島津家の末裔・天皇明仁は最悪の偽善者――天皇明仁の誕生日会見を弾劾する‼(その1 つづき)
▲薩摩側史料『琉球渡海日日記』にもとづく薩摩軍侵略図
▲2019年1月2日、新年に出てきた天皇家の面々
▲『琉球人行列絵巻(部分)』(沖縄県公文書館所蔵)
●島津の琉球侵略から410年目を迎えて
2019年は、薩摩藩が琉球侵略を強行した1609年から410年目にあたります。薩摩島津家による琉球支配は、その後、270年にわたりました。それを引き継ぎ、さらに質的・量的に強化する形で、近現代史において日本国家は一貫して、琉球-沖縄を暴力的に侵略し、差別し、同化を強制し、切り捨てる植民地主義を続けてきました。
その中で、天皇明仁と美智子は、皇太子時代から今日まで、あたかも沖縄の理解者であるかのように振る舞っています。しかし、彼らが「沖縄に心を寄せる」と語れば語るほど、実は琉球-沖縄の人々の怒りと憎しみがおのれに向かうのを恐れていることを示しているといっていいでしょう。そのことも含め、明仁は琉球-沖縄問題に非常に強いこだわりをもたざるをえないのです。
この問題を明確にさせておきたいと思います。
明仁は、よく知られているように、琉球を武力で侵略し、排他的に支配せんとした薩摩島津家の直系の末裔でもあります。
明仁の母である良子(ながこ。死後に香淳皇后と追号)は、父が久邇宮邦彦(くにのみや・くによし)、母が島津俔子(ちかこ)であり、その長女として生まれました。島津俔子は、第12代薩摩藩主で、廃藩置県によって公爵となった島津忠義の七女です。つまり明仁の母方の曾祖父は、最後の薩摩藩主・島津忠義なのです。ちなみに、忠義は島津家第29代当主です。
階級社会では、家族・家系を重視する階級社会の構成が形成・維持され、支配と被支配の階級関係が固定化され、そのなかで支配者階級においては血統主義が強調されます。日本の天皇制は、実際の歴史的な実態がどうだったかはあやしいのですが、天皇家の男系世襲をもって維持すべきものとしています。世界史的にみても、天皇と皇族ほど家系、血統主義を第一義にする家族はないわけです。
その天皇家の長たる明仁は、おのれの家系と出自が母方の薩摩島津家の直系であることについて、良子からもいい聞かされたであろうし、十分に認識しています。おのれの祖先たちが琉球にたいして何を、どのようにやってきたのかという歴史を、支配者たる薩摩藩の立場と視点からでしかないにしても、十分すぎるほど十分に知っているでしょう。
●薩摩島津家は武力をもって琉球王国を支配した
では、薩摩藩とその藩主・島津家は、何をやってきたのでしょうか。
その前史には豊臣秀吉が明国征服の野望をもって遂行した2度にわたる朝鮮侵略戦争がありました。秀吉は、約30万人(文禄の役、1592~1593年)および約14万人(慶長の役、1597~1598年)を総動員(名護屋城陣立てや兵站を含む)し、朝鮮半島に侵略軍を投入し、朝鮮の国土を蹂躙し、民衆の虐殺を繰り返しました。それは16世紀当時の世界における最大規模の戦争であり、東アジアの国際秩序に大きな衝撃を与えるものでした。そしてそのことが豊臣政権の疲弊を結果し、その滅亡を導いたことは周知のところです。
秀吉は、朝鮮侵略の過程で、薩摩藩を通して独立王国であり、中国に朝貢していた琉球にさまざまな圧力を加え、朝鮮出兵に当たっては参戦を求めました。だが、琉球はそれを呑むことはできず、妥協的対応を余儀なくさせられます。島津氏は、琉球のその複雑な位置をつかみ、以降、あたかも恩を着せたかのような対応をとり、琉球を属国視します。
▲島津によって斬首刑にされた謝名親方
