正太 「地獄に堕ちる大きな原因(心の三毒)の二番目として「瞋(じん)」、つまり「統制できない怒り」を取り上げてきたんだけど、そろそろまとめに入ったほうがいいね。
怒りというのは、ある意味で、動物性の一種ともいえるんだよ。動物たちは、すぐカッと歯をむくよね。自分の身に危険があったりすると、歯をむいたり、牙をむいたり、毛を逆立てたりするけど、怒りというのはこれに少し似ているんだね」
勇二 「動物性かあ。たしかに、すぐにキレたり逆上する人って、あんまり品のいい感じは漂ってこないよね(笑)」
正太 「それと、怒りっぽい人というのは、教養が不足していることが多いんだよ。ゴシップやスキャンダル紙ぐらいしか読めない人が多いんだ。だから怒りっぽい人は「これは教養が不足しているのかもしれない。教養が不足している分、精神に安定を欠いているんだ」と思って、人生学の勉強をするといいんだよ。
きっちりとしたまともなものを、いろいろ勉強して教養を身につけていくと、だんだん不動心のようなものができてくるんだ。重石のようなものができてきて、他人から少々批判されても、そうグラグラせずに、グッと抑えられるだけの胆力がついてくるんだよ」
勇二 「ふーむ。怒りっぽい人って、平常心が足りないわけか」
正太 「海に浮かぶ氷山も、水面上に出ている部分は全体の一、二割にすぎなくて、大部分は海面より下に隠れているんだね。水面下の部分が大きいほど、安定感があるんだよ。
人間もまったく同じで、本当の意味での教養、つまり人生の智慧や教訓の引き出しを蓄えている人ほど、心に安定感が出てくるんだ。怒りっぽい人というのは、この部分の蓄積が足りないことが多いんだよ。人目につく部分がほとんどなので、表面的な人の言葉に対して、すぐに怒ったり、憎んだり、愚痴ったりしちゃうんだ。
他人の評価の対象にならない部分に蓄積があって、圧倒的な自信を持っている人は、他人の言葉とかにすぐ感情的になったりはしないものなんだよ」
勇二 「そういう蓄積の部分が重石になるわけだね」
正太 「それと、こういう怒りっぽい性格を持っていると、人間関係で失敗したり、仕事面でもうまくいかなくなることが多いんだね。会社でも、能力的にはとても高いのに、いまひとつ出世しない人がいるよね。そういう人の特徴として、「怒りっぽくて、すぐカッとなってしまう」というところがよくあるんだよ。
思わぬところで人格がコロッと変わってしまうので、せっかく九十九点取って、あと一点積み上げようとするときに、ガラガラーっと崩れちゃうんだね。
「彼を管理職にどうか」という話が出ても、「あれはすぐにカッとなる男だから、何かのときに信用できない」とか「取引先とケンカしたら大変だ」ということになって、出世が遅れたりするんだ。
また、怒りっぽいと、人間関係を損なってしまって、晩年が孤独だったりとか不遇なことも多いんだよ」
勇二 「なるほどな。まさに「短気は損気」だね。あの世で苦労する以前から、うまくいかなくなることが多いんだね」
正太 「そもそも、なぜ、怒りが出てくるかというと「自分は人に対してこうあってほしい」と願っているんだけど、他人がそのように動いてくれないからなんだね。「自分の思いが満たされない」という欲求不満から怒るわけなんだ」
勇二 「つまり、「奪う愛」なわけだよね。人に対して「こうしてあげよう。ああしてあげよう」っていう「与える愛」じゃなくて、「なんで、自分に対してこうしてくれないんだー」っていう「奪う愛」になってるわけだ」
正太 「「憎しみ」なんかもこれに近いんだね。どんなときに憎しみの思いが出てくるかというと、自分の思い通りに相手がならないときなんだ。人を自分の思い通りにしようとして、相手がそうならないときに憎しみがあらわれてくるんだよ。
だから、「憎しみ」の本質を洞察すると、それが姿を変えた「愛の願望」にすぎないことがわかるんだね。つまり、憎しみを抱いてる人というのは、何らかの意味で相手に「愛を与えて欲しい」と思っているか、「尊敬を与えて欲しい」と思っているかのどっちかなんだ。
要するに、憎しみを抱いている人というのは、相手からの「愛に飢えている」人なんだよ」
勇二 「ふーむ。子供が親を「憎い」なんて言ったりするのも、ホントは親を愛しているからだよね。「それなのに、親は自分のことを十分に愛してくれない」と感じるから、親を憎く思ったりするわけだ。
