死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

「阿修羅地獄」は、戦争が起きたときにできる場合が多い 

2007-09-24 | プロローグ
正太 「この「阿修羅地獄」というのは、だいたいが戦争が起きたときにできる地獄なんだね。戦場ではない阿修羅地獄もあるんだけど、もともとは、そうした際にできてきた地獄が多いんだよ」

勇二 「へーえ、戦争が起きたときにね。「闘争と破壊」が阿修羅地獄の特徴というけど、戦争というのはまさにそうした世界だよね」

正太 「昔で言うと、「関ヶ原の合戦」のような戦いだと、大勢の人が死ぬから、たちまちその戦場は修羅場になって、地獄ができるんだね。修羅場というのは、そういう殺し合いの世界のことで、戦場になって「そこで十万人が死んだ」ということになると、そこに阿修羅地獄が出現してくるんだよ」

勇二 「よく古戦場だとか「落城した際に、大勢が殺された」なんていう場所が、「恐怖心霊スポット」とかいって紹介されてるよね。いちどきに大勢が亡くなっていると、そうした場所じたいが地獄になっていることがあるんだね」

正太 「うん。そういう場所では、果てしない殺し合いを、あの世でもまだやっているんだね。死んでから、五十年くらいは平気で殺しあうんだよ(中には何百年もやるような人もいるんだね)。かつて戦場だった場所なんかには、そういう地獄ができている所があるんだ」

勇二 「そうかあ。地獄っていうのは、そうした土地だとか場所に応じてできたりもするんだね」

正太 「そう。だから「万国共通のたった一つの地獄しかない」ということじゃないんだね。アメリカにはアメリカの地獄があるし、ヨーロッパにはヨーロッパの地獄があるし、インドにはインドの、中国には中国の、日本には日本の地獄があるんだね。
 色情系の地獄だって、ヨーロッパにはヨーロッパの色情地獄があるし、日本には日本の色情地獄があるんだよ。
 さらに言えば地域だけじゃなくて時代意識も関わっていて、同じ日本の阿修羅地獄にしても、源平合戦のときにできた阿修羅地獄と、第二次大戦のときにできた阿修羅地獄では、基本的にごっちゃにならないんだね。
 あの世というのは「波長の世界」。つまり、思ってること、考えていることが共通するもの同士が同じ世界をつくっているから、波長が合わないと同じ世界にならないんだね。「相手をやっつける」という点では同じでも、「やあやあ、我こそはー」なんて、弓や刀で戦っている源平合戦の兵士の意識と、戦車や戦闘機で戦っている太平洋戦争の兵士の意識では、念の性質がバチッとまではシンクロしないから、互いにすれ違ってしまうんだね。いっしょにならずに、源平合戦は源平合戦、近代戦は近代戦と、別々の世界で戦い続けることになるんだよ。基本的にはね」

勇二 「なるほどね。電波の周波数みたいなものだよね。テレビ電波の周波数にチャンネルが合っていれば、テレビに画面が映るのと同じ原理だよね。
 それに、源平合戦と太平洋戦争の兵士がごっちゃになったら、お互い話がかみ合わなくて混乱するだろうしね」

正太 「そう。ただし、こうしたことも起きるんだね。
 アメリカ(を中心とした多国籍軍)とイラクが戦った「湾岸戦争」「イラク戦争」というのがあったよね。この時は、戦力も兵器の性能においても、アメリカ側のほうがイラクを圧倒していたから、イラク軍の戦車隊だけが一瞬で壊滅するということが起きたんだね」

勇二 「いくら兵力差に大きな開きがあったとしても、一方だけが瞬時に全滅しちゃうなんていうのは、昔はなかったろうし、近代戦の特徴かもしれないね」

正太 「この場合、大量のイラク兵だけが、あっという間に死んでしまうという事態が起きたんだね。
 アッラーの教えによれば「アッラーのために戦って死んだ場合には、最高の天国に還れる。そこでは美女にかしずかれ、極上のお酒とごちそうがふんだんに食べられる」ということになるはずなんだけど、美女もお酒も出てこないから、イラク兵たちは「まだ自分は死んでいない」と思って、戦闘を継続するんだね。ところが、やられたのは自分たちだけだから、イラク兵たちは「敵が見当たらない」という状態になるんだね」
 
勇二 「ふーむ。戦おうにも相手がいないわけだ」

正太 「湾岸戦争の場合、イラク軍側は十数万の戦死者を出したと言われているけど、さっきも言ったように、短期間の間にこれだけ大量の人間が死ぬと、イラク側には地獄界が出現するんだね。ところが、アメリカ側は戦争を通しての戦死者が百数十人くらいしかいないので、これくらいの数だと地獄ができないんだね。
 じゃあ、アメリカ側の戦死者はどうなるかというと、「個別対応」でそれぞれに応じた世界に引っ張っていかれるだけで、地獄ができないんだよ」

勇二 「そうか。戦う相手の見当たらない地獄が、イラク側だけに出現したことになるよね」

正太 「そう。その場合、イラクの兵隊が敵を探しているうちに、弓だとか矢で戦争をしている古代の兵隊と遭遇することがあるんだよ。同じ戦争系統の阿修羅地獄といっても、現代の兵隊と古代の兵隊じゃ、戦っている際の意識が微妙に違うから、通常ならいっしょにならないけど、そうした世界を徘徊しているうちに出くわすことが起きるんだね」

勇二 「ほーお。「闘争と破壊」という点では、念の性質、念の周波数も近いだろうからね。そういうことも起きるわけだ。
 でも、その場合、いくらイラク兵の装備が旧式だからといっても、古代の兵隊相手に戦闘をしたら圧勝になるだろうね」
 
正太 「いや。この世だとそうなるんだけど、不思議なことに、あの世だと必ずしもそうはならないんだよ。この場合、とても興味深いことが起きるんだね。
 イラク兵たちは、「敵兵発見」ということで、戦車で砲弾を撃つんだ。あの世というのは、心の世界だから、「ある」と思うもの、「欲しい」と思うものは出現してくるんだね。本人が「あって当然」と思っていれば、当然のようにそこに出てくるんだよ。
 ところが砲弾がバーンと飛んで、古代人たちの所で着弾しても、爆発が起きないんだね。「おかしいな」と思って、何度、弾を撃っても、やっぱり破裂しないんだ」

勇二 「ふーん、不思議だね。古代兵はそれこそ魔法でも使ったのかな?」

正太 「いや。なぜこうなるかというと、古代人たちは、戦車や砲弾というものを知らないので、イラク兵たちが何をしているかが認識できないからなんだね。「何か丸いものが飛んできたな」といぶかしがるんだけど、何なのかがわからないから、怖くも何ともないんだよ」

勇二 「へーえ。「爆弾というものがあって、それは地面に落ちると爆発して被害がでる」という認識を持ってないと、爆発しないわけ?」

正太 「そうなんだよ。霊界では、認識できない武器で攻撃されても被害は出ないんだね。
 だから、あの世で古代人と戦うなら、石でも投げたほうがいいんだ。石だとか弓矢なら彼らも一目でわかるんだけど、戦車で砲弾を撃たれても、何をされたかがわからないんだね。飛行機で爆弾を落されても、「大きな鳥が飛んできてフンを落していった」くらいにしか、彼らは受け取らないんだね。そうすると、何も被害は出ないんだよ。
 イラク兵がもし、第二次世界大戦で死んだドイツ兵なんかがいる地獄あたりに「運よく」出現できたら、相手も戦車がわかるから撃ち合いになるんだ。そうすると、相手は戦車が放った砲弾もわかるから、怖くておろおろしたり、砲弾が爆発すると、「うわー」と叫んだり爆風で飛んだりするんだよ。
 こんなふうに、理解できる者同士の場合には被害が発生するんだけど、理解できない者には被害が発生しないんだね。この世の兵器は、あの世の地獄界にも、ほとんど勢ぞろいしているんだけど、その兵器を知らない者に対しては何の効果もないんだよ」

勇二 「ふーむ。あの世は「思いがすべて」というけど、自分の思っているとおり、認識しているとおりにしか展開してこないわけだ」

正太 「そう。そして、当然だけど、あの世では、いくら殺しても殺しても相手が死なないんだね。阿修羅地獄に堕ちて、いくら相手を刀で斬っても、槍で刺しても、マシンガンでハチの巣にしても、爆弾でこっぱみじんに吹き飛ばしても、相手はすぐに元に戻っちゃうんだね。
 「傷から血が出たのに、しばらくしたらふさがって、元通りになってしまった。おかしいなー」とか「首を切られたのにまた生えてきた」とか、笑い話みたいだけど、こういうことを本当にやっているんだよ。
 延々と、そうしたことに嫌気がさすまで、バカバカしくなるまで続けるわけなんだ」

勇二 「なるほどな。あの世は「波長同通」の世界、「同類相集まる」の世界だから、地獄に堕ちると、お互いにお互いを見て、嫌になるまで自分の醜さみたいなものを味わうことになるわけだよね。実体験を通して、自分の心の間違いを勉強させられるわけだ。
 ところで一つ質問があるんだけど」

正太 「はい、どうぞ」

勇二 「もう亡くなったんだけど、僕のお祖父さんは若い頃、徴兵で戦争にいったんだよね。そうした場合、「戦争に参加した」ということで、「地獄行き」は決定なのかな?」

正太 「いや、そんなことはないんだよ。戦争の際には、その戦争を指揮した指導者に責任が問われるけれども、その指導者に従った兵隊については大きく問われないんだよ。
 指導者に対しては、正義の観点から「どういう考えにもとづいて、どのように戦争をしたか」ということが大きく問われることになるんだけど、仕事として軍務についた人が責任を問われるわけではないんだ。「兵士として戦争に参加した」という事実によって、罪が発生するわけではないんだね。
 また、平和なとき、普通の市民生活において他の人を殺傷した場合、99パーセント以上地獄に堕ちることは避けられないけど、戦時の際、兵士として戦闘行為に従軍した場合も同列に扱われるかというと、それはないんだよ」

勇二 「ふーむ。開戦を決定したり、戦争を指導した政治家とかの指導者に責任があって、一般の職業軍人だとか徴兵されて従軍した兵士たちには、基本的にその責任は問われないんだね」

正太 「そう。ただ、あの世というのは想念の世界だから、ここまで説明してきたように、戦争をすることによって不成仏になる人が大量に出てくることは、やはり避けられないんだね。
 ふつうに病気で死んでいくときなんかは、時間の経過とともに肉体の衰弱もわかるから、わりと死の自覚がしやすいんだけど、戦闘中にいきなり爆弾が落ちてきて死んだりすると、死んだことがわからない人が多いんだね。そうした場合、修羅のような心の状態のまま、いつまでも戦いを続けようとすることが多いから、どうしても成仏が妨げられてしまうんだね。
 また、たとえば、ベトナム戦争に従軍したアメリカの軍人たちは、自分たちが、ベトコンという、ゲリラ兵にも見えるし民間人にも見える人たちを相当殺したことに対して、その後、悪夢に悩まされ続けて、思い出すと発狂しそうなぐらいの苦しみを味わったりしているんだ。
 だから、「仕事として軍務に就いた人間が責任を問われるわけではない」といっても、戦争の現場を経験した人たちは、なかなか苦しみから逃れられるものではないんだね。やはり、「自分自身が大勢の人を殺した」という恐怖体験は、一生忘れられるものじゃなくて、魂にとって、かなり深いものが残ることは事実なんだ。
 戦争については、またテーマが違ってくるので、いずれ機会を改めて取り上げてみることにしよう。
 ところで、阿修羅地獄には、こうした戦争系統ではないところもあるんだよ」



人を傷つけ、争いごとを繰り返してきた人たちが堕ちる「阿修羅地獄」

2007-09-22 | プロローグ
勇二 「ふーむ。じゃあ、生前、カーッと怒ることが多かった人というのは、死んだ後、どういう世界に行くわけ? どんな地獄が待っているの?」

正太 「うん。「怒りの毒」で地獄に堕ちる場合、いちばん多いのは「阿修羅地獄」や「火焔地獄」といったところなんだね」

勇二 「阿修羅地獄と火焔地獄。ああ、今までも、ちょくちょく話に出てきたね」

正太 「まず「阿修羅地獄」のほうだけど、ここは「阿修羅界」「修羅道」ともいって、カッと怒って人を傷つけたり、責め苛んだり、悪口を言ったり、争いごとを繰り返してきた人たちが行く世界なんだ。ふだんから人と争う気持ちが強くて、悪口やケンカの絶えなかった人たち。そうした「闘争と破壊」の人生を送ってきた人たちが堕ちる地獄なんだ。
 職業的にいうと、ヤクザや暴力団の組員、地上げ屋関係、それから暴力的な借金の取立てなんかをしていた人たちが数多く行っている世界なんだね。
 ここは、実際に人を殺したり、傷害事件を起こした人も行っているけど、行為としてそこまでいかなくても、「闘争性の強い心を持って生きた人」「闘争中心の人生観を持って生きた人」は、この地獄に行きやすいんだよ。
 だから、職業としてヤクザや暴力団員をやっていなくても、サラリーマンだとか普通の市民として生きた人でも、行く人は行っているんだね」

