死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

なぜ、マスコミ関係者で地獄に堕ちる人が増えているのか? ①

2007-10-23 | プロローグ
勇二 「それと、「マスコミ関係者で死んで天国に行く人が非常に少なくなっている」「阿修羅地獄にどんどん堕ちている」って聞いたけど、これはどういうことなの?」

正太 「マスコミ関係といっても、会社の中で事務をとったり経理をやっているだけという人もいるだろうから、ここで言うマスコミというのは、報道やジャーナリズムの仕事に携わっている人たちということだね。
 マスコミが地獄的なのは、「魔女狩り」的な体質を持っているところなんだ。つまり、自分たちの視聴率や発行部数を上げるために、「誰かをスケープゴートにして叩く」という手段を使うところに問題があるんだよ。血に飢えたハイエナみたいに、バッシングできる標的を求めているところが地獄的なんだね」

勇二 「ふーむ。でも、マスコミが追求するから、いろいろ悪いことが摘発されたり、改善の糸口になったりする面もあるんじゃないの?」

正太 「たしかに、そういう面もあるんだよ。実際、マスコミの人でも、生前、良心に従って、「悪をただして世の中をよくしよう」とほんとうに思っていた人は、天国に還って、霊界のテレビや新聞で「天上界ニュース」を流したりしてるんだね。
 いっぽう、地獄のやや上のほうには、「地獄新聞」を発行しているマスコミの人もいて、「今回、地獄に送られてきた人たち」というような記事を新聞に載せたりしているんだよ。
 特に、この世で有名人だった人が地獄に堕ちてきたときは、大きな見出しつきで「今回○○株式会社の社長が地獄へ来ました。みなさんやっつけましょう」なんていう「地獄ニュース」を流しているんだ。そして、その人がどうなったかについて、「人々の弾劾に遭って八つ裂きにされた」「火あぶりに遭った」「もう一つ下の地獄に堕ちた」といったことを新聞に載せているんだよ」

勇二 「うーむ。あの世ではホンネがバレバレっていうけど、「世の中を良くしよう」というよりも「誰それを叩いてボコボコにしてやれー」というほうに心が向いていたマスコミ人は地獄に堕ちているわけだね。
 批判といっても「両刃の刃」みたいなとこがあるんだな。同じようにマスコミの仕事をしていても、仕事に携わっていた時の「動機」とか「心の姿勢」によって天国・地獄が分かれてくるわけだ」

正太 「そうなんだよ。いくら「社会正義」を掲げて仕事をしていても、主たる動機、ホンネの部分が「誰かを槍玉に上げて、やっつけてやりたい。こきおろしてやりたい。傷つけてやりたい」という思いで言論活動を行っていた人は地獄に行っているんだね。この場合の「誰か」というのは、政治家とか財界人とかの社会的地位の高い人、あるいは急に脚光を集めだしたような人が標的に選ばれることが多いんだよ。
 「金儲けのためには、とにかく誰かを叩くことが一番だ」「悪役を見つけて、あるいは悪役を作って、バッシングするのが早道だ」という商売の論理で、マスコミの仕事をやっていた人は、そうなるんだね」

勇二 「そうかあ。今、君があげた例で言えば、地獄に堕ちてきた大会社の社長というのも悪いところが多かったからそうなったんだろうけど、だからといって「みんなで八つ裂きにしましょう。火あぶりにしてやりましょう」というのはおかしいわけだよね。
 相手が良いか悪いかどうかに関わらず、要するに、「誰かを血祭りに上げること」に喜びを覚えていたり、やりがいを感じていると地獄に行ってしまうんだな。
 中には、叩くための口実を得るために、人のアラ探しをする人だっているだろうしね。「悪いところを見つければ、遠慮容赦なくリンチにかけられる。そうすれば、うっぷん晴らしができる」みたいなね」