男女の間でも、こういうことがよく起きるよね。「自分はこんなにまで思っているのに、相手は見向きもしてくれない」なんて時に、「かわいさ余って憎さ百倍」になるわけだしね(笑)」
正太 「「妬み」というのも、これに近いんだね。なぜ嫉妬心が起きるかというと、自分より、もっと愛されている人、もっと多くの評価を受けている人の存在を知ることで、反射的に「自分はより少なくしか愛されてない」と感じるからなんだ。この自分に対する「愛の少なさ」ゆえに、嫉妬の炎が燃え上がってくるんだよ」
勇二 「これまた「奪う愛」ってことだね。自分こそ愛をもらいたいんだけど、その愛が自分じゃなくて他の誰かに流れていることに、ガマンできないわけだ」
正太 「こんなふうに、地獄に堕ちている人たちの本心は、「もっともっと愛されたい」ということなんだね。地獄霊のホンネは何かというと、「いろんな人たちから、もっともっと優しくしてもらいたい」ということなんだよ。
だから、地獄霊というのは、コワーイ存在というよりも、ほんとは気の毒な、救ってあげなくちゃいけない人たちなんだ。愛が欲しいんだけど、「自分のほうから愛を与えよう」という心境までいかない「愛欠乏症」の人たちなんだよ。
結局、愛の本質は「与えることなんだ」ということがわからなくて、「奪う愛」「貰う愛」の人生を生きた人たちが、地獄に堕ちて苦しんでいるんだね」
勇二 「人間だから「与える愛」をまったくやらなかったわけじゃないけど、「奪う愛」のほうが多い人生を送った人たち、ってことだよね。一生を総決算したら、債務超過。黒字(与える愛)よりも赤字(奪う愛)のほうが多い生き方だったわけだ」
正太 「それに対して、愛に生きる人たち、菩薩や天使のような「与える愛」に生きる人たちは、求めないし、手に入れようとはしないんだね。ただただ、与え、与え、与え続けようとするんだ。
なぜかというと、自分たちが仏からたくさんのものをすでに与えられていることを十分知っているからなんだ。与えられているからこそ、与えようとするんだよ」
勇二 「つまり、そこに「感謝」がある、ってことだよね」
正太 「うん。感謝ということがほんとにできると、「自分自身が与えられていることに気づこうともせず、人から与えられることばかりを願って、他人にああしろ、こうしろと強要することは、人間の本当の姿じゃないんだな」ということが、よーくわかってくるんだよ」
怒りというのは、ある意味で、動物性の一種ともいえるんだよ。動物たちは、すぐカッと歯をむくよね。自分の身に危険があったりすると、歯をむいたり、牙をむいたり、毛を逆立てたりするけど、怒りというのはこれに少し似ているんだね」
勇二 「動物性かあ。たしかに、すぐにキレたり逆上する人って、あんまり品のいい感じは漂ってこないよね(笑)」
正太 「それと、怒りっぽい人というのは、教養が不足していることが多いんだよ。ゴシップやスキャンダル紙ぐらいしか読めない人が多いんだ。だから怒りっぽい人は「これは教養が不足しているのかもしれない。教養が不足している分、精神に安定を欠いているんだ」と思って、人生学の勉強をするといいんだよ。
きっちりとしたまともなものを、いろいろ勉強して教養を身につけていくと、だんだん不動心のようなものができてくるんだ。重石のようなものができてきて、他人から少々批判されても、そうグラグラせずに、グッと抑えられるだけの胆力がついてくるんだよ」
勇二 「ふーむ。怒りっぽい人って、平常心が足りないわけか」
正太 「海に浮かぶ氷山も、水面上に出ている部分は全体の一、二割にすぎなくて、大部分は海面より下に隠れているんだね。水面下の部分が大きいほど、安定感があるんだよ。
人間もまったく同じで、本当の意味での教養、つまり人生の智慧や教訓の引き出しを蓄えている人ほど、心に安定感が出てくるんだ。怒りっぽい人というのは、この部分の蓄積が足りないことが多いんだよ。人目につく部分がほとんどなので、表面的な人の言葉に対して、すぐに怒ったり、憎んだり、愚痴ったりしちゃうんだ。
他人の評価の対象にならない部分に蓄積があって、圧倒的な自信を持っている人は、他人の言葉とかにすぐ感情的になったりはしないものなんだよ」
勇二 「そういう蓄積の部分が重石になるわけだね」
正太 「それと、こういう怒りっぽい性格を持っていると、人間関係で失敗したり、仕事面でもうまくいかなくなることが多いんだね。会社でも、能力的にはとても高いのに、いまひとつ出世しない人がいるよね。そういう人の特徴として、「怒りっぽくて、すぐカッとなってしまう」というところがよくあるんだよ。
