勇二 「なるほどねえ。じゃあ、執着の対象になりがちなもの、たとえば今挙がっていたお金だとか地位とか名誉とか異性とかは、やはりそれ自体が悪いものであって否定すべきものなのかい?」
正太 「いや、決してそんなことはないんだ。昔から、宗教などでそうしたものが否定されてきたのは、そうしたものが執着の対象になりやすかったからなんだね。正しく言えば、「そうしたものに執われている心を否定しなさい」と言っているのであって、それ自体が悪であるとか、否定すべきもの、というわけではないんだよ。「欲しい、欲しい」ととらわれる心、「執着する」という心のあり方が、地獄に堕ちる原因になるから、そうした心を否定しなさい、ということなんだ」
勇二 「ふうむ、それ自体は悪くない?」
正太 「うん。お金とか異性とかは「価値中立的」なものであって、それじたいは善でも悪でもないんだね。たとえば、お金を例にとってみると、これは使い方によって善にも悪にもなるものなんだ。また、使い方だけじゃなく、手に入れ方、集め方、つまりよい手段で手に入れたのか、良い動機で集めたのか、悪い手段によって手に入れたのか、悪い動機で集めたのかによって、そのお金の善悪が分かれてくるんだよ」
勇二 「ほーお」
正太 「たとえば、世の中のために役に立つ仕事に一生懸命精励して、正当に富を蓄積するということは善なんだね。またそうして得られた「豊かさ」というものも善なんだ。これを悪だと考えると、ひと昔前のマルクス主義の世界に入っていくので、気をつけなくちゃいけないんだね。さらに、この富をよいことのために使うというのは、さらなる善なんだよ。善が利子を生み、善が善を呼び、幸福が幸福を呼んでいくことになるんだよ」
勇二 「よいことのために使うっていうと?」
正太 「前に、人生の「目的と使命」は「魂修行とユートピア建設」にある、って話したけど、そうした方向に使えばこれは善なんだよ。たとえば、百年くらい昔、アメリカにアンドリュー・カーネギーという鉄鋼王とよばれた企業家がいて、事業で築いた巨億の富を社会のための慈善事業に投じたんだけど、これなんかは、富というものが大いなる善に転化したケースといえるんだね」
勇二 「なるほど。ユートピア建設の推進のために、富を使ったわけだね」
正太 「うん。ただし、くり返しになるけど、お金というのは「両刃の剣」であることは、肝に銘じておく必要があるんだ。たとえば、聖書の中には「金持ちが天国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうがやさしい」という有名な言葉があって、これは非常に誤解されやい言葉なんだけど、何を意味しているかというと、「この世的な価値に執着しすぎて、あの世の世界、霊的世界の意味、存在を無視して生きた人は地獄に堕ちる」ということなんだね。
物質的な豊かさを求める傾向が強くなってくると、人間はどうしてもこの世的になっていって、あの世のこと、霊的なことを忘れていくんだ。守護霊という存在がいて、自分の心の中をすべて見守っているということを忘れてしまうんだよ。始終、心の中を覗かれていたら、決してできないような、やましいこと、恥ずかしいことにも手を染めていってしまうことが多いんだ」
勇二 「ふうむ。要するに、お金というのが、執着の対象になってくると、地獄への切符が回ってくるということだよね。じゃあ、お金に対する自分の心の姿勢というのが、執着なのかどうかっていうのは、どこらへんで見分ければいいんだい?」
正太 「うん。世の中に尽くしたい、お役に立ちたいという志があって、世の中のために尽くしながら豊かになっていくことは、神様の心、仏の心に適うことで善いことなんだ。だけど、これがひっくり返って、「金銭欲」のほうが先に走った場合、「奪う愛」となって、地獄になるんだね」
勇二 「金銭欲が先に立つ…、そうか、「金自体が目的」というか、世の中のため、とかじゃなくて「とにかく金自体が欲しい欲しい」となると地獄なのか。極端な話、金さえ得られればあくどい商売やってでも、ってなるだろうしね」
正太 「そうそう。具体的に言うと「働きたくはない、仕事はしたくないが、金が欲しい」「悪い仕事をしているが金は欲しい」「能力以上、流した汗以上に金が欲しい」という気持ちが強いと地獄的になるんだね。ところが、お金が欲しい、という人に限ってこういう人が多いんだよ」
勇二 「なるほどね。心の針が「与える」よりも「奪う」ほうに傾いているわけだ」
正太 「また、お金の使い道、つまりお金を得てどうしたいのか、というところも問題で、「お金持ちになって、人よりいい暮らしをして威張りたいだけ」といった虚飾の方向、よくあるケースなんだけど、そうした虚栄心を満足させたい、といった動機だと地獄的になるんだね」
勇二 「たしかに、それも、人から自分のほうに「愛をよこせ」っていう「奪う愛」だよね」