正太 「そう。それに、マスコミがやっている批判の中には正当でないものもいっぱいあるんだよ。人を見て、不正を暴くだけならまだしも、立場だとか権限だとか正しさというものを、自分たちが不勉強で理解していないにも関わらず、人を陥れたり、裁いたり、追求したりしていることがとても多いんだ。
 そもそも、批判が正当なものであるための前提は、「公正さ(フェアネス)」がなければならない、ということなんだね。公正さの根拠は何かというと、公平中立、客観的な立場に立って「良いものは良い。悪いものは悪い」と言うことなんだ。
 だから、「良いものは良い」という評価のほうは全然せずに、悪いほうからしか論じない、くさすことしかしない、というのは批判じゃなくて、これは悪口なんだね。「批判のための批判」というのは、いくら「正義」を掲げていても、これはニセモノの正義なんだね。たとえば、昔から、マスコミは年中政治家を叩いているけど、これはフェアじゃないんだよ」

勇二 「政治家っていうと、「金に汚い連中」「永田町は人でなしの集まり」みたいな、パターン化した切り口が多いよね」

正太 「「日本は経済は一流だが、政治は三流だ」ということが言われ続けてきたけど、あの世からの視点で見ると、それは必ずしも正しくないんだよ。もちろん、超一流とはとうてい言えないけど、敗戦の焼け跡の中から奇跡の復興をとげ、世界二位の経済大国になってきたのは、やはり政治に優れた面があったからなんだね。
 戦後の日本の政治で、神様の心に沿った部分、成功した部分はどこかというと、国民生活を豊かにして、貧困や病気を追放してきた面なんだ。反面、成功できていない部分は、精神的なもの、精神性の高みを国家の基本的な方針として重視する、ということを打ち出せていない面なんだよ」

勇二 「精神性の部分かあ。そういえば、昔から「エコノミック・アニマル」なんて呼ばれて、他国からは「金儲けにだけ熱心」みたいに見られてるようだね」

正太 「戦後、マスコミは毎日のように政治を叩き続けてきたけど、少なくとも、日本を旧ソ連やかつての東欧諸国、北朝鮮のような国にせず、それどころか世界でも屈指の経済的繁栄に導いてきた部分はちゃんと評価すべきなんだね。また、そうした政策をとってきた点については、その都度、きちんと評価してくるべきだったんだ。それがなかったということは、見識が不足していたということ以上に、最初から偏見や悪意でもって政治を見てきた、と言わざるをえないんだよ。
 日常生活でも、人のことを悪くしか言わない人がいたとしたら、その人は「公平に見ない人だな。人の悪口ばかり言う人だな」と思われるよね。それと同じなんだね。「正しい批判」と「悪口」は違うことなんだ。
 マスコミは事あるごとに、「言論の自由」を持ち出すけれど、実態はどうかといえば、「悪口の自由」になっているんだよ」

勇二 「ふーむ。評価すべきは「評価する」とハッキリといい、間違っているところは「間違っている」ときっちり指摘する、という「フェアな」姿勢を持ってることが正しい言論の前提というわけだね。「批判のための批判」で、年がら年中叩いているだけなら、これは「悪口」と同じなわけだ」

正太 「もともと民主主義には、「人々の感情に支配されやすい」「人々の感情や一時的な興奮に左右されやすい」という弱点があるんだけど、本来ならマスコミが啓蒙的な役割を果たして、そうしたものにブレーキをかけなきゃいけないんだね。
 マスコミがしっかり勉強して、物事の本質を人々に理性的に説明して、スタンピード(衝動的な大衆行動)を起こさせないようにしなきゃいけないんだ。そうであってこそ、マスコミは「社会の木鐸(ぼくたく)」と言えるんだね。
 でも、実際はどうかというと、逆にマスコミのほうが、人々の感情を焚きつけて、世論を煽っている場合が多いんだよ。これは、非常に危険なことなんだね」

勇二 「そのほうが手っ取り早いし、ウケやすいからなのかもしれないね。勉強して、人々の耳に入りにくいことを辛抱強く説明していくよりも、どうしたら「ショー仕立て」にして面白く見せられるか、目を惹けるかに関心が向くんだろうな。
 テレビキャスターの立ち位置にしても、「強きを挫き、弱きを助ける」というとキレイだけど、要するに「お金を持ってたり、権力を持っている人間て、悪いことしてると思いませんか? ええ、みなさん?」みたいな安直なアプローチが多いよね。
 政治家という悪代官たち、大企業という悪徳商人たちを、「皆さんに代わって私たちが成敗していきます」みたいな感じだよね。時代劇の見すぎじゃないか(笑)と思うこともあるけどね」

