死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

その人の「執着」に悪霊が寄ってくる 

2007-04-30 | 地獄霊の憑依を受ける原因は「執着」にある
勇二 「執着。ああ、地獄に堕ちる根本的な原因として、君が挙げていたものだね」

正太 「そう。「執着」というのは、「過ぎた欲望」のことなんだけど、具体的にいえば「この世的なものに執われること」、「3次元的なことに心の針がとどまって離れなくなること」なんだ。そうしたものに執われて心が離れなくなってくると、それを縁として悪霊の憑依を呼び込んでしまうんだよ」

勇二 「ふーむ、この世的なものに執われることねえ」

正太 「じゃあ、「その人の執着が何なのか」をわかりやすく言うと「一日のうち、あまり自覚的でないとき、ボーっとしているときに、いつも考えていること、フッと気がつくといつも考えていること」なんだね。一日のうちに、何度も何度も、くり返しくり返し、心のなかに浮かんでくるもの。「一日のうちに、何度も何度も心のなかに去来して、ふと気がつけば、いつもそのことを考えている」というような「心の中のシェア(割合)が高いもの」のことなんだ」

勇二 「ああ、なるほどね。何かについて、心の中でいつまでも引きずっていたり、アッサリしたいけどできなくて、ネチッこく、いつもいつも心から離れないものね」

正太 「そうそう。そのトリモチみたいにペタッとくっついて「いつもいつも心から離れないもの」。それが何かというと、人によって、たとえば、出世とか、お金とか、名誉とか、異性とか、外見とか、肩書きとか、名刺とか、財産とか、家屋敷とか、容貌とか、人からの評判とか、食べ物とか、酒とか、家柄とか、学歴とか、健康の不安とか、将来への不安とか、過去への不満とか、過度の劣等感とかなんだね。あるいは、子供時代に父親から虐待されたことだとか、昔フラれた彼女(彼氏)のことだとか、自分の子供のこととか、なんだ。
さらに、もっとマイナスのものになってくれば、誰かに対する積極的な憎しみとか、恨みとか、怒りとか、嫉妬とか、たとえば、主婦だったら「旦那からの愛情が足りない、足りない」とか、サラリーマンだったらたいてい「上司の悪口」とかだね。気がついたら「アイツ、アイツ」「あのヤロウ、あのヤロウ」と思っているわけだよ。こんなふうに「フッと気がつくといつも考えていること」―これが執着なんだ」

勇二 「いやあ、わかるわかる。実によくわかるよ。特に一番最後の例なんかはね(笑)」

正太 「人間の「心の針」っていうのは、1日24時間、振り子のように揺れているんだけど、こういう執着を持ってしまうと、心の針が下のほうの一点でピタッと止まってしまうんだね。そうすると、同じ波長を持った悪霊が、その執着を足がかりにして憑依してくるんだよ。つまり、執着を持つということは、地獄界にいる悪霊に、ロープを降ろしたのと同じことになるんだ。悪霊としては「これ幸い」とばかりに、そのロープをスルスルッと上ってその人にすがりついてきてしまうわけだ」

勇二 「そうか。自分の外にいる悪霊が悪いというよりも、自分の心の中に、悪霊を手引きするものがあるわけだね。心の中に敵がいるわけだ」

正太 「そうなんだ。執着をもつと、それと同じ執着が原因で地獄に堕ちた人、同じ執着に苦しんで地獄に堕ちた人に、はしごがかかってしまうんだね。そうなると「この世だ、あの世だ」なんていう垣根は存在しなくて、その悪霊と同じ世界の住人になってしまうんだよ。だから、やって来れてしまうんだ。
 執着の対象というのは、ほとんどがこの世的なもの、その人がこの世において「欲しい、欲しい」と思っているもので、たいていの場合、それ自体がその人にとっての「悩みのタネ」でもあるんだね。そうした「執着」や「悩み」の波動が、電磁石のように、それと同質の地獄霊を引き寄せてしまうわけなんだ。執着、あるいは悩みの臭いを嗅ぐと、悪霊というのは、まるでハイエナか何かのように必ず寄ってくるんだよ」

勇二 「そうか。でも、心の針が一点にとどまるのが執着というけど、心の針というのが良いほうに止まるのなら、いいんだよね?」

正太 「そう。プラスの思い、たとえば、人に対する「与える愛」の思いであるとか、親切な思い、世の中を良くしていこうという思いとか、そうしたほうで一点に止めれば、いいほうで止まっているんだね。そういうふうに、良いほうへ止めるとどうなるかというと、もちろん思いのレベルにもよるけど、天使の指導を受けられるんだよ。
 ところがたいてい、思いが一点に止まるという場合、いいほうに器用に止まらなくて、下のほうで止まっていることが多いんだね。するとどうなるかというと、下の世界、曇った世界からの指導を受けることになってしまうんだ」



憑依霊がいちばん嫌がるのは「反省と感謝」 

2007-04-29 | 憑依霊がいちばん嫌がるのは「反省と感謝」
勇二 「ふーむ。そうか。じゃあ、憑依を防ぐだけじゃなく、自分が地獄に堕ちないためにも、そういう地獄霊たちと波長を合わせない生き方をすることが大事だね」

正太 「そのとおり。また、もし、そうした憑依霊が自分にきているなら、それは「自分の心には間違いがある」ということを教えてくれているともいえるんだ。だから、「自分の心を正す」という作業と、「憑依霊を取る」というのは同じことなんだね。
 この憑依霊が、いちばん嫌がるのが何かというと「反省と感謝」なんだ。というのも、憑依されている人が反省と感謝を始めると、その後頭部から後光が差し始めるので、だんだん、憑依霊と波長が合わなくなって、憑いていられなくなるんだよ」

勇二 「ほーお、「反省と感謝」か」

正太 「自分の悪い思いや行いを一つ一つ反省してゆく行為というのは、霊的に見ると、悪霊の体に光の矢を一本一本打ち込んでゆくのと同じなんだね。
 地獄霊が憑依してくるのは、もちろん心の波長が一致しているからなんだけど、もっと具体的に言うと、昔から「己心の魔」という言葉があるように、悪霊と同じものを、心の中に持っているからなんだね。それを取り去らないかぎり、根本的な解決にはならないんだよ」