この東アジア情勢の大きな変動のなかで、秀吉の後を襲って政権を奪取した徳川家康は、日明の国交回復のため、その仲介として琉球を利用、篭絡せんと策動するも、拒否され、頓挫しました。他方、機会をうかがっていた薩摩藩主・島津家久は、東アジア情勢の流動化をにらみ、領地拡大、薩摩藩内権力抗争の突破、対明交易の利益などのために、琉球征服を企図し、琉球出兵を家康に願い出て、その同意を得ました。
1609年3月4日、薩摩軍は3000人の軍勢、100隻余の軍船をもって薩摩を出て、まず首里王府の支配下にあった奄美大島、徳之島、沖永良部島に攻め入り、25日には沖縄本島北部に上陸、27日に今帰仁城を占領、4月1日に首里城を攻め落としました。海賊撃退と港湾防備の任しかもたない小規模の琉球軍を蹂躙したのでした。その過程で、徳之島では激しい戦闘となりました。さらに、謝名鄭迵(じゃな・ていどう。号は利山。謝名親方[じゃなうぇーかた]と呼ばれる。琉球王府の最高ポストの法司兼国司、いわゆる三司官の一人)は、浦添親方朝師とともに兵を率いて久米村あるいは那覇港で執拗に抗戦するも敗北し、首里への撤退を余儀なくされました。そして薩摩の侵略軍は、琉球国王・尚寧を始めとして重臣ら100人を拉致し、捕虜として強制連行しました。
家康は、その軍事行動の恩賞として琉球を島津に与え、貢租取り立てを認めました。尚寧は2年間も拉致され、薩摩の統治政策「掟十五カ条」を問答無用で呑まされました。
これ以降、琉球は徳川幕藩体制に組み込まれ、その証として、幕府への謝恩使、慶賀使の派遣を求められました。家康は、琉球の薩摩支配を積極的に許可しましたが、琉球を日本の版図に組み入れることはせず、明の朝貢国家としての位置はそのまま、つまり外国として扱いました。それは、明との貿易など国家間関係の再形成のための窓口たる役割を琉球に担わせる意図ゆえでした。琉球は、以降、中国と日本に両属する二重朝貢国家という国際的位置に置かれることとなったのでした。
ところが、島津は、いち早く奄美諸島(大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島の五島)を琉球から割譲し、直轄領にしてしまいました。さらに島津は、琉球国王を始め摂政・三司官の一人ひとりに薩摩藩主・家久に対して忠誠を誓う起請文(きしょうもん)を書かせ、薩摩支配に隷属するという宣誓を行わせました。そこには「薩州御幕下に属し、毛頭逆心の無道に相従うべからず」とあります。以後、薩摩支配の全期間にわたり、その都度、それぞれに起請文を強制しました。
その際、前述の謝名鄭迵はそれを認めず、連署を拒否し、琉球王国の尊厳と名誉を高唱し、ついに薩摩によって斬首刑に処せられました(1611年9月11日)。彼は、中国から琉球に派遣された鄭義才の九世にあたり、代々、久米村の総役という最高職に就いてきた一門の生まれで、首里王府の三司官として一貫して日本への隷従を拒否する外交政策をとっていたのでした。
●“島津家に屈服し奴隷の道を選ぶか、それとも死か”
以上の簡単な記述で明らかなように、薩摩藩島津家による琉球への軍事行動は、琉球王国へのまぎれもない海外侵略戦争でした。徹底抗戦がされなかったという面が強調されがちですが、実際には多くの血が流され、琉球の尊厳を徹底して蹂躙する暴挙とそれへの抵抗、煩悶、苦悩の織りなす歴史が刻まれたのでした。以後、270年にわたる島津支配が続きました。それは、世界史的にも近世における植民地主義の一つの典型であったといえましょう。
島津支配の本質は、謝名鄭迵が一身をもって告発しているように、“島津家に屈服し奴隷の道を選ぶか、それとも死か”という有無をいわせぬ暴力支配であったのです。