正太 「マスコミ人や、マスコミ報道に共感して喝采している人たちには、「強い者を挫くことが正義だ」「上にある者を引きずり降ろすことが成果だ」と考える傾向性があるんだね。でも、こういう人たちばかりになったら、日本という国は必ず潰れていくんだよ。
 国のことだからわかりにくいけど、会社で言えば、社長や上役が失敗して、失脚して、辞めていくことを願っている社員ばかりの会社がどうなるか、ということと同じなんだね。
 ほんとうは上の人にもいっそう素晴らしくなってほしい、という情熱が必要なんだね。「自分より上にいる連中は悪人なんだから」ということで、攻撃して打ち倒していったとしても、それが本当の成功かといえば違うんだよ。本当の成功というのは、そんな死屍累々とした世界じゃないんだね」

勇二 「そりゃ、まさに「阿修羅地獄」だよね。そんな攻撃精神で仕事をしても、結局は自分自身のヤッカミだとか、コンプレックスの裏返しから来てる部分もあるだろうしね」

正太 「「強きを挫き、弱きを助ける」というのは、仏の心に合わないんだね。神様の愛というのは、弱い人にも、強い人にも平等に注がれているんだよ。
 弱い人たちに対しては、「その弱気から立ち直って、立派な人間になってくれるように」といつも励ましているんだ。強い人たちに対しては、「もっとその才能を磨き、その力を増して、より多くの人々の幸福のために活躍しなさい」と必ず言っておられるんだよ。
 仏には、この両者への愛がある、ということを知っておかないといけないんだよ」

勇二 「そうかあ。「弱い人は善人であり、強い人は悪人である。だから強い人をやっつけよ」なんていう考えは、神様にはないんだね。「一視同仁の愛」とか言うけど、それが神様の愛なんだな。
 人間は「仏の心を心として」生きていかなきゃいけない、って聞いたけど、じゃあ、マスコミの人たちも、「考え方の軸」を本来のほうに戻して仕事をしてもらわないといけないね」

正太 「それと、「権力を叩く」という点についてだけど、マスコミの弊害がなぜ大きくなったかというと、権力を叩いているはずの自分たちの権力のほうが、むしろ大きくなりすぎているからなんだね。これは、とても重大なことなんだよ。
 言論というのは、本来、野にあってこそ、本当の批評精神が発揮できるんだね。政治とか、その他の大きな権力、独裁的な権力があって、人々がその権力の抑圧から逃れられないときに、野にあってそれを牽制し、野党の立場に立ってこそ、正義の剣を振るうことができるんだ。
 だけど、その言論が「権力の中枢」に座ったときは、どうなるか。そこに、恐ろしい専制や、言論による暴力が始まることを知らなくちゃいけないんだよ」

勇二 「ふーむ。マスコミの権力のほうが政治とかよりも大きくなってるわけ?」

正太 「そう。立法も司法も行政も、もはや言論に打ち勝てる力を持ってはいないんだね。マスコミ機関のほうこそ、他からの批判やチェックを受けつけないような「絶対権力」に近づいているんだよ。
 君は大学で政治を専攻したから知ってると思うけど、アクトン卿というイギリスの政治思想家が言った「絶対権力は絶対に腐敗する」という言葉があるよね。これは、いつの時代にも変わらない真実なんだ。
 何者によっても牽制することができない、誰もブレーキをかけられない権力というのは、どうしても権力の濫用に陥って、暴走していくのを免れないんだよ。
 その結果どうなったか。マスコミは昔から、立法・行政・司法の三権に次ぐ「第四権力」と言われてきたけど、日本では第四権力から今や第一権力になっているんだよ」

