限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第15回目)『賈復、功績を誇らず』

2009-11-02 12:39:28 | 日記
光武帝を支えていた功臣の一人に賈復がいる。彼は王莽の末年の混 乱期に、県の役人になって塩の運搬を命ぜられた。運搬途中に盗賊に襲われ、彼の同輩の役人は皆、塩を放り投げて逃げたが、一人賈復だけは塩を守り抜いて帰ってきた、と後漢書は伝える。(後漢書 、巻17)

『王莽末,爲縣掾,迎鹽河東,會遇盜賊。等比十餘人皆放散其鹽, 復獨完以還縣。縣中稱其信』

(王莽の末、県掾となり、塩を河東に迎える。盗賊に会遇す。等比 、十余人は皆その塩を放散するも、また独りまっとうし、もって県にかえる。県中、その信を称す。)



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資治通鑑(中華書局):巻44・漢紀36(P.1423)

賈復は光武帝に従軍したが、いまだかつて負けたことがなかった。 それだけでなく、敵に囲まれてもいつもそれを突破した。体中に大きな傷跡が12ヶ所もあった。。。(大功がありながら)論功の時には常に何も言わなかった。光武帝は、『賈復の功は、私がよく 知っている』と言っていた。

復從征伐,未嘗喪敗,數與諸將潰圍解急,身被十二創。。。諸將毎論功伐,復未嘗有言,帝輒曰:「賈君之功 ,我自知之。」

(復た、征伐に従うも、いまだかつて喪敗せず。たびたび諸将と( 敵の)囲をやぶり急を解く。身に十二傷をこうむる。。。諸将と功伐を論ずるごとに、復たいまだ嘗て、言あらず。帝すなわち曰く:「賈君の功 ,我、自らこれを知れり。」)
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賈復のこういった態度は、『大樹將軍、馮異』とそっくりだと分かるであろう。それもそのはず、この二人とも後漢書の同じ巻(巻17)に載せられているのだ。

これがまさしく、この書、資治通鑑を書いた司馬光と范鎮(字:景仁)の間柄を表した言葉、『生同志、死當同傳』(生きては志を同じくし、死してはまさに伝を同じくすべし)という意味である。
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