勇二 「悪霊と同じもの、っていうと?」

正太 「これが「執着」なんだ。執着を持つことによって、悪霊にプラグを差し込まれてしまうんだよ」

地獄は人間が出す悪想念の数だけ無数に存在している

2007-04-28 | 憑依霊がいちばん嫌がるのは「反省と感謝」
勇二 「なるほどね。じゃあ地上の人間に憑依してくる地獄霊っていうのは、そうした畜生道の動物霊とか色情霊の他にどんな霊がいるの? ていうか、「他にどんな地獄があるのか」って聞いたほうがいいかもしれないね」

正太 「まあ、今は「憑依」がテーマだから、つっこんだ説明は別の機会に譲るけど、他に有名なところでは「餓鬼地獄」というのがあるんだね。
 ここは、お腹だけがポコッと出て骸骨みたいにやせ細った人たちが、食べ物を奪い合っているような地獄なんだけど、これはどういうことかというと、食べ物で代表されるような「何か人から自分に与えてほしい」という気持ちの表れなんだね。「とにかく他人から何かを貰いたい、何かをしてもらいたい」という貪りの気持ちが強くて、いつも「満たされない」という気持ちで心が占められていたような人たちが堕ちる地獄なんだ。
 似たところでは「焦熱地獄」。ここも「他人に愛を与える」なんてことは忘れてしまって、「渇望」、つまり物欲が強くて、足ることを知らずに不足や不満ばかりを心に思って生きていた人たちが行く世界なんだ。そういう人たちの渇いた心、つまり他人に対して優しく、潤いを与えられるような心がなく、ひたすら「欲しい、欲しい」という渇いた心が、熱風が吹きつける灼熱の砂漠という心的風景をつくりだしているんだよ。
 それとか「擂鉢地獄」。ここも活火山の火口みたいなスリル満点の地獄なんだけど、ここに堕ちているのは、生前、愛や慈悲も無くて、他人を蹴落とすことばかりに執心してきたエゴイストたちなんだね。
 あとは、怒りの炎で他人を焼き焦がしてきた人たちが行く「火炎地獄」だとか、ペンペン草が生えているだけの真っ暗な砂漠で、歩いても歩いても誰とも会わないような「孤独地獄」だとか、人を言葉で傷つけたり、争いばかりして「闘争と破壊」に生きた人たちが堕ちる「阿修羅地獄」だとか、要するに、人間が出す悪想念の数だけ、マイナスの想いの数だけの無数の地獄が広がっているんだよ」

勇二 「うわーっ、そんななのかい。じゃあ、この世に生きている間、自分の心をきちんと正していくっていうのは、本当に大切なことなんだね。さっき君が言っていた「心の経営」っていうのは、本当に真剣に取り組まないといけないな」

正太 「そうなんだ。地上人生の目的は、「魂の修行」つまり「魂を磨き、高める」ということにあるんだけど、言い換えれば「心の運転技術を磨く」「心をコントロールする技量を高める」ということでもあるんだ。天使とか菩薩といった立派な人たち、高級霊というのは、たとえていえば「心の名ドライバー」「心のコントロールの達人」なんだね。逆に、地獄に堕ちた人というのは、この世に生きていたとき、心のハンドル操作を間違っていた人たち、「心の管理」に失敗した人たちなんだよ」

「畜生道」と「色情地獄」に墜ちる現代人が非常に増えている 

2007-04-27 | 現代人が堕ちやすい畜生道と色情地獄
正太 「これはいずれ詳しく話すけれど、動物の魂というのは、無色透明じゃなくて、一定の魂の傾向性というものが刻印されているんだね。だから、人間として生きていながら、ある特定の動物の傾向に強く似てきた人は、その動物たちの地獄に行くことがあるということなんだ。
 たとえば、蛇だったら、猜疑心が非常に強く獰猛で攻撃的、といった傾向性が刻印されていて、魂の自由性を発揮した結果、そうした偏りを持ったものたちが、蛇という姿で地上に現れてきているんだね。狐だったら「人を騙す」「嘘をつく」という傾向性、それと狐には「おいしいものを食べたい」という食べ物系でなかなか満足しない貪欲さもあるんだよ」

勇二 「そういえば「狐が人を騙す」って話は、日本だけじゃなくて、西洋の寓話とかにもあるね」

正太 「うん。それと、強壮剤でよく蛇の粉末が使われているように、蛇や狐というのは性欲、情欲が非常に強いことも特徴なんだね。だから、この畜生道では、色情霊として狐や蛇の姿に変化している人間がかなりいて、水商売系では、そうした狐や蛇の霊がホステスに憑いていることも多いんだよ。それは、純粋な動物霊の場合もあるんだけど、今言ったように動物の姿に変化している人間霊の場合も多いんだ。狐が憑いた女性なんかだと、目がほんとに狐っぽかったり、霊感のある人が見たら、背中の後ろで尻尾がユサユサ揺れてる、のもわかるんだね」

勇二 「うーん、実感だね。といっても、僕はおつきあいで行ったことがあるぐらいだけど(笑)、でも人間が、動物霊になったり、憑かれているというのも、情けないというか怖いことだよね」

正太 「また、さっき言った稲荷信仰や水神信仰で、人間の欲念に感応して出てくる狐や蛇の場合も、実はそうした「元人間」がかなりいるんだね。純粋な動物霊というのは、話せても「はい」か「いいえ」ぐらい、返事をしても「マル」か「バツ」の二つくらいで、明確な言葉が話せないんだけど、「わしは稲荷大明神じゃ」なんて言って出てくる狐は、昔、人間をやっていた霊なんだね」

勇二 「ふーむ、言葉が話せる動物霊は元人間か」

正太 「それと、この畜生道の近所に色情地獄があるんだね。この地獄は生前「性的快楽こそが人生最高の喜びだ」といった価値観で生きた人がいく世界で、現実に乱れた男女関係にあった人や、行為はなくても心の中がいつもエッチな妄想で渦巻いていたような人がいく世界なんだ。
 ただ、これも誤解がないように言っておくけど、「性的関係は、すべて色情霊を呼ぶもので、悪だ」というわけではないんだね。正常な夫婦間の性生活の場合、行為としては同じでも、色情霊は寄ってこないんだね。不思議だけど、心得ていてこないんだ。ただ、正当な夫婦関係があっても、少し異常性があったり、やや常軌を逸したような性生活をしていると、寄ってくることがたまにあるんだけどね。
 だけど、商売がらみの場所で遊んでいると必ず来るし、邪で周りの人々の祝福を受けられないような性的関係も、色情霊を呼びやすいんだよ。
 色情地獄の中には有名な「血の池地獄」なんていうのもあって、これなんかは、びっくりするかもしれないけど、心の中に色情地獄をつくっている女性や、歓楽街なんかで働いている女性の子宮の中にできているんだね。子宮のドボドボの血の池の中で、小人みたいにちっちゃくなった男女の色情霊たちがミミズみたいに絡み合っているわけなんだ。
 こうした中で、自分たちが目指してきたものが、実はこのように苦しく醜いものだったということが、十分わかるまで経験させられるんだよ」