その島津支配を前提として、戊辰戦争の流血の中から立ち上げられた明治新政権が琉球を暴力的に版図に組み込むという一連の琉球侵略=併合(いわゆる「琉球処分」)が強行され、琉球王国は消滅させられたのでした。この点で、明治天皇制国家による琉球侵略=併合は、島津支配の単純な延長線上ではなく、明らかに質的な飛躍があります。
しかし、島津支配270年の歴史がその前提にあり、かの1609年の島津の琉球侵略戦争こそその歴史的原点だったのです。すなわち、明治の琉球侵略=併合、徹底した皇国臣民化の強要、第二次世界大戦での沖縄捨て石戦略としての沖縄戦、天皇裕仁の天皇メッセージによる沖縄売り渡し、長きにわたる軍事的分離支配と米軍基地化、復帰後も継続・強化される米軍基地、そして辺野古新基地建設や自衛隊基地建設という今日にまでいたる琉球-沖縄差別・切り捨ての歴史的現実の土台には、270年にわたる島津支配があったのです。
ちなみに、NHKの大河ドラマ『琉球の風』(原作・陳舜臣。1993年放映)で謝名鄭迵を江守徹が演じたことをご記憶の方も少なくないでしょう。
●島津家の末裔・明仁は加害責任を謝罪する以外ない
さて、明仁の自覚はどうであるのでしょうか。
「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました。」(2003年12月18日、誕生日に際しての記者会見)
じつにおためごかしの文言ではありませんか。明仁がいかに最悪の偽善者であるかを、この文言はよく示しています。
第1に、明仁は、薩摩島津家による1609年の琉球侵略と270年にわたる琉球支配の歴史、それ以後も明治・大正・昭和・平成にわたって鹿児島県支配層が旧支配者として振舞ってきている実態などについて、十分すぎるくらい十分に知っているのです。そうであるなら、「心が痛む」という言葉しか出てこないのか、と問い糺されなければなりません。
加害者・島津と被害者・琉球との歴史的関係は、明確に清算されなければなりません。島津家の末裔として「心が痛む」ならば、公的にはっきりと加害責任を謝罪するということです。言葉だけの謝罪ではなく、島津の侵略責任、虐殺の責任、「掟十五カ条」「起請文」の強制、署名拒否への処刑を始めとする迫害の数々を一つひとつ明確に挙げること、その侵略と加害の犯罪を謝罪することです。
明仁が島津家の末裔として生まれたことは、もちろん明仁が望んだことでも、選んだことでもありません。しかし明仁は天皇家の人間であり、島津家の人間なのです。明仁が「島津の血を受けている者」というなら、島津が犯した侵略戦争、その中での殺人罪を始めとする深刻な加害責任を謝罪するしかない立場なのです。島津の所業は、「心が痛む」などという言葉でとうていごまかせないものなのです。にもかかわらず、明仁は、あくまでも島津の歴史的犯罪を覆い隠そうとしているのです。
●ただただ自己保身に腐心する明仁
第2に、明仁は果たして「沖縄への理解」「沖縄の人々の気持ちを理解」しようとしているのでしょうか。まったく否です。明仁は美智子をともなって、皇太子時代を含めて11回、沖縄を訪問しています。しかし、それは沖縄を理解しようとする態度ではありませんでした。なぜなら、沖縄において明仁および美智子は、あくまでも天皇の権威で自らを飾り立て、超階級的な存在として振舞ったからです。沖縄の人々にとって仰ぎ見る位置に立ち続けたからです。それは、沖縄を理解することとは正反対のあり方ではありませんか。