正太 「出世についても同じなんだね。出世をしてどうしたいのか。「出世することによって、よりいっそう多くの人のために仕事をしたい。尽くしたい」というなら合格なんだね。ところが「大きなイスに座ってただ威張りたい。大勢の人に命令してみたい」だと地獄なんだね。じゃあ、実際はどうかというと、前者のようなケースは稀で、十中八九は「人を蹴落としてでも出世したい、偉くなりたい」という地獄的な場合が多いんだよ」
勇二 「なるほどね。世の中そういうケースはゴロゴロしているね」
正太 「本来なら、人格のすぐれた人が指導的立場に立つということは、その感化影響が大勢の人に及んでいくことになるわけだから、それはよいことなんだね。だから、出世じたいが悪だとか、否定すべきことでは決してないんだよ」
勇二 「人間的に立派な人が組織の長にいてくれて、困るなんてという人もいないだろうしね」
正太 「異性についても同様で、「異性を好む」「異性を愛する」ということが、家庭ユートピアづくりにつながるなら合格なんだね。ところが、不倫に走って家庭をめちゃくちゃにし、子供の将来までだいなしにするようだと、地獄行きになるんだね」
勇二 「ああ、これまた現代ではよくあるケースだね」
正太 「そもそも、神様がなぜ異性を創ったか、異性を分けたかというと、「愛」というものを教えようとしている、ということなんだね。男女の愛、(あるいは親子の愛)というのは、習わなくても教わらなくてもできるんだ。そうした最低限の愛というものを人間に教えようとして、「本能の愛」というものが設けられているんだよ。男女の愛によって、家庭というユートピアの基礎を築く。そして、そこでできたユートピアを、社会のユートピアづくりへの原動力に変えていってほしい、より高次な愛へと昇華していってほしい、というのが仏の念いなんだ」
勇二 「そうかあ。人間に最低限の愛を教えようとして「本能の愛」っていうのがあるわけか」
正太 「こんなふうに、お金や出世、異性等は、本来価値中立的なものなんだけど、執着や我欲を遂げるための対象になりがちで、地獄に堕ちるきっかけとなることが多かったから、伝統的に否定的に扱われてきたんだね。
しかし、ほんとうは、それらによって、ユートピア建設を大きく前進させたり、自分の霊性の向上に役立てることは可能なんだよ。そして、仏の願いというのも、そうしたほんとうの意味での発展的な方向を、人間に選び取ってもらいたい、ということにあるんだね」
正太 「いや、決してそんなことはないんだ。昔から、宗教などでそうしたものが否定されてきたのは、そうしたものが執着の対象になりやすかったからなんだね。正しく言えば、「そうしたものに執われている心を否定しなさい」と言っているのであって、それ自体が悪であるとか、否定すべきもの、というわけではないんだよ。「欲しい、欲しい」ととらわれる心、「執着する」という心のあり方が、地獄に堕ちる原因になるから、そうした心を否定しなさい、ということなんだ」
勇二 「ふうむ、それ自体は悪くない?」
正太 「うん。お金とか異性とかは「価値中立的」なものであって、それじたいは善でも悪でもないんだね。たとえば、お金を例にとってみると、これは使い方によって善にも悪にもなるものなんだ。また、使い方だけじゃなく、手に入れ方、集め方、つまりよい手段で手に入れたのか、良い動機で集めたのか、悪い手段によって手に入れたのか、悪い動機で集めたのかによって、そのお金の善悪が分かれてくるんだよ」
勇二 「ほーお」
正太 「たとえば、世の中のために役に立つ仕事に一生懸命精励して、正当に富を蓄積するということは善なんだね。またそうして得られた「豊かさ」というものも善なんだ。これを悪だと考えると、ひと昔前のマルクス主義の世界に入っていくので、気をつけなくちゃいけないんだね。さらに、この富をよいことのために使うというのは、さらなる善なんだよ。善が利子を生み、善が善を呼び、幸福が幸福を呼んでいくことになるんだよ」
勇二 「よいことのために使うっていうと?」
正太 「前に、人生の「目的と使命」は「魂修行とユートピア建設」にある、って話したけど、そうした方向に使えばこれは善なんだよ。たとえば、百年くらい昔、アメリカにアンドリュー・カーネギーという鉄鋼王とよばれた企業家がいて、事業で築いた巨億の富を社会のための慈善事業に投じたんだけど、これなんかは、富というものが大いなる善に転化したケースといえるんだね」
勇二 「なるほど。ユートピア建設の推進のために、富を使ったわけだね」