勇二 「ウェーっ、ホントかい。なんだか気持ち悪くなってきたな」

正太 「言っておかなくちゃいけないのは、「現代人の半分以上は地獄に堕ちている」という現実があるんだけど、中でもこの「畜生道」と「色情地獄」に墜ちる人間が非常に増えている、ということなんだ」

勇二 「うーん。まあ、聞いていると、わかる気もするな。とにかく欲望社会ということで、金だ、セックスだ、ギャンブルだ、食い物だーで、欲望や本能、快楽の方向にのめりこんでいる人は多いからね。ヘビみたいに執念深く恨んだり、妬んだりしてるのもけっこういるだろうしね」

正太 「だから、悪霊による憑依の中でも、そうした動物霊(といっても元人間が多いんだけど)の類に憑依されている場合も多いんだね。
 たとえば、リューマチなんかで「足がいつも冷えて困る」という人の場合には、蛇の霊などが足にグルグル巻きついていることがよくあるんだね。
 また、慢性的に頭痛がする人、いつも「頭が痛い、痛い」といっているような人の場合も、それこそ、頭に鉢巻きでも巻いているように、長い蛇の霊が頭に巻きついていたりするんだね。あるいは、狐などの霊が、前足でピッと頭を挟んでいたりするんだよ。それから「肩や首のところが、普通でない形でいつも痛んでいる」という人は、これは動物の霊に限らないけど地獄霊が乗っていたりするし、腰なんかの場合も同様だね」

人間が動物の姿に変化している「畜生道」とは?

2007-04-26 | 現代人が堕ちやすい畜生道と色情地獄
勇二 「そうか、祈りというのは電話をかけるのと同じなのか。じゃあ、電話番号を間違えないようにしないとね。「悪魔に直通」なんていうんじゃ怖いからね。…えーと、さっき、君は、動物霊の障りには二種類あるといったけど、もう一つというのはなんなのかい?」

正太 「うん。あの世の地獄界には「動物界」別名「畜生道」というところがあるんだね」

勇二 「畜生道? ああ、さっき君が言ってた、迷っている動物の霊がいる世界のこと?」

正太 「そうなんだけど、なんと、ここに墜ちている人間もたくさんいるんだよ」

勇二 「えーっ、人間が動物のいる地獄にいるわけ?」

正太 「そう、ここでは動物の姿をした人間がたくさん生活しているんだ。たとえば、芥川龍之介の小説で「杜子春」というのがあるけど、この中で、畜生道に墜ちた人間が描かれているんだね」

勇二 「杜子春って、たしか中学のとき国語の教科書に載ってたね。内容は忘れてしまったけど」

正太 「主人公の杜子春の両親が畜生道に墜ちていて、顔は人間なんだけど体が馬になっていたんだね。この地獄では、体が馬で顔が人間、体が豚で顔が人間といった姿になっていて、体だけでなく顔も動物に変わってしまっている人も数多くいるんだ。昔、人間だった老婆がそれこそ大蛇になってしまって、のたうちまわっていたり、そうした蛇たちがときどき地上に出ていっては、生きている人間の首や腰に抱きついたり、といった光景が展開しているんだよ」

勇二 「うーわ、まるでホラー映画の世界じゃないか。なんで、そんな動物の姿なんかに人間が変わってるのかね。あの世は、心がすべて、想念がすべての世界というから、この世で生きていたときに、なにか動物に近いような心で生きていたということなのかい?」

正太 「そうなんだよ。ここに墜ちている人たちというのは、この世にいたときに、人間としての心を見失って、動物のような生き方をしていた人たちなんだね。人間としての尊厳を忘れて、本能や欲望のおもむくままに生きた人たち、煩悩に振り回されて生きた人たちの末路なんだ。欲望のままに生きるような生き方は、動物の生き方と変わらないんだね。だから、そういう動物の姿をとって反省の期間を迎えることになるんだ」

勇二 「本能や欲望のままに生きた、…うーん、厳しいね」

正太 「たとえば、猜疑心が非常に強く、残忍で、執念深い人、しつこくしつこく人を妬み、恨んでいる人、あるいはお金に執着して他人に意地悪をしつづけてきたような人は、体が蛇のようになっているし、人を騙すことばかりに汲々として、自分だけの利益を考えているエゴイストは狐の姿になっているんだね。また貪りの気持ちが強かった人や、怠惰な生活をしてゴロゴロしていた人なんかはブタの姿に変わってしまっているんだ。結局、「品性の低さが人間の姿を動物に変えてしまう」ということなんだよ」

勇二 「ふーむ。でも、心のあり方しだいで、変化する動物の姿が違ってくるというのはどういうことなんだろう?」

 

日本で動物霊の障りが多い理由 

2007-04-25 | 現代人が堕ちやすい畜生道と色情地獄
正太 「そうそう。昔風にいえば「ダッコちゃんスタイル」でしがみついていることが多いんだね。霊が憑依してくる部分というのは、そこに何か引っかかりがあるんだよ。つまり、鬱血していて疲労素や痛みがあるような箇所というのは、霊的に見ると、そこに暗い陰りができているんだ。それは、ちょうど東洋医学でいう「つぼ」のあたりなんだよ。動物霊が憑依する箇所なんかは、それとよく似たところなんだね」

勇二 「動物霊? というと動物もやっぱり霊なのかい?」

正太 「もちろん動物も霊なんだよ。まあこれもここで説明しだすと長くなるけど、動物霊の障りというのは二種類あるんだね。ひとつは純然たる動物の霊で、動物も生まれ変わりをしているし、善と悪ぐらいは勉強するようになっていて、幸せに死んだ動物は天界のほうに還っているんだけど、恨みとか悲しみ、苦しみのもとに死んでいった動物たちは地獄に墜ちているんだね。そうした迷っている動物たちが、人間の「欲」の部分に感応してきて、いろいろな障りを起こすということがあるんだ」

