ねこばか日記

白猫親子と猫バカ飼い主の日常を4コマ漫画風で始めたブログです。最近は信州おすすめスポットが中心に☆

国営アルプスあづみの公園 あづみの学校 展示イベント

2021年03月30日 | 信州おすすめスポット

国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)の続きです♪

広い園内を散策した後、テーマ展示館でもある「あづみの学校」をのぞいてみました。

玄関前では木彫りの雷鳥とカモシカが迎えてくれます。

中に入ると、ドーンと目に入るのは安曇野のジオラマ半水面水槽

この水槽の向うには天気が良ければ常念岳が見えます!(^^)!

水槽にいるのはニジマスや信州サーモン等。

白いのはアルビノのニジマス。

信州りんごをはじめとした色んなりんごが名前付きで置いてありました。

そして、ここからが学校の雰囲気♪

長い廊下と体験教室が並んでいます。

床には安曇野の民話、常念坊や泉小太郎(他にも八面大王や色々)の姿が刻まれています。

ショーケースには現在、“春の交通安全運動”にちなんでパトカー等のミニカーがぎっしり!

体験教室は、公園の木の実や枝、葉っぱ等を使ったクラフト作品やステンドグラス等があります。

私も何回かやったことありますが、確か3~400円くらいで参加できるので時間があればやってみるのもおススメ♪♪

この↓ 押し花、やってみたいなぁ。。

まだまだたくさん見る所があります。

次回へ続く。

☆-----★-----☆-----★-----☆-----★-----☆

国営アルプスあづみの公園

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早春賦~春は名のみの・・あづみの公園(堀金・穂高地区)

2021年03月27日 | 信州おすすめスポット

♪春は名のみの 風の寒さや 谷のウグイス 歌は思えど♪

この歌(早春賦)は、大町高校の校歌を作るために大町を訪れた吉丸一昌という作詞家が大正時代に作った歌で、

大町~安曇野地方の早春の情景を表しています。

正に歌の通りのような未だ肌寒さを感じる安曇野ですが、春を求めて あづみの公園 に行ってみました。

今回、訪れたのは、堀金・穂高地区のあづみの公園

常念岳にうっすらと常念坊が見え始めていましたが、ハッキリ姿を現すのはもう少し先の様子。。

まだ緑も少なく、チューリップも葉っぱだけが出ているような状態で網で保護されていました。

確認できる花と言えば、こぶしに花もも、梅。。

冒険の森では、まだ地面に枯れ葉が多く秋のような風景。

ロープにつかまってちょこっとだけ冒険☆う、腕が痛い~~~(@_@)

はぁ。。年を感じてしまう瞬間です。

松ぼっくりって、落ちてるのを見ることはよくあるけど木にくっついているのを見るのは珍しいかも。。

今回、かなり広い範囲を歩いてみました。

安曇野に多い双体道祖神。

段々花畑もまだ花が少なく、空を泳ぐたくさんのこいのぼりも子どもの声が聞こえず寂しそう。。

それでもよく見ると、カタクリやフキノトウが点々と咲いていました。

☆-----★-----☆-----★-----☆-----★-----☆

国営アルプスあづみの公園

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食卓に春の香り♪ ふき味噌といかなご

2021年03月22日 | 写真日記

少し前に友人からふきのとうをもらったので、ふき味噌 を作りました!(^^)!

【ふき味噌レシピ】

サラダ油、ゴマ油 各大さじ1  ふきのとう 20~30個

砂糖、酒、みりん 各大さじ4  味噌 大さじ6

※調味料は混ぜておく(分量は好みで加減してください)

1.ふきのとうは一晩水にさらして汚れ等を取る。

2.切るとすぐに色が茶色くなってしまうので、先に油をひいたフライパン、合わせ調味料を用意しておく。

3.ふきのとうをみじん切りにする。

 ・苦みを抑えたい時は軽く茹でてから使う。

4.油でしんなりするくらいまで炒める。

 (油が多い方がまろやかに仕上がります)

5.合わせ調味料を加えたら焦げないように混ぜながら炒め煮する。

6.水分がとんで味噌がプチプチ跳ねるくらいになったら出来上がり♪

 (5分くらいでねっとりしてきます)