正太 「うん。ただし、くり返しになるけど、お金というのは「両刃の剣」であることは、肝に銘じておく必要があるんだ。たとえば、聖書の中には「金持ちが天国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうがやさしい」という有名な言葉があって、これは非常に誤解されやい言葉なんだけど、何を意味しているかというと、「この世的な価値に執着しすぎて、あの世の世界、霊的世界の意味、存在を無視して生きた人は地獄に堕ちる」ということなんだね。
物質的な豊かさを求める傾向が強くなってくると、人間はどうしてもこの世的になっていって、あの世のこと、霊的なことを忘れていくんだ。守護霊という存在がいて、自分の心の中をすべて見守っているということを忘れてしまうんだよ。始終、心の中を覗かれていたら、決してできないような、やましいこと、恥ずかしいことにも手を染めていってしまうことが多いんだ」
勇二 「ふうむ。要するに、お金というのが、執着の対象になってくると、地獄への切符が回ってくるということだよね。じゃあ、お金に対する自分の心の姿勢というのが、執着なのかどうかっていうのは、どこらへんで見分ければいいんだい?」
正太 「うん。世の中に尽くしたい、お役に立ちたいという志があって、世の中のために尽くしながら豊かになっていくことは、神様の心、仏の心に適うことで善いことなんだ。だけど、これがひっくり返って、「金銭欲」のほうが先に走った場合、「奪う愛」となって、地獄になるんだね」
勇二 「金銭欲が先に立つ…、そうか、「金自体が目的」というか、世の中のため、とかじゃなくて「とにかく金自体が欲しい欲しい」となると地獄なのか。極端な話、金さえ得られればあくどい商売やってでも、ってなるだろうしね」
正太 「そうそう。具体的に言うと「働きたくはない、仕事はしたくないが、金が欲しい」「悪い仕事をしているが金は欲しい」「能力以上、流した汗以上に金が欲しい」という気持ちが強いと地獄的になるんだね。ところが、お金が欲しい、という人に限ってこういう人が多いんだよ」
勇二 「なるほどね。心の針が「与える」よりも「奪う」ほうに傾いているわけだ」
正太 「また、お金の使い道、つまりお金を得てどうしたいのか、というところも問題で、「お金持ちになって、人よりいい暮らしをして威張りたいだけ」といった虚飾の方向、よくあるケースなんだけど、そうした虚栄心を満足させたい、といった動機だと地獄的になるんだね」
勇二 「たしかに、それも、人から自分のほうに「愛をよこせ」っていう「奪う愛」だよね」
正太 「出世についても同じなんだね。出世をしてどうしたいのか。「出世することによって、よりいっそう多くの人のために仕事をしたい。尽くしたい」というなら合格なんだね。ところが「大きなイスに座ってただ威張りたい。大勢の人に命令してみたい」だと地獄なんだね。じゃあ、実際はどうかというと、前者のようなケースは稀で、十中八九は「人を蹴落としてでも出世したい、偉くなりたい」という地獄的な場合が多いんだよ」
勇二 「なるほどね。世の中そういうケースはゴロゴロしているね」
正太 「本来なら、人格のすぐれた人が指導的立場に立つということは、その感化影響が大勢の人に及んでいくことになるわけだから、それはよいことなんだね。だから、出世じたいが悪だとか、否定すべきことでは決してないんだよ」
勇二 「人間的に立派な人が組織の長にいてくれて、困るなんてという人もいないだろうしね」
正太 「異性についても同様で、「異性を好む」「異性を愛する」ということが、家庭ユートピアづくりにつながるなら合格なんだね。ところが、不倫に走って家庭をめちゃくちゃにし、子供の将来までだいなしにするようだと、地獄行きになるんだね」
勇二 「ああ、これまた現代ではよくあるケースだね」
正太 「そもそも、神様がなぜ異性を創ったか、異性を分けたかというと、「愛」というものを教えようとしている、ということなんだね。男女の愛、(あるいは親子の愛)というのは、習わなくても教わらなくてもできるんだ。そうした最低限の愛というものを人間に教えようとして、「本能の愛」というものが設けられているんだよ。男女の愛によって、家庭というユートピアの基礎を築く。そして、そこでできたユートピアを、社会のユートピアづくりへの原動力に変えていってほしい、より高次な愛へと昇華していってほしい、というのが仏の念いなんだ」
勇二 「そうかあ。人間に最低限の愛を教えようとして「本能の愛」っていうのがあるわけか」
正太 「こんなふうに、お金や出世、異性等は、本来価値中立的なものなんだけど、執着や我欲を遂げるための対象になりがちで、地獄に堕ちるきっかけとなることが多かったから、伝統的に否定的に扱われてきたんだね。
しかし、ほんとうは、それらによって、ユートピア建設を大きく前進させたり、自分の霊性の向上に役立てることは可能なんだよ。そして、仏の願いというのも、そうしたほんとうの意味での発展的な方向を、人間に選び取ってもらいたい、ということにあるんだね」