勇二 「そういえば、昔からよく「狐が憑いた」とか「ヘビが憑いた」とか言うよね。あれは一体なんなのかね?」

正太 「まあ、そこまで話を広げていくと脱線するけど…」

勇二 「いいよ、いいよ。これまでも脱線する度に、理解が深まってきた気がするんだなー」

正太 「相変わらず乗せるのがウマいね。それこそ「つぼ」を外さない(笑)。えーと、日本で、動物霊の障りが多いのは、いろんなかたちで動物霊を信仰していることが大きいんだね。特に、狐とか蛇の類の現象が多いのは、稲荷信仰や龍神あるいは水神信仰が盛んなのと関係があるんだよ。
 「お稲荷さん」とよんで狐を祀ったようにしているけど、このお稲荷さんの正体が何かというと「稲荷大明神」といって、動物たちを指導したり訓練する役割の高級霊のことなんだね。動物たちの魂の修行が進むように先生役をしている役割の方があの世にいるんだ」

勇二 「へーえ、まるで動物王国のムツゴロウさんみたいだね。そんな人があの世にもいるんだ」

正太 「稲荷大明神というのは役職の名前で、そうした役割をしている人が一人だけじゃなくて、たくさんいるんだね。そして、実際、「狐として最高度に進化した霊たちが、霊界で稲荷大明神の使いとして働いている」という事実はあるんだよ。
 ところが全国の稲荷神社などでは「動物たちの先生役をしている神様を祀る」ということはしていなくて、「あれが欲しいので叶えてください」とか「これを手に入れたい」とか、単なる御利益信仰の対象になってしまっているんだね。そうしたことを人々が欲得で祈っていると、その欲念が神社仏閣を中心にたまってきて、その結果、死んだあと迷っている動物霊たちがその欲念に引かれてたくさん集まってくるんだ。稲荷神社なんかだと、そういう欲念というのは、地獄で迷っているほうの狐に通じてしまって、それがエネルギー源となって、そうした狐が暴れだすということがあるんだよ」

勇二 「ははーん。それも一種の波長同通だね」

正太 「うん。迷っている動物霊というのは、ひもじい思いでいることが多くて、お供え物をしてもらうことで、それを紛らわそうとするんだけど、いくらお供え物をしてもらっても、実際には食べられから、ますますひもじくなってしまうんだね。
 そのため、満たされない欲望が爆発してしまって、たとえば、お供え物をしてくれた人たちに取り憑いて、リューマチや肩こりを起こしたり、頭を締め上げたりということが起きるんだ」

勇二 「そうか、そんなことがあるのか。そういえば、日本じゃ「猫信仰」なんてあまりないから、「迷っている化け猫が暴れて障りを起こす」なんてことはあまり聞かないよね」

正太 「そうそう(笑)。同じように、水神信仰とか龍神信仰とかいいつつ、(実際、あの世に龍神という存在はいるんだけど)欲望のままに祈っていると、そうした念というのは、地獄の蛇のほうに通じてしまって障りが起きたりするんだ」

勇二 「なるほどね」

正太 「だから「祈り」というのはこわい面があって、祈るということは電話をかけるようなものなんだね。神社仏閣で祈っても、その内容が本当に無私な美しい祈りなら、天使や神々がいる高級霊界に通じていくけど、逆に、極端なものでいえば「あんな奴が死んでしまいますように」みたいな祈りもあるんだね。そうした祈りというのは、まっすぐ地獄の世界へと回線がつながってしまうんだよ。現代人の祈りを見ると、天国に通じていくような清い祈りというのが、ほんとうに少なくなっているのが現実なんだ」


悪霊に憑依された場合の特徴は「感情のブレが非常に激しくなる」こと

2007-04-24 | 地獄霊はなぜ地上の人間に憑依したがるのか
正太 「うん。地獄霊の憑依を受けると、憑依される原因になった心の傾向性が増幅して、理性的なコントロールがきかなくなってくるんだね。
 たとえば、色情霊に憑依されると、体が言うことをきかずに、理性的な判断ができなくなって、異性のことしか頭に浮かばなくなる、ひどくなれば、身体が自然に異性のほうに動いていってしまう、といった具合だね」

勇二 「ああ、そういうエッチな人っているね」

正太 「あるいは、阿修羅霊とかが取り憑いてくれば、それまではある程度理性で抑えていたのが、ブレーキがきかなくなって、真っ昼間からお構いなしに人の悪口をパッパパッパいい始める、周りの人が見ても信じられないような内容のことを言いだすとかね。
 ただ、悪霊が憑依してきた場合、共通して言えるのは「感情のブレが非常に激しくなる」ということ。特徴的には、非常に怒りやすくなり、すぐにカッカくるようになるんだ。また価値観や世界観がガラッと変わってしまって、全てが悲観的、否定的に見えてくるんだ。情緒が非常に不安定になるんだね。また、夜が眠れなくなる、というのも特徴だ。
 そして「人のために何かしよう」とか、「人に対して愛を与えたい」なんていう気持ちはサラサラ起きてこなくなって、いつも苦しく、被害妄想で人や環境に対する不満がたくさん出てくるようになるんだよ」

勇二 「なるほど、「感情のブレ」か。やっぱり、心の平静っていうか、心を穏やかにしていくことが大切なんだな。それと、半分冗談なのかもしれないけど、よく「霊を背負うと重い」とか言うよね」

正太 「うん。冗談とかじゃなくて(笑)、実際、悪霊が憑いていると、体は重いんだね。事実上、霊には重さがないんだけど、一名、あるいは二名、三名の霊の苦しみを背負うと、やっぱり重いものなんだ。体が重くて、毎日、調子が悪く、ちょうど梅雨時の、どんよりした天気の日に満員電車に乗っているような、うっとうしくて、体がだるく、やる気がでない感じが、悪霊が憑いているときの感じなんだね」

勇二 「ふーむ。じゃあ、霊が憑依してくる箇所っていうのは、よく言うように、やっぱり肩とか腰が多いの?」


「他人にも自分と同じ苦しみを味わわせたい」というのが憑依霊の行動原理 

2007-04-23 | 地獄霊はなぜ地上の人間に憑依したがるのか
正太 「そうそう。天国に還った霊人の場合は、天国の暮らしになじんで、この世の生活を忘れていくんだけど、地獄に堕ちた霊にとっては、この世というのは非常にありがたい世界で、うらやましくて仕方がない所なんだね。とにかく「人間として生きていた時代の方が今よりよかった」と思うわけなんだ」