勇二 「なるほどね。あの世は「心がすべて」の世界だから、人を殺したり、ぶん殴ったりしなくても、「すぐにカッときて、人といさかいを起こすような心」で生きてきたら行くわけだよね」

正太 「そう。すぐにカッときて、人に対する悪口が出たり、怒鳴ったり、人に噛み付いていたような人。会社なんかでも、ささいなことで部下を二時間、三時間、直立不動にさせたままワンワン叱りつけるような上司がいるけど、こうした人には阿修羅霊が憑いているし、自分自身もそうした地獄に堕ちる候補生なんだね」

勇二 「女の人でも、Sっぽいというか、ヒステリックに人を責める人がいるよね。青筋立てて」

正太 「それと、ここには、激しい組合闘争を延々とやって、他の人々に迷惑をかけた人たちなんかもよく堕ちているんだね。今は下火になったけど、一昔前は、怪気炎を上げて、よく労使の闘争をやっていたよね。これも正当な権利の行使なら問題はないと言えるんだけど、単なる「闘争のための闘争」「破壊のための破壊」をやっていると、心が乱れてきて、だんだん阿修羅霊に取り憑かれてくるんだ。その結果、死んだ後は、自分自身もそうした世界に行ってしまうんだよ。
 あるいは宗教団体でも、「仏法は闘争なり」なんていうスローガンを掲げている教団があるけど、こうしたところで怒りの思いのままに行動してきた信者なんかも、この地獄にけっこう堕ちているんだね。
 それと、注目すべきは、マスコミ関係者でこの地獄に堕ちる人が非常に多い、ということなんだ」

勇二 「マスコミ関係者が?」

正太 「うん。マスコミ関係というと現代の花形みたいに見られてるかもしれないけど、この業界にいた人で、死んで天国に行く人が非常に少なくなっているんだよ。どんどん地獄に堕ちているんだ。
 というのも、この世で生きていたときの世界が、すでに地獄の阿修羅界だからなんだね。「不正追求」と称していろいろやっているんだけど、現実には、多くの人々を傷つけることを次から次へとやっているんだ。人を見て、その不正を暴くだけならまだしも、立場や権限、正しさというものを、自分たちが不勉強で理解していないにも関わらず、人を陥れたり、裁いたり、追求したりしていることがとても多いんだよ。
 「批判」というのは、それが公正なものであり、世の中をほんとうに善くして行こうという思いにもとづいているならいいんだけど、単なる「批判のための批判」「バッシングのためのバッシング」になったとき間違いになるんだ。「とにかく批判しときゃいい、とりあえず叩いておけばいい」となったとき、地獄への道が始まるんだね。
 「社会正義」といいつつ、実際は自分たちの発行部数だとか視聴率を上げたいために、煽り報道だとか、特定の人間を血祭りにしたり、魔女狩りのようなことをしていることが多いんだ。「言論の自由」を主張しつつ、実際は「悪口の自由」になっていることが多いんだよ。
 ただ、大半の国民は、テレビだとかワイドショーの報道なんかを見て、「ふむふむ、そうか、そういうことなのか」と乗せられていくことが多いんだね。そうした「マスコミ信仰」、あるいはマスコミに煽動されたマスデモクラシーというのは、非常に危険な面を持っているんだよ。
 まあ、マスコミについては後でまた触れるとして、まずは「阿修羅地獄」の実態から見ていくことにしよう」
 




家庭の中が「怒り」の波動に満ちていると、小さな子供でさえ霊障を起こしやすい 

2007-09-18 | プロローグ
正太 「こんなふうに、カーッと怒ると、その人自身がいちばん苦しむことになるんだね。心の法則によって、いちばん不幸になるのはその人自身なんだよ。
 また、その人だけじゃなくて、その周りにいる人も参ってくるんだね。たとえば、家庭の中で、一家の主がいつも怒ってばかりいたら、家族みんなが参ってくるんだよ。カーッときて見境がなくなってくると、家庭が地獄になっていくんだ。
 「帰ってくるなり、また怒るんじゃないか」と思うと、奥さんや子供は、毎晩毎晩が苦しいし、怖くて怖くてしかたがないんだね。暴れて物を投げ回ったり、ガラスを割ったりするんじゃないか。ご飯を出しても、「こんなまずいものが食えるか」と言って捨てられるんじゃないか。「子供が悪いのもおまえのせいだ」と何かにつけて言われるんじゃないか。こう思うだけでも怖いんだよ。
 そして、旦那さんがいなくなると、自分が受けた仕打ちを、今度は奥さんが子供に八つ当たりしだすんだね。「私がこんな目にあうのは、あなたたちの出来が悪いからだ」とか言って、子供をいじめることでストレスを解消しようとするんだよ。
 普通、物心つくまでの子供は、あまり悪霊(地獄霊)に憑依されたりはしないんだけど、そういう家庭に限っては、子供も憑依霊に憑かれていることがあるんだ。親がいつも喧嘩ばかりしている家庭、家の中に怒りが満ちているような家庭では、小さな子供であっても、悪霊に憑かれて霊障になっているところがあるんだよ。
 そうすると、だんだん登校拒否になったり、非行に走ったりし始めるんだね。悪口を言ったり、愚痴を言ったりしはじめて、心が歪んでくるんだ。小さな子供に問題が起きるときは、「必ず親にも原因がある」から、まず親のほうがしっかり反省して、自分自身を立て直していかなくちゃいけないんだ。
 こんなふうに、怒りの炎を抑えるということは、家庭や職場でその人を中心にした地獄領域を広げないためにも、とても大事なことなんだよ」

勇二 「ふーむ。前に、「現代は悪霊憑依の低年齢化が起きている」って聞いたけど、今、君が言ったような事情も原因になっているのかね? 「荒れた家庭」が増えたみたいな」

正太 「うん。昔は大人にならないと起きなかったような悪霊憑依が、現代では、十歳くらい、小学校の高学年くらいから始まっているんだね。でも、今言ったように、家庭の霊的環境がひどく悪かったり、両親ともに心が荒んでいる場合には、もっと小さい頃、幼稚園や小学校の低学年くらいでも悪霊の影響を受けてしまうんだよ」

勇二 「うーん。幼稚園児でもか」

正太 「悪霊憑依の低年齢化が起きている原因を見ていくと、根本的には、家庭でも学校でも、戦後、宗教教育、道徳教育を教えなくなった、ということがあるんだね。それによって「正しい心のあり方」や「人間の正しい生き方」、つまり「価値判断の基準」をほとんど教えなくなった、ということがあるんだ。さらに、(それとも関係するけど)今言ったような「家庭の荒れ」と「学校の荒れ」という事態が進んできているからなんだ。
 「家庭の荒れ」のほうは、まず、親自身の世代が「正しい心のあり方」なんていうものを教えられたことがないという根本的な事情に加えて、両親共働きの家庭が増えたという背景もあるんだね。「収入を増やしたい」という理由から母親も働きに出ていることが多くなっていて、その分、疲れに伴う「感情のブレ」や「ストレス」が家庭の中に持ち込まれる量が増えたという事情があるんだ(もちろん、父親のほうも、昔に比べると仕事面のストレスが増してきている面も無視できないけどね)。
 学校でいじめをしたり、暴れている子供の家庭を調べてみると、両親の間に葛藤があったり、離婚の危機にあったりする場合がけっこうあるんだね。そういう状況に耐えられなくて、子供が学校で暴れているケースが少なくないんだよ。
 次に「学校の荒れ」のほうだけど、これもやはり、宗教、道徳というものを教育現場から完全に追い出してしまったために、「学校や教師が持っていた「尊い部分」「威厳のある部分」がなくなってしまった」ということが一番大きな原因なんだね。「労働者」という意識の先生が主流になってしまって、「聖職」という使命感を持って教育にあたる先生が、非常に少なくなってしまったんだよ。
 それと、「学校の荒れ」は公立校に多いんだけど、これはなぜかというと、校長以下の公立校の教師に、いわゆる「公務員体質」があるからなんだね。「努力をしてもしなくても、安定した給料がもらえる」という公務員特有の甘い制度の中に置かれているから、(ハッキリ言えば)どうしてもサボる方向、堕落の方向にいってしまうんだね。
 今、年金の問題で、社会保険庁や地方公務員の怠業や腐敗ぶりが明るみに出て問題になってるけれど、これは特定の役所に限ったことというよりも、現在の公務員体質の一端が現われていると見るべきなんだね。じゃあ、「同じ公務員でも、教師だけは例外か」というと、残念ながらそうとは言えないんだよ。
 「本人の努力に関わりなく、手厚い身分保障を受けられる」というシステムの中では、よほど自分を律するか、立派なリーダーに恵まれない限り、堕落、腐敗の方向に行くのはやむをえないんだ。もちろん、中には情熱をもって子供たちの教育に努力を傾けている先生もいるけれど、大勢は、易きに流れ、低きに流れていくのは避けられないんだよ。たとえは少し古くなるけど、昔の国鉄の職員(労組員)みたいな体質があるんだね。
 近年、明るみに出るようになったけど、実際、いじめがクラスで流行っても、「管理責任を問われたくない」という保身の思いから、いじめの事実を隠蔽したり、いじめグループのほうをかばったりする教師や校長がとても多いんだね。さらには「自分がいじめの対象になりたくない」という理由から、生徒たちのいじめに積極的に加担するような教師もいるんだよ。
 私立校でこんなことをやっていたら、生徒が集まらなくなってすぐに潰れてしまうけど、公立校だとそんな心配はないから十分通用してしまうわけなんだ(もっとも、最近になって、こうしたシステムには徐々に改革のメスが入りつつあるんだけどね)。
 子供というのは、身近にいる親とか大人の後姿を見て影響を受けるんだけど、上辺は取り繕っていても、保身や堕落に染まった教師を見ていると、やはり影響を受けるんだね。マイナスの感化を受けるんだよ」

勇二 「ふーむ。じゃあ、「学校の荒れ」からくる「悪霊憑依の低年齢化」には、教師の側にも大きな原因があることになるよね」

正太 「そうなんだよ。「学校の荒れ」の中には、「家庭の荒れ」が子供を通して学校に持ち込まれている場合もあるんだけど、「教員の悪」が原因になっている場合も多いんだね。
 そうしたケースでは、まず教師たちのほうに悪霊が入っているんだ。そして、その先生のもとで教育を受けた子供たちは、心がひずんでいって、悪への誘惑が始まっていくんだね。その教師が担任になっているクラスでは、まるで犯罪者の予備軍みたいな「いじめグループ」が増殖し始めるんだよ。
 ところが、教師のほうは、自分の心にもやましいものがあるから、現状を黙認するんだね。自分自身がその仲間だから、子供たちの心に悪霊が入っていても、叱ることができないんだよ」

勇二 「そうかあ。「公立はいじめがあるし、レベルが低いから」っていうんで、私立に子供を通わせる親が増えてるけど、霊的に見るとそうした内幕があったんだね」

正太 「それと、公立校では、「学校の自治」という名のもとに一種の「治外法権化」が行われていて、それがいじめを隠蔽したり、外部からの監視や介入を防ぐための隠れ蓑になっているんだね。ここに腐敗の温床があるんだよ。だから、いじめのような犯罪を学校からなくしていくには、外部機関による厳しいチェックシステムを確立していくことがまず大事なんだ。
 えーっと、話が「怒り」というテーマから逸れてしまったんで、強引に元に戻すけど、家庭の中が怒りや憎悪に満ちて荒んでいると、赤ちゃんでさえ、霊的悪影響から逃れられないんだよ」

勇二 「えっ、赤ちゃんまで? 赤ちゃんだと、何もわからなそうに見えるけどね」

正太 「いや、そんなことはないんだよ。彼らは、霊的に非常に感じやすいからわかるんだね。
 よく、赤ちゃんが、誰もいないはずの、あらぬほうを見てニコニコ笑っていることがあるよね。これは、自分を励ましにきた守護霊や天使を見て喜んでいることが多いんだよ。心が素直な、一歳から二歳くらいまでの間は、霊視ができることがよくあるんだ。だから、親が見て、わからないような表情をすることがよくあるんだね。これは「見えている」からなんだ。でも、だんだんこの世的になじんでいくと、そうした世界がわからなくなっていくんだけどね。
 こんなふうに、彼らは霊的に感じやすいんだけど、両親に悪霊が憑いている場合どうなるかというと、「夜泣き」をすることが多いんだね」