ここまで強調してきましたが、民族の尊厳、人間の尊厳を踏みにじることほど、悪辣、非道、そして暴力的な行為はないといわなければなりません。島津はそれを琉球に対して強行したのです。島津はまさに琉球-沖縄の不倶戴天の敵です。その島津の系譜を引く明仁は、その加害責任を自ら告発し、謝罪することによってしか、沖縄と沖縄の人々の気持ちを理解することができません。加害者が権威主義的な特別の権威として高みに立ったままで、被害者を理解し、被害者に寄り添うことなど、できるわけがありません。
明仁と美智子が2018年3月に沖縄を訪問した際、翁長雄志知事(当時)が「沖縄の伝統文化や米軍基地の現状、経済動向などを説明した」ところ、二人からは、「観光」や「農業」についての質問は出たが、「米軍基地の現状では、両陛下から質問はなかった」(同27日の翁長知事の記者会見)というのです。あまりにも正直な対応といえましょう。それは政治的な発言を避けたというものではなく、いかに沖縄を理解しようとしていないかを雄弁に物語っているものです。
明仁がいう「沖縄を理解する」ということの意味は、沖縄の人々の天皇への怒りが炸裂するのをいかに防ぎ、いかに慰撫し、そのためにどのような甘言とペテンを弄すればいいのかを必死に探ることなのです。それは徹頭徹尾、自己保身に貫かれたものでしかありません。
父・裕仁がかの「天皇メッセージ」で自己保身に汲々とする姿を如実に自己暴露したように、明仁もまた、父にならって天皇個人と天皇家の自己保身のためにのみ、いろいろと言葉を操っているといえましょう。
明仁と美智子は、米軍基地とそれを沖縄に強制する日本とアメリカの歴代政権に対する沖縄人民の怒りと悲しみの深さ、大きさに怯え、それに向き合うことができません。このことが十分に確認されたと思います。
●謝名鄭迵の精神と行動は今、生きている
天皇と天皇家にとって、琉球-沖縄の労働者人民は“服ろわぬ民”なのです。今年、薩摩島津家による琉球侵略戦争から410年を迎え、琉球王国の人々がいかに無念の思いを抱き、いかに憤激し、いかに苦悩したのかに思いを馳せたいと思います。その中で、かの謝名鄭迵が死をも恐れずに指し示した琉球-沖縄の尊厳をしっかりと記憶したいと思います。
今、辺野古新基地建設阻止で連日座り込み、海に繰り出し、次々と抗議の行動を起こす沖縄の人々の中に、謝名親方の精神と行動が蘇っているようです。山城博治沖縄平和運動センター議長や故翁長雄志知事の姿は、沖縄の尊厳を堂々と示しています。
われわれも沖縄の尊厳をかけたたたかいにがっちりと連帯し、その苦闘に一歩でも二歩でも肉薄し、そこから天皇と天皇制を真正面から撃つたたかいに進み、天皇代替わりとその儀式を打ち破っていきましょう。
(つづく)
2019年1月3日
水谷保孝(みずたに・やすたか)
▲薩摩側史料『琉球渡海日日記』にもとづく薩摩軍侵略図
▲2019年1月2日、新年に出てきた天皇家の面々
▲『琉球人行列絵巻(部分)』(沖縄県公文書館所蔵)
●島津の琉球侵略から410年目を迎えて
2019年は、薩摩藩が琉球侵略を強行した1609年から410年目にあたります。薩摩島津家による琉球支配は、その後、270年にわたりました。それを引き継ぎ、さらに質的・量的に強化する形で、近現代史において日本国家は一貫して、琉球-沖縄を暴力的に侵略し、差別し、同化を強制し、切り捨てる植民地主義を続けてきました。
その中で、天皇明仁と美智子は、皇太子時代から今日まで、あたかも沖縄の理解者であるかのように振る舞っています。しかし、彼らが「沖縄に心を寄せる」と語れば語るほど、実は琉球-沖縄の人々の怒りと憎しみがおのれに向かうのを恐れていることを示しているといっていいでしょう。そのことも含め、明仁は琉球-沖縄問題に非常に強いこだわりをもたざるをえないのです。
この問題を明確にさせておきたいと思います。