勇二 「ほーお、第一権力ねえ」

正太 「マスコミが、なぜ三権をしのぐ第一権力かというと、こういうことなんだね。
 まず「立法」についてだけど、立法府を構成するのは国会議員だよね。その国会議員たちを、マスコミは日頃の報道の仕方によって、選挙の際に落選させたり当選させたりすることができるんだね。つまり、マスコミは、立法に携わる人たちの生殺与奪の力を持っているんだよ。
 本来なら、国政では、国会が最高の権限を持っているから、立法府が第一権力であるべきなんだ。ところが、国会議員を選ぶための選挙の際に、票の増減に影響力を行使できるマスコミは、立法府よりも上の立場に立てるんだよ。
 「行政」についても、同様のことが言えるんだね。マスコミは、内閣に対しても、いろんなバッシング報道をすることによって、「この内閣はダメだ」という方向に世論を誘導できるんだ。その上で、世論調査を実施して、支持率の低下ということをテコに、内閣退陣へと追い込んでいくんだね。また、何かあれば、ワッと書きたてて、「大臣のクビを飛ばす」なんてことも、今や常套手段になっているんだよ。
 「司法」はどうかというと、ここもマスコミの植民地になっているんだ。というのも裁判官が判断の材料にする国民世論というものが、今言ったように、新聞やテレビによって「作られたもの」だからなんだ。裁判官とかは、新聞の投書欄なんかを見て、「これが世論だ」と思っているんだけど、投書のうち何を載せて何を載せないかということは、新聞社のほうで明確な意図をもって操作しているんだね。また、週刊誌なんかには捏造記事が多いんだけど、司法関係者はそういう恣意性の強い活字メディアに情報源を依存しているので、ほとんど「マスコミに踊らされている」という状態に近いんだよ」

勇二 「ふーむ。たしかに、マスコミがわーっと一つの方向に動きだして、朝から晩までテレビや新聞で流し始めると、他の声はかき消されてしまうよね。マスコミに睨まれたが最後、議員だろうが閣僚だろうが経営者だろうが、太刀打ちできないような雰囲気があるよね」

正太 「同じことは警察についても言えるんだよ。警察もマスコミの支配下に入りかかっているんだね。
 たとえば、ある人が自分のガールフレンドの許可を得て、その女性のヘアヌード写真を週刊誌大に拡大して、駅前で売り出したとするよね。すると、まず間違いなく警察がきて逮捕されて、起訴され、たいていの場合、懲役刑になるんだね。
 ところが、その同じヘア・ヌード写真を、何十ページか印刷して、大手出版社の名前を冠して発行すると、警察は全く動かないんだよ」

勇二 「言われてみればそうだよね。なぜ、そんなことになるんだろう?」

正太 「これは、マスコミが全国の警察や警察官の不祥事を情報として数多く握っているからなんだね。それらをスクープとして書き立てれば、警察署長から県警本部長、場合によっては警察庁長官のクビまで飛ばすことができるんだ。こうした情報を、警察は人質に取られているから、マスコミには手が出せないんだよ。
 そういう意味で、マスコミ的職業に就いた場合には非常に有利な立場にあるといえるし、職業に関しては、もはや「法の下の平等」は破られている、と言えるんだね」

勇二 「そうか。警察もマスコミに弱みを握られてるわけだ。マスコミにとっては、警察の不祥事ネタを掴んでおくのは、手入れを防ぐための保険なんだろうね」

正太 「これは、学界、学問界にも原因があるんだね。学者たちは、自分が研究したことを読者が読んでくれないことには、力の発揮しようがないから、マスコミに対してはきわめて弱いし、どうしてもそのご機嫌取りをするようになるんだね。
 自分たちの論文や意見を世に出したいから、学者たちも、マスコミが主張する「言論・出版の自由」というものを、無条件に肯定し賛美していく傾向があるんだよ」

勇二 「なるほどね。マスコミに楯突いたら、自分の本とか論文も出版してくれなくなるだろうからね。
 でも、今の話を聞いていると、まるで「マスコミ・ファシズム」だよね。これじゃあ、「マスコミに物申す」ことができるところは、どこにもいなくなってしまうな。これはコワいことだよね」