勇二 「そうか。たとえ、この世がしんどかったとしても、地獄よりははるかにマシなんだろうね」

正太 「うん。だから、地獄にいる人たちの多くは、何とかして地上に自分の生活の場を見つけたいと思っていて、乗り移れそうな人がいれば、先を争って憑依してくるんだね。この世の人に憑依すると、肉体が仮に手に入るから、かなり、生まれ変わったような気分が味わえるんだ。彼らとすれば、かつて人間だったときの感覚を取り戻して、一息つけるんだよ」

勇二 「それじゃあ、地獄に堕ちている人にとって、憑依できる相手というのは、しがみつける浮き輪みたいなもんだね」

正太 「そうそう。そしてどうするかというと、取り憑いた相手を惑わしていって、自分の「コピー人間」に変えていくんだ。その結果、何年か、何十年か後に、憑依した相手が死ぬと、当然自分がいる地獄に堕ちてくるから、仲間を増やしたことになるんだね。すると今度は、その堕ちてきた人といっしょになって、別の地上の人間に憑依して、また次なる仲間を増やしていく…。これが地獄界拡大のメカニズムなんだ」

勇二 「おいおい、それはひどいじゃないか。そんな不幸の拡大再生産みたいなことをして。地獄という世界だって、しっかり反省すれば、また天国に上がってこれるのに」

正太 「そう。だから憑依霊というのは例外なくエゴイストなんだね。自分が苦しみから逃れたい一心で取り憑くから、自分が憑いている相手の幸福のことは考えないんだ。むしろ、彼らは、人が悩んでいたり、苦しんでいたりするのを見ると、愉快でしょうがないんだね。それで、「この人を、もっと苦しめてやろう」「この人を発狂させて殺してやろう」「この人の人生を、何とか破滅させてやろう」といった悪いことを考えているんだよ。人の人生を破壊して喜ぶわけなんだ。つまり、自分と同じ苦しみを味わう仲間を増やすことによって、自分自身の苦しみを和らげようとするんだよ」

勇二 「いくら地獄に堕ちて苦しいからといったって、それは人間として最低の心境じゃないか」

正太 「ただ、こうした心というのは、地獄に堕ちている人だけに特有というよりも、この世の人間にもどこかにあるんだね。つまり、自分自身が幸福になれそうもない場合、「せめて他人も不幸になれば喜べる」とか「誰かが失敗すればスッキリする」とか、他人の不幸を喜ぶような心がどこかにあって、これが地獄の心の始まりなんだけど、地獄霊というのはそうした思いがストレートに出てきているわけなんだ」

勇二 「でも、そんな悪いことをすれば、本人だってますます罪が重くなるんだよね」

正太 「そのとおり。地上の人間に憑依して悪さを重ねると、その霊は地獄界で罪が重くなるんだね。地上の人に憑いて、人を死なせたり、破滅させたり、借金地獄に落とすとかして、罪が重くなっていくと、それまでいた地獄にいられなくなって、もう一段下にドーンと堕ちていくんだ。
 しかし、そこでまた悪さをすると、さらに下へ堕ちていくんだね。悪さをするたびに下に堕ちていって、どんどん苦しくなっていくんだよ。罪が重くなってしまって、ますます地獄から出られなくなってしまうんだね」

勇二 「うーん、そうか。じゃあ、逆に、地獄霊に憑依された側の人には、どういう変化が起きるんだい。たとえば、自覚症状としては、どんなことが挙げられるの?」


地獄霊は、地上の人間に憑依すると、地獄の苦しみから逃れた上、生前の感覚を味わうことができる

2007-04-22 | 地獄霊はなぜ地上の人間に憑依したがるのか
正太 「うん、地獄という世界は非常に苦しい世界なんだね。ちょうどプールや海の中に潜って長く息を止めていたら苦しいように、地獄にいる霊たちも暗黒の世界にいたら、やはり苦しいんだね。そこで地獄の苦しさから逃れるために、一時期、地獄から這い出そうとして、地上の人間に憑依するんだよ」

勇二 「ふーむ、そうか。地上の人間に憑依していれば、その間、苦しい地獄から抜け出せるというわけなのか」

正太 「そうなんだよ。それというのも、前にも言ったけど、憑依ということが起きる根本には、「地獄界からは地上には生まれ変わってこれない」という事情があるからなんだ。地獄にいる人は、反省して、最低限4次元幽界の精霊界(4次元幽界の中の地獄でない領域)まで上がってこないと、生まれ変われないことになっているんだね。
もし、地獄から生まれ変われるなら、彼らも赤ちゃんとしてこの世に生まれてくればいいわけだけど、それができないからこそ、地獄の責め苦から逃れたくて、生きている人間に取り憑いて、惑わし苦しめるということをやっているんだよ」

勇二 「なるほどね。彼らとすれば、それこそ、「溺れる者は藁にもすがる」感じで、地上の人間にすがり付いてくるわけだ」

正太 「そう。それと、地獄霊が憑依してくるもう一つの理由は、地上の人間に憑いていると、生きていたときと同じ感覚が味わえるからなんだね。たとえば酒乱の霊が自分によく似た地上人にとりついて酒を飲むと、同じ感覚が味わえるんだ。霊体だけだと、そこまでは感じないんだけど、他人の肉体に入ると酒の感じ、舌触りがよくわかって「ああ感じる。これはやめられないな」と思うんだよ。
 また色情地獄、血の池地獄ともいうけど、こういう世界も現実にあって、そこに堕ちている霊は地獄で男女の絡みをやっているわけだけど、肉体がないので、どうしてもこの世的な欲望を満たすことができないんだね。ところが地上で自分と同じ執着を持っている人間に憑いて肉体に入ると、そうした感覚が味わえるんだよ。だから盛り場だとか色街、歓楽街なんかには、そうした酒好きの霊や色情霊がウヨウヨいることも事実なんだ。
 あるいは、人の悪口ばかり言って地獄に堕ちた人は、地上にいる、自分とそっくりの人に憑いて他人の悪口を言っていると、胸がスッとするんだね。ストレスが解消できるんだ。あるいは、すぐカッと怒って人とけんかや争いごとをする阿修羅地獄霊が、自分と同じようなタイプの、たとえばヤクザとかけんか好きの人間に憑いていれば、思い切り暴れて、その人なりの自己実現が果たせるんだね」