7.煮沸消毒した瓶に入れて保存。

炊きたての白いご飯に乗せて食べると、口の中に春の香りがふんわりと広がり幸せ~な気分♡♡

このふき味噌が終わりそうになって「もう終わっちゃうね。寂しいね~」と言ってた所に、

たまたま別の人から、今度は出来上がったもの(手作り)を少しおすそわけしていただいたので、もう1週間くらい楽しみが続きそうです(^Q^)/

それから、こちらは いかなごのくぎ煮

毎年、兵庫県の友人からこの時期になると送られてきます。

こちらも春の味♪

娘も大好きで「いかなご、届いたよ~」と連絡したら、すぐに取りに来ました(笑)

これも友人の手作り。

醤油の中に少しだけ感じる生姜の風味が絶妙なのですが、今年はクルミも入っていました。

手作りやいただきもので春を感じる食卓。。感謝です♡( *´艸`)

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腎臓移植ー私のドナー体験(4) 写真日記/信州の風景&花

2021年03月18日 | 信州おすすめスポット

前回の続き。最終章です。

姉は小さい頃に東京に養女に行き、そこの両親を本当の親と信じていたそうです。

一人っ子として何不自由なく大切に育てられたけれど「あれもいけない、これもいけない」と言われることが多く、

とても窮屈な毎日で、「何故一人っ子なんだろう。兄弟がいたら良かったのに。。」という思いは、

遠い記憶にある長野の家とそこにいた子供たちへの関心へとつながっていきました。

高校生になったある日、姉は

「小さい頃一緒にいた子たちが今どんな風に成長しているのか知りたいので、写真があったら送って欲しい」

と、長野の家に手紙を書きました。

そして、その返事に同封されていた兄たちの写真を見た時、

「この人たちはただの親戚じゃない。兄弟だ!」と直感したそうです。

「この人たちが兄弟なら、私は一人っ子なんかじゃない!」

それを確かめたい気持ちは日に日に強くなり、高校2年生の時、10何年振りかに長野の家にやってきたのでした。

その時が姉と私の初対面でした。

まだ小学生にもなっていなかった私は何も理解してなかったと思います。

写真は残っているけれど、「東京から遊びに来たきれいなおねえさん」くらいの認識でした。

次に会ったのは私が中学2年生の時で、その時、既に姉は結婚しており生まれたばかりの子供もいました。

その次に会ったのは父のお葬式の時。

東京から駆け付けた姉は私の顔を見るなりガバッと抱きついてきて「可哀想な〇〇(私の名前)!」と言いました。

親以外の人に抱きつかれたのは初めてだったので、すごくビックリした(戸惑った)記憶があります。

父のお葬式をきっかけに姉と私の距離は急速に縮まり、交流が始まりました。

後に姉はその時のことを

「だってまだ高校生なのに父親が死んじゃうなんて、可哀想な子!って思ったの。そしたら思わず抱きしめちゃってた。」と言いました。

初めて会った時のことも「ビックリしたよ。ちっちゃい妹までいるなんて思ってもなかった」と。。

そして私は高校卒業後の進路を東京に決め、姉はとても喜び歓迎してくれました。

頻繁に姉の家に通い、離れていた間の空白を埋めるように色んなことを語り合いました。

姉は、そのまま私がずっと東京で暮らし、結婚をしたら姉の近くに住むことを夢見ていました。

「スープの冷めない距離に住んで、夕飯のおかずを一品ずつ持ち寄ったら二品になるよ♪」

そんなことを楽しそうに言っていた姉。。

けれど数年後、私は東京で知り合った長野県の人との結婚が決まり、その人の故郷に行くことになりました。

それを知った時の姉の嘆きは相当なものでした。

半分喧嘩別れみたいになってしまい、私は後ろ髪を引かれるような気持ちで東京を離れました。

今回の腎臓移植の申し出も、どこかにその時の贖罪のような気持ちがあったかもしれません。

「何故、私だったの。おかあさんは私のことがいらなかったの?」と、長野の母を恨んだこともあったと言っていた姉。