正太 「そう。マスコミの間違った報道に対して、非力な個人がいくら抗議しても「門前払い」の状態だし、裁判に持ち込んで勝訴をかちとったとしても、メディアによる洪水のような報道のあとでは、ほとんど名誉の回復もムリなんだね。
 さっきも言ったように、もともと、「一本化した権力は危険だ」という理由から、民主主義国家では、権力を立法・行政・司法の三つに分けて、互いにチェックし牽制し合う仕組みにしているんだけど、このマスコミ権力というのは、今言ったように、どこもチェックしたり牽制する機能がないんだね。
 三権分立を定めた今の日本の憲法でも、制定したときは、その後、こうしたマスコミ権力が立ち上がってくるとは想定していなかったんだよ」

勇二 「ふーむ」

正太 「それと、マスコミは、事あるごとに「言論の自由」を錦の御旗に掲げて、自分たちの行為を正当化するんだけど、彼らの主張する「言論の自由」には大きな誤解があるんだよ。
 「言論の自由」の本質は何かというと、「公権力からの自由」であって、「特定の個人や団体・企業に対する自由」ではないんだね。「国に検閲されたり、発売を中止させられたりすることからの自由」であって、「特定の誰かさんや会社などに対して、言いたい放題言っていい自由」ではないんだよ。
 たとえば、歩道を歩いていて、向かい側から歩いてきた人のことをすれ違いざまに「バカヤロー」と罵ったら、これは「言論の自由」には当たらないんだね。こうした行為は道徳律で判断すべきものであって、そんなふうに人の悪口を言うことを制度的に保障しているのが言論の自由ではないんだ。
 言論の自由というのは、太平洋戦争中の情報統制みたいに、本当のことが知らされないと国民が不幸になったり不利益を被ることがあるから、「国家権力が言論や出版物を検閲したり、発刊を中止したり、言論機関を取り潰したりするのは危険である」という主旨からきているんだね。だから、言論の内容に検閲や圧力が加えられないように、「公権力からの自由」を制度的に保障してあるんだよ。
 こうした違いを、マスコミ関係者の九割以上は理解していないんだね。言論の自由が「悪口の自由」という地獄の論理にすり替わっている原因には、こうした誤解もあるんだよ」

勇二 「そうか。「言論の自由」って、公権力からクチバシを入れられない自由のことなんだな。誰かに対して「言いたい放題言ってもいいよ」という自由じゃないわけだ。考えてみれば当たり前の話だよね」

正太 「それと、「左翼ジャーナリズム」という言葉があるように、マスコミの問題点は、マルクス主義的な価値観やメンタリティを持っている人が多い、という点なんだ。マスコミの多くは、「思考の枠組み」そのものをマルクス主義から借りてきてるんだよ」

勇二 「そういえば、昔からソ連や中国や北朝鮮とかの社会主義国を「地上の楽園」とか呼んで礼賛してきた大新聞があったね。どっちかといえば、そういう言論のほうが戦後の日本ではメジャーだったかもしれないね」




現代の地獄の特徴は、「病院が出てくる」ということ 

2007-10-06 | プロローグ
正太 「それと、びっくりするかもしれないけど、この阿修羅地獄の中には、病院のようなところもあるんだよ」

勇二 「えっ、病院が? 病院で助けてくれるんじゃなくて、いじめられたり、殺されたりしちゃうの?」

正太 「うん。昔ながらの地獄のイメージっていうと、たいてい鬼が出てきて、人を地獄の釜でグツグツ煮たり、鉄棒で叩き潰したり、ということだよね。
 もちろん、そういう古色蒼然とした地獄もあるにはあるんだけど、今は地獄の世界もだいぶ様変わりしているんだ。現代では、外科医だとか、看護師、検察官、裁判官、マスコミ関係者の中で「悪人だった人たち」が、鬼の代わりをしているんだよ。
 昔なら、鬼が鉄棒で人の頭を潰すところを、今は、地獄の病院で、口の裂けた外科医がマスクの奥でニタッと笑って、「患者」をメスで切り刻んで殺すんだ。そういう悪い医者が地獄にはいるんだよ」