勇二 「なるほどね。地獄の苦しみからは逃げだせて、しかも生きてたときと同じ感覚が味わえるというんじゃ、地獄霊にとっては一石二鳥だよね。それじゃあ、憑依というのはなかなか止まないだろうね」


地獄霊は「波長同通(同類相集まる)の原理」に従って地上人に取り憑いてくる 

2007-04-21 | 反省によって「憑依霊」が取れる
勇二 「ふーむ。「憑依霊」って言葉はよく聞くし、脳死臓器移植後の人格変化も実はそれが原因だ、って、さっき君から聞いたね。でも、なんで、そんな憑依なんていう現象が起きるんだい?」

正太 「これは、今まで何度か取り上げてきた「波長同通の原理」によるんだね。この世の人間が悪い心の状態、マイナスの心の状態でいると、地獄にいる霊と波長が同通してしまって、その地獄霊がその人のところにやってきてしまうんだ。地上の人が、地獄にいる人と同じような心の傾向性を持ったり、もっとも一般的なのが、地獄にいる人と同じ執着を持ってしまうと、心の波長、周波数がバチッと合ってしまって、その悪霊が地獄から出てきて、取り憑いてきてしまうんだよ」

勇二 「なるほどな。要するに、この世の人が、地獄にいる人と同じ心境になると、「類は友を呼ぶ」の法則で、地獄霊を「お友達」として引き寄せてしまうわけだ」

正太 「そうなんだ。憑依といっても、何の関係もない人に憑依できるわけじゃないんだね。自分の心の中、想念の中に地獄をつくっている人だけに憑依できるんだよ。
 たとえば、心の中に色情地獄をつくっている人のところには、色情地獄霊が来るし、心の中に動物地獄、畜生道をつくっている人のところには、動物霊がかかってくる。心の中に闘争と破壊の阿修羅地獄をつくっている人のところには、阿修羅霊が取り憑いてくる、という具合なんだ」

勇二 「ということは、「波長同通の原理」「同類相集まる」という法則は、この世の人間と、あの世の人間の間でも成り立つ、ということなんだね」

正太 「そのとおり。たとえていえば「どこでもドア」のようなものなんだ」

勇二 「どこでもドア? ああ、ドラえもんに出てくる「ドアをあければどこにでも出れる」っていうドアのこと」

正太 「そうそう。霊界とこの世の間は、普段はきっちり扉が閉められていて同通しないように見えるけど、本当は、この世の人の心の波長、周波があの世の存在と同じ波長、周波になったときに、「どこでもドア」が開くように同通するんだよ。これはちょうど、テレビ電波の周波数にチャンネルを合わせると、テレビに番組が映るのと同じ原理なんだね」

勇二 「なるほどね。波長、周波数が合えば、「この世だ、あの世だ」なんて垣根はないも同然で、互いにツウツウになってしまうわけだ」

正太 「そうだね。ただし、地上の人間の心の波長が、きちんと天上界のほうに合っている場合は、天国にいる人は、地上に執着なんか持っていないから、この世の人に憑依してくるなんてことはないけどね(笑)。そのかわり、天上界にいる自分の守護霊のインスピレーションを受信できるとか、良い方向での指導を受けやすくなるんだよ」

勇二 「じゃあ、地獄にいる霊は、なんで「この世の人間に取り憑く」なんていう迷惑なことをするのかい?」

反省することで「憑依霊(地獄霊)」を取ることができる 

2007-04-20 | 反省によって「憑依霊」が取れる
正太 「こんなふうに反省によって心を浄化することができるんだけど、この反省によって自分に憑いている憑依霊を取ることもできるんだ」

勇二 「憑依霊を取る?」

正太 「うん。現代では、半分以上の人が、悪霊、つまり地獄にいる霊から、なんらかの悪い霊的な影響を受けている、というのが実情なんだよ」

勇二 「うへーっ、憑依ってそんなに多いのかい」

正太 「うん。もちろん、霊の中には、よい影響を与えてくれる天上界の霊、たとえば本人にいちばん縁があってどんな人にも一名は必ずついている「守護霊」とか(この守護霊についてはいずれ詳しく説明するけれど)、直接の縁はなくて、限られた人だけに役目上、必要があってつく「指導霊」という高級霊とか、これ以外にも、先に亡くなった友人や、二代、三代前のしっかりした先祖などの中で、援助を送ったりする「縁故霊」などもいるんだけど、地上人への影響からいうと、残念ながら、地獄霊(悪霊)と言われるもののほうが数としては圧倒的に多いんだね」

勇二 「ふーむ」

正太 「たとえば、「守護霊がニコニコしている」とか、「天上界から霊指導を受けている」というような人は、10人に1人もいなくて、100人に2、3人いればいいほうなんだね。逆に、10人に7、8人ぐらいは、悪いほうの影響をどこかで受けていることが多いんだよ」

勇二 「へーえ、というと」

正太 「つまり、7、8割ぐらいの人は、憑依霊という「お馴染みのお客さん」を持っているんだね。ただし、全部が全部、いつもいつも憑いているわけじゃなくて、常時憑いているのは全体の5割くらいなんだ」

勇二 「5割っていうと、2人に1人じゃないか。それこそ半分ぐらいの人には、馴染みの「お客さん」がいつも一緒にいるわけ? そういや、僕も肩のあたりが妙に重かったりすることがあるけど、大丈夫かな」

正太 「憑いている人数は少ない人で1人、多い人で5、6人くらいなんだね。平均すると、2、3人くらいがウロウロしていることが多いんだよ」

勇二 「へー、そんななのかい。じゃあ7、8割の人が憑依霊を持っていて、常時憑いているのが5割だとすると、それ以外の残り2、3割の人には、憑いたり離れたりしているわけ?」

正太 「そうなんだ。いつもいつも憑いているわけじゃなくて、イライラしたりキーキーしたりして、心が乱れたときにポンとやってくるという具合なんだよ」

「日々の反省」を習慣化することの大切さ 

2007-04-19 | 反省によって「心の曇り」が取れる
正太 「うん。それと、これも後で詳しく話すけど、地獄という世界も、昔から言われているように、光の差さない暗い世界なんだけど、なぜ地獄がそういう状態になっているかというと、今言った悪想念というのが霧のように立ちのぼっていて、上空に雨雲のようなものができているんだね。悪想念でできた雨雲のようなものが、上空をほとんど覆いつくしていて、霊太陽の光を遮っているので、一面真っ暗になっているわけなんだ」

