勇二 「反省と感謝を始めると、後頭部から後光がさしはじめるから、憑依霊のほうはだんだん波長が合わなくなって憑いていられなくなる、ということだね」
正太 「うん。彼らは感謝されると困ってしまうんだね。いちばん嫌がるのは反省で、反省されると、悪霊はすぐにブルブルし始めるんだよ」
勇二 「そうか。悪霊と戦うなんていっても、何も力ずくでやる必要はないんだね。地獄霊と、反対の心、逆の心を起こせばいいわけだ。それが一番苦手なんだね」
正太 「そうなんだよ。一見、消極的にみえるけど、こうした方法がもっとも効果的なんだ。
それと、この感謝についてだけど、「与える愛」というのは、感謝というものがあって、初めて出てくるものなんだ」
勇二 「感謝から「与える愛」が出てくる?」
正太 「うん。感謝ができると、どうなるかというと、「お返し」がしたくなるんだね。この「お返しがしたい」という思いが「与える愛」につながっていくんだよ」
勇二 「なるほどね。「与える愛」というのは「ご恩返し」のことなわけか」
正太 「そうそう。だから「与える愛」の前提となるものは「自分が与えられているということに対する感謝」だし、「自分が与えられているということに対する自覚」なんだ」
勇二 「感謝する心がないと、「愛を与えよう」という気持ちも起きないってことだね。言われてみると、確かにそのとおりだな。「ありがたい」っていう気持ちになると、「自分にも何かさせてもらいたいな」って気になるもんね」
正太 「そう。だから「与える愛なんていわれてもサッパリわからない、何も思い浮かばない」という場合は、まず前段階の感謝がないんだね。なぜ感謝がないかというと、与えられていることに対して、気づいていないからなんだ。じゃあ、なぜ気づいてないかというと、反省したことがないからなんだね。
反省ということには、自分が与えられていること、生かされていることの発見も含まれているんだよ」
勇二 「なるほどな」
正太 「この感謝の部分がなかったり、表面だけで行っていると「与える愛」といっても偽物になってしまうんだね。たとえ表面的には善行であっても、そこに「真心」がこもっていないと意味がないんだよ。
神様というのは、その行為のなかにどれだけの真実、どれだけの真心が光っているかで評価されるんだ。真心が光るためには、ほんとうの感謝、つまり、自分が生かされていることに対する感謝がないとだめなんだよ。いくら、慈善事業をやっても、アフリカの難民にお金を送っても、この真実のところができていないと、天国にはいけないんだね。全然関係がないんだよ」
勇二 「ふうむ、表面的な善行、うわべだけの善行じゃなくて、そこにどれだけの愛の思い、真心がこもっていたか、ということなんだね。まあ、あの世は、思いしかないっていうから、もし見せかけだけで、思いの部分が入ってなかったら、実質が何もないってことだろうしね」
正太 「そうそう。行為だけ見れば「愛の行為」のようでも、動機の部分が「人によく見せたい、見られたい」なんていう虚栄心とか名誉欲にもとづく場合もあるんだね。だからその奥に、真心がこもっていないと、真実のものがないと霊的にはゼロなんだね」
正太 「うん。彼らは感謝されると困ってしまうんだね。いちばん嫌がるのは反省で、反省されると、悪霊はすぐにブルブルし始めるんだよ」
勇二 「そうか。悪霊と戦うなんていっても、何も力ずくでやる必要はないんだね。地獄霊と、反対の心、逆の心を起こせばいいわけだ。それが一番苦手なんだね」
正太 「そうなんだよ。一見、消極的にみえるけど、こうした方法がもっとも効果的なんだ。
それと、この感謝についてだけど、「与える愛」というのは、感謝というものがあって、初めて出てくるものなんだ」
勇二 「感謝から「与える愛」が出てくる?」
正太 「うん。感謝ができると、どうなるかというと、「お返し」がしたくなるんだね。この「お返しがしたい」という思いが「与える愛」につながっていくんだよ」
勇二 「なるほどね。「与える愛」というのは「ご恩返し」のことなわけか」
正太 「そうそう。だから「与える愛」の前提となるものは「自分が与えられているということに対する感謝」だし、「自分が与えられているということに対する自覚」なんだ」
勇二 「感謝する心がないと、「愛を与えよう」という気持ちも起きないってことだね。言われてみると、確かにそのとおりだな。「ありがたい」っていう気持ちになると、「自分にも何かさせてもらいたいな」って気になるもんね」
正太 「そう。だから「与える愛なんていわれてもサッパリわからない、何も思い浮かばない」という場合は、まず前段階の感謝がないんだね。なぜ感謝がないかというと、与えられていることに対して、気づいていないからなんだ。じゃあ、なぜ気づいてないかというと、反省したことがないからなんだね。
反省ということには、自分が与えられていること、生かされていることの発見も含まれているんだよ」
勇二 「なるほどな」
正太 「この感謝の部分がなかったり、表面だけで行っていると「与える愛」といっても偽物になってしまうんだね。たとえ表面的には善行であっても、そこに「真心」がこもっていないと意味がないんだよ。
神様というのは、その行為のなかにどれだけの真実、どれだけの真心が光っているかで評価されるんだ。真心が光るためには、ほんとうの感謝、つまり、自分が生かされていることに対する感謝がないとだめなんだよ。いくら、慈善事業をやっても、アフリカの難民にお金を送っても、この真実のところができていないと、天国にはいけないんだね。全然関係がないんだよ」
勇二 「ふうむ、表面的な善行、うわべだけの善行じゃなくて、そこにどれだけの愛の思い、真心がこもっていたか、ということなんだね。まあ、あの世は、思いしかないっていうから、もし見せかけだけで、思いの部分が入ってなかったら、実質が何もないってことだろうしね」
正太 「そうそう。行為だけ見れば「愛の行為」のようでも、動機の部分が「人によく見せたい、見られたい」なんていう虚栄心とか名誉欲にもとづく場合もあるんだね。だからその奥に、真心がこもっていないと、真実のものがないと霊的にはゼロなんだね」