勇二 「えーっ、医療ミスじゃなくてわざとやるのかい。そんなのヤブ医者どころの騒ぎじゃないよね」

正太 「そう。阿修羅地獄の病院に無理矢理運び込まれると、集中治療室のような所に入れられるんだね。すると、医者や看護師が出てくるんだ。
 患者がベッドから見上げると、医者はマスクをかけているんだけど、口が耳まで裂けていて、鬼のような顔に見えるんだ。患者は「やめてくれー」と言って暴れるんだけど、ベッドに縛り付けられているから、抵抗もできずに、そのまま解剖されて殺されてしまうんだよ。そして「殺されては生き返り、また殺される」ということをずーっと繰り返すんだ。
 地獄にも看護師がいるんだよ。生前、ほんとうは愛の心もなく看護をしていたような人が、医者と一緒になって、患者を拉致・監禁しては殺したりしているんだね」

勇二 「うへーっ。なんだか、ますます病院ぎらいになりそうだな」

正太 「誤解のないように言っておくけど、もちろん、お医者さんや看護師だった人がみんなそんなことをしているわけじゃないんだね(笑)。善い人が多いと思うけど、あくまでも、その中の悪人だった人がやっているということなんだ。
 こんなふうに、現代の地獄の特徴は何かというと、「病院が出てくる」ことなんだね。これは、暴力沙汰で重体になった人が、病院に運び込まれるという経験をしていることも少し影響しているんだよ。
 阿修羅地獄では、この病院のパターンのように、残忍な殺され方を繰り返し何度も体験することが多いんだ。なぜかというと、その人の心の映像において、恐怖体験だけが展開しているからなんだね。死んであの世に行くと、その人が生前に繰り返し繰り返し心の中に刻んできた世界が展開してくるんだよ。
 だから「殺るか殺られるか」「倒すか倒されるか」「相手をやっつけるか、自分がやっつけられるか」という憎しみと恐怖を繰り返し心の中に刻んできた人は、自分が恐れるものを引き寄せて、その映像ばかり見ることになるんだ」

勇二 「ふーむ。「自分は周囲の人たちから害されるんじゃないか」といつも思っている人間は、自分自身が他の人を害する思いを出している場合が多い、って言ってたね。そういう心で生きていると、今言ったような世界に行ってしまうわけか」

正太 「そう。「他の人と競い合う」ということは、決して悪いことではないんだよ。人間は、「切磋琢磨」をしてお互いを磨こう、生かそうとしている時には、その心は天国の心なんだ。ところが、「お互いを磨く」という心を忘れて、「傷つけあう」方向に行った場合は、地獄になるんだね。
 破壊的な想念と恐怖心というのは表裏一体のものなんだよ。
 人間不信、他人を攻撃する心、他人を蹴落とそうとする心、そうした心の持ち主たちのつくった映像は共通したものになるんだ。恐怖心がつくりだした映像というのは、どれもこれも、身の毛もよだつような光景になるんだよ」

勇二 「ひぇーっ。でも、言われてみれば、恐怖心ていうのは、まさに地獄的な思いだよね。恐怖心や疑心暗鬼の思いで凝り固まっていながら天国の住人になる、っていうのは、どう考えたってムリだろうしね」

正太 「だから、阿修羅地獄に堕ちた人というのは、「怒りに燃えて人を傷つけることの空しさ」と同時に、「恐怖心を持っている限り人間は幸福になれない」ということも学ばされているんだね。恐怖心というのも、ある意味では、「他人はみんな自分を害そうと思っている」と考える利己主義者の心なんだよ。
 恐怖心の大部分は、ほんとうはありもしないものに怯えているだけなんだね。
 自分が他人から害されるんじゃないかと思って、その害を予想して、身構えているんだ。そして身構えているだけじゃ物足りなくなってきて、とりあえず相手を批判してみる。悪口を言ってみる。そうした態度が、また相手の悪を引き出してくることになるんだよ。
 でも、天国の世界を見ても、あるいはもっと上の天使や菩薩が住むような高級霊界を見てもわかるように、仏の子である人間の実相の世界というのは、互いに愛し合う大調和の世界なんだね。これが人間のほんとうの姿なんだよ」

勇二 「そうかあ。素直な心で生きりゃあいいのに、そんな出さんでもいいような思いをわざわざ出して地獄に堕ちてるわけだから、世話ないとも言えるよね。
 まあ、上司の前でいつもビビりまくっている僕が言うのもなんだけど(笑)」