明仁は、よく知られているように、琉球を武力で侵略し、排他的に支配せんとした薩摩島津家の直系の末裔でもあります。
明仁の母である良子(ながこ。死後に香淳皇后と追号)は、父が久邇宮邦彦(くにのみや・くによし)、母が島津俔子(ちかこ)であり、その長女として生まれました。島津俔子は、第12代薩摩藩主で、廃藩置県によって公爵となった島津忠義の七女です。つまり明仁の母方の曾祖父は、最後の薩摩藩主・島津忠義なのです。ちなみに、忠義は島津家第29代当主です。
階級社会では、家族・家系を重視する階級社会の構成が形成・維持され、支配と被支配の階級関係が固定化され、そのなかで支配者階級においては血統主義が強調されます。日本の天皇制は、実際の歴史的な実態がどうだったかはあやしいのですが、天皇家の男系世襲をもって維持すべきものとしています。世界史的にみても、天皇と皇族ほど家系、血統主義を第一義にする家族はないわけです。
その天皇家の長たる明仁は、おのれの家系と出自が母方の薩摩島津家の直系であることについて、良子からもいい聞かされたであろうし、十分に認識しています。おのれの祖先たちが琉球にたいして何を、どのようにやってきたのかという歴史を、支配者たる薩摩藩の立場と視点からでしかないにしても、十分すぎるほど十分に知っているでしょう。
●薩摩島津家は武力をもって琉球王国を支配した
では、薩摩藩とその藩主・島津家は、何をやってきたのでしょうか。
その前史には豊臣秀吉が明国征服の野望をもって遂行した2度にわたる朝鮮侵略戦争がありました。秀吉は、約30万人(文禄の役、1592~1593年)および約14万人(慶長の役、1597~1598年)を総動員(名護屋城陣立てや兵站を含む)し、朝鮮半島に侵略軍を投入し、朝鮮の国土を蹂躙し、民衆の虐殺を繰り返しました。それは16世紀当時の世界における最大規模の戦争であり、東アジアの国際秩序に大きな衝撃を与えるものでした。そしてそのことが豊臣政権の疲弊を結果し、その滅亡を導いたことは周知のところです。
秀吉は、朝鮮侵略の過程で、薩摩藩を通して独立王国であり、中国に朝貢していた琉球にさまざまな圧力を加え、朝鮮出兵に当たっては参戦を求めました。だが、琉球はそれを呑むことはできず、妥協的対応を余儀なくさせられます。島津氏は、琉球のその複雑な位置をつかみ、以降、あたかも恩を着せたかのような対応をとり、琉球を属国視します。
▲島津によって斬首刑にされた謝名親方
この東アジア情勢の大きな変動のなかで、秀吉の後を襲って政権を奪取した徳川家康は、日明の国交回復のため、その仲介として琉球を利用、篭絡せんと策動するも、拒否され、頓挫しました。他方、機会をうかがっていた薩摩藩主・島津家久は、東アジア情勢の流動化をにらみ、領地拡大、薩摩藩内権力抗争の突破、対明交易の利益などのために、琉球征服を企図し、琉球出兵を家康に願い出て、その同意を得ました。
1609年3月4日、薩摩軍は3000人の軍勢、100隻余の軍船をもって薩摩を出て、まず首里王府の支配下にあった奄美大島、徳之島、沖永良部島に攻め入り、25日には沖縄本島北部に上陸、27日に今帰仁城を占領、4月1日に首里城を攻め落としました。海賊撃退と港湾防備の任しかもたない小規模の琉球軍を蹂躙したのでした。その過程で、徳之島では激しい戦闘となりました。さらに、謝名鄭迵(じゃな・ていどう。号は利山。謝名親方[じゃなうぇーかた]と呼ばれる。琉球王府の最高ポストの法司兼国司、いわゆる三司官の一人)は、浦添親方朝師とともに兵を率いて久米村あるいは那覇港で執拗に抗戦するも敗北し、首里への撤退を余儀なくされました。そして薩摩の侵略軍は、琉球国王・尚寧を始めとして重臣ら100人を拉致し、捕虜として強制連行しました。