思わぬところで人格がコロッと変わってしまうので、せっかく九十九点取って、あと一点積み上げようとするときに、ガラガラーっと崩れちゃうんだね。
「彼を管理職にどうか」という話が出ても、「あれはすぐにカッとなる男だから、何かのときに信用できない」とか「取引先とケンカしたら大変だ」ということになって、出世が遅れたりするんだ。
また、怒りっぽいと、人間関係を損なってしまって、晩年が孤独だったりとか不遇なことも多いんだよ」
勇二 「なるほどな。まさに「短気は損気」だね。あの世で苦労する以前から、うまくいかなくなることが多いんだね」
正太 「そもそも、なぜ、怒りが出てくるかというと「自分は人に対してこうあってほしい」と願っているんだけど、他人がそのように動いてくれないからなんだね。「自分の思いが満たされない」という欲求不満から怒るわけなんだ」
勇二 「つまり、「奪う愛」なわけだよね。人に対して「こうしてあげよう。ああしてあげよう」っていう「与える愛」じゃなくて、「なんで、自分に対してこうしてくれないんだー」っていう「奪う愛」になってるわけだ」
正太 「「憎しみ」なんかもこれに近いんだね。どんなときに憎しみの思いが出てくるかというと、自分の思い通りに相手がならないときなんだ。人を自分の思い通りにしようとして、相手がそうならないときに憎しみがあらわれてくるんだよ。
だから、「憎しみ」の本質を洞察すると、それが姿を変えた「愛の願望」にすぎないことがわかるんだね。つまり、憎しみを抱いてる人というのは、何らかの意味で相手に「愛を与えて欲しい」と思っているか、「尊敬を与えて欲しい」と思っているかのどっちかなんだ。
要するに、憎しみを抱いている人というのは、相手からの「愛に飢えている」人なんだよ」
勇二 「ふーむ。子供が親を「憎い」なんて言ったりするのも、ホントは親を愛しているからだよね。「それなのに、親は自分のことを十分に愛してくれない」と感じるから、親を憎く思ったりするわけだ。
男女の間でも、こういうことがよく起きるよね。「自分はこんなにまで思っているのに、相手は見向きもしてくれない」なんて時に、「かわいさ余って憎さ百倍」になるわけだしね(笑)」
正太 「「妬み」というのも、これに近いんだね。なぜ嫉妬心が起きるかというと、自分より、もっと愛されている人、もっと多くの評価を受けている人の存在を知ることで、反射的に「自分はより少なくしか愛されてない」と感じるからなんだ。この自分に対する「愛の少なさ」ゆえに、嫉妬の炎が燃え上がってくるんだよ」
勇二 「これまた「奪う愛」ってことだね。自分こそ愛をもらいたいんだけど、その愛が自分じゃなくて他の誰かに流れていることに、ガマンできないわけだ」
正太 「こんなふうに、地獄に堕ちている人たちの本心は、「もっともっと愛されたい」ということなんだね。地獄霊のホンネは何かというと、「いろんな人たちから、もっともっと優しくしてもらいたい」ということなんだよ。
だから、地獄霊というのは、コワーイ存在というよりも、ほんとは気の毒な、救ってあげなくちゃいけない人たちなんだ。愛が欲しいんだけど、「自分のほうから愛を与えよう」という心境までいかない「愛欠乏症」の人たちなんだよ。
結局、愛の本質は「与えることなんだ」ということがわからなくて、「奪う愛」「貰う愛」の人生を生きた人たちが、地獄に堕ちて苦しんでいるんだね」
勇二 「人間だから「与える愛」をまったくやらなかったわけじゃないけど、「奪う愛」のほうが多い人生を送った人たち、ってことだよね。一生を総決算したら、債務超過。黒字(与える愛)よりも赤字(奪う愛)のほうが多い生き方だったわけだ」
正太 「それに対して、愛に生きる人たち、菩薩や天使のような「与える愛」に生きる人たちは、求めないし、手に入れようとはしないんだね。ただただ、与え、与え、与え続けようとするんだ。
なぜかというと、自分たちが仏からたくさんのものをすでに与えられていることを十分知っているからなんだ。与えられているからこそ、与えようとするんだよ」
勇二 「つまり、そこに「感謝」がある、ってことだよね」
正太 「うん。感謝ということがほんとにできると、「自分自身が与えられていることに気づこうともせず、人から与えられることばかりを願って、他人にああしろ、こうしろと強要することは、人間の本当の姿じゃないんだな」ということが、よーくわかってくるんだよ」