姉に会いに行った兄と東京の街を歩いていても「なんか緊張しちゃうんだよね」と言っていた姉。

「どうして?兄妹なのに?」と聞く私に、「だって、男の人とデートしてるみたいな感じなんだもん」と答えた姉。

いくら「実は血のつながった兄弟姉妹がいた」とわかっても、

生まれた時からずっと生活を共にした記憶がないというのは、それほどの隔たりを生むのだと感じました。

だから姉は、1ヶ月間という入院生活を「妹と隣同士のベッドで」と望んだのでした。

そして「一卵性の双子みたいですよ」「奇跡的に相性が良い」という医師の言葉や、

拒絶反応が全く出ないという事実を体験することで、

やっと「本当に同じ血が流れているんだ」と実感できたのだと思います。

姉は「私の身体、〇〇(私の名前)の腎臓を“異物”だと思ってないんだね」と笑って言いました。

手術後は何度か通院して検査をしましたが、特に異常はありませんでした。

ただ私の方は、大きな傷によりウエストラインが崩れたのと、

手足に鳥肌がたったような状態が治まらずザラザラになったのが、女性としては気になるところでした。

手術中に見たあの夢を思うと、私の身体は鳥肌が立つほどの思いをしたのだろうなぁ。。と思います。

検査の時に肌のことを少し聞いてみたのですが、なんとなくスルーされた感じでした。

まぁ、お医者様は日々命と向き合っているので、生死にかかわるような症状でなければ問題にもしないのでしょう。

姉の方は、通院はずっとしなくてはいけないものの、

手術前の少し階段を上っただけでも息切れするような状態からは解放され、

旅行にも行けるようになったし、食事制限もなくなりました。

あの時、同じ時期に入院していた人たちの中には透析に戻ってしまったという人や、

腎臓に菌が入ってしまって入院治療しなくてはならなくなったという人もいたようなので、

それを考えると私たちは本当に運が良かったのかもしれません。

医療の素晴らしさに感謝です。

そういえばこんなことがありました。

退院後、私のお腹の傷を見た夫が「医者ってすごいなぁ。。」と、しみじみ言うので、

医者の技術に感心しているのかと思ったら、続いた言葉が「よくおまえの身体をこんなに切れるな」

これには思わず吹き出してしまいましたが、夫の素直な感想だったのだと思います。

移植手術には双方の家族の理解と協力が不可欠です。

そういう点でも私たちは恵まれていたと思うし、支えてくれたすべての人たちに感謝しています。

あれから約20年。

姉も私も、それぞれの場所でそれぞれの家族と元気に暮らしています。

今はコロナで会えない日が続いているけれど、

それまでは夏になると毎年のように姉の家族が私の家に遊びに来ていました。

早くまた会いたいね、とスマホでやり取りしています。

私のドナー体験のお話はこれで終わりです。

医師への不信からスタートした私の腎臓移植体験は、最後は医療への感動と感謝で終わりました。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

☆-----★-----☆-----★-----☆-----★-----☆

日常風景の他は以下の場所で撮った写真です。

豊科近代美術館(バラ祭り)

山形村の双体道祖神

八ヶ岳 富士見高原 花の里

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腎臓移植ー私のドナー体験(3) 写真日記/信州の風景&花

2021年03月15日 | 信州おすすめスポット

私たちが入院したのは夏真っ盛りの頃。

前回書いたように、検査も兼ねての手術入院だったので一般より少し長めの約1ヶ月入院しました。

入院してから数日経った頃、若い医師や看護師さんたちが

「ドナーとレシピが同じ部屋に入院してる!」と、私たちの病室へとやってきました。

普通、ドナーとレシピエントは別々の部屋に入る(フロアさえ変えることもある)らしいのですが、

私たちの場合は姉が「妹と隣同士のベッドにして欲しい!」と先生に頼み込んだようです(^-^;