家康は、その軍事行動の恩賞として琉球を島津に与え、貢租取り立てを認めました。尚寧は2年間も拉致され、薩摩の統治政策「掟十五カ条」を問答無用で呑まされました。
これ以降、琉球は徳川幕藩体制に組み込まれ、その証として、幕府への謝恩使、慶賀使の派遣を求められました。家康は、琉球の薩摩支配を積極的に許可しましたが、琉球を日本の版図に組み入れることはせず、明の朝貢国家としての位置はそのまま、つまり外国として扱いました。それは、明との貿易など国家間関係の再形成のための窓口たる役割を琉球に担わせる意図ゆえでした。琉球は、以降、中国と日本に両属する二重朝貢国家という国際的位置に置かれることとなったのでした。
ところが、島津は、いち早く奄美諸島(大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島の五島)を琉球から割譲し、直轄領にしてしまいました。さらに島津は、琉球国王を始め摂政・三司官の一人ひとりに薩摩藩主・家久に対して忠誠を誓う起請文(きしょうもん)を書かせ、薩摩支配に隷属するという宣誓を行わせました。そこには「薩州御幕下に属し、毛頭逆心の無道に相従うべからず」とあります。以後、薩摩支配の全期間にわたり、その都度、それぞれに起請文を強制しました。
その際、前述の謝名鄭迵はそれを認めず、連署を拒否し、琉球王国の尊厳と名誉を高唱し、ついに薩摩によって斬首刑に処せられました(1611年9月11日)。彼は、中国から琉球に派遣された鄭義才の九世にあたり、代々、久米村の総役という最高職に就いてきた一門の生まれで、首里王府の三司官として一貫して日本への隷従を拒否する外交政策をとっていたのでした。
●“島津家に屈服し奴隷の道を選ぶか、それとも死か”
以上の簡単な記述で明らかなように、薩摩藩島津家による琉球への軍事行動は、琉球王国へのまぎれもない海外侵略戦争でした。徹底抗戦がされなかったという面が強調されがちですが、実際には多くの血が流され、琉球の尊厳を徹底して蹂躙する暴挙とそれへの抵抗、煩悶、苦悩の織りなす歴史が刻まれたのでした。以後、270年にわたる島津支配が続きました。それは、世界史的にも近世における植民地主義の一つの典型であったといえましょう。
島津支配の本質は、謝名鄭迵が一身をもって告発しているように、“島津家に屈服し奴隷の道を選ぶか、それとも死か”という有無をいわせぬ暴力支配であったのです。
その島津支配を前提として、戊辰戦争の流血の中から立ち上げられた明治新政権が琉球を暴力的に版図に組み込むという一連の琉球侵略=併合(いわゆる「琉球処分」)が強行され、琉球王国は消滅させられたのでした。この点で、明治天皇制国家による琉球侵略=併合は、島津支配の単純な延長線上ではなく、明らかに質的な飛躍があります。
しかし、島津支配270年の歴史がその前提にあり、かの1609年の島津の琉球侵略戦争こそその歴史的原点だったのです。すなわち、明治の琉球侵略=併合、徹底した皇国臣民化の強要、第二次世界大戦での沖縄捨て石戦略としての沖縄戦、天皇裕仁の天皇メッセージによる沖縄売り渡し、長きにわたる軍事的分離支配と米軍基地化、復帰後も継続・強化される米軍基地、そして辺野古新基地建設や自衛隊基地建設という今日にまでいたる琉球-沖縄差別・切り捨ての歴史的現実の土台には、270年にわたる島津支配があったのです。
ちなみに、NHKの大河ドラマ『琉球の風』(原作・陳舜臣。1993年放映)で謝名鄭迵を江守徹が演じたことをご記憶の方も少なくないでしょう。
●島津家の末裔・明仁は加害責任を謝罪する以外ない
さて、明仁の自覚はどうであるのでしょうか。