阿修羅地獄には、「アクション映画の暴力シーン」のような世界や、暴力団が抗争しているような世界もある 

2007-10-03 | プロローグ
勇二 「戦場じゃなくても、阿修羅地獄というからには、やっぱり「殴る蹴る」みたいな世界が展開してるんだろうね」

正太 「うん。たとえば、アメリカのアクション映画の暴力シーンみたいなところもあるんだね。そこでは、人々が拳銃を打ち合い、追っかけあっていて、いつも「生きるか死ぬか」という恐怖が連続する世界なんだ。
 命を狙われ、追っかけられ、逃げ回るといった、息もつかせぬ場面が展開していて、一瞬も心の休まるときがないんだよ」

勇二 「あー、そういう場面を夢で見たことがあるよ。でも、そうした悪夢っていうのは、「寝ているときに幽体離脱して、あの世の地獄界を見てきていることが多い」ということだったよね」

正太 「そうなんだよ。あの世の地獄界に見学会に行ったと考えていいんだね。「追い回されて、とっちめられる」といった世界は、地獄でも比較的上層部というか、浅いところにある地獄だから、生きている人でも睡眠中に肉体を抜け出して来ていることが多いんだよ。この世界に来ると、よく記憶される内容としては、「やたら追いかけられる」「命を狙われる」「襲いかかられる」といったことなんだね。
 この種の悪夢をしょっちゅう見るということは、「おまえが死後に来る世界はここだぞ。おまえが死んだらこうして追いかけ回してやるからな」という、あの世の霊人の警告でもあるんだ。
 だから、そういう場合は、日頃の自分の心に間違いがないかどうか、よーく反省したほうがいいんだよ。たとえば、「周りの人がみんな悪人に見える人間ほどの悪人はいない」という言葉があるけど、いつも自分が周りから害されるんじゃないかと思っている人というのは、たいてい自分も周りを害するような思いを持っていることが多いんだね。そういった心がないかどうかチェックしてみるんだ」

勇二 「おー、くわばらくわばら。でも、おかげさまで最近コワい夢はトンと見なくなったよ」

正太 「それと、阿修羅地獄には、お互いに非難合戦をしているようなところもあるんだね。
 ただ、非難合戦といっても、あの世というのは「思い即行動」の世界であり、「思いが具象化する」世界だから、カーッと怒って破壊の念、非難攻撃の念を出すと、そうした念が刀か槍みたいになって相手のところに飛んでいくんだよ。
 それが、相手の身体にズボズボーっと突き刺さるんだ。すると、やられたほうも「何をーっ」といってやり返すんだけど、あの世は心だけの世界、思いだけの世界だから、その際の衝撃力というのが地上の10倍ぐらいに感じられるんだね。
 この世でも、言い争っている人間を、あの世から霊的に見ると、二メートルくらいの刀を振り回して、お互いに斬りあいをしているように見えるんだ」

勇二 「ふーむ。ひどい言い争いをしている人のそばにいると、殺気みたいなものを感じるけど、霊的に見ると実際にチャンバラをやってるんだね」

正太 「それから、阿修羅地獄でも深いほうになると、切った張ったの殺し合いの世界、ヤクザの出入りのようなことをやっている世界もあるんだ。
 阿修羅地獄に来ると、自分よりも強い人がいるから、この世では殺す側だった人も、殺されるほうの経験もだいぶしなくちゃならなくなるんだね。自分より弱い相手なら殺せるけど、自分より強い相手には殺されてしまうからなんだ。
 こうして、殺したり殺されたりしながら、「人殺しというのは、いかに嫌なものか」ということを本人が分かるまで、徹底的に殺し合いを続けるんだ。
 さっきも言ったけど、「殺し合い」といっても、実際には肉体がないから、ほんとうの意味で殺すことはできないんだね。でも、その苦痛だけは味わうんだ。苦痛を感じる霊的神経の部分だけはあるからなんだよ。
 生前、殺したり、殺されたり、怪我をさせたり、させられたりしていない人は、その痛みの感覚が分からないんだけど、生前に人を傷つけたり殺したりしてきた人は、その痛みを感じやすいんだね」