何故、ドナーとレシピエントを離して入院させるのか。それは同室の人たちの話からも想像できました。

ある人は夫からの移植を受けると話していましたが、周囲(特に男性の身内)に反対の声があり、

もし手術が失敗したらどうしよう?と、ものすごく不安がっていました。

また別の人は、最初はお母さんから移植してもらったけれど3年でダメになってしまい、今回はおとうさんからの移植。

おかあさんには「あなたのせいでウチはめちゃくちゃよ!」と言われたそうです。

皆、悲しい想いをしたり深く傷ついたりしていました。

そのように「移植手術」というのはとてもデリケートで、入院中に喧嘩になってしまったり

ドナーの心変わりで手術がドタキャンになることもあるのだそうです。

そういうトラブルを極力避けるため、ドナーとレシピエントは離れた部屋に入院しているのでした。

脳天気に笑ってたのは私たちだけみたいで、なんだか申し訳ないくらいでした。

けれど検査は本当にありとあらゆることをやったという感じで、中には「二度とやりたくない」と思うようなものもあったので

そんな時、ドタキャンしたくなるドナーの気持ちがわかるような気がしました。

もちろん姉にはそんなこと言いませんでしたが。。

手術当日。

その朝のことは鮮明に覚えています。

朝、洗面所で歯磨きをしていた時のこと。どこからか「虹だ」という声が聞こえました。

大きな窓から空を見上げると、ビル群の上に大きく鮮やかな虹が!!

しかもよく見るとダブルレインボウでした。

ざわざわと他の人たちも集まってきて、しばし皆で窓の外の虹に見とれていました。

「あぁ、きっと今日の手術は成功する」

何の根拠もないけれど、虹を見ながらそう思いました。

手術室は別々で、麻酔をする時に数を数えるように言われたけれど、ほとんど数える間もなく意識がなくなったように思います。

私は夢を見ていました。巨大な中華包丁で身体を3つに分断されている夢です。

上半身と腹部と下半身がバラバラで、とても苦しい。。

その時「先生、すごく苦しんでいるので抜いてあげても良いですか?」という女性の声が聞こえ、

口から食道の奥へと入っていた太い管のようなものがズルッと引きずり出される感覚があり、

それ自体は衝撃だったけれど、直後に呼吸が楽になりました。

その後のことはまた記憶がありません。

そもそもそれさえも夢だったのか、現実のことだったのかわかりません。

次に目覚めた時は全身管だらけという状態で、3日間はぐったりしていて記憶もあいまいです。

姉の家族がお見舞いに来たことは覚えています。

姉はニコニコしていたような気がしますが、私は笑顔にすらなれませんでした。

手術前にアレルギーの検査をした時に一番強い痛み止めに反応が出てしまい、

それは使えないと聞いていたので身体全体が痛みに疲弊していたのかもしれません。

看護師さんが「痛々しくて見てられない」と言ったのが、やけにはっきりと記憶に残りました。

傷跡もレシピエントの姉よりもドナーである私の方が大きいものでした。

現在は鏡視下腎臓摘出という傷跡が小さく済むものに変わってきているようですが、

私たちの頃は開放腎臓摘出だったので私の傷は20cm以上もありました。

その3日間は「もし今移植手術をしようと考えている人がいたら、ドナーになるのはやめた方が良いよ」と言うなぁ。。

なんてことをボンヤリと考えていたような気がします。

辛かった3日間が過ぎると身体も楽になり、少しずつ動き回れるようになりました。

術後の経過は医師も驚くほど順調で、その頃の話では

「拒絶反応は多かれ少なかれ出る。それが強いか弱いか、薬で乗り越えられるかられないか。それで成功か失敗かが決まる」

と聞いていましたが、姉には拒絶反応というものが全く出ませんでした。

拒絶反応は自分の身体に“異物”が入ってきたことを認識し、それを排除しようとする免疫の働きです。

それがほぼないというのは、とても珍しく「奇跡的に相性が良い」というようなことを言われました。

入院している1ヶ月の間、姉と私は夜になるとよく病室を抜け出して屋上に行きました。

アニメ「シティハンター」で見ていた風景が目の前に広がり、脳裏に「Get Wild」が流れます♪

明治神宮の花火が遠くに見えた日もあったし、

1ヶ月もずっと一緒にいるなんて初めてのことでしたから、とりとめのない話にも花が咲きました。

退院が近づき最後に屋上に行った時、いつものように並んで腰かけていた姉の右手が私の左手をギュツと握り、

「私たち、血が、繋がってるんだね。。」

煌めく夜景を見ながら、呟くように姉が言いました。

その横顔を見た私はハッとし、「やっぱり手術をして良かった」と心底思いました。

今回のことは、姉にとっては単なる腎臓移植手術以上の価値があったのです。

(4)へ続く

☆-----★-----☆-----★-----☆-----★-----☆

今日の写真は以下の他、珍しい環水平アーク等、家の近くで撮ったものを選びました。

中山高原(夏のひまわり)