「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました。」(2003年12月18日、誕生日に際しての記者会見)
じつにおためごかしの文言ではありませんか。明仁がいかに最悪の偽善者であるかを、この文言はよく示しています。
第1に、明仁は、薩摩島津家による1609年の琉球侵略と270年にわたる琉球支配の歴史、それ以後も明治・大正・昭和・平成にわたって鹿児島県支配層が旧支配者として振舞ってきている実態などについて、十分すぎるくらい十分に知っているのです。そうであるなら、「心が痛む」という言葉しか出てこないのか、と問い糺されなければなりません。
加害者・島津と被害者・琉球との歴史的関係は、明確に清算されなければなりません。島津家の末裔として「心が痛む」ならば、公的にはっきりと加害責任を謝罪するということです。言葉だけの謝罪ではなく、島津の侵略責任、虐殺の責任、「掟十五カ条」「起請文」の強制、署名拒否への処刑を始めとする迫害の数々を一つひとつ明確に挙げること、その侵略と加害の犯罪を謝罪することです。
明仁が島津家の末裔として生まれたことは、もちろん明仁が望んだことでも、選んだことでもありません。しかし明仁は天皇家の人間であり、島津家の人間なのです。明仁が「島津の血を受けている者」というなら、島津が犯した侵略戦争、その中での殺人罪を始めとする深刻な加害責任を謝罪するしかない立場なのです。島津の所業は、「心が痛む」などという言葉でとうていごまかせないものなのです。にもかかわらず、明仁は、あくまでも島津の歴史的犯罪を覆い隠そうとしているのです。
●ただただ自己保身に腐心する明仁
第2に、明仁は果たして「沖縄への理解」「沖縄の人々の気持ちを理解」しようとしているのでしょうか。まったく否です。明仁は美智子をともなって、皇太子時代を含めて11回、沖縄を訪問しています。しかし、それは沖縄を理解しようとする態度ではありませんでした。なぜなら、沖縄において明仁および美智子は、あくまでも天皇の権威で自らを飾り立て、超階級的な存在として振舞ったからです。沖縄の人々にとって仰ぎ見る位置に立ち続けたからです。それは、沖縄を理解することとは正反対のあり方ではありませんか。
ここまで強調してきましたが、民族の尊厳、人間の尊厳を踏みにじることほど、悪辣、非道、そして暴力的な行為はないといわなければなりません。島津はそれを琉球に対して強行したのです。島津はまさに琉球-沖縄の不倶戴天の敵です。その島津の系譜を引く明仁は、その加害責任を自ら告発し、謝罪することによってしか、沖縄と沖縄の人々の気持ちを理解することができません。加害者が権威主義的な特別の権威として高みに立ったままで、被害者を理解し、被害者に寄り添うことなど、できるわけがありません。
明仁と美智子が2018年3月に沖縄を訪問した際、翁長雄志知事(当時)が「沖縄の伝統文化や米軍基地の現状、経済動向などを説明した」ところ、二人からは、「観光」や「農業」についての質問は出たが、「米軍基地の現状では、両陛下から質問はなかった」(同27日の翁長知事の記者会見)というのです。あまりにも正直な対応といえましょう。それは政治的な発言を避けたというものではなく、いかに沖縄を理解しようとしていないかを雄弁に物語っているものです。
明仁がいう「沖縄を理解する」ということの意味は、沖縄の人々の天皇への怒りが炸裂するのをいかに防ぎ、いかに慰撫し、そのためにどのような甘言とペテンを弄すればいいのかを必死に探ることなのです。それは徹頭徹尾、自己保身に貫かれたものでしかありません。
