉄のフックがついた大木を突き出し、雲梯を前進できなくした。そして、3つ目の穴から付き出した大木の端には鉄籠をつけ、火が盛んに燃え、雲梯は焼け落ちてしまった。敵はまたフックの付いた車を城壁に近づけて、城壁のの柵をひっかけようとした。張巡は大木の先に鉄の鎖を付けて、敵のフックをからめとって切断した。敵はまた大きな木製のロバを作り、中に兵士を忍びこませて城壁に近づいてきた。張巡は溶けた金属をその上に濯いで燃やしてしまった。敵はまた、城壁の近くに土嚢と薪を階段状に積み重ねて登ってこようとした。張巡は秘かにスパイを城外に送って、積み上げられた階段の薪の中に燃えやすい枝や草を混ぜさせた。敵はそういう細工がされていることを知らずにいたが、10日経って、風向きを見計らって、火を付けて燃やしてしまった。敵は張巡の知恵に感心してしまい、二度と攻めてこなくなった。

尹子奇囲睢陽、張巡応機守備。賊為雲梯、勢如半虹、置精卒二百於其上、推之臨城、欲令騰入。巡預於城潜鑿三穴、候梯将至、一穴中出大木、末置鉄鉤鉤之、使不得退;一穴中出一大木、柱之使不得進;一穴中出一木、末置鉄籠、盛火焚之。賊又以鉤車鉤城上柵閣、巡以大木置連鎖大環、撥其鉤而截之。賊又造木驢攻城、巡熔金汁灌之;賊又以土嚢積柴為磴道、欲登城、巡潜以鬆明、乾蒿投之。積十余日、使人順風持火焚之。賊服其智、不敢復攻。
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守る方も必死だが、攻める方も劣らす必死に攻める。ここに記述されてる情景から、攻める方にも相当の犠牲者が出ていたことが分かる。中国の歴史古典といわれる『春秋左氏伝』や司馬遷の『史記』では、戦闘場面はさらりと書かれているが、晋以降の五胡十六国以降の資治通鑑の記述ともなると、現場密着の迫真のレポートで戦闘の状態が手にとるようによくわかる。



宋の時代には、先ずは北方に金、ついでモンゴルが登場し、巨大な戦争道具を駆使して攻めてきた。

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 馮夢龍『智嚢』【巻24 / 881 / 王稟】(私訳・原文)

金粘罕(完顔宗翰)が太原を攻めて、諸城を尽く撃破したが、ただ、張孝純と王稟が守る城だけは攻略できなかった。攻城の道具としては、炮石、洞子、鵝車、偏橋、雲梯、火梯、などおよそ数千揃えていた。毎回、城を攻撃する時には、まず、克列炮を三十基並べ、先頭の大砲に合わせて一斉に放射した。飛んでくる炮石の中には、樽ほどの大きなものがあり、それが当たった建物で大破しないものはなかった。王稟は敵の攻撃を予測して、防御用の柵を建て、柵の後ろには砂袋を積んでおいたので、炮石で倒れた柵は直ちに修復することができた。金粘罕は城の周りの壕を埋めるための道具を作った。それは車輪がついていて、木で屋根状の枠組みを作り、その上を分厚い牛の皮で覆い、鉄で裏打ちし、城からの攻撃に備えた。50台連結して、その中を通って兵士が壕まで敵の攻撃を受けることなく、土や柴を運べるようにした。壕を埋めるには、先ず大きな板を敷き、その上に萱や葦を敷きつめ、その上に土をかぶせて、何層も重ねた。城の守備をしていた王稟は敵の様子をみて、城壁に穴を開けて、秘かに敵の敷き詰めた萱や葦の中にコンロを埋め込んだ。敵が堀を薪で埋めつくすのをまって、コンロに火をつけさせ、鞴を使って風を送ると、火は勢いよく燃えあがり、天をこがすほどであった。。敵は壕を埋めるのに失敗した。敵はまた、車輪がついたガチョウの形をした大きな構造物を作った。ガチョウの上部を分厚い皮と鉄で覆って、数百人で城壁まで推して、城壁に登ろうとした。王稟は城の中に、同じくガチョウの形をした楼を作った。敵のガチョウ車が近づいてくると、その嘴をフックでひっかけて倒した。敵はまた、城中の楼の高さに匹敵する大きな梯子を作って攻めようとしたが、王稟はその都度、臨機応変に対応したので、敵はとうとう城を攻略することができなかった。

金粘罕攻太原、悉破諸県、独城中以張孝純、王稟固守不下。其攻城之具、曰炮石、洞子、鵝車、偏橋、雲梯、火梯、凡有数千。毎攻城、先備克列炮三十座、凡挙一炮、聴鼓声斉発、炮石入城者大於鬥、楼櫓中炮、無不壊者。頼総管王稟先設虚柵、下又置糠布袋在楼櫓上、雖為所壊、即時復成。粘罕填壕之法、先用洞子、下置車転輪、上安居木、状如屋形、以生牛皮縵上、又以鉄葉裹之;人在其内、推而行之、節次相続、凡五十余輛、人運土木柴薪於中。粘罕填壕、先用大板薪、次以薦覆、然後置土在上、增覆如初。王稟毎見填、即先穿壁為竅、致火鞴在内、俟其薪多、即便放灯於水中、其灯下水尋木、能燃湿薪、火既漸盛、令人鼓鞴、其焔亙天、至令不能填壕。其鵝車亦如鵝形、下亦用車輪、冠之以皮鉄、使数十百人推行、欲上城楼。王稟於城中亦設跳楼、亦如鵝形、使人在内迎敵、鵝車至、令人在下以搭鉤及縄拽之、其車前倒、又不能進。其雲梯、火梯亦用車輪、其高一如城楼、王稟随機応変、終不能攻。
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これらを見ると、日本国内の戦争道具のお粗末さがよくわかる。ユーラシア大陸の戦争の常識から全くかけ離れた、幼稚で粗雑な戦いぶりがまざまざと分かる。これは悲しむべきことでなく、むしろ喜ぶべきことだ。つくづく、大陸と切り離されていた日本は本当に平和な国であったことか、と強く感じる。

続く。。。
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