ラベンダーガーデン夢農場

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腎臓移植ー私のドナー体験(2) 写真日記/信州の風景&花

2021年03月11日 | 信州おすすめスポット

前回の続きです。

結局、2つの病院に腎臓移植手術の前の検査をお願いしたものの引き受けてもらえなかったので、

手術をする東京の病院に行って検査をすることになりました。

医療の世界もどんどん進化しているので、現在の状況とは違う部分もあるかと思います。

あくまでも20年ほど前に私自身が体験したことを書いています。

腎臓移植は、脳死等の方から提供される献腎移植と、家族からの移植の生体腎移植があり、

私たちの場合は生体腎移植になります。(日本ではこちらが圧倒的に多いそうです)

検査については実はあんまり細かいことは覚えていないのですが。。(+_+)

最初に移植についてのメリット、デメリットの説明がありました。

メリットは、やはり姉(レシピエント)が、透析治療から解放されること。

透析には1回4~5時間を週に2~3回と、生活の中で多くの時間がとられます。

姉の所も娘が(私にとっては姪。以下“姪”とします)それに付き添うために仕事を辞めたと聞きました。

私にとってこの姪はとても可愛く、その姪が「私の腎臓をあげる」と言っていると聞いた時、

姪にそんな思いをさせるくらいなら私が。。と思ったのがきっかけでした。

その他、手術が成功すれば姉の食事制限や身体の辛さもなくなるとのこと。

デメリットは私(ドナー)の健康な身体にメスを入れること。

腎臓がひとつになっても大きな影響はないけれど、万一のことを考えた時、

例えば交通事故にあってひとつしかない腎臓を損傷するようなことがあれば危険。

その説明には正直ドキッとしたけれど、でもまぁ、それもまた運命だろうし、

万一を心配していたら何もできないので納得しました。

水を飲んで採尿→採血、を15分毎に2時間くらい繰り返す検査は覚えています。

その他にも色々検査したけれど、要は私が健康体であること拒絶反応の危険性を調べたという感じです。

通常は一般的な検査があり、更に検査入院(1泊2日)をした後に手術入院になるらしいのですが、

私たちの場合、私が離れた所に住んでいるため何回も病院に来るのは大変だろうということで、

入院前にある程度必要な検査をし、その他の検査は手術入院をしてからすることになりました。

印象的だったのはレントゲンを撮った時のこと。

姉と私の前には3~4人の医師がいたと思います。

ひとりの医師が「医者のくせにこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが。。」と切り出し、

「奇形というまではいかないけれど、妹さんの腎臓の位置が普通と違うんです」

“奇形”という言葉に一瞬「私、何か変なのかな?」と、ヒヤリとしましたが

レントゲン写真を指しながら説明されたのは。。

通常、腎臓は左右対称についているけれど、私のは右の腎臓だけかなり下に付いているということ。

腎臓を取り出す時、位置によっては肋骨を削らなくてはいけないようなこともあるけれど、

私のは「どうぞ取り出してください」と言わんばかりの位置についているということ。

(医者にとって取り出しやすい位置)