勇二 「へーえ。夜泣きを」

正太 「うん。両親に悪霊がついていると、悪夢という形で見るんだね。そして夜泣きをするんだ。だから、赤ちゃんの夜泣きが止まないときは、夫婦ふたりして、心に誤りがないかどうか、反省する必要があるんだよ。夫婦の間に葛藤がないか、怒りや愚痴や不平や足ることを知らない欲望で、心の中にこだわりをつくっていないか、振り返ってみることが大切なんだよ」
 



「宇宙の均衡」を破る思いを出すと、自動的に心の乱れや苛立ち、苦しみ、悲しみが訪れることになっている

2007-09-15 | プロローグ
正太 「ここで、もう一度、「怒りは心の幸福を阻害する」という問題に立ち返ってみたいんだけど、「怒り」という心の状態が幸福とは程遠いものだ、ということは、はっきりしているよね」

勇二 「そうだね。怒りではらわたが煮えくり返っている人を見て「幸せそうで羨ましいな。自分もああなりたいな」と思う人はいないだろうね」

正太 「じゃあ、怒るとなぜ心の乱れや不幸感覚が、その人にくるかというと、これも「心の法則」によってそうなっているんだね。
 ちょっと難しい話になるけど、人間が自由意思にもとづいて出す「思い」と「行い」は、宇宙の大調和の中で必ず「作用」と「反作用」を起こすことになっているんだよ」

勇二 「作用と反作用?」

正太 「うん。つまり、自分がそのことを自覚しているかどうかに関係なく、自分が出す「思いと行い」は、「宇宙の秩序を乱すもの」か、「宇宙の秩序を進歩・発展させるもの」かの、どちらかに必ず関わることになっているんだね。
 自分の出した思いが、神様がつくった「宇宙の秩序」を乱す方向に出た場合、たとえば、「怒り」とか「妬み」とか「憎しみ」といった「人を害する思い」を発した場合、残念ながら、「心の乱れ」や「いらだち」「苦しさ」「悲しさ」といった反作用が、その思いを出した本人に必ず訪れることになっているんだよ」

勇二 「ふーむ。それが「反作用」というわけだね」

正太 「宇宙の均衡、調和というのは実に堅固なもので、落ちただけの力で必ずはねかえしてくるんだね。その均衡を破ろうとする人に対しては、それだけの反作用が自動調整装置のように必ず働くことになっているんだ。そうすることによって、均衡を回復させようとするんだね。
 このことから、もうお判りだと思うけど、「自分は不幸感覚が強い」という人は、なぜそうなっているかというと、それだけの「不調和な思い」「不調和な波動」というものを、自分自身が出しているからなんだね」

勇二 「ほーお。宇宙の調和を乱すような思いを自分が出しているから、その反作用で、自分の心の中に、そういう「心の乱れ」や「苦しさ」という結果が生まれている、ということなんだね」

正太 「そうなんだよ。だから「心が乱れて、揺れて、不幸感覚が強い」ということは、「あなたが出している思いは間違っていますよ。仏の思いに反していますよ。だから、急いで修正してください」というサイン、警報でもあるんだね。
 たとえば、転んですりむいたり捻挫をすると痛みが走るけど、それによって「ああケガをしたんだな。痛んだところを治療しなきゃいけないな」ということがわかるよね。
 それと同じように、そうしたコーション(警告)が発されるということは、「ああ、こりゃいかんのだな。自分の思いは間違ってるんだな」という気づきのキッカケでもあるんだね。そういう苦しい反作用がきたということは、「自分は、今、修正を求められているんだな」と受け取らなきゃいけないんだよ」

勇二 「ふーむ。心の法則でそうなってるわけだね。じゃあ、神様というのは、教育的効果というのをずいぶん考えて法則を組んでいるんだね。おいたをした子供に、先生が「コラッ」と注意するようなもんだね」

正太 「そう。この宇宙の法則というのは、非常に公平にできていて、単に罰を与えるという方向だけに法則が現われるんじゃないんだね。
 逆に、宇宙の進化、発展、調和に貢献するような思いと行動で生きた人には、それだけの反作用が出てくるんだ。
 その反作用はどういうものかというと、「幸福感覚」という反作用なんだね。思いと行いにおいて調和されている人にとっては、「安らぎ」という名前の幸福が訪れてくるんだよ」

勇二 「そうかあ。たしかに、人を喜ばせることができたり、親切にできたりすると、ポッと温かくなるというか、ほろりとするような幸せ感覚があるよね。それが神様の「ごほうび」なのか」

正太 「あの世というのは、この世の延長なんだね。この世を苦悩の思いで生きていたなら、あの世で待っているのも苦悩の世界なんだね。だけど、厳しいこの世の人生の中でも、心の中に、そうした天国的な喜びを得ていた人には、喜びの世界が待っているんだよ」

勇二 「なるほどね。この世にいた時、心の中で天国的な思いを展開していた人は天国に行くし、心の中で地獄を展開していた人は地獄に行くということだよね」

正太 「ただ、あの世とこの世ではどこが違うかというと、あの世(霊界)に行くと、そうした喜びや苦悩というものが、十倍ぐらいに増幅されるということなんだね。魂の感覚、感度というものが十倍ぐらいに高まるんだよ。
 だから人に愛を与えたときの喜びなんかも十倍ぐらいの喜びになるし、逆に地獄の苦しみもこの世の十倍なんだね。
 たとえば、昔から言われているような、針の山地獄なんていう、他人の心を言葉や思いでグッサグッサ突き刺して生きてきた人が行く世界があるんだけど、この世の針の山はそんなに痛くないんだけど、あの世の針の山はすごいんだね。この世の針で身体を突き刺される十倍ぐらいの苦しみがあるんだよ」

勇二 「ひぇーっ。やっぱり地獄はカンベンだな。そんなに高くなくてもいいから、何とか天国に滑り込めるだけの生き方をしとかなきゃな」

正太 「こんなふうに、「怒り」というような「宇宙の均衡」を破るような思いを出すと、法則によって、自動的に、その人に「心の乱れ」やいらだち、苦しみ、悲しみが生じるようになっているんだね。しかも、そうした苦悩というのは、あの世に行くと遥かに増幅してしまうんだ。
 そういう世界が、まさしく「地獄」と言われるような、のたうちまわるような苦しみの世界になっているわけなんだよ」




霊界は、「その人が、どれだけ平和な心を持っているか」によって、世界が分れている 

2007-09-12 | プロローグ
正太 「カッとしたり、イライラすると、心が波立つよね。心が波立つと、人間はとたんに幸福感が阻害されるんだね。
 だからこそ、心を波立たせない「平静な心」というのは、とても価値あるものなんだよ。「心の平和」というのは、非常に深い価値を持ったものなんだ。
 しかも、「心の安らぎ」「心の平和」というのは、この世における心の幸福感の問題だけじゃなくて、あの世に行くともっと決定的なものになってくるんだよ。というのも、あの世の世界というのは、「心の平和」を維持する能力によって、世界が分れているからなんだ」

勇二 「心の平和を維持する能力で? じゃあ、心の平和をキープできる人ほど高い世界に住んでいるわけ?」

正太 「そうなんだよ。
 前にも少し説明したけど、あの世(霊界)というのは、下は四次元から上は九次元まで、何重にも次元構造があって、各次元のなかに、さらに精妙に分かれた段階があるんだね。この「次元構造の壁」、あるいは「次元の大地」をつくっているものが、実は「心の平和」の部分なんだ。
 その世界に住んでいる人が、どれだけ「平和な心」、「揺れない心」を持っているかによって、次元が分れているんだね。そこに住んでいる人たちの心の波動、心の波長が一定しているところに、その霊界の階層ができてくるんだよ。
 霊界の次元については、「波長の精妙さによって分れている」とか「愛の発展段階、グレードの違いで分れている」とか説明してきたけど、それはまた「どれだけ揺れない心、平和な心を築けているか」ということと同じなんだね。
 だから、たとえ七次元(菩薩界)の住人であっても、心が非常に揺れて、喜怒哀楽が大きくぶれ、まるで地獄の鬼さながらの心境になった場合は、たちまち足元の大地がパカッと開いて、その人は下の次元まで堕ちてしまうんだね。エレベーターで降下するみたいに、あっという間に転落して、元の世界に住めなくなるんだよ」

勇二 「へーえ、そうか。自分がいる次元の波動にそぐわない波動を出すと、そこの世界にいられなくなるんだね。波動が一致する世界まで落っこちちゃうわけだ」

正太 「そうなんだよ。あの世というのは、「思う」ということが全ての世界。思ったことが即座に実現する世界なんだね。だから、霊界では、「思う」ということ、「考える」ということは、まさに真剣勝負なんだ。抜き身の日本刀を持っているようなもので、思った瞬間にスパッと切れてしまうんだよ。
 たとえば、あの世の五次元世界(善人界)に還って、「自分は五次元世界の住人であり、善人なんだ」と思っていたとしても、誰かを見て「憎らしいな。あんな奴は追い出してしまいたい」なんてことを延々と考えていると、自分の立っている大地がパカッと割れて、ストーンと下に堕ちてしまうんだね。文字通りの堕地獄なんだ。
 天上界の大地というのは、堅固なように見えて、実はそうじゃないんだね。天上界の住人は、自分の意識体と波長が合う世界に落ち着いているだけだから、その人の意識が下がって、その世界と波長が合わなくなると、大地が裂けて、下の世界に堕ちてしまうんだよ。
 昔の物語にはよく、「大地が裂けて地獄に堕ちる」という話が出てくるけど、それはこの世の話じゃなくて、あの世(霊界)での話なんだね」

勇二 「なるほどね。この世だと、そんなに都合よく地割れが起きて、下に落ちたりしないだろうしね(笑)。
 あの世の地面のほうは、その人の「心の波長」しだいだから、そういうことも起きるわけだ」

正太 「そう。地獄に堕ちる場合、ほとんどは「この世経由」で、つまり、「天上界からこの世に生まれ変ってきて、その結果、落第点をとって、地獄に堕ちる」という場合がほとんどなんだけど、まれに、あの世の世界にいながらストレートに行くようなこともあるんだね。
 地獄まで堕ちないにしても、霊界の村では、ときどき神隠しにあったみたいに、一緒に住んでいた人が突然いなくなることがあるんだよ。それは、いなくなった当人の心の中で、「その世界に住むための前提条件が突如崩れた」ということなんだね。
 他の人たちは「あの人はどこへ行ったんだろう」と話し合うんだけど、実は下の世界に堕ちているんだね。ただ、どの世界に行ったかは、元の世界の住人たちには分からないんだ。
 下の世界に堕ちたとしても、反省心を起こして、人生の立て直しをすれば、しばらくすると元の世界に還ってくることができるんだよ。
 でも、下の世界でも怒ったり恨みつらみの思いを出して、「勝手に割れて、おれを堕とすとは、けしからん大地だ。元の世界に戻せー」なんてわめいていると、さらに地面が割れて、もう一つ下の世界に堕ちてしまうんだ。こうして、その人が落ち着く世界、心境にふさわしい世界まで、どんどん堕ちていくんだよ。
 霊界では、上の世界に上がるのはなかなか大変なんだけど、下の世界へ堕ちるのは簡単なことなんだ」

勇二 「ふーむ。上の世界に行くには努力がいるけど、下の世界に堕ちるのは簡単か。けっこう教育的効果の高い世界なんだね」

正太 「こんなふうに、心の平和を維持する能力が、あの世の次元の壁をつくっているわけだから、一定のレベル以上、心の平和を維持する能力がないと、その世界にとどまることができないんだね。
 あの世の世界では、下の次元に行くほど、想念が荒れて、心の波長が非常に乱れているんだよ。
 地獄にいる人というのは、精妙な波動、安定した平和な波動とは、まったく正反対の生き方をしているんだ。地獄には、カーッと怒ったり、憎んだり、愚痴ったり、妬んだりといった、条件反射的で非常に破壊的な、ガサガサした想念のなかに生きている人がたくさんいるんだよ」

勇二 「なるほどなあ。あの世の世界というのは、この世の延長だから、生前、カッカカッカした心の状態で生きていたら、まさにそういう「荒れた波動の世界」=「地獄」に行ってしまう、ということだね。イライラしたりカッカして怒るということは、地獄行きの切符を買ってるようなものだ。
 自分のことを本当に大切に思うなら、心をコントロールして怒りの思いを出さないようにしていかなきゃいけないんだな」




「大宰相」と呼ばれた、戦後の大物政治家が、なぜ地獄に堕ちて苦しんでいるか?

