死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

与えた愛は与えた人のものになる 

2007-05-28 | 与えた愛は与えた人のものになる
正太 「そもそも、なぜ、多くの人が「愛を与える」ということに対して、ネガティブというか積極的になれないかというと、「与えれば損をし、もらえば得をする」「「与えたら、与えただけ、自分の愛が減ってしまう」と考えているからなんだね」

勇二 「そうだね。モノ、物質っていうのはそうだからね。だから、どうしても、そういう発想になりがちだよね」

正太 「ところが、霊的には、心の世界においては、事実はまったくの反対なんだ。与えれば与えるほど、増えていくんだね。与えれば、与えるほど、自己が拡大していくんだよ」

勇二 「与えた愛は与えた人のものになる、って前に教えてくれたね」

正太 「そう。「与えた愛は与えた人のものになる」んだね。これが神の世界、仏の世界の法則なんだ。与えただけ豊かになるのが霊の法則なんだよ。与えた愛は与えられた人のものになるんじゃないんだね。与えた人のものになるんだ。愛を与えれば与えるほど、与えた人が神近き、仏に近い人間になっていくんだ。それが仏の見返りなんだよ。これは、もっとも基本的な法則だから、必ず頭に入れておいてね」

勇二 「与えた愛は与えた人のものになるから、決して見返りを求めちゃいけない、ということだったね。何かよいことをしても、それと同じかそれ以上の結果を期待すると、せっかくの行為も帳消しになってしまう。だから「無償の愛」を実践するには、「感謝」に出発した愛、「お返しの愛」「報恩の愛」じゃなきゃいけないということだね。「お返しの愛」なら見返りを求める気持ちが入ってこない、ということだね。」

正太 「そのとおり。歴史上には偉大な人がいるけれども、なぜそうした人が偉大なのかといえば、見返りを求めずに多くのものを人類に与えたからなんだ。その結果、与えたものがその人のものになったんだね。
 与えるということは、物理学的にいうと「光がそれだけ増える」ということなんだよ」

勇二 「その人の後光が増える。オーラが増える、ということだよね」

正太 「うん。他の人のために、という純粋な思いや行為を発すると、その瞬間、霊的に見ると、その人の頭に後光(オーラ)がパッとさしているんだね。その光というのは、仏から、天上界から投げかけられたものなんだ。だから一生を愛多く生きた人というのは、霊的な目で見れば、身体全体がまるで大小さまざまなダイヤモンドをちりばめたように光を放っているんだね。
 お金や家や財産や名刺といったものはあの世に持って還れないけれど、愛を実践することによって、神様からいただいたこの「光」だけはあの世に持って還ることができるんだ。仏の光というのは、仏と同じような働きをする人のところで、つまり、愛を与える人のところで、貯金のようにどんどん増えていくんだよ。光を増やしてあの世に還れば、それだけ高い世界、光の強い世界、幸福感の強い世界、素晴らしい人たち、立派な人たちのいるような世界に還っていけるんだね。こうした目標を人間は立てるべきなんだ」

勇二 「そうした光、オーラを実感できれば、いいんだけどなあ」

正太 「いや。この光というものは、なにも霊能者や霊視のできる人でなくとも感じることはできるんだよ。
 たとえば、心から他の人を喜ばせることをしたときには、身体が熱くなるよね。相手だけじゃなく、自分も温かくなる。真冬でもポッと温かい気持ちになる。それが実は光を与えられていることの証明なんだ。
 もちろん、あの世の天上界で愛を与えたならば、その瞬間サーッと光が自分の霊体にさしこんでくるのが、ハッキリわかるんだけどね。それに対し、この世の人間は、肉体に宿って、物質世界の中におかれているため、霊的な光というものを実感しにくいんだけど、全く感じられないということはないんだ。
 霊視ができると、鏡を見てもその光が見えるんだね。よいことを思えば、頭のうしろに後光がパッと出る。他の人々への愛の思いに満ちたなら、与えることを考えているのに、逆に与えられているんだね」

勇二 「ふうむ」

正太 「あるいは、別の例を上げれば、ある人が部屋に入ってくると、急にまわりがパッと明るくなるということがあるよね。いつも「まわりの人たちを幸福にしよう」という思いで満ちている人からは、後光がずいぶん出ているんだ。だから、そうした人が入ってくると、パッと明るくなるんだね。プラスの思いを持ち続けていることを習慣にしていると、それが一定の実力となって、そうした現象として現れてくるんだよ」


苦しみ、悲しみとの出会いは、その中で「与える側の人生」を選んでいけるかどうかが試される時 

2007-05-27 | 与えた愛は与えた人のものになる
正太 「ただ、この世の人生というものは、決して平坦なものじゃなく、生きていく途中でさまざまな困難にぶつかるものなんだね。そうしたなかで、魂の修行をしていくわけなんだ。これは、あらかじめ計画されていることなんだよ」

勇二 「ほう、いろんな困難のなかで魂の修行をしていく?」

正太 「たとえば、病気とか、貧困とか、挫折とか、失恋とか、事業の失敗とか、友人の離反とか、愛する者との別れとか、きらいな人との出会いとかだね。さらには、年を取って、醜くなり、身体が不自由となり、やがては死んでいくわけなんだ。
 こうした現象を現象とだけ見れば、人生というのは、苦悩と悲しみに満ち満ちているように見えるけれけども、苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるんだよ」

勇二 「苦悩や悲しみの意味?」

正太 「苦悩や悲しみがあるということは、ひとりひとりの人間が選択を迫られているんだね。その選択とは何かというと、自分自身が「与える側の人生」を選ぶのか、それとも「与えられる側の人生」を選ぶのか、という選択なんだ」

勇二 「ふうむ。生きていくって本当にしんどいなあ、っていう辛い時があるよね。そうしたときっていうのは、自分が「与える愛」の生き方を選んでいくのか、「奪う愛」の生き方を選んでいくのかが、問われている時、試されている時ということなんだね。
 そうしたときこそ「あっ、ここで試されているんだな。ここが正念場だな」と思って「与える側の人生」を選び取っていかなきゃいけないんだな」

正太 「そう考えたときに道が開けるんだよ。そう思ったときに、自分としてやることは無限に出てくるはずなんだね。しかし、そのことに気づかず、ひたすら与えられる側に立とうとしたとき、いたずらに日が暮れて泣き暮らすということになってしまうんだ」