父・裕仁がかの「天皇メッセージ」で自己保身に汲々とする姿を如実に自己暴露したように、明仁もまた、父にならって天皇個人と天皇家の自己保身のためにのみ、いろいろと言葉を操っているといえましょう。
明仁と美智子は、米軍基地とそれを沖縄に強制する日本とアメリカの歴代政権に対する沖縄人民の怒りと悲しみの深さ、大きさに怯え、それに向き合うことができません。このことが十分に確認されたと思います。
●謝名鄭迵の精神と行動は今、生きている
天皇と天皇家にとって、琉球-沖縄の労働者人民は“服ろわぬ民”なのです。今年、薩摩島津家による琉球侵略戦争から410年を迎え、琉球王国の人々がいかに無念の思いを抱き、いかに憤激し、いかに苦悩したのかに思いを馳せたいと思います。その中で、かの謝名鄭迵が死をも恐れずに指し示した琉球-沖縄の尊厳をしっかりと記憶したいと思います。
今、辺野古新基地建設阻止で連日座り込み、海に繰り出し、次々と抗議の行動を起こす沖縄の人々の中に、謝名親方の精神と行動が蘇っているようです。山城博治沖縄平和運動センター議長や故翁長雄志知事の姿は、沖縄の尊厳を堂々と示しています。
われわれも沖縄の尊厳をかけたたたかいにがっちりと連帯し、その苦闘に一歩でも二歩でも肉薄し、そこから天皇と天皇制を真正面から撃つたたかいに進み、天皇代替わりとその儀式を打ち破っていきましょう。
(つづく)
2019年1月3日
水谷保孝(みずたに・やすたか)
しかし、四島や島に住む民、沖縄、奄美や壱岐、対馬や隠岐及び小笠原諸島や千島列島や樺太等、アイヌ人などの間で、内乱・内戦が全く無かったとは言えないのではないでしょうか?
どちらに正義が在るかというより、海で、金銀財宝を積んだ船を見つけた。我らには金がない。ならば、どうするか?
海賊やパイレーツでもやって、相手を皆殺しにすれば、我々が助かるならば、…
と言うことで御座います。
力に差が有る時に、強い方が弱い方に攻めるか、今では、国際世論の眼が有るので、弱い方から攻めなければどうしようも無い位に、経済や貿易的に追い詰めて、仕掛けさせます。
どちらにしても、第三者に依る検証が為されないならば、泣き寝入りに成る傾向でしたね!?死人に口無しと…でも、魂の存在や超能力により、過去の隠蔽悪事も露顕されております。
死人に口無しではなくなってまいりましたね!?
薩摩が琉球を征服・属国化してメリットがあるかどうかがポイントです。メリットが極めて大きいならば、人情を考慮致しますと、また、薩摩だって生きるか死ぬかですと、誰にもばれず、誰にも叱られないのであれば、ヤラないということは、ほとんど、有り得ないのでは…と考えます。
人の身分は、神や仏が決めたことでは御座いませんね!?人が決めるしか無いですね!?ですので、神のもとでは、人は皆平等とは言えますね!?
だから、革命的な意識や常識及びモラルが、何かの理由で修正を受けないならば、中々変わりにくいでしょうね!?大ショックが…
東日本大震災に伴い、大津波に拠って福島原発が炉心溶融迄の深刻な大災害に…
取り返しはつきませんね!?
天皇が認識が有ったとしましても、犯罪行為という認識は、ほとんど無かったと、また、そうでないと、
日本全領土が統治範囲。これが帝王学の教える所なのでは!?
これらが御座います。
なかなか、無人島で好きな彼女と自給自足とはいきませんね!?社会の制約はかなり巨大かも…ですね!?
つまり、権威や権力よりも、愛と思考力とは、直ぐには…ですね!?
皆の意識を変えなければ…
先ずは真実を知ることから、再出発すれば、或いは、闇から光へ世界が変わる??
ヨーロッパのことわざ。知ることは持つよりも良い。
正しい知識は、宝石や金銀財宝よりも遥かに良い。
これは、欧州エリートでも、いや、そうならば常識でしょうね!?