2007-09-10 | プロローグ
正太 「この「怒り」の毒の怖さについてだけど、まず、ひとつの例を取り上げてみよう。
 日本でいちばん偉い人というと、たいていの人は総理大臣のことを思い浮かべるかもしれないね。戦後の総理大臣のなかで、いちばん力を持っていた人は誰かを考えてみると、たとえば、戦後まもなく、リーダーシップを非常に持ったワンマンの首相がいたよね。いわゆる「バカヤロー解散」をしたことでも有名な人で…」

勇二 「ああ、吉田茂という人だよね。僕もいちおう大学で政治のほうを専攻したから、それくらいのことならわかるよ」

正太 「この人は、力を非常に持っていたし、なした仕事そのものは、政治的に見ても、政治学的に見ても、確かに立派な仕事を残しているんだね。日本の外交に関しても立派な選択をしているんだよ」

勇二 「たしか、サンフランシスコ講和条約を結んで、戦後日本の独立を回復させたんだよね」

正太 「そう。その時も、マスコミとかの大反対の声を押し切って断行したし、同時に日米安保条約を結ぶことによって、共産主義ではなく自由主義、民主主義国家の一員としての日本の立場や針路を確立したんだね。
 もちろん、どんな政治家にも功罪両面の部分はあるから、オール・オア・ナッシングでは評価できないんだけど、日本の戦後復興やその後の経済発展に大きな功績があったことは事実なんだ」

勇二 「ふーむ。日本のため、日本の国民のために、いい仕事、立派な仕事をしたわけだね」

正太 「そうだね。でも、この人が、死後どうなったかというと、現在は地獄にいるんだよ」

勇二 「えーっ。せっかく、日本の人々のためになるような、大きな仕事をしたのに、この世の試験に落第なわけ?」

正太 「うん。なぜ地獄に堕ちたのか、その人自身がわからずにいるんだね。「自分は総理大臣だった。そして立派な仕事をした。なぜ地獄にいる?」わからないんだね。教えてくれる人は誰もいないんだよ。
 でも、この人が地獄に堕ちた理由は、単純なことなんだよ。この人は、すぐカッとなる性格だったんだね。だから、心がいつも乱れていたんだよ。心がいつも怒りに満ちていたんだね。
 この人の娘さんが書いた回想録には、「家庭で、父親の雷が落ちてきそうになる度に、「避雷針」役になる人を呼んで、その人に雷を落としてもらっていた」といったエピソードが書かれているけど、普段そうした日常を送っていたんだね。
 すぐカッとなって、人を叱りつける ― そういう波動で生きてきたら、「その心の波動が、来世で行くところを決める」のであって、その人の仕事が決めているんではないんだよ」

勇二 「ふーむ。その人が、あの世のどういう世界に行くかは、「生前にその人が出していた思いの平均の波長の世界に行く」って前に聞いたね。しょっちゅうカッと怒って、心が乱れていたら、「波長の乱れた世界」つまり「地獄」に行かざるをえないわけだ」

正太 「そう。まず、「心が清いか清くないか」、「心が善いか悪いか」という基準があるんだね。
 心の善い人がよい仕事をしたら、さらに立派な世界に還れるんだけど、心の悪い人がよい仕事をしても、残念ながら天国には入れないんだよ。それくらい厳しいんだよ」

勇二 「そうかあ。まず、心が善い状態で生きてきたかどうかが重要なんだな。心の状態が、キーっとか、カーッとか乱れていずに、穏やかだったかどうかが大切なわけだ。これが天国に還るための必要条件というわけだね。ここの部分がクリアできてなくて、いくら仕事だけよかったとしても天国には行けないわけだ。
 よく「心穏やかに生きる」なんていうと、品がいいとか道徳的にいいっていうイメージだけど、それだけじゃないんだな。何のことはない、「心がどれだけ穏やかだったか、乱れていたか」で、あの世での自分の行き先が決まっちゃうわけだ」

正太 「だから「幼子のごとくでなければ、天国の門が開かない」というのは、このことを言うんだね。心が清くなければ、つまり怒りや愚痴や妬みとかで心が濁っていれば、澄んでいなければ、この世でいくら立派な地位を築いても、大会社の社長をやってもダメなんだよ。
 怒りの炎を抑えるということが、どれほど大事なことであるか。これは単なる道徳論じゃないんだね。心の世界の真実を知れば、怒りというものはなんとしてでも抑えていかなきゃいけないものだ、ということが切実にわかるんだよ」



「瞋(じん)」とは、「カーッとくる怒り」「統制できない怒り」のこと

2007-09-08 | プロローグ
正太 「さて、「心の三毒」の二番目は「瞋(じん)」。人間が地獄に堕ちる場合、その原因の七割以上は「心の三毒」が占めているんだけど、この「瞋」、つまり「カーッとくる怒り」というのも、きわめて出やすい「悪想念」なんだね」

勇二 「仕事でも、たてこんできたりすると、ついイライラしたり、カッカしちゃうんだよね。まあ、ふだんからキレやすかったり、短気な人もいるけどね」

正太 「「瞋」の本質は、「統制できない怒り」のことなんだ。短気で何かあるとすぐカッとくる人、自分に都合の悪いことや不利なことを聞いたりするとすぐカーッと逆上して、見境がつかなくなる人がいるよね。後で我にかえると、「いったい自分は何をしてたのか、何のためにそんなに怒っていたのかわからない」という人がたくさんいるんだよ。
 頭の回路を通して冷静に考えて「これは怒るべきときだから、怒らなくちゃいけない」と思うんじゃなくて、何かに触れると「瞬間湯沸かし器」みたいに怒ること。これがいけないんだよ」

勇二 「いるねえ、瞬間湯沸かし器(笑)」

正太 「そういう人は、たいてい「自分は短気な性格だから」とだけ説明をつけているんだけど、それだけでは済まないんだね。必ず反作用を受けることになるんだよ。その「怒りの炎」が、他の人を傷つけ、神の子、仏の子としての自分自身の「仏性(神性)」をも傷つけることになるんだ」

勇二 「やっぱり「怒り」の念というのも、猛獣みたいに自分に噛み付いてくることになるんだな」

正太 「怒りの原因というのは、たいてい「自分の思い通りにならない」という「不平不満」からきているんだね。つまり、「怒り」というのも、「足ることを知らない欲望」の一つなんだ。「貪欲」の親戚のようなものなんだよ」

勇二 「ふーむ。「心の三毒」の一番目は「貪(とん)」だけど、「怒り」も「貪」のバリエーションみたいなものなんだね。「怒り」も「過ぎた欲望」というわけだ。たしかに、自分の思い通りにならないと、カッカきがちだよね」

正太 「あと、怒りの奥には妬みが入っていることもあるし、劣等感に根があって怒りやすくなっている人もいるんだね。小さい頃、家が貧しかったとか、病気をして一年遅れたとか、頭にハゲがあるとか、何らかの劣等感を持っていて、傷つきやすい人がそうした逆鱗に触れられると、カーッときたりするんだよ。
 それから、怒りとお酒もよくつながっているんだ。ふだんは大人しいんだけど、お酒を飲むと人格が変わったみたいに暴れだす人がいるけど、これなんかは憑依霊の影響なんだね。お酒が入って理性が麻痺してくると、その辺にいるような霊にスパッと入られやすいんだけど、毎日酒を飲む癖をつけると、そうした霊が一定の周期で入ってこれるようになって、道がついてしまうんだ。だから、アルコールで怒りっぽい人の場合には、「生活を朝型に変える」とかして、飲酒の習慣から変えないと難しいんだよ」

勇二 「なるほどね。早起きタイプになれば、夜更かししてお酒を飲んでられなくなるよね」

正太 「ただし、この「怒り」には例外が二つあるんだね。今言っている怒りというのは「私憤」。つまり個人的、本能的、条件反射的にカッとくる怒りのことなんだけど、これに対して「公憤」。つまり、世の中をよいほうに変えていきたいという、「理性を内に秘めたような怒り」は、持っていなくちゃいけないんだよ。
 もう一つは、前にも話したけど、「怒る」ということとは別の「叱る」ということだね。相手のことを考えて、時には、正しいほうに「厳しく指導する」ことも必要なんだ。これは、カッときて相手を傷つけるような感情をぶつけるだけの「怒り」とは違うことなんだね。
 こうした例外については、また後で触れるけど、まずは「怒り」というものが、いかに人間の幸福を阻害するか、地獄への道に通じていくか、ということから見ていくことにしよう」



「貪りの思い」に対する処方箋は「足ることを知る心」

2007-09-06 | プロローグ
正太 「「貪(とん)」つまり「貪欲、足ることを知らない欲望」が原因で堕ちる代表的な地獄として、「餓鬼地獄」、「畜生道」、「色情地獄」の三つを上げたんだけど、結局、「自分に戒めを課す心」を忘れて、欲望を氾濫させる生き方をすると、こうした世界に行ってしまうんだよ」

勇二 「欲望のままに生きるというのは、「与える愛」の逆、「奪う愛」の生き方になっているからだよね」

正太 「うん。肉体を持って生きている限り、さまざまな欲望から完全に自由になることはできないんだけど、最終的に、その人の人生観がこの世に立脚点があるか、あの世に立脚点があるかで、すべてが違ってくるんだね。
 「心を磨くために、あの世からこの世に生まれてきたんだ。そして、あの世に還っていくときは、心以外何も持って還れないんだ」ということが、しっかり腑に落ちていれば、この世的なもの、つまり、「あの世に持って還れないもの」に対して、「執着の塊」になることはないんだよ。
 だけど、「人生はこの世限りなんだ」と思って、「物質欲」「金銭欲」「色欲」「酒欲」「賭博欲」「出世欲」「名誉欲」、こうした欲をこの世的にのみ追い求めていくと、「欲また欲の人生」になって、地獄に堕ちてしまうんだ」

勇二 「なるほどな。「人生はこの世で全部おしまいだ」と思えば、「生きてる間が花なのヨ。とにかく、今のうちに、やりたい放題やっちまわなきゃ」という生き方になるだろうね」

正太 「たとえば、「物質欲」だとか「所有欲」。世の中には、いろいろ便利なものや文明の利器があって、そのことは結構なことなんだけど、「この世限りの人生観」になってしまって、「物、物、物。とにかく物質さえあれば…」というふうに「物質のための人生」「物質に奉仕する人生」になってしまうと、アウトなんだね。
 「魂を磨くために、この世に生まれてきたんだな」「心を高めるため、人格を向上させるために、今、この世で人生修行をしているんだな」という視点を忘れずに、そうした「悟りの生活」「心を磨いていく生活」を支えるために物質を活用していくならOKなんだけど、これがひっくり返って、物に執着して、物を中心に心のほうが振り回されるような人生を送ると落第になっちゃうんだよ」

勇二 「魂修行をバックアップするための物質だし、そのために様々な文明の利器や道具もある、ということだよね。この世での修行が終わったら、「お世話になりました。はい、さようなら」と、キレイさっぱりあの世に旅立っていけるようじゃなきゃ、いけないってことだね。死んでから、「これはオレのものだー」とか「絶対、他人に渡すもんか」なんて、家とか土地とか車とかにしがみついてると、地縛霊になっちゃうわけだ」

正太 「そうそう。簡単なことなんだけど、「心しかあの世には持って還れないんだ」という原点にいつも立ち返っておく必要があるんだね。特に資産家、財産家の人は気をつけたほうがいいんだよ。歳をとってからも、まだ土地とか建物ばかりを一生懸命握っているようだと、ほんとに危ないんだね。地縛霊になりかねないんだよ。  
 この世的に成功した人ほど、肩書きとか財産とか、いろいろなものを持っているから、鎖が離れないことが多いんだね。たくさん重しがついているんだ。
だから、一度どこかで「捨ててみる」という気持ちも必要なんだね。捨てるといっても、預金通帳をゴミ箱に捨てる必要はないし、家を捨てる必要もないんだけど、精神的に後生だいじに思っているもの、「これだけは取られたくない」と心の中でつかんでいるものを精神的に捨ててみることは大事なことなんだよ。そうしたトレーニングはやっておくべきなんだ。
 というのも、人生は無常なもので、いつ何時、死に見舞われるかもしれないし、遅かれ早かれ、すべての人に、この世を去るときがやってくるからなんだね。そのとき、そうしたこの世のものは、すべて置いていかなきゃいけないんだ。「心ひとつ」であの世に渡っていかなきゃならないんだよ」