勇二 「なるほどね。殺される経験も重ねることで、人を殺すということがどういうことなのかがわかってくるわけだ。いくら、お説教をしても聞く耳を持たない人は、最後は体験を通して悟るしかないんだね」

正太 「短刀でグサっと刺して「どうだ、死にやがったな」と思うんだけど、死んだはずの相手がムクッと起き上がってくるんだね。すると、今度は向こうが「復讐してやる」とか言って逆襲してくるんだよ。あるいは、自分が殺されて「殺られたー」と思っても、やがてムクッと起き上がるんだね。
 こういうことを、果てしなく繰り返しているんだね。「殺しても殺しても相手が死なない」という不思議な世界で、それを何十回も何百回も繰り返していると、だんだん嫌になってきて、お互いに、「もう、やめたほうがいいんじゃないか」と思い始めるときがあるんだよ。「そういえば、生前も、こんな生活だったな」と思って、自分が恐怖と憎しみと破壊の心で生きていたことに気づいて、嫌気がさしてくるんだよ。
 その心境が、だいたい、菩提心の目覚め、悟りへの目覚めの段階なんだ。本人が「こんな世界から足を洗いたいな」と思うようにならないと、なかなかこうした世界からは抜けられないんだよ」

勇二 「地獄に堕ちた人にとっての第一歩は、「自分の生き方に嫌気がさす」ということだったね。これが反省への入り口になるわけだ」

正太「そう。「もう足を洗いたい」と思い始めた頃に助けがやってくるんだ。ちょうどよい頃合に、まずその人と縁のある人が天上界からやって来るんだよ。
 でも、そこは凶悪な世界だから、そこへ行って救うのは大変なことなんだね。この世でも、暴力団の組織の中に入り込んで人を助け出すのは大変だし、私服警官だって、そんな所へ一人で行ったら殺されかねないよね。それと同じで、そういう世界から救うのは大変なことなんだ。
 だから、まず、本人自身が改心して「この世界から出たい」という気持ちを持たないと、いくら他の人たちが「どうにかしたい」と思ってもダメなんだね。
 そういう気持ちを持つようになると、あの世的には少し力が弱くなるんだ。そのぶん「善人」になってしまうから、「暴力の世界」では弱くなっちゃうんだよ。「もうこんなことは嫌だ」と思っている人は、「他人を徹底的にやっつけてやりたい」と思っている人よりは弱くなるんだね。
 すると、「なんだ、あんなに強かった奴が弱くなったな」ということで、半殺しにされるんだけど、それでも耐えてるんだ。
 こんなふうに「こいつは何か弱くなったな。おもしろくない」と思われて、仲間から見放されて、仲間外れになる感じが出てこないと、その人を助けるところまでいかないんだよ」

勇二 「なるほどね。「天は自ら助くる者を助く」じゃないけど、やっぱり、本人の心境が変わらないと助けようがないんだね。救われるか救われないかの基本は本人次第なんだな」

正太 「うん。こんなふうに、「もう嫌だ。足を洗いたい」という心境になると、地獄も深いところから、少し上へスーッと上がってくるんだね。ちょっと「堅気の」地獄霊になってくるんだ(笑)。そして単に「抜けたい、嫌だ」という心境から、さらに進んで、生前の自分を振り返りだして、反省のようなことを始めると、さらに上の地獄へ上がっていくんだよ。
 地獄に堕ちても、その人の心境次第で、もっと深いところに堕ちていったり、逆に浅い所へ上がっていったりするんだけど、天国に還っていくときは、今言ったようなプロセスを積み重ねて上がっていくんだね。そして反省が十分に進んで生前の罪を拭えるところまでいくと、天国に上がれるんだ。生前つくった「精神的な借金」を完済して、心の貸借対照表が赤字から黒字に転換すると天国に還れるんだよ」

勇二 「なるほどね。人間ていうのは、一人ひとりが「心の経営者」なわけだからね。「精神的な借金」の場合、あの世にいくと、金利が元本の十倍に膨らんじゃうから、「ご利用は計画的に」なんて言ってられないよね(笑)。トヨタみたいな無借金経営に近づけていかなきゃいけないな」