勇二 「そうなのか。地獄は暗黒の世界っていうけど、それは人間が自分でつくり出した悪想念で光が差さなくなっているからなのか。それこそ自業自得のようなものだね。というと、地獄は、神様が監獄みたいなものわざわざつくったというよりも、人間が自分たちで作り出した世界ということになるね」

正太 「そうなんだよ。地獄という世界は、人間が仏から与えられた「自由性」というものを、間違った方向に発揮した結果できた世界なんだね。…まあ、このあたりのことは、いずれじっくり話すとして、「心の曇り」に話を戻すと、そうした地獄に堕ちないようにするには、心の曇り、汚れというものを、反省によって、生きている間に取り除いておくことが、大切なんだ」

勇二 「でも、そういう「心についた汚れ」っていうのは、こまめに取っていかないと、とても一生ぶんを一度に落とせるものじゃないよね。家の掃除だって、何十年もやらずにいたら、それを一気にやれといったって、無理だしね」

正太 「そうなんだよ。だから反省というのは一生をまとめてするよりも、できたら毎日毎日するほうがいいんだ。
 たとえば、水の中に一滴一滴墨汁のようなものを落としてゆくと、一滴一滴だとたいして曇らないんだけど、だんだんたまっていくと、水が真っ黒になるよね。こうなってしまうと、新しい水を入れたからといってそう簡単にきれいにならなくて、バケツの水ごとひっくり返して、新しい水に替えなきゃいけなくなる。それと同じで、何十年もたいへんな生活をした人の反省というのは、それほど難しいもので、「反省すればきれいになる」といっても、真っ黒なバケツの水を入れ替えるみたいに、よほど頑張らないと心を入れ替えることができないんだ。ところが、一滴一滴の小さな曇りを、そのつどそのつど、取り除いていくのであれば、全体はそんなに曇らなくてすむんだよ」

勇二 「そうだよね。よーし、毎日反省するぞー。一日単位で決算していって、そのつど赤字を消しこんでいけば、最後の本決算でパニクらなくてすむからね。…でも、反省してこなかった今までの人生のぶんというのは、どうすればいいんだろう?」

正太 「うん、これは、生まれてからのことを、年代を区切って一つひとつ反省していくのがいいんだね。生まれてから5歳ぐらいまでのこと、10歳ぐらいまでのこと、15歳ぐらいまで、成人する20歳まで、30歳まで、40歳までというように、ある程度、年代を区切って自己反省していくしかないんだよ。そして過去のことをいちおう清算したら、それからの毎日は、「一日一生」の思いで、自分の心の中に生起したことを反省していくんだ。間違った思いを持ったら、その時点で修正をかけていく。人に対して間違った行為をしたその時点で、申し訳ないという心を持つ。そして翌日からは違った態度を取っていく。そうした「反省の習慣化」ということがとても大事なんだ」

勇二 「いやあ、いいこと聞いたなー。これからは「ご趣味は?」「反省です」なんて答えていきたいぐらいだよ(笑)」


反省によって「心の曇り」を取り去ることができる 

2007-04-18 | 反省によって「心の曇り」が取れる
正太 「ここまでは想念帯の灰色の記録を金色に変える、という点から反省の意味を説明したけど、反省というのは、それをすることによって「心の曇り」を取り去ることができるんだよ」

勇二 「心の曇りを取る?」

正太 「うん。マイナスの思いや行動をとっていると、今説明したように、想念帯の部分に灰色で記録されるんだけれど、それとともに、この想念帯じたいが曇ってくるんだね。ちょうど、ゴミやほこりがかぶったような状態になって、心そのものが汚れてくるんだ」

勇二 「ほーう、そういえば、愚痴ったり、カッカして怒っているときのことを振り返ると、「心が曇る」という感じは、なんとなくわかる気がするね」

正太 「うん。仏の心に反する思いを持つと、仏の光と反発して曇りができてくるんだね。しかし、反省をすると、そうした心の曇りを取り除くことができるんだよ。「心の浄化」ができるんだ。」

勇二 「というと、反省というのは「心の掃除」か洗濯みたいなものなんだね」

正太 「そうなんだ。ちなみに、マイナスの思いを持ったり行いをすると心が曇るんだけど、逆に、プラス、つまり善いことを思ったり行うと、仏の光が与えられるんだ。
 「与えた愛は与えた人のものになる」というのが、神様がつくった世界の根本の法則で、与えたぶんだけ与えられるんだね。与えられる、というのは与えた相手から与え返されるという意味じゃなくて、与えたぶんだけ、仏から光として与えられるんだね。その人の後光(オーラ)がそれだけ増えるんだよ。
 「与えただけ豊かになる」というのが霊の法則だから、愛多く生きた人というのは、霊的な目で見ると、身体全体が大小さまざまなダイヤモンドをちりばめたように光を放っているんだ。
 あの世の世界、霊界というのは、一番下の地獄は真っ暗で、天国でも上の世界にゆくほど光の強い世界になっているんだけど、その人の光の量が増えるということは、それだけ光の多い世界、高い世界に還っていける、ということでもあるんだよ」

勇二 「そうか。その人の光の量に相応した世界に還っていくわけだね」

正太 「うん。ただし、この愛というのも「量」だけじゃなくて「質」が問題で、与える愛のレベルによって、光の量というのはぐーっと違ってくるんだけどね。この辺は重要だから、後で詳しく話すけれども。
 だから、他人に「愛を与えよう」と思い、それを実践に移すと、仏から光が与えられるんだけど、反対に「人から愛が欲しい、欲しい」とか「愛を得たい、得たい」と思っていると、光は降りてこないんだね。逆に、心に執着をつくって真っ黒な曇りができているんだ。
 こんなふうに、善いことのほうが悪いことよりも多いと霊体に輝きが出てくるんだけど、善いことよりも悪いことのほうが多くなると、霊体が曇ってくるんだね。そして、この曇りをつけたままあの世に還ると、光の世界には還れずに、曇りの世界、つまり地獄という暗闇の世界に堕ちるというわけなんだ」

勇二 「なるほどね。前に、「一生の「思いと行い」をトータルして、善よりも悪が多いと地獄に堕ちる」ということを聞いたけど、善より悪が多くなると、光よりも曇りのほうが上回るから、霊体が輝きを失って、曇ってしまうということだね。じゃあ、地獄に堕ちる原因は、悪想念を出すことによってできた「心の曇り」とも言えるわけだ」

正太 「そうなんだ。この「心の曇り」というのが、まるで日傘でも差したみたいに、神仏の光を遮ってしまうんだよ。まあ、これも後で詳しく話すけど、地獄に堕ちる人というのは、あの世に還ってきたときに、天使とかが見れば一瞬で判別できるんだね。というのも、そうした人というのは、自分が出してきた悪想念の曇りによって、霊体が燻製みたいに煤けたようになっているんだ。霊体の輝きが全くなくなってしまっていて、切れた電球みたいに、真っ黒になっているんだよ」

勇二 「そうか、そんなになっちゃっているのか。心の浄化ってほんとに大事だな」

「反省」することで、マイナスの記録をプラスに変えることができる

2007-04-17 | 反省によって「心の曇り」が取れる
勇二 「えっ、というと、赤字がそのまま黒字に変わっちゃうようなものだよね。魔法みたいじゃないか。何なのそれは?」

正太 「これが「反省」なんだ」

勇二 「反省…、間違った思いを反省すれば、それが金色に変わるわけ?」

正太 「そうなんだ。反省というのは、間違った思いや行いを一つひとつ修正していくことだね。怒りを出したときのことを思い出して、それを仏に詫びること。他人を不幸にする思い、妬みの思い、愚痴や不満や不安な思い、臆病な思い、こうした思いを持ったときのことを一つひとつ思い出して、それを反省して、自分が傷つけた人には詫び、そして神様に許しを請うことなんだ。そうすると、赤や緑や灰色の醜い色の想念帯は黄金の金文字に変わって、人間の魂は再び輝きを取り戻すことができるんだよ。だからこの反省というのは、仏から与えられた大きな許しの原理であって、天国へ還るためのとても大切な手段なんだ」

勇二 「そうだよねー。赤字を出したらそれで確定、じゃなくて黒字にひっくり返すことができるんだからね。じゃあ、反省によって灰色の部分を金色に変えながら、できるだけ愛や慈悲の思いを持って、行いを積み重ねていけば、「心の経営」としては最高になるじゃないか。死んで決算を迎えるときに、大幅黒字になるね」

正太 「そうなんだ。一般に「反省」というと「道徳的によいこと」ぐらいにしか思われていないんだけど、実際はこの反省によって、地獄にいる人は地獄から出てくることができるし、そのままであれば地獄に行くような人であっても、地獄に堕ちないようにすることができるんだ。つまり、反省というのは「世界を分けていくもの」なんだね。それだけの偉大な力をもったものなんだよ」

勇二 「そうか、すごいなあ」

正太 「人間は、この世に生きている間は盲目で、分からないことも多いし、どうしても間違いを犯してしまうんだけど、「間違いもするが、反省もできる。修正もできる」ということによって、それが許されている面があるんだ。
 だから、この世的なことで取り返しのつかないことはたくさんあるんだけど、心の中の事実は、過去にさかのぼって深く反省することによって、取り返しがつくんだね。「自分は間違っていた。これは、こうすべきであった。今後は、こういうことはすまい。こういう悪い種はまくまい」と思って修正していくことによって、この赤字が黒字でない金色の文字に変わっていくんだよ。
 たとえ、悪いことをたくさんして「自分は、もう、どうしようもない人間だ」と思っていたとしても、その「どうしようもない」と思ったところが出発点で、そこからしっかり反省をして自分自身を改めていき、それが十分なレベルまで行ったならば、その過去が帳消しになるんだ」

勇二 「ふーむ。反省がそんな力をもったものだとは知らなかったな。昔のCMで「反省するサル」というのがあったけど、恥ずかしい話、反省って聞いても僕にはそんなイメージくらいしか思い浮かばなかったよ。こりゃ反省だ(笑)」

マイナスの思いや行いは「心の借金」と同じ 

2007-04-16 | 思いと行いが全て記録されている想念帯
正太 「たとえば、否定的な言葉や、他人を不幸にする思いや行いは、すべて煤けた灰色で書き記されているんだね。怒りに燃え上がったときの思いは、血のような赤い文字なんだ。情欲の虜になって異性との不調和な行為の奴隷になると、想念帯のテープにはピンク色で記録されるんだね。いつも他人の欠点や粗ばかりを探している人の思いは、爬虫類の眼の色のような緑色の文字だ。濃いインクのような藍色で書かれているのは、臆病、卑怯、取り越し苦労、持ち越し苦労、不安などの思い。病念をいつも心に把持して、病気の痛みや苦しみばかりを他人に訴えている人の想念帯のテープは、壁土の色のような文字で記されているんだ。
 これらが合わさって何ともいえない毒々しい灰色になっているんだよ」

勇二 「うへーっ、そんななのか。こりゃまずいなあ。結局、灰色のほうが多いと、死んでから地獄が待っているというわけだよね。じゃあ、振り返って、灰色ばっかりの人生だと思ったら、これから頑張って金色を増やしていかなきゃいけないな」

正太 「そうだね。だから人間というのは、一人ひとりが「心の経営」をやっているのと同じなんだ。一人ひとりが「心の経営者」なんだね。心というのは貸借対照表(バランスシート)といっしょで、赤字と黒字、負債と資産があるんだ。だからマイナスの思い、灰色の記録というのは「心の借金」と同じで、それと同じだけの貯金(つまり金色の記録)を持っていれば、清算できるんだけど、それだけの貯えがないと…」

勇二 「「債務超過」ってわけか。」

正太 「そうそう。死んでこの世を去るときが最後の「総決算」で、ここで貯金よりも借金が多いと、地獄に行かざるをえないんだね。会社でいえば倒産するようなものなんだ」

勇二 「なるほどなあ」

正太 「昔から「生きている間に、できるだけ徳を積みなさい、功徳を積みなさい」というけれど、生前に功徳を積んだこと、つまり世のため人のためを思って「与える愛」の実践をしたことが、霊的に言うと、まさしくその人の貯金、資産になっているんだね。天の倉に富を積んだことになっているんだよ。
…ただし、これはとてもとても重要なことなんだけど」

勇二 「なになに?」

正太 「いったん灰色で書かれた記録でも、金色に変える方法が一つだけあるんだよ」