勇二 「ふーむ。この世っていうのは、ほんのひと時、滞在するだけの「仮の世」。魂をトレーニングするための留学先、あるいはサマー・キャンプみたいな所なんだよね。今風に言えば、「ビリーズ・ブート・キャンプ」に入隊して、しごかれるようなもんだ(笑)。「強化合宿期間」が終了したら、あとは、さっさと自宅に帰らなきゃいけないんだね」

正太 「そうだね(笑)。それから、欲望の続きで言えば、「出世欲」なんかにしても、まず動機において、(タテマエじゃなくて本心から)「世の中のためによりいっそう尽くしたい」「より多くの人に愛を与えたい」という「愛の発展」を願う気持ちがあって正当なものになるんだね。また、その願いが、その人の才能や器相応のものであるかどうかがポイントになるんだよ。
 そうではなく「仕事はできないし、する気もないけど出世したい」「悪い仕事、手抜き仕事をしながら出世したい」「他の人を蹴落としてでも出世したい」「他人に害を与えて出世したい」というように「自分だけよければいい」という気持ちで出世を目指すと、地獄への切符を買うことになってしまうんだ。
 昔から地位や名誉というと、よくないものの代表みたいに言われてきたけど、これはお金と同様、それ自体が悪いわけじゃなくて、「欲しい、欲しい」という「執着の対象」になりやすかったから否定的に扱われてきたんだね。でも、ほんとは、高い地位についている人が人格的に立派な人、悟っている人なら、それだけ良い影響力が広がるわけだから、悪いことじゃないんだ。
 ところが、たいていは、高く登れば登るほど、もっともっと奪いたくなって、「足ることを知らない心」が生まれてくるんだね。しかも、それが地獄的な心であることすら気づかずに人生を終わっていくんだよ。ここに来世の悲劇が生まれるわけなんだ」

勇二 「ふーむ。じゃあ、出世してポジションが上がっても、あの世的に見れば全く空しいことなのかね?」

正太 「もちろん、この世的な名刺だとか地位や名誉なんかはあの世に持って還れないし、あの世でいくらそんなことを自慢しても全く通用しないんだね。
 ただ、「指導的な立場に立つ」ということは、「生かす愛」というより高次な愛、「指導者の愛」を実践するチャンスを得ることになるし、愛を与える対象の人間もぐっと広がってくるんだね。だから、その機会を生かして、「愛する愛」より一段上の「生かす愛」の実践に一生懸命励んだならば、その人の霊的な向上、プラスにつながるし、その人の人格的な成長、発展につながるんだね。
 ところが、「愛の実践」という霊的な中身が貧弱で、単に見栄とか虚栄とか、この世的な価値観からそういう地位やポストに執着していただけの人は、発展どころか天国に行くことすら難しくなるんだよ」

勇二 「なるほどね。生きていたときの心のベクトルが「尽くしていこう、貢献していこう」という「愛を与える方向」じゃなくて、「欲しい、欲しい。自分に取り込もう、取り込もう」っていう「愛を奪う方向」になっていると、地獄行きになるんだな。「与える愛」(=善)よりも「奪う愛」(=悪)のほうが多い人生を送った人が、天国への合格基準をクリアできなくて、地獄に堕ちるわけだよね」

正太 「そう。そして、こういう「足ることを知らない欲望」が出てくる原因についてだけど、「人生この世限り」という唯物的な人生観が、この世的な欲望にのめりこませる大きなキッカケになっているんだね。
 「金が欲しい」「物が欲しい」「女が欲しい」「男が欲しい」、何でもいいんだけど、とにかく「この世限り」と思っている人は死ぬのが怖いから、「残された、死ぬまでの間、快楽の限りを尽くし、やりたい放題やって、死の苦しみや恐怖を紛らわしたい」と思うわけなんだ」

勇二 「「死んですべて終わりなら、「心がきれいかどうか」「善いかどうか」なんて意味がない。とにかく、できるだけぼったくって生きなきゃ損だ」って、なっちゃうんだな。それが「過ぎた欲望」「執着」につながっていくわけだ」

正太 「地獄に堕ちる原因は、結局、「執着」なんだけど、この世に対する執着というのは、紐や縄で縛りつけたようなかたちになるんだね。執着の強い人、この世に縛りつけられている人は、天国に上がって行けないんだよ。
 この世に未練があるから、死んでもこの世から離れられないし、あの世に行っても、執着の強い魂というのは、物理学的に言うと「魂の比重」が重くなっていて、上のほうに浮いていかずに(つまり天国に上がれずに)、下のほうに沈んでいってしまうんだね。池に小石を落とすと沈んでいくように、比重の重くなった魂というのは、どうしても下の世界に落ちていってしまうんだ」

勇二 「泥水をコップの中でかき混ぜてしばらくすると、重いものが沈殿して、上の方ほど澄んだ上澄み液になるけど、霊界もこれと似てるわけだよね。執着の多い、地上的で物質的な重みをまとった粗雑な波長の意識体が泥んこのほうに沈んでいって、神仏に近い、執着の少ない、精妙な意識体が上のほうに行くということだね」

正太 「ここまで、人間が地獄に堕ちる原因となる「心の三毒」のうち、一番目の「貪」について、いろいろ説明してきたんだけど、結局、これに対する処方箋は、「自分に戒めを課す心」だし、「足ることを知る心」なんだね。「足ること」を知らないと、どこまで行っても、「まだ欲しい、もっと欲しい、もっとくれ」というふうに、欲に歯止めがかからないんだね。まさに、「奪う愛」そのものの生き方、「地獄に一直線」という生き方になっていくんだよ」

勇二 「足ることを知れば「感謝」の思いが湧いてくるし、「感謝」の思いが出てくれば、「何かお返しがしたい、ご恩返しがしたい」という気持ちが自然に出てくるよね。この「他の人や、社会に対してお返しがしたい」という気持ちが「与える愛」につながっていくわけだ。天国的な生き方につながっていくんだね。
 だから、この世の試験に合格して、天国に還れる生き方をするためには、「感謝」がベースにないといけないし、「感謝」ができるためには、「足ること」を知って、「自分に与えられているものの有難さ」をかみしめなきゃいけない、ってことだね」

正太 「そのとおりなんだよ。幸・不幸の基準を「何かをゲットできたか、できなかったか」で判断する人が非常に多いんだけど、「欲言えばキリなし」で、欲望の連鎖というのはどこかで断ち切らないと、永遠に追い立てられ続けているようなもので、ほんとうの幸福というものは手に入らないんだね。
 前にも話したけど、地獄という世界は、人間が見る悪夢の数くらい様々な世界があるんだけど、地獄に堕ちているすべての人に共通するのは「感謝の気持ちがない」ということなんだ。地獄霊には百パーセント感謝がないんだよ。みんな、不平や不満、愚痴、足ることを知らない欲望、こればっかりなんだね。
 じつに不思議なことなんだけど、人間として生まれて生きて、「感謝のない人生を送る」ということは、これぐらい寂しいことなんだ。「感謝をもって生きられる」ということは、それだけ多くの恵みを発見している自分があるんだよ。感謝の心を持って生きられる人というのは、それだけ心に「ゆとり」があるし、輝きがあるんだね」

勇二 「なるほどな。人と比べて足りないほうには目がいくけど、足りてるところは当たり前になっちゃって、「まだまだ不足だと思ってるのに、感謝なんてとんでもない」って生き方になりがちなんだよね。これが「餓鬼道」につながっていくんだな。
 でも、お金にしても地位や名誉、土地や財産にしても、「何一つあの世に持って還れない」ってことがわかっていれば、「いい加減にしなさい」っていう漫才のツッコミみたいな警告を自分に出せるだろうしね。「この世のものは、心を磨くための素材、材料、環境として用意されているだけなんだ」ということが理解できてれば、「骨折り損のくたびれ儲け」みたいなことにアクセクするより、「よーし、もっと心を磨こう。せっかく、この世に出てきたんだから、生まれる前よりもっと人格的に成長してあの世に凱旋するぞー」っていう気になるよね」

正太 「そうだね。仏の心に適った生き方、この世の試験にパスして天国に還れる生き方をするためには、「与える愛」の生き方ができなきゃいけないし、そのためには「感謝」と、その前提となる「足ることを知る心」が必要だということだね。
 足ることを知らなければ、ひたすらガッついて、自分に取り込もうとするだけの人生となって、地獄への指定券を買うことになるんだよ。
 だから「過ぎた欲望」「出すぎた欲」が頭をもたげてきたなと思ったら、いつも「足ることを知る心」でケアしていく姿勢が大切なんだ」

勇二 「そうだね。「与える愛」、つまり「ご恩返し」の生き方をするには、小さなことにも感謝して、喜びを見つけられるようにしなきゃね。不平じゃなくて、「ありがたいな」っていう、心の「幸福発見センサー」を高めていかなきゃいけないな」



欲情のままに人生を送った人、男女の道を踏み外した人が堕ちる「色情地獄(血の池地獄)」の実態とは?②

2007-09-02 | プロローグ
正太 「だから、敢えて突っ込んだことまで言えば、電車の中とかで色っぽい女性を見かけて、モヤモヤしたことを考えかけたら、そこで踏みとどまらないといけないんだね。それ以上、ヘンな想像を始めたら、罪になるんだね。反省の対象になるんだよ」

勇二 「そうかあ。それも「心の修行」だね。しんどいような場面もあるからこそ「修行」なんだろうしね(笑)」
 
正太 「だから、生きていた間、異性に全く触れなかったのに、色情地獄に堕ちてしまった人というのは、すごく反論するんだね。「自分が堕ちるのはおかしい」って言い張るんだけど、「行いだけじゃなくて、思いも裁かれるんだ。心の中で思ったことも罪になるんだ」ということを聞かされて、ショックを受けるんだよ。「行動さえしなきゃいいと思ってたのに、行動は一度もしなかったけれど、心の中はいつも色情の想いばかりだった。こんなことなら、もっとやりたい放題やっておけばよかった」なんて(笑)、悔やんでいる人もいるんだよ」

勇二 「なるほどねえ、行為はなくても、心の中がピンク色の思いばっかりだったら、あの世で待っているのもやっぱり色情の世界ということだね。生きているときに「心の中で何を思い、何を考えていたか」ってことが大切なんだな」

正太 「ただ、これも不思議に思えるかもしれないけど、いっぽうでは、昔の中国の皇帝だとか、日本のお殿様みたいに、幾人もの女性を妻として抱えた人であっても、色情地獄に堕ちずに、天国に還れた人もいるんだよ」

勇二 「ほーお。そういえば、昔の殿様なんかは、奥方が何人もいただろうしね。じゃあ、「複数の異性がいた」という事実によって「即、地獄行きが決定」というわけでもないんだね」

正太 「そう。出家して、異性との交流を全く絶っていたにも関わらず、色情地獄に堕ちた尼さんもいれば、何人もの女性を妻として抱えていても天国に還った人もいる。
 これは、どういうことかっていうと、天国・地獄を分ける決定的な要素というのは「その人が生きている間に、いったい何を思い、その思いに基づいて、どのような行動をしたか」ということに、かかっているからなんだ。「動機と行動」だね。心の中で思ったことのうち、よいことのほうが多ければ、天国に行けるけど、悪いこと、マイナスのことを思い続けたら、地獄に行くということなんだ。
 言い換えれば、「外側の部分」に、天国・地獄を分ける決定的な要素があるわけではない、ということなんだね。外側の部分というのが何かっていうと、たとえば「その人がお金をどれだけ持っていたか」とか、「異性」との関わりなんかだね。
 お金について言えば、同じように大きな財産をつくっても、死んだ後、地獄に堕ちたり、地縛霊になって家屋敷に住みつく人もいれば、天上界で「大黒天」という神様になる人もいるんだよ。大黒天というのは、「世のため、ひとのため」を思って勤勉に働いて富を築き、その豊かな経済力でもって、さらに人々の幸福のために尽くしてきたような人、経営者だね。そういう「福の神」のような方が、あの世にいるんだよ。
 いっぽう、同じ金持ちでも、「人生=金、金、金」で、お金に対する執着で生きてきた人は地獄に堕ちているんだね。「金持ちが天国の門に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」っていう有名な言葉があるけど、まさにその言葉のとおり、地獄に堕ちている金持ちというのは多いんだよ」

勇二 「ふーむ。同じ大金持ちでも、あの世に還ってからの姿は、上は「大黒天」から下は「畜生道」の蛇や豚まで、ピンキリだってことだね。その違いというのは、生前のその人のトータルの「思いと行い」「動機と行動」が分けているということだね」

正太 「そう。同じように「じゃあ、貧乏だったら、みんな天国に上がれるのか」というと、そんなことはないんだね。外面は清貧のような生き方をしていたとしても、心の中がお金に対する執着や、お金持ちに対する妬みやひがみに満ちていた人は、やっぱり地獄に堕ちているんだよ。心の中まで見て、「清貧で生ききれた」という人は少なくて、むしろこっちのほうが多いんだね」

勇二 「そうか。お金と同じようなことが異性についても言えるわけだね。
 「お金を持ってたか、持ってなかったか」じゃなくて、「お金に執着してきた人生だったかどうか」で天国・地獄が分かれるように、「異性がいたか、いなかったか」じゃなくて「異性に執着してきた人生だったかどうか」で天国・地獄が分かれるわけだ」

正太 「そう。あの世に行ってどういう世界が待っているかというと、その人が、生前、「どういうことを最も強く思ってきたのか」「どういうことを、頻繁に繰り返し繰り返し思って生きてきたのか」で決まるんだよ。たとえていえば、心の中で「どういうメロディを奏でていたのか」「心の中で奏でていた主旋律はどういう性質のものだったか」で決まってくるんだね。あるいは「どういう価値観のもとに人生を生きてきたのか」といってもいいね」

勇二 「なるほどね、まあ、同じ昔の殿様でも、「バカ殿」みたいに「人生、酒じゃ、女じゃ」という価値観で、そういう「思いと行い」で一生生きれば、あの世に還ってから落第だろうけど、「名君」みたいに「いかに領民を幸せにしていくか」という思いで一生懸命努力してきた人は、立派な世界に還っているだろうしね。そういう人生を送った人に、側室が何人かいても、そういう「外側の部分」は、その人の本質とは関係がないだろうしね」

正太 「ただし、こんなことを言うと、「じゃあ不倫もOKなんだな。二号さん、三号さんもOKなんだな」と解釈していく人がいるかもしれないけど、決してそんなことはないんだね」

勇二 「そうだね。不倫なんてしたら家庭のユートピアを破壊することになるよね。それで、家庭がこわれてしまったら、子供の教育や将来までめちゃくちゃにしてしまうよね」

正太 「うん。一緒に家庭をつくって、そのなかでユートピアを築いていこうとしている男女の結びつきを、神様は非常に期待しているし、その幸福を祈っているんだね。不倫がなぜいけないかというと、「家庭をはぐくんで、ユートピアづくりをしていく」という仏の理想と合わないし、ユートピアの核としての家庭づくりに反するからなんだ。
 そもそも、男女という二種類の生き物が創られたのは「男女がともに協調しながら、ともに手を携えながら、素晴らしいものをつくっていきなさい」という、仏のはからいなんだよ。
 だから、男性が女性を見て「美しい」「かわいい」と思う気持ちや、女性が男性を見て、「すばらしい」「たくましい」と憧れる気持ち自体は、単に、善悪の悪として、捨て去らなきゃいけないものではないんだ。そうした本能の中に、今、言ったような大きなメッセージが入っているんだよ。
 また、男女がお互いに、ある程度ひかれ合いながら、どこかで一定のルールのもとに抑制をかけているというのが、社会の健全な営みになっているんだね。
 だから「異性を思う気持ち」というのは、「煩悩」として根本的に否定しなきゃいけないものじゃなくて、その「調整」あるいは「適度な規制や自制」が要求されているものなんだよ」

勇二 「なるほどね。そういう、異性を思う気持ちを「調整」したり、「適度な規制や自制」をかけられなかった人たちが、色情地獄に堕ちているわけだな。
 「異性は全部ダメだ」とか「異性を見ても何も感じない石部金吉みたいな堅物になれ」というのでもなく、逆に「異性なら誰だろうが見境ない。どんどん行けや」みたいな両極端じゃなくて、異性に対しても、「あるべきライン」というものがある、ということだね。職場でも、男性として、あるいは女性として「いいな。素晴らしいな」と好ましく思うのはよくても、自分の配偶者でもない人に対しては、思っちゃいけないこととか、しちゃいけないことってのはあるよね」

正太 「これも繰り返しになるけど、「セックスそのものが悪であり、色情地獄につながる」という短絡的なものじゃないんだね。男女の性的な営みも、健全な夫婦生活のなかでなされたなら、それは家庭の幸福を意味するものだし、生まれてくる子供たちを育てるという聖なる義務が伴っているときは、いかがわしさ、嫌らしさといったものが完全に消えていくんだ。
 そうした大きな義務や責任を伴っていれば、もっと高次な幸福をもたらすことになって、聖なる光を放つことになるんだよ。
 でも、男女のそうした結びつきが「無軌道」に走ったときには、教えられて知るわけではないのに、誰しも地獄的なものを感じるようになっていくんだ」

勇二 「異性に対する「欲望の調節」ができなくて、「無軌道な思い」、「無軌道な結びつき」に走っていく。こういう生き方が血の池地獄につながっていくんだね」

正太 「この色欲方面というのも、踏み外しやすいものなんだけど、よく反省することなんだね。神様というのは人間が一つ罪を犯したら、「もうお前は絶対に地獄だ」と烙印を押されるほど酷な方ではないんだよ。人間というのは、間違いを犯すものなんだけど、その都度よく反省して、きちっと立ち直ることなんだ。
 もし、今、三角関係、四角関係とかにある人がいたら、そのことでもって「即、地獄行きが決定」かというと、そうまでは言えないんだけど、たいていの場合、そういう複雑な関係をつくると、お互い嫉妬にあおられて心は地獄なんだね。お互い嫉妬の目を向け合うことで心がいっぱいになって、家庭も家庭以外も地獄化していくんだ。その心が良くないわけなんだよ。
 やはり、人間は妻を大切にし、夫を大切にし、足ることを知って生活するなかに、幸福の芽が開けるということなんだ」

勇二 「そうだね。足ることを知って、感謝の生き方をすることだよね。「過ぎた欲望」「出すぎた欲」というのが地獄に堕ちる原因だから、性欲、色欲方面についても、きちんと堤防を築いて決壊を防ぐ、ということだね。ここを外した生き方をすると、死後、「畜生道」や「血の池地獄」が待っているということなんだな」

正太 「それと、もう一つ付け加えておくと、現代ではこの色情地獄に堕ちる人がたいへん増えているんだけど、その背景としては、もちろん、社会の風潮だとか価値観なんかの影響が大きいんだけど、霊的な面からいうと、実は魔界からの作用というのも相当働いているんだね」

勇二 「魔界からの影響? そういえば、前に、「この世の人間をめぐって、その人の守護霊と地獄霊が綱引きをしてる場合も多い」って聞いたけど、そういうこと?」

正太 「もちろん、そうした個々の悪霊の働きかけというのもあるんだけど、地獄という世界には、いわゆる「悪魔」といわれる存在がいるんだね。悪魔なんていうと、現代は、「昔の童話かおとぎ話に出てくる空想の産物じゃないか」と笑う人が多いかもしれないけど、天使がいるように、悪魔というのも実際に存在しているんだね」

勇二 「ふーむ。要するに、悪魔っていうのは、地獄に堕ちている霊の中でも特に悪い連中のことを指すわけかい?」

正太 「そうなんだよ。この世にもヤクザや暴力団の親分みたいなのがいるけど、あの世の地獄にもそういう頭のような存在がいるんだね。
 もちろん、悪魔といっても、元は人間だし、決して神様が最初から悪魔という存在としてつくったわけじゃないんだよ。だけど、地獄に堕ちてから、反省しないまま長い歳月にわたって悪を重ねていった結果、もはや人間とは思えないような心の持ち主になってしまった存在のことなんだ。
 地獄に堕ちたとしても、大半の人は、平均するとだいたい二百年から三百年くらいで天国に上がってくるんだけど、中には我が強くて反省ができずに「堕ちっぱなし」に近いような人もいるんだね。「地獄に千年もいる」なんていうのは、もう立派な悪魔といっていいんだよ。
 昔から、悪魔っていうのは「悪賢い」とか「力がある」とか言うけど、実際どういう人がなっているかというと、地上にいた時に、指導者をやっていた人が多いんだね。宗教家だとか、政治的、あるいは思想的リーダーでありながら、間違って人々の心を狂わせていったような人たち。そういう人たちは「無間地獄」という地獄のいちばん深いところに堕ちるんだけど、そこでも反省せず悪事を重ねていくと、いわゆる魔王だとかサタンといわれる存在になっていくんだ。
 この悪魔の特徴は何かというと、天上界に対してはっきりした対抗心を燃やしていて、地獄界の勢力を積極的に拡大しようと画策していることなんだ。つまり、地上を混乱に陥れたり、間違った考え方を広めたりして、自分たちが憑依できるような「悪い思い」「マイナスの心」を持った人間を大量に増やそうとしているんだよ」

勇二 「ふーむ。そうやって、自分たちのすみかを地上に広げようとしてるわけなのか」

正太 「そうなんだ。この世を地獄の植民地にしたいと考えているんだね。その結果、地獄に堕ちる人が大量に増えれば、地獄界の勢力を拡大できるし、地獄に堕ちてきた人たちを今度は憑依霊として地上の人に取り憑くよう唆していけば、さらに次の仲間を増やしていけるというわけなんだ」

勇二 「うーん、地獄ってところには、そんな悪意の固まりみたいな連中がいるんだね。「とにかく、他人をおとしてやりたい、不幸にしてやりたい」っていう最低の心境で生きてるんだな」

正太 「うん。情けないことだし、とても嫌な話ではあるんだけど、それが霊的な実情なんだね。普通の地獄霊っていうのは、まだ同情すべき余地があって、どうしたらいいのかがわからなくて、ただ「苦しい、逃れたい」っていう気持ちから、人に憑依して悪さをしている面があるんだね。もちろん、それもエゴイスティックで悪いことなんだけど、普通の人間に近い気持ちであって、たとえば「お金に困って苦しいときに、やむなく畑の大根を一本抜いて逃げた」みたいな「悪いかもしれんが、自分が苦しいからな」という意識の地獄霊も多いんだ。
 ところが、この悪魔だとかサタンの類になると、「悪い」という気持ちは全くなくなって、積極的に「悪」といわれることを犯したくなるんだね。それはちょうど、人によっては、若い頃、力があふれて何でもぶっ壊したくなるという暴力学生みたいな時期があるけど、同じように、とにかく何もかもメチャメチャにしたくなるんだね。
 こういう悪への積極的な面が出てくると、これが小悪魔あたりになってきて、さらにその上の大悪魔になってくると、いろんなことを組織的にやり始めるんだよ」

勇二 「そうか。昔、「エクソシスト」っていう悪魔祓いの映画を見たけど、そうしたことが現実にあるんだね」

正太 「ただ、この悪魔というのは、普通の人、一般の人の所にはこないんだね。彼らは、この地上を混乱させるのにもっとも効率のよい方法を心得ているんだ。つまり、多くの人に影響を与えている指導的立場にある人のところにやって来て、その人を迷わそうとするんだよ。指導者を狂わせてしまえば、その人に従っている、あるいは、その人の影響下にある人を、みんな地獄に引っ張っていくことができるからなんだね。
 そうしたケースというのは、歴史上の政治的な指導者でも起きたし、思想的なリーダーの場合にもあったんだね。特に現代では、さまざまな新興宗教の教祖にこうした魔が入って、狂った教義を説かせたり、犯罪や社会問題を引き起こしているんだけど、宗教というのは、そのものズバリ「人々の心を指導する」ものなので、悪魔の側からすれば格好のターゲットになりやすいわけなんだ。
 ただし、悪魔の意図というのは、そうした団体を地獄に引っ張っていくだけじゃなくて、いろんな騒動を起こすことによって、「宗教に対するネガティブなイメージを一般社会の中に植えつけたい」というのがあるんだよ。それによって「宗教的真理に対する人々の目をふさぎたい」というのが悪魔の真の狙いだから、「宗教否定」という短絡的な方向に流れていくことは、まさに悪魔の術中に陥ることを意味しているし、警戒しなくちゃいけないことなんだ。
 仏典や聖書の中には、お釈迦様やイエス様が悟りを開こうとする前に、悪魔がやってきて、それを妨害したり惑わそうとしたエピソードが書かれているけど、これはフィクションじゃなくて、本当にあったことなんだね。なぜ悪魔がこんなことをするかというと、こういう「人類の教師」のような方が、真理を悟って人々に「正しい心のあり方」を教えてしまうと、地獄に行く人間が減ってしまうからなんだ。地上の人々の心が調和してしまうと、地獄霊たちは地上の人間に取り憑けなくなって、自分たちの「地上のすみか」を失ってしまうからなんだよ」

勇二 「ふーむ、なるほどな。で、その悪魔というのが、現代人たちを色情地獄に引っ張っていこうとして、暗躍しているわけ?」

正太 「そうなんだ。現代、特に日本なんかでは、人々の性欲や色情を煽るものが世の中に氾濫しているよね。風俗関係の商売もさかんだけど、ヘアヌードだとかエロ本だとかアダルトものなんかの類が巷に溢れている。こうしたものは、昔からなかったわけじゃないんだけど、あくまでも「日陰の存在」で、社会の中でコソコソ隠れて扱われるようなものだったんだね。
 ところが、現代では、そうしたものが白昼大手を振っているような状況だし、子供たちも入れるようなコンビニなんかにも溢れているんだね」

勇二 「なるほどな。現代はそういう出版物だとかメディアをとおして、悪魔は人々の色情を煽ってくるというわけか」

正太 「そうなんだ。百年くらい前に活躍したルドルフ・シュタイナーという思想家・教育者がいるんだけど、(この人はいわゆる「シュタイナー教育」で有名で、霊能者でもあったんだけど)「現代の悪魔は活字を通してやってくる」という言葉を残しているんだね。これは、まさしくその通りで、活字、あるいは視覚を通じて入って来る情報をとおして、悪魔は人々の心を悪い方向に染め上げようとしているんだよ。
 さっき、悪魔というのは、多くの人に影響力を持つ人のところにやってくる、と言ったけど、じゃあ現代で人々に対して一番大きな影響力を持っているのがどこかというと、「マスコミ」なんだね。もちろん「一部の」という表現をするけど、霊的な目で見ると、そうした一部マスコミの中に悪魔というのが入って来ているわけなんだ。
 「劣情を煽る」なんて言うと物々しく聞こえるみたいだけど、事実、そうした内容のものが大手出版社のようなマスコミからも、週刊誌その他によって大量に垂れ流されているんだね。こうしたものは、「精神的な公害」そのものだし、心の環境汚染になっているんだよ。
 マスコミの側も「出版不況から逃れたい」という事情から走った面もあるんだろうけど、こういう「乱れた性表現」の背後には、「この世を色情地獄化したい」という、霊的世界からの悪い意図が働いていることは厳然とした事実なんだ」

勇二 「ふーむ。たしかに、子供たちが買い物をするようなコンビニまで、エロ雑誌がズラーッと並んでても、「今は、そうした世の中になりましたから」で済ませてしまうのはおかしいよね。やっぱりどこか感覚がマヒしてきてるんだろうな。ネットの世界なんかでも、ワイセツ系だとか、出会い系の不倫サイトだとかすごいしね」

正太 「そうしたエロ本だとかアダルトものを並べた本屋のコーナーなんかには、霊的に見ると、モヤモヤーッとしたピンク色の波動が漂っているんだね。そうしたところに行くと、やはり憑くべきものがペターッと憑いてくるんだよ」

勇二 「なるほどな。まずは、そういう心の環境汚染みたいなものから自分を守る、家族や子供たちを守るということが大切だね」

正太 「地獄に堕ちる原因は「執着」、つまり「過ぎた欲望」だということは何度も説明したけど、悪魔が真っ先に攻めて来るのは、まさしくこの「欲望」の部分なんだね。「人々の欲望を煽って、かき立てる」というのが悪魔の常套手段なんだ。この世の人を地獄に引きずり込んでいくのに、いちばん簡単なのはこのやり方なんだよ。
 そうした欲望のなかでも、いちばん攻めやすいものの一つが、この「性欲」の部分なんだね。これなんかも、たとえばイスラム圏みたいに戒律の非常に厳しい社会ではやりにくいんだけど、アメリカや現在の日本のような社会だと、きわめてアプローチしやすいという面があるわけなんだ。
 以上、色情地獄については、今回、もっともオーソドックスな「血の池地獄」について紹介したけど、色情系の地獄には、他にもポルノ作家だとかAVなんかの映画監督、自称アーティストたちが堕ちている一風変わった地獄なんかもあるんだね。そのあたりについては、いずれ三途の川を渡ってからの説明で詳しくすることにしよう」






欲情のままに人生を送った人、男女の道を踏み外した人が堕ちる「色情地獄(血の池地獄)」の実態とは? ①

2007-09-01 | プロローグ
正太 「「畜生道」とならんで、現代人で堕ちる人が増えているもう一つの地獄が、有名な「色情地獄(血の池地獄)」なんだ」

勇二 「ここも、「貪欲」「貪りの思い」で生きた人の末路というわけだね」

正太 「うん。「あの世なんか、あるわけない。天国・地獄なんて昔の迷信だ」と思っている現代人は多いんだけど、「もし地獄があったとして、自分が堕ちるとしたら、この地獄じゃないか」と思っている人はけっこういるんだね。じゃあ、実態はどうかっていうと、案の定、ここに堕ちている人はとても多いんだよ」

勇二 「ふーむ。「色情地獄」っていうからには、ここに行く人というのは、生前、「色情」の思いが多かった人、淫らな思い、エッチな思いが多かった人、ということになるんだろうね」

正太 「そうだね。色情地獄(血の池地獄)に堕ちる人というのは、貪る心のまま、欲情のままに人生を送ってきた人たちなんだ。生前、異性に対する情欲、色欲の方面ばかりに関心が向かっていた人たちだね。異性への情欲に心を燃やし続けて生きてきた人、「セックスこそが、性的な快楽こそが、人生最高の悦びであり幸福なんだ」という価値観で生きてきた人が堕ちている地獄なんだよ。
 もちろん、「異性に心がひかれる」というのは、人間としての本能だし、それ自体が悪いことじゃ決してないんだけど、人間としての尊厳に基づくルールというものがあって、それを守っていたかどうかかで、天国と地獄が分かれることになるんだ」

勇二 「「情欲の虜になって異性との不調和な行為の奴隷になると、想念帯(心の中の記録テープ)にはピンク色で記録される」って、前に聞いたけど、生きていたときの心の中を見て、そういうピンク色の記録が多かった人が堕ちるわけだね」

正太 「ただし、この地獄は、「男女関係でいちじるしく間違った生き方をした人」、「男女の道を踏み外した人」が行くところなんだけど、じゃあ少しでも踏み外したら、みんなここに行くのかというと、そうでもないんだね。特に若い頃なんかは「若気の至り」ということで間違いも多いから、必ずしもここには行かないんだよ。だけど、「一生を通じてその傾向が非常に強かったような人」、あるいは「中年以降に狂ってきた場合」には、ここに行く可能性はかなり高いと思っていいんだよ」

勇二 「そうかあ。若い頃は遊んじゃったけど、その後は家庭を大切にする良きパパとして一生を送った、なんていうのはまだいいんだな。「中年以降に女遊びが盛んになった」なんていうのが危ないわけだ。こりゃ、結構いるだろうね。もちろん、女遊びだけじゃなくて、その逆もあるんだろうけど」

正太 「さっきの「肉体と霊」という観点から説明すると、この世に生まれた人間というのは、動物と同じような面も持っているんだね。「食本能」もあるし、子孫も遺さなきゃいけないから、「性本能」だってある。動物的な本能が全部なくなってしまっては困るし、それはあって構わないんだ。
 本能はあって構わないんだけど、さっきも言ったように「霊主肉従」つまり、「あくまでも霊体、魂のほうが主であって、肉体は従なんだ」という考えを持っているかどうかで、天国・地獄が分かれてくるんだよ。
 「「自分の心が善良かどうか、清いかどうか」なんてことは、どうでもいいし興味もない。心がどうかなんてことよりも、肉体だ。とにかく、肉体の欲をどう満たすかを中心に生きていけばいいんだ」とか「霊なんてない。魂なんか迷信だ。心なんか脳の作用にすぎないんだ。脳の神経をピピッと電気的な信号が走ってるだけで、それが「心」の正体なんだ。人間はタンパク質の固まりであり、肉体でしかない。だから、後はどうやって肉体の悦び、食欲、肉欲の快楽をゲットするか。人生の価値というのは、これに尽きているんだ」というふうに、肉体の欲や快楽にのめりこんでいくと、地獄行きになるんだよ。
 色欲にのめり込むというのは、たとえていうと、「塩水を飲む」のと同じなんだね。塩水っていうのは、飲めば飲むほど、渇きが癒えずに、ますますのどが渇くよね。色情の世界もこれと同じで、入り込むと、もっともっと強い刺激が欲しくなって、エスカレートしていくんだ。ますます、飢えて渇いて抜けられなくなるんだね。
 「人間は肉体なんだ。肉体以外の自分なんかないんだ」と思えば、肉体の欲を満たすことしか頭に思い浮かばなくなるんだ。そして繰り返し、乱れた行為を行っていくうちに、魂の傾向性が生じてきて、異性を見る目が違ってくるんだね。そうなると、家庭ユートピアも何もあったものじゃなくて、違う異性を見るたびに、ひたすら発情していくことになるんだよ」

勇二 「「ひたすら発情」かあ。さすがに恥ずかしいね」

正太 「そう。その「恥ずかしい」という感情、「羞恥心」というものが、人間になぜあるかというと、仏が人間に対して「色情地獄に堕ちるなよ。畜生道に堕ちるなよ」という警告のために与えているんだね。これがあるから、罪の意識というものが起きてくるんだよ。
 特に、女性は羞恥心が非常に強いんだけど、これは、女性を堕落させないために神様が与えた安全弁なんだよ」

勇二 「羞恥心ねえ。最近は、かなぐり捨ててるんじゃないか、というような人も多いみたいだよ」

正太 「情欲っていうのは、万引きだとか盗みなんかに似たところがあって、重ねるごとに罪の意識が薄れていく、という傾向があるんだね。麻薬みたいな面があるんだ。
 情欲の虜になってしまうと、魂よりも肉体のほうが簡単に主導権を握ってしまって、肉体の欲に魂のほうが振り回されていくようになるんだね。これは、何とかして地上の人間に取り憑きたいと思っている地獄霊にすれば、まさに願ったり叶ったりの状態なんだ。霊的に見ても非常に危険な状態になるんだよ」

勇二 「ふうむ。色欲にハマると麻薬みたいにだんだん羞恥心もマヒしてくるわけなのか。
 ところで、基本的な疑問なんだけど、性欲にしても、食欲にしても、それを満足させるときには、快感や快楽が伴うよね。こうした快感や快楽があるからこそ、「これこそが本物の幸福だ。これは追いかけなきゃ」ということで、のめりこんじゃう人が多いと思うんだけど、じゃあ、そもそも、なぜ快楽なんてものがあるのかね? ある意味じゃ、それが「誘い水」っていうか、地獄行きのキッカケになってるような面もあると思うんだよね」

正太「快楽というのは、あくまでも慈悲として、仏が人間に与えたものなんだね。なぜ、そうしたものが与えられているのかというと、人間には非常に弱い面があるからなんだ。
 人間がこの世で生きていくのに、ぎすぎすした毎日だったら、この世というのは「砂漠」になってしまって、人間は疲れ果ててしまうものなんだね。だから、仏は人間に一定の喜び、快楽というものを与えたんだよ。男女の性の営みというのも、そうしたものなんだね。これは、あくまでも慈悲として許されているものなんだ」

勇二 「ふーむ。この世の修行っていうのは厳しくてしんどいから、神様がそれを憐れんで、慰め、ねぎらいみたいなものも与えてあるということなのか。快楽という一定の喜びも許している、ということなわけ」

正太 「そう。でも、こうした快楽にのめり込んでいくと、人間は向上心だとか高い理想というものを失って、だんだん堕落していくんだね。昔から異性に対するタブーというのはたくさんあったんだけど、これは、そうしたものが健全な青少年たちを迷わせることが多かったことが原因になっているんだ。
 快楽というのは、肉体の感覚器官を喜ばすものだけど、感覚器官というのは本来、この世で魂修行をするために与えられているものなんだね。たとえば、包丁というのは、料理には便利でも、人を傷つけようと思えばそうできるよね。同じように、人間の感覚器官というのも、よく整えて使ったなら人生を幸福に導くんだけど、間違った方向に使って、「感覚器官をよろこばせること自体が目的」になっていったときには、不幸を呼び込むことになるんだよ」

勇二 「そうか。仏の慈悲として享受する範囲内では許されても、悪ノリしちゃって「肉体の快楽をゲットすること自体を目的にした生き方」をすると地獄行きになるわけだね。人生の目的っていうのは、あくまでも「魂の向上」、つまり、「魂を磨いて高めていくこと」にあるからだよね。
 神様が人間を引っ掛けようとして、快楽みたいなものがあるわけじゃないんだな。慈悲を悪用するっていうか、節度を守らない側がいけないわけだ」

正太 「うん。この世に人間として生まれた以上、異性への関心や興味をまったく否定することはできないんだけど、魂の属性として羞恥心があることからもわかるように、魂のなかには一定の調整原理、調節原理というものがあるんだね。そうした魂の本性に背くかたちで自由性を発揮すると、相応の反作用がきて、死後、色情霊として地獄で苦しむことになるんだよ」

勇二 「なるほどね。全部否定しろ、ってことじゃなくて、その「調整」「調節」をきちんとしなさい、ってことなんだね。それができずに失敗すると、落第になるわけだ。
 ところで、「血の池地獄」っていうのは、文字通りドボドボの血の池の地獄があるっていうことだよね。それも、風俗関係の女性だとか、「心の中に色情地獄を展開している女性」の「子宮の中」にそうした地獄ができている、ということだったよね」

正太 「そうなんだよ。具体的に説明すると、こうなるんだね。
 血の池地獄に堕ちる人がたどるコースというのは、たいていは、まず、夕暮れ時の、ネオンサインが瞬く色街みたいなところが出てくるんだね。死んだ人の魂が、その辺をフラフラしているんだけど、やがて、誰かに呼ばれて遊び場に入っていくんだ。
 そこには化粧をした女性がいろいろいるんだけど、色情地獄に堕ちていない人から見れば、そういう女性たちは身の毛もよだつような姿をしているんだけど、そこに来た人には、そうは見えなくて、とてもきれいな女性に見えるんだね。
 そこで酒を飲んだりしているうちに、しだいに別の場所に引っ張っていかれて、ストーンと堕ちると、そこが血の池地獄なんだ。
 そこは意識の世界なんだけど、地下の大きな洞穴のような所で、最初はそれが血の池だということは分からないんだね。だけど、しばらくいると、だんだん「自分は血の池の中にいる」ということが分かってくるんだよ(しかも、その池の形が子宮の形をしていることにも気づいてくるんだね)。
 ここは本当に生臭い世界で、その池の中で、窒息して息もできないくらいドロドロの血を飲んじゃったりするんだけど、それでも煩悩の消えない男性というのは、裸の女性を見ると追いかけていくんだね。そしてグッと掴まえるんだけど、相手が振り向くと、若い裸の女性だと思ったのが、なんと、口が耳まで裂けて、目は爛々とし牙が生えて、ものすごく臭い息を吐くような鬼婆なんだね」

勇二 「ウェーっ、そこまででいいよ。気持ち悪いのも苦手なんだよね。でも、そんな醜悪な世界に堕ちて、鬼畜同然の姿になっても、まだそんな気を起こしているわけ?」

正太 「そう。人間というのは、生きていたときに、繰り返し繰り返し同じような行いをして、それを心に刻み、「魂の傾向性」をつくった場合には、あの世に還っても、それ以外のことは考えられなくなるんだね。だから、その人の目の前には、その人にふさわしい世界が現われてくるんだよ。
 自分が望む姿に変身し、自分の望んでいた世界が現われているだけなんだね。それが血の池の地獄だったとしても、誰のせいにもできないんだ。誰も責められないんだよ」

勇二 「なるほどね。あの世っていうのは、この世の延長なんだな。この世にいたときのその人の心の中身が、そのまま展開してくるわけだ。まさに「自己責任」の世界だね。
 でも、そんな地獄が自分の子宮の中にできてる女性のほうも、たまったもんじゃないだろうね。身体の調子だって悪くなるだろうしね」

正太 「そうなんだよ。霊の体の大きさというのは自由自在だから、霊というのは大きくも小さくもなれるんだね。だから、血の池地獄に堕ちた男女というのは、心の中に色情地獄をつくっている生きた女性の子宮の中に、小ちゃくなって住んでいるんだね。三十人とか、そのくらいの人数が子宮の中にいるんだよ。外から見ると、ちょうど、ぬかるんだ田んぼの泥沼の中でミミズがいっぱい絡み合っているような、非常に見苦しい姿なんだ(ただし、色情地獄というのは、そうした女性の子宮の中にしかない、というわけじゃなくて、あの世の地獄界にも、そうした世界はあるんだけどね)。
 こんなふうに、この地獄の中に閉じ込められた霊たちは、血の池の中で悶え苦しんで、そこから何とか逃げ出そうとするんだね。そうこうするうちに、非常に苦労して脱出するんだけど、それで正気に戻るということはなくて、この世の人間の肉体を探して、それに取り憑いて、生前と同じことをしようとするんだよ」

勇二 「地獄に堕ちた霊が、なぜ、この世の人間に憑依しようとするかというと、「この世の人間に憑依している間は、苦しい地獄から抜け出すことができる」というのと「この世の人に憑依すると、生前の感覚が味わえる」からだよね。酒乱の霊だったら、酒好きの人に憑いていれば、酒を飲む感覚が味わえるわけだ。色情地獄霊も、同じようなことをしようとするわけだね。
 ところで、彼らが憑依していく相手だけど、「正常な夫婦間の性生活の場合は、行為としては同じでも、色情霊は寄り付かない」ということだったよね。やっぱり、夫婦みたいな正当な男女の関係だと、その点で、色情霊とは波長が違っているから、そうならないってことなんだろうね」

正太 「うん。不思議だけど、正常な夫婦間の性行為の場合は、彼らも心得ていてこないんだね。
 たとえば、周りの人たちから祝福されて、新しい門出をする新婚カップルというのは、たいへん緊張してはいるんだけど、「色情霊たちで揉みくちゃになってる」なんてことは、まずないんだよ。
 ちょっと脱線するけど、(不思議に思えるだろうけど)あの世には「仙人界」という所があって、そこにいる仙人や仙女たちのなかには、新婚の男女の性生活がうまくいくように祝福して仲を取り持つ仕事をしている霊人がいるんだね。彼らは、霊界から粉のようなものをパラパラッと振りかけて、新婦を美人に見せたり、新郎をたくましく見せたりするようなことをしているんだ。そんなふうに人間の目を惑わせる、霊界の秘薬を持っている人たちが、天国霊のなかにはいるんだよ。
 また、彼らは、たとえば十年も二十年も連れ添った夫婦が離婚の危機を迎えたときに、「離婚させたくない」と思った場合には、その夫婦のもとにやって来て、仲を取り持つような努力もしているんだ」

勇二 「へーえ。熟年離婚の回避なんかにも力を貸してくれるわけだ。でも、「仙人界」ねえ。仙人なんてのが実際にいるのかい?」

正太 「うん。あの世(霊界)っていうのは、天国・地獄のように上下で分かれているだけじゃなくて、天上界のほうは、水平方向、つまり「表側」と「裏側」の霊界に分かれているんだね。裏側の霊界というのは、表側の十分の一くらいしかないんだけど、ここには主に「天狗界」と「仙人界」という世界があるんだ。天狗界というのは力自慢の人が行く世界で、仙人界というのは霊的な力を研究的に究めた専門家たちが行く世界なんだね。
 この裏側の霊界は、西洋のほうでは「魔法界」と呼ばれているんだけど、わかりやすくいえば「ハリー・ポッター」の世界、つまり、超能力だとか、他人ができないような霊力に凝り上げた人たちが行く世界なんだ。ここは、地獄ではないんだけど、「自己発揮に燃えた人たちの世界」で、「愛の発展」という正統的な心の修行の方向から逸れた人たちの世界なんだね。だから、一般の表側の霊人とは会えないように隔離された世界になっているんだよ。
 まあ、こうした特殊な世界のことも、三途の川を渡ってからの説明で、いずれ詳しくしたいと思ってるんだけどね。
 ちなみに、地獄という世界も、天国・地獄というふうに、あの世を二分するような世界ではないんだね。川にたとえれば、河口あたりの淀みのようなものだし、霊界全体を五十階建ての高層ビルにたとえると、地獄というのは、地下の五階分に相当するだけなんだよ。もっとも、現代は、死んだ後、この地下世界に降りていく人が半数以上にのぼっているので、大問題になってるんだけどね。
 えーっと、話がだいぶ飛んじゃったんで元に戻すけど、要するに「性的関係は、すべて色情霊を呼ぶもので悪だ」というわけではない、ということなんだ」

勇二 「ふーむ、あの世にもいろんな世界があるんだな。ところで、通常の夫婦関係でも異常性が出てきたりすると、おかしくなることがある、ってことだったね」

正太 「そう。正当な夫婦関係があっても、少し異常性があったり、やや常軌を逸したような性生活をしていると、色情霊が寄ってくることがたまにあるんだよ。
 いっぽう、商売がらみの場所で遊んでいるとどうなるかっていうと、こちらのほうは必ずやって来るし、邪で周囲の人の祝福を受けられないような性的関係も色情霊がかかってきやすいんだよ」

勇二 「なるほどね。まさに「類は友を呼ぶ」「類は類をもって集まる」というわけだね(笑)」

正太 「だから、そういった「不純異性行為」、なんていうと堅苦しい言い方になるけど(笑)、そうした場合、その当事者たちというのは、色情霊たちの欲念をはらすための「オモチャ」みたいになってる場合が多いんだね。
 お金を出せばできる、といった場所は、色情霊たちの巣窟になっていて、そういうところに行くと、お金を払った上で、必ずお客さん(色情霊)を連れて帰ることになるんだよ」

勇二 「そうかあ。お持ち帰り(テイクアウト)というわけだね(笑)」
 
正太 「こんなふうに、彼らは、ほとほと嫌になるまで、血の池地獄での苦しみと、この世の人間への憑依を、繰り返し何度も体験することになるんだ」

勇二 「でも、「そんな自分に嫌気がさす」っていう心境になってくれば、それが反省への第一歩になるわけだよね」

正太 「うん。彼らにとっては、「肉体の幸福、イコール、人生の幸福とは言えないんだ」ということを悟るまで、そうした状態が続くんだよ。「自分たちが「これこそ人生の幸福だ」と考え、目指してきたものが、実はこんなに苦しく醜いものだった。人間というのは、肉体の欲望のままに生きちゃいけないんだな。肉体の快楽に溺れちゃいけないんだな。自分の「心」というものを、しっかり自分自身でコントロールしていかなきゃいけないんだ」ということがわかるまで続くんだよ」

勇二 「なるほどな。苦しいけど地獄もやっぱり修行の場なんだね。彼らなりの悟りが得られて、反省が十分に進めば、天国に還ってこれるんだな。…なーんて、他人事みたいにエラそうに言ってるけど、自分だってどうなるかわからなかったりして(笑)」

正太 「この色情地獄というのは、「生前に、乱れた男女関係にあった人たち」が堕ちる世界だと、思っている人が多いし、それは間違いじゃないんだけど、不思議に思えるかもしれないけど、生前に、異性に対して指一本触れなくても、この色情地獄に堕ちている男女というのがいるんだよ」

勇二 「へーえ、そうなの。でも、それは、あの世っていうのが、「心がすべての世界」「思っていることがすべての世界」だからだよね。だから、生前、行為としてはそうしたことが全然なくても、心の中が、しょっちゅう、「異性に対する色欲」だとか「エッチな妄想」で渦巻いていたら、そうした世界に行かざるをえないということだよね」

正太 「そうなんだね。びっくりするかもしれないけど、昔の尼さんなんかで、この地獄に堕ちている人がいるんだね。そういう人は、出家して外面的には男性を避けて一生を送ったんだけど、心の中では一日中男性への想いが渦巻いていたんだね。だから、死んだ後は、この色情地獄に堕ちてしまったんだよ」

勇二 「そうかあ。この世はともかく、あの世に還ると、「心の中で何を思って生きていたか」っていうのがゴマカせないんだね」

正太 「うん。あの世の大きな特徴というのは「思い即行動」ということなんだね。「思う」ということと「行動する」ということがイコールの世界なんだ。この世だと、思ったことと、行ったことの間には分離があるよね。「盗みたい」と心の中で思っても、実際に肉体を使って行動に移さなければ、お巡りさんに捕まることはないよね。ところが、あの世だと「盗もう」と思った時点で、罪が確定するんだよ」

勇二 「なるほどねえ。「女を見て心の中で姦淫したいと思った者は、姦淫したのと同じである」なんて、たしかイエス様が言ってたけど、文字通りの意味だったんだね(笑)」