まるでこうなる運命を知っていたかのようです

説明してくれた医師は少し興奮気味に、そして周りの医師たちも皆、笑顔でうなづいていました。

科学の最先端で超現実的というイメージの医療の世界

そこで直面した思いがけない現実と医師の言葉は、

それまでの不安な気持ちを優しく抱きしめてくれるようなファンタジーに満ちていました。

適合性の検査も驚くほどの数値だったようで「一卵性の双子みたいですよ」と言われ、姉と顔を見合わせて笑いました。

私の腎臓の位置が特殊(?)なことから、

一般的にはドナーの左の腎臓を取り出してレシピエントの右に移植するらしいのですが、

私たちの場合は右の腎臓を取り出して移植することになりました。

それからこれは余談ですが、姉の担当医師はある有名人(私も前から好きだった♡)の兄弟でした。

そのことも負のイメージからスタートした、この腎臓移植手術に対する気持ちを和らげる一因となったかもしれません。

(3)へ続く。

☆-----★-----☆-----★-----☆-----★-----☆

写真は蕎麦の花です。これを選んだ理由は。。

信州といえばお蕎麦。

信州生まれ信州育ちの私は一般的な蕎麦の花。

信州生まれ東京育ちの姉は、ちょっと華やかな赤い蕎麦の花(高嶺ルビー)をイメージしました。

赤いそばの花「高嶺ルビー」の物語

中山高原(大町市観光協会)

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腎臓移植ー私のドナー体験(1) 写真日記/信州の風景&花

2021年03月07日 | 信州おすすめスポット

これは20年ほど前に私が体験したお話です。

文章と合うような写真は載せられないので、過去に撮った信州の風景や花を中心に載せていきたいと思います。

今日は戸隠神社に行った時の杉の木の写真です。

私には年の離れた姉がいますが、姉は小さい時に遠い親戚の家に養女に行ったので私たち家族とは離れて暮らしていました。

その姉が腎臓を悪くして透析に通い始め、肺炎になったりすると命の危険もあるということを知ったのが20年ほど前でした。

腎臓移植をすれば良くなるかもしれないとのことで、姉の子供(娘)がドナーになってもいいと言っていましたが、

姪はまだ若く未婚だったため、様々なことを考えたあげく、妹である私がドナーになることを決めました。

姉は東京に住んでいて、某大学病院で手術をすることが決まると、

その病院からドナーになるために必要な検査を「そちらの病院でやってきてほしい」と言われました。

比較的大きな病院ならどこでもやってくれるとのことだったので、まず県内の大学病院に電話をしてみました。

そこは移植手術関連のニュースでも時々取り上げられている病院だったので大丈夫かと思ったのですが、

電話のたらい回しをされたあげく「ウチではできません」と言われてしまいました(+_+)

次に国立病院ならやってくれるかも。。と期待して電話をしてみましたが、やはり電話はたらい回しで、

腎臓担当の医師につながったところで「では一度、外来に来てください」と言われました。

やっと一歩進んだと喜んで国立病院へと行きました。

けれど診察室に入った途端、医者に言われたのは「ウチではできませんね」の一言でした。

「え?電話で事情を話して、今日来るように言われたので来たのですが。。」と言うと、

「どんなに粘られてもできないものはできないんですよ」と、その人は言い放ちました。

どんなに粘られても、って。。まだ一言しかしゃべってないし、

電話でも検査をしてもらえるか尋ねただけで、無理やりやって欲しいと言った覚えもありません。

絶句している私に、更に

「移植手術なんて、やった病院にはお金が入るけど検査した病院には一円も入らないんですよ。

そんなお金にならないような仕事はしません」と、しゃらっと言いました。

医者に対して持っていた私のイメージはこの時、大きく崩れました。

勝手に思っていただけと言われればそうですが。。

医療に携わる人たちは皆、命を救うことに真摯に向き合っていると思っていましたから。。

「お金にならないことはしない」の一言は、かなりショックでした。

だったら最初に電話した大学病院のように電話で断ってくれたら良かったのに。

わざわざ一日休みをとって、友人に案内までしてもらって行ったのに。

しかも「できません」の一言を聞いただけなのに、受診料はしっかり取られました。

細かい金額は覚えていませんが、まだ初診料なんてなかった時代でしたが2,000円以上は請求されたと思います。

このように医者に対する不信からスタートした腎臓移植手術でしたが、

この後、私と姉はとっても不思議で奇跡のような体験をすることになるのでした。

(2)へ続きます。

☆-----★-----☆-----★-----☆-----★-----☆

戸隠神社の杉の写真を選んだのは、ここへ行った時に「神様がいる」と感じたからです。

戸隠神社(奥社の社をつなぐ)

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする