死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

地獄に堕ちる原因の七割以上は、「貪・瞋・癡」という「心の三毒」が占めている 

2007-07-26 | プロローグ
正太 「地獄直行になる「悪い種」として「他人を害する思い」というのをあげてみたんだけど、地獄行きの原因になる「悪い種」というのは、俗に「百八煩悩」と言われるぐらい多岐にわたっているんだね」

勇二 「ねたみ、そねみ、愚痴、不平不満、…に始まってズラーッと続くよね。さっきは、メモをとったのを読み上げるだけで、2分くらいかかっちゃったよ」

正太 「ただし、わかりやすくまとめると、こういうことになるんだ。
 悪い種を心にまいて地獄に堕ちる場合、その原因の七割以上は「心の三毒」というものに集約されるんだよ」

勇二 「ほーお、七割以上っていうと、かなりの部分をカバーするよね。じゃあ、そこから重点的にチェックしていけば、反省もずいぶんやりやすくなるよね」

正太 「そう。「心の三毒」というのは「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」の三つのことをいうんだよ」

勇二 「とん・じん・ち? 語呂はなんとなく覚えやすいね。で、それは、どういう意味なの?」

正太 「「貪」というのは「貪欲」、つまり「足ることを知らない欲望」のことなんだ。まったく分不相応に、あるいは、それだけの努力もしていないのに、欲しがること。欲しくて欲しくてしかたがない。欲しい、という思いが止まらないことなんだね。
 「瞋」というのは「怒り」のこと。カーッとこみ上げてくる怒り、自分で統制できない怒りのことなんだね。何か自分に都合が悪かったり、不利なことがあると、すぐにカッとなって怒ることをいうんだ。
 「癡」というのは「愚か」ということ。「愚痴」という言葉は、今では不平不満のようなことを口にするという意味にとられているんだけど、もともとの意味は、愚かであることそれ自体なんだ。愚かだから、愚痴が言葉として出るわけで、愚かであること自体がこの「癡」なんだよ」

勇二 「へーえ。「足ることを知らない欲望」と「カーッとくる怒り」と「愚かさ」ねえ。この三つで地獄に堕ちる原因の七割以上を占めているわけか」



どんな理由であれ「恨み」の思いを持っている限り、人間は幸福になることも、天国に上がることもできない

2007-07-24 | プロローグ
正太 「そう。悪想念が飛んできても、それをキャッチするような波長をその人が持っていなければ、影響を受けないんだね。逆に言えば、いつも悪いことを考えている人というのは、他人からの悪想念を受けやすいんだよ。モロに受けちゃうんだね。ところが、いつも心をピカピカに磨いて心が光っている人というのは、他人からの悪想念をまともに受けないんだ。鏡みたいにはね返しちゃうんだね。これはちょうど磁石が反発し合うのと同じなんだ。
 だから、人から何か言われたり、批判されたときは、まず自分に非がないかどうか振り返ってみることが必要だけど、そうでないと思ったときは、あえて反発したり、やり返すというのでなく、ますます心を磨いていくという態度も大切なんだよ」

勇二 「ふーん。そうなのか」

正太 「この「他人を害する思い」についてだけど、世の中には、ある人への憎しみを五年も十年も持っている人がけっこういるんだね。嫁と姑なんかの間でよくある現象だけど、怒りの思いを押さえながら、何十年もずーっと心の中にためている人がいるんだ」

勇二 「ああ、うちの親戚にもそういう人はいるね。会うたびに、お袋なんかは「怨み節」を聞かされているみたいだね」

正太 「その「恨み」という感情だけど、苦しみとか悲しみ、病気や挫折、そうしたものにおかれたとき、人間はどうしても自分以外の何かのせいにしたくなるし、もっと積極的に「他の人を恨む」という方向に走る人も少なくないんだね」

勇二 「実際、「おいおい、それはないだろう」っていうような、ヒドいことを人からされる時もあるしね」

正太 「あるいは戦災だとか、自分の力ではどうにもならないものが降りかかってきて、自分の人生を悪い方向に変えてしまった。そのときに、「どうしても許せない」という思いが湧いてきて、そういう行為をした人や国を恨む気持ちになってしまうものなんだね。
 これは、ごく自然な情と言ってしまえばそれまでなんだけど、ただ、そういう思いによっては、人間は決して幸福になることはできないんだ。これは心の法則によって、そうなっているんだよ」

勇二 「まあ、恨みで心がいっぱいの人を見て、「怖いな」とか「気の毒だな」とは思っても、「幸せそうだな。自分もああなりたいな」と思う人はいないだろうね。「恨み」とか「憎しみ」っていうのは、それ自体が「不幸な」心の状態だろうね」

正太 「「恨む」ことで、自分の心の傷をストレートに吐き出して、それで胸がスッキリするように思うかもしれないけど、そういう心で生きているということは、霊的に見ると、毎日毎日、砒素の毒を飲み続けているのと同じなんだね。
 本人は「自分の思いは正義だ。正義の観点からいっても、自分の思いは正しい」と思っているかもしれないけど、たとえどんな理由があったとしても、「人を恨む」ことによっては「絶対に幸福になれない」ことになっているんだよ。人を恨んでいては、あの世の地獄の世界から天国に上がっていくことも絶対にできないんだ」

勇二 「それは、「恨み」っていうのが、悪想念。つまり、「与える愛」でなく「奪う愛」の思い、プラスでなくマイナスの思いだからだよね。本人にはいろいろ言い分があったとしても、「恨み」っていう思いじたいが「正しくない」ということだよね。
 まあ、僕は、怖い話は苦手だけど、たとえば「四谷怪談」。お岩さんの話とか見ると、けっこうお岩さんの側にも気の毒というか同情すべき事情があるみたいだよね。でも、お岩さんのああした怨念に充ちた心の状態では、天国の住人になるのはムリだろうしね」

正太 「そう。結局、「恨み」の思いというのは、その本質を突き詰めると「相手を不幸にしてやりたい」という思いなんだ。いかなる理由に基づくにせよ、「他人を不幸にしたい」「他の者を害したい」という思いは、仏の心、神様の心に反した思いなんだね。
 その思いは、相手に届くだけじゃなく、必ず自分自身に返ってくることになっているんだ。それは野獣と同じで他の人を害するだけじゃなく、返って来て自分自身に噛み付いてくるんだよ。これが法則であって、誰一人ここから逃れることはできないんだね。
 どんな理由であれ「他人の不幸を願う」人間は、幸福になることも、地獄の世界から天国の世界に還ることもできないんだ」

勇二 「うーむ。「恨み」だけじゃなくて、「怒り」も「憎しみ」も、相手の幸福を願う気持ちじゃないよな。どう見ても「不幸にしてやりたい」って思いだね。だから、自分が幸福になれないわけか」

正太 「この世の人にはなかなか理解しがたいんだけど、仏の心というのは「すべての人を幸福にしたい」という願いでいっぱいなんだね。この世で長年生きて疑り深くなっている人から見ると「そんなお人好しみたいな、バカバカしい話があるか」と思うかもしれないけど、それが仏の心、神様の心なんだよ」

勇二 「ふーむ。仏というのは究極の「与える愛」、究極の「存在の愛」だってことだよね。仏の心に反する思いで生きて、「この世とあの世を貫く幸福」をつかむことは絶対不可能だということだね。それが法則ということだね」

正太 「そう。昔から「恨み心で恨みは解けない」というけれども、「恨み心を解かない限り、人間は絶対に幸福になることはできないし、天国に上がることもできない」ということをぜひ知って欲しいんだよ」
 




「悪い種」の代表は、「他人を害する思いを発する」こと 

2007-07-23 | プロローグ
勇二 「じゃあ、幸せをつかむために、まいていかなきゃいけない「善い種」って何なのか。不幸になるから、まいちゃいけない「悪い種」ってなんなのか。ということになるけど、悪いほうの種っていうのは

ねたみ、そねみ、感情や本能にもとづく怒り、愚痴、足ることを知らない心、不平不満、悲観的な心、消極的な心、優柔不断、臆病、怠惰な心、自己嫌悪、うらみ、憎しみ、のろい、情欲、自己顕示欲、利己主義、毒舌、二枚舌、躁鬱、酒乱、暴力、排他主義、うそ、いつわり、唯物主義、無神論、孤独、独裁主義、金銭欲、地位欲、名誉欲、不調和  

ということだよね。そういう思いを心の中で持つということ。悪い思いというのは、それを行動にうつすとさらに罪が重くなる、ということだね。
 カーッとしたり、イライラしたり、焦ったり、過度の劣等感を持ったりすること。いつも自分のことばかり悩んでいて、周囲の人間の幸福などお構いなしという心のあり方。
 否定的な言葉とか、他人を不幸にするような思いや行い。人をいじめてやりたいという思い。人をそしったり、他人の欠点や粗さがしばかりするような思い。病念をいつも心に把持して、病気の痛みや苦しみばかりを他人に訴えているような思い。卑怯な思い、取り越し苦労、持ち越し苦労、不安の思い。

 そういう思いを持つということ、そういう心のあり方をするということ、そういう行いをするということが、「悪い種をまく」ということであり、生きながらにして地獄、死んでからも地獄、「この世とあの世を貫く不幸」「三世を貫く不幸」につながっていくということだね」

正太 「そのとおり。地獄に堕ちる原因になる悪想念、マイナスの思いというのは、「百八煩悩」とよばれるくらい数が多いんだ。そうした「悪い種」のなかでも、最たるものが「他人を害する思いを発する」ということなんだね」

勇二 「うーむ、「他人を害する思いを発する」ねえ。たしかに、「どんな人が地獄に堕ちると思うか?」ときかれて、一般的に思い浮かべるのは、「人を殺した」とか「傷害した」とか「強盗をした」「放火をした」「詐欺をした」っていう「他人に害を与えた人」というイメージだよね。
 実際はどうかっていうと、そんな犯罪行為をしでかさなくても、心の中でマイナスのことを考えているほうが多ければ、それだけで地獄に堕ちちゃうわけだね。
 「他人を害する思いを発する」っていっても、なにも「あの野郎、ブッ殺してやる」なんていう極端な思いまで出さなくても、「怒り」とか「嫉妬」とか「憎悪」とか「恨み」なんかが、十分それにあたるわけだよね」

正太 「そうそう。現代人で、死んでから地獄に堕ち、「悪霊(地獄霊)」になっている人は、半分以上にのぼっているんだけど、悪霊が悪霊である理由というのは「他人を害する思いを発した」ということなんだね。
 地獄に堕ちた人のなかには、生前、「それほど良い思いも持たず、それほど良いこともしなかったけれど、それほど悪い思いを持ったわけでもなく、そんなに悪いこともしなかった。でも一生をトータルするとプラスよりマイナスのほうが多くて、「残念ながら失敗しましたー」という人」もいるけど、心がいつもイライラ、キーキーして、すぐカッと怒ったり、そしったり、愚痴ったりっていう積極的に他人を害する波動を出していた人は多いんだね。
 自分を大切にすることは決して悪いことじゃないんだけど、自分を大切にする気持ちの中には、消極的にせよ、積極的にせよ、他人を害する思いがあるのは事実なんだね。「自分が、自分が」という思いのなかには、「なんとかして他人を引き下げたい」「自分の都合のいいように他人を動かしたい」という思いがあるわけなんだ。
 自分を大切にする気持ちっていうのは、正しい方向に向かうと発展・繁栄の原理になるんだけど、一歩間違うと、大変な害悪をまきちらすことになるんだよ」

勇二 「そりゃ、そうだろうね。「自分が大切」イコール「自分さえ良けりゃ、他はどうでもいい」っていう生き方には、別に努力もいらないしね」

正太 「人間の魂修行の根本には「個が個として生き、その個性、独自性を主張しながら、いかに全体と調和し、全体の発展につなげていくか」という命題があるんだよ。この根本の命題に背いた人が、死後、地獄で苦しんでいるんだ。
 仏は人間に対して百パーセントの自由を与えているんだけど、この「自由性」の使い方を間違って、「人を傷つける」「人を害する」方向に使ってしまった人は、死んだ後、悪霊という哀れな姿にならざるをえないんだね」

勇二 「なるほどねえ。でも、怒ったり、憎んだり、怨んだりするのが悪いっていうことはわかるし、それが地獄的なこともわかるんだけど、どう考えても理不尽なことを人からされて、そういうことを思っちゃうこと、ってあるよね。
 まあ、こういう場合も、やっぱり「自己責任の原則」で、相手がどうであれ、環境がどうであれ、「自分が出した思いと行いは、自分の責任になる」から、やっぱりここは一番、自分の心をグーッとコントロールしていかなきゃいけないんだね」

正太 「そういうことなんだ。他人の不調和な言動とか怒りの思いに同調して、自分もいっしょになって怒り始めたら、霊的には、心の世界では、自分も相手と「同じ世界の住人」になってしまうんだね。たとえ他人に原因があるとしても、その毒を食らってしまえば、自分の心も地獄に通じてしまうんだよ。
 だけど、心動ぜずに、聞き流していれば、悪口や嫉妬や怒りというのは、やがてそれを発した本人に返っていくんだね。これを「作用・反作用の法則」というんだ」

勇二 「へーえ。悪口や怒りや妬みの毒っていうのは、自分が食べずに受け流していると、それを出した本人に返っていくのかい」


「この世とあの世を貫く幸福」を得るための基本は、未来に向けて「善い種をまいていく」こと 

2007-07-22 | プロローグ
正太 「それと、誤解がないように一点付け加えておくと、前に「間違った先祖供養」についての説明をしたときに、「邪教では「因縁トーク」というものをよく持ち出す」ということを話したよね」

勇二 「ああ、何か不幸があると「先祖の因縁」とか「両親の因縁」とか「色情の因縁」「刑獄の因縁」なんかを持ち出して、「そういう因縁を切りさえすれば、あなたは幸福になれる」と説くやり方だよね。不幸の原因を先祖とかの他のせいにして、「自己責任の原則」に蓋をするやり方だったね」

正太 「そう。この「因縁」という言葉は、もともと「因縁生起(いんねんしょうき)」、つまり「縁起」のことなんだね。だから「因果の理法(縁起の理法)」と同じことなんだ。要するに、「因縁」というものも、本来「自己責任」のところに戻ってくるものなんだ。「まいた種が自分に返ってくる」ということなんだね。
 ところが、因縁生起の縁起が、環境や他人の責任に転嫁されたり、運命論に切り替えられたりというふうに、「逃げの一手」になって、邪教の商売に使われていることが多いんだ。
 だから、「因縁トーク」のところで触れた「因縁」という言葉の使い方は、全くさかさまにした言葉の悪用だから、そこのところは誤解のないようにしてね」

勇二 「そうかあ。僕なんか、「因縁」て言葉は、ヤクザとかに「因縁をつけられた」ときに使う言葉とばかり思ってたよ(笑)」

正太 「ここまで、「因果の理法」について、いろいろと説明してきたけど、この世でまいた種というのは、よい種も悪い種も、あの世で確実に結果が返ってくるし、あの世だけにとどまらず、その刈り取りはその後に生まれ変わったときにも及んでくる、ということだね。だから、「因果の理法」というのは、「前世、現世、来世」を貫く「三世の因果」ともよばれるんだよ」

勇二 「ふーむ。まあ、ここまでくると、結論ていうのは、はっきりしているよね。「この世とあの世を貫く幸福」を実現していくために、やらなきゃいけないことは、要するに「善い種をまいていく」ってことだね」

正太 「正解。「この世とあの世を貫く幸福」、さらには「三世を貫く幸福」を実現していくためになすべきことは、未来に向かって「善い種をまいていく」ことなんだ。
 たとえ、今、身の回りに悪しき現象や環境が現われていたとしても、それは過去に自分がまいた種が実を結んでいるだけなんだね。そうである以上、現在の不幸という結果を嘆いてばかりいちゃいけないんだ。将来に向かって善い種、幸福の種を、今、この時点からまいていくことが大切なんだね。「常によい原因をつくる」という姿勢さえ忘れなければ、時間がたつにつれて、やがてよい結果ばかりが周囲に出てくるようになるんだよ。
 そして、これまでの人生ですでになした悪、間違いはよく反省することなんだ。生まれてから現在までの人生、あるいは過去世そのものを変えることはできないんだ。それは「反省あるのみ」、反省する以外にもう手立てはないんだね。しかし、これから先の自分は変えていくことができるんだよ。
 そして、すでにまいた悪の種があったら、それが大きくならないように押しとどめること。すでに、悪い習慣、悪い仕事、悪い考え方、悪い行動でもって、次なる悪の種をまいていたなら、それが成長しないようにストップさせてしまうことなんだね。
 いま毒麦が実っているとしても、これ以後は毒麦の種をまかず、よい麦の種をまいて、素晴らしい麦をつくることに専念すること。そうすれば、未来というものは、やがて黄金色に変わっていくんだよ」




人はそれぞれ「前世からの宿題」を背負って、この世に生まれてきている 

2007-07-21 | プロローグ
勇二 「なるほどねえ。つまり、この世にオギャーと生まれてきた時っていうのは、人生の「スタート」でもあるけど、同時に、これまでの転生輪廻の「結果」でもある、ってことだね」

正太 「そうそう。「人間はみんな神の子、仏の子」なんだけど(この点については後でじっくり説明するけど)、皆それぞれ生まれに違いがあるよね。ある人は金持ちの家に生まれるけど、ある人は貧乏な家に生まれたり、ある人は丈夫だけど、ある人は生まれつき身体にハンデがあったりする。あるいは、知能や体力にも人それぞれ差があるよね。
 こうしたことは、現時点だけ見れば「平等ではない。公平ではない」と思えるんだけど、実は、過去世からの転生輪廻の結果が、ずーっとつながってきているんだね。「今世だけで考えると理解できず、説明がつかないものは、その前の時代から原因行為が始まっていた」ということなんだよ。
 今、君が言ったように、各人の過去の人生における、さまざまな歩みの結果が、今世のスタート点になっている面もあるんだ」

勇二 「スタート点であり、到達点でもあるわけだ」

正太 「そもそも、なぜ人間が生まれ変わりをしていくかというと、「魂の教育課程」だからなんだね。人間は神や仏といわれる存在をめざして、人格(霊格)を向上させるために、魂を磨き高め精神的に向上するために、何度も何度もこの世に生まれてくるんだけど、なかなか人生を完成させることはできないんだ」

勇二 「そりゃ、そうだろうね。一回こっきりの人生で、そんな「神か仏か」みたいな立派な人格にはなれないだろうしね。だから何度も何度もくり返しやっていくわけだ」

正太 「そう。地上の人生で、満点をとるなんてことはできなくて、実際、数々の失敗をし、新しいカルマ、新しい「魂の宿題」をつくってあの世に還り、「しまった」と思うんだよ。
 そして、あの世で反省して、「次回こそは完成させよう」と思って、その魂の課題をもって、またこの世に生まれ変わってくるんだ。しかし、やっぱり百点をとれず、何らかの失敗をして、あの世に還ることになるんだね。
 人間というのは、そういうことを繰り返し繰り返し行っていて、その中で魂の長所・短所ができてくるんだ。
 だから、「転生輪廻」というのは、意味もなくやっているわけじゃなくて、あくまでも「魂の教育課程」なんだね」

勇二 「そうか。生まれてくるときは、「今度こそ宿題をクリアして、立派な人生を送ってくるぞ」って、意気込んで出てくるんだろうな」

正太 「うん。何度も言うけど、この世の人生というのは、魂にとってはたいへん厳しい修行なんだけど、同時に一種の「試験」でもあるんだね。実際、この「地上人生」というテストに落第する人はいっぱいいるんだ。現代だと、半分以上の人が落第して地獄に堕ちているんだね。また、合格して天国に還れた人であっても、やはり、この世の人生では数多くの失敗をしているんだ。
 失敗して課題が残るからこそ、来世にまた生まれ変わってくるんだね。「魂の課題」があるということは、要するに「まだ完成していない。まだ修行が終わっていない」ということなんだ。だから、時代を超えて、また生まれ変わってくるんだよ」

勇二 「前に「人生は一冊の問題集だ」って聞いたけど、自分の人生で出題される問題というのは、要するに「前世からの宿題」だってことだね。自分が「これこそ最大の悩みだ」と思って格闘している問題というのは、過去世から持ち越してきている課題だと考えればいいわけだね」

正太 「そういうことだね。みんな過去世の宿題を背負って、今回、この世に生まれてきているんだ。生まれた後のことだけ考えると、あまりにも不公平や不平等に見えて、天を恨み、神を恨み、仏を呪いたくなることもあるかもしれないけど、人生は今世限りじゃないんだね。この事実を知って初めて、「前世からの宿題、持って生まれた宿題の大きさというのは、人によって違うんだ」ということが理解できるんだよ」

勇二 「AさんにはAさんの魂の歴史があり、Aさんなりの宿題がある。BさんにはBさんの魂の歴史があり、Bさんなりの宿題がある、ということだね」

正太 「その宿題を今世でみごとに解きおえれば、その課題については卒業できるんだけど、できなければ、また次回以降生まれ変わったときに解かなきゃいけないんだね」

勇二 「うーん。卒業できるまで、やらされるわけだな。じゃあ、とにかく逃げずに真正面から取り組むってことが大切だよね。今世で解こうと決意して、最善の努力をしていくことだね」



今世の自分の魂の傾向性や、自分がおかれた環境などは、これまでの前世に起因している 

2007-07-18 | プロローグ
勇二 「そうかあ。じゃあ、逆に言えば、今現在の自分の性格とか境遇というのは、これまでの過去世の積み重ねの結果として出てきている、とも言えるよね。もちろん、今回、オギャーと生まれてからつくってきた部分もあるんだろうけど」

正太 「そういうことなんだよ。今世の自分の魂の傾向性とか、自分がおかれた環境というのは、これまでの前世に起因しているんだね。
 個性ひとつとっても、ある人は、大胆だったり、ある人は臆病だったり、ある人はせっかちだったり、ある人はのんびりしていたり、ある人は神経質だったり、ある人はズボラだったり、ある人は思慮深かったり、ある人は愚かだとか、さまざまだけど、それらは、これまで何度も何度も生まれ変わってきた「転生輪廻」の過程で、形成してきたものなんなんだ。
 ちょうど、雪ダルマや土のまんじゅうをずうっと転がしていると、デコボコができてくるよね。そのデコボコの部分が、その人独自の性格、つまりキャラクター(個性)ということなんだよ」

勇二 「ふーむ」

正太 「たとえば、「自分は頭が悪い」ということで悩んでいる人はたくさんいるんだけど、「頭が悪い」ことには二つの原因があるんだね。一つは、前世で勉強しなかったこと。これは当然だよね。過去世で勉強してこなければ、今世で急に勉強ができるようにはならないんだね。
 もう一つは、「前世で頭が良すぎて他人をバカにしすぎたから」という場合もあるんだ。こんなことが原因で、今世、頭が悪いということさえあるんだよ」

勇二 「へーえ、そうなのか。自分がそうなって初めて、頭の悪い人の気持ちが身に沁みてわかるわけだね。頭が悪いからってバカにされたらどういう気分になるかを勉強できるんだな。まあ、頭に自信がないことにかけちゃ、僕も人にひけをとらないつもりだけど(笑)、どうも、そっちのパターンじゃなさそうだね」

正太 「それとか、過去世の体験というのは、いろいろなかたちで今世に影響していることが多いんだね。
 たとえば、高いところから落ちた経験が特にあるわけでもないのに、「高所恐怖症」の人がいるけど、こうした人のほとんどはやはり過去世に原因があって、過去世で高い所から墜落して死んだり、弓を射られたり鉄砲を撃たれたりして高い所から落ちて死ぬといった恐怖体験をしていることが多いんだね。
 あるいは「水がどうしても怖い」という人は、やはり過去世で水死したり水責めにあったりしているんだね。また、過去世で、野盗に突然襲われたりとか、不意打ちに遭って死んだりすると、今世で「パニック障害」といったかたちで出てきたりするんだ。それとか、座敷牢みたいなところや、ナチスのガス室のようなところに押し込められて死んだりすると、「閉所恐怖症」として出てきたりするんだよ」

勇二 「うーむ。そうなのか。なるほどね」

正太 「あるいは、能力的なものもやはり前世に起因しているんだね。たとえば、プロスポーツで活躍している人のなかにも、過去世で同じようなことに長けていたという人は多いんだよ。
 前世は剣術の達人として名前の残った人が、今世は、剣をバットに持ち替えて、プロ野球史に残るような大打者になっている、なんてこともあるんだね」



「まいた種は刈り取らねばならない」―「カルマの刈り取り」のしくみとは? 

2007-07-15 | プロローグ
勇次 「その、加害者(あるいは被害者)が逆の立場で生まれ変わってきて、カルマの刈り取りをする、という方法だけど、そういうことも魂の学習のために経験するということなの?」

正太 「そうなんだね。たとえば、昔は厳しい身分制度がいろいろな国にあったけど、そういうところで魂修行をしている時に、自分より下の身分の人を、それこそ人間じゃないような扱いをしていじめた人というのは、魂のそういう苦しみを経験するために、自分自身が差別されるような境涯に、どこかの過程で生まれ変わることがあるんだね。
 その時に、単に虐げられた気持ちで心に曇りをつくって、相手に対する恨みだけをもって今世の人生を終えてあの世に還ったら、その人の魂としては、特に何の進歩もないんだ。立場を逆にして経験したというだけなんだね」

勇次 「「そういうことを自分がされたら、どう感じるか」ってことを、身をもって経験したわけだね」

正太 「うん。あるいは、逆の場合もあるんだ。ある転生の、ある人生で、ある人から何か害されるような(たとえば殺されるとかの)経験をした魂が、今度は逆に復讐できるような立場で生まれ変わることもあるんだね。その時にも、やっぱり試験はあるんだよ。復讐できるような立場に立ったときに、そうするのか、それとも憎しみの思いを踏みとどまって許すのか、っていう試験をされることがあるんだ。
 ここで復讐をした場合は、相手にとってはカルマの刈り取りになり、自分にとっては「逆を経験する」ということで、そのデコボコがプラス・マイナス・ゼロになって消えるわけなんだ。しかし、そうすることができたにも関わらず、あえて道徳的な心から罪を犯すことを思いとどまった場合には、そこで魂のテストが一段上の点を取ったことになって、魂の悟りが一段上がることになるんだよ」

勇次 「へーえ、なるほどね」

正太 「あるいは、世の中には身体的に不自由な方も多いし、それは、今世だけをとってみたら、たいへん悲しいことなんだけど、その方の魂の歴史をみると、八割から九割は、過去世に原因があるんだね。
 人間ていうのは、過去の転生において、戦争とか喧嘩とかの暴力行為をたくさん経験してきているんだけど、その過程で、他の人を何らかのかたちで傷つけた経験があると、カルマのしくみとして、まったく同じ部所が傷むことがあるんだよ。
 たとえば、過去世でローマ帝国の時代に生まれて、他人の眼をくりぬいたりして潰してしまうという経験をした人もいるんだね。そうした経験をしたために、次の生まれ変わりで、眼で苦労するという人もいるんだ。あるいは、戦争で、他人の足などを刀で切って傷つけたような時に、どこかの転生で一度、不自由な身体で生まれることもあるんだよ。
 また、肉体的に傷害を与えることだけじゃなくて、たとえば、ローマ帝国の時代には、剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣に殺し合いをさせるような見世物があったんだけど、人が苦しんでいるそういう悲惨な光景を、特等席で嘲笑しながら見物していた人もいるんだね。そういう人が、その後の転生でたいへんな障害をもって生まれてくる、といったケースもあるんだね。
 もちろん肢体不自由な人のなかには、ヘレン・ケラーみたいに、人々に勇気と希望の灯をともすという使命を果たすために、あえて四重苦の身体に生まれてきて、そのハンデを乗り越えて、愛と奉仕に一生を捧げるような天使(菩薩)もいるんだけどね」

勇次 「うーむ。「その人に背負えないような試練は与えられない」って前に聞いたけど、そういうカルマの刈り取りをするときも、「その試練にその人の魂が耐えられる」ということが前提で、そうなっているということなんだろうね」

正太 「そうだね。あるいは、そんなふうに罰として繰り返すだけじゃなくて、自分から進んで、そういう環境に身をおく人もいるんだね。地上時代の過ちは過ちとして、十分に反省はしているんだけど、自分の良心が自分自身を許すことができなくて、あえて、そういう環境や立場を選んで、「どうか、私の魂を磨くために、そういう身分、立場、環境で生まれさせてください」とお願いして生まれてくる人もなかにはいるんだよ。いくら反省を重ねても、一度犯した罪というものを、自分自身で許すことができないので「どうか、もう一度そういう経験をさせてください」と望む人もいるんだ。
 たとえば、何らかの不注意で子供を亡くしてしまったような人、あるいは、何らかの原因行為によって、病気や事故で愛する人を亡くしてしまったような人は、悔恨や後悔の思いというものに、どうしても堪えることができなくて、次回生まれ変わってくるときに「どうか自分を、天寿がまっとうできないような境涯にしてください。一度でいいですから、そういう経験をさせてください」というお願いをして生まれ変わっきて、その結果、小さい頃から病弱だったり、二十歳を過ぎてから事故にあったりして、亡くなる人もいるんだ。
 その時に、あの世で自分が、そういう計画をして生まれてきたことは忘れてしまっているから、今世だけの幸・不幸を捉えて、親を恨んだり、友人や先生や環境や国を恨んだりする人がいるんだけど、これは間違いなんだよ」

勇次 「うーむ。どうも話を聞いていると、その「カルマの刈り取り」のしくみっていうのは、人を害したり傷つけたり、人の不幸を嘲ったりすると、その後の転生で、自分がそういう苦しみを経験するような立場におかれる、っていうのが一つのパターンとしてあるみたいだね。それが、どういうことなのかを自分が身をもって学習しなきゃいけなくなるみたいだね」

正太 「そうなんだね。過去世において、他の人に対して、残忍だったり、非道だったり、冷酷だった人たち、そうした人たちは、必ずその後の転生のどこかで、自分が出した残忍さや冷酷さ、他人に対する容赦ない言動の刈り取りをさせられる、ということなんだ」

勇次 「そうなると、怖ろしくて、いよいよそんなことはできなくなってしまうね。あの世に還ってから、それが原因で苦労するだけじゃなく、その後に生まれ変わったときも、そのツケが確実に回ってくるわけだからね」

正太 「うん。もちろん、今のは、マイナスの種をまいたことでつくってしまった「魂の宿題」についてだけど、逆のよい刈り取りというものもあるんだね。誠実に生きてきた人、誠心誠意、良心的に生きてきた人というのは、永い転生の過程で、必ず天の蔵に積んだ徳がその人のものとなって、素晴らしい人格として出てくるようになるんだ。そういうプラスの面も見ていかなくちゃいけないんだね」





人間の「生まれ変わり(転生輪廻)」も「因果の理法」に支配されている 

2007-07-14 | プロローグ
勇次 「ふーむ。結局、死んで地獄に堕ちた人っていうのは、生前、自分のまいた種が、善いものより悪いもののほうが多かった、ということだよね。善い種を全くまかなかった、わけじゃないだろうけど、少なくとも悪い種のほうが多かった。だから、地獄に堕ちるなんていう、悪い刈り取りがきている、ってことだよね」

正太 「そうなんだ。善い種も悪い種も、あの世まで行けば、完全に「報い」がくるんだね。ぴったり帳尻が合うことになっているんだよ。
 ただし、「因果の理法」というのは、来世まで行って、つまりあの世に還って完結すると言ったけど、もう少しくわしく説明すると、実は「前世、現世、来世」という三世にわたっているんだね。この場合の「来世」というのは、あの世だけじゃなくて、次回以降に生まれ変わったときの人生も含んでいるんだ。
 種をまいたことによる結果は、あの世でもれなくやってくるけど、まいた種の影響というのは、次回以降の転生にも及んでくるんだね。つまり、人間の生まれ変わり、「転生輪廻」というものも、「因果の理法」に支配されているんだよ」

勇次 「ほーお、人間の生まれ変わりも」

正太 「これは、どういうことかというと、この世で悪い生き方をして地獄に堕ちたとするよね。そうすると、地上でこしらえた「精神的な借金」というものを、その人は、苦しい地獄の世界で反省することによって返済していくわけだね」

勇次 「生前、悪い種をまいたので、死んだ後、地獄に堕ちるという悪い結果がきて完結したわけだよね。帳尻が合ったわけだ」

正太 「うん。そして、その人は、地獄で反省することで、その借金を完済して、それがプラスに転じたら天国に上がれるわけなんだ。
 しかし、十分反省して天国に上がることによって、生前の罪、霊的な借金を償ってはいるんだけど、生前、地獄に堕ちるような悪い生き方をしたことによって、「魂の宿題」を新たにつくっているんだね」

勇次 「魂の宿題ができている?」

正太 「たとえば、「自分の奥さんをいじめる」なんていう生き方をしたとするよね。そうすると、その人は、あの世に還って、その行為について十分に反省ができたとしても、「奥さんをいじめた」というカルマ、魂の課題をあの世に持ち帰ってきていることに変わりはないんだ」

勇次 「ふーむ。ということは、その魂の課題っていうのが、次に生まれ変わったときに出てくる、っていうこと? その課題が出題されるわけ?」

正太 「そうなんだよ。ただし、その課題というのは、次に生まれ変わったときに、すぐに出てくるとは限らないんだ。だけど、その後の転生の過程で必ず出てくることになっているんだよ。
 たとえば、今あげた「奥さんを虐待した」なんていうケースなら、そうしたカルマを刈り取るためには、二通りの方法があるんだね」

勇次 「二通り。それはどんななの?」

正太 「一つは、もう一度、同じような魂の人と、夫婦なら夫婦、友人なら友人、知り合いなら知り合いになって、似たような環境で過ごす、ということがあるんだね。前回と同じように、その女性をいじめる人生を生きるか、それとも、今度は心を入れ替えて、見事に調和された夫婦生活、あるいは友人関係を持つか、それを試されるということだね」

勇次 「ふむふむ。もう一度、同じことにトライするっていうわけだね」

正太 「もう一つは、まったく逆のケースとして、そうした男性が、今度は女性として生まれ変わってくるということもあるんだ。今度は、逆に男性に意地悪をされるような立場を経験することもあるんだよ」

勇次 「ひえーっ。男だったのに、今度は、女をやるわけ?」

正太 「魂のカルマの刈り取りの方法としては、そういう極端な二つのケースがあるんだ。つまり、「似たような環境で、もう一度やってどうなるかを何回でも試される」ケースと、「全く逆の立場で、つまり、自分が加害者なら、被害者になった立場でどうなるか」というケースがあるんだよ」




「善い種をまけば、善い結果がくる。悪い種をまけば、悪い結果がくる」という「因果の理法」

2007-07-11 | プロローグ
正太 「以上、「間違った先祖供養」を例に「自己責任の原則」について説明してきたんだけど、ここで「この世とあの世を貫く幸福」っていう、さっきのテーマに話を戻したいと思うんだ」

勇次 「そうだね。「自己責任の原則」について、まとめておくと、「人間は百パーセントの自由を神様から与えられているけれど、その自由性をどう発揮したかについては自分の責任になる。だから、もし間違った方向にハンドルを切ってしまったら、反省による軌道修正をしなくちゃいけない」ということだね」

正太 「そう。で、「この世とあの世を貫く幸福」についてなんだけど、これを実現していく上で、知っておかなくちゃいけない根本的な法則があるんだよ」

勇次 「ほお、根本的な法則っていうと?」

正太 「「因果の理法」というものがあるんだね。「縁起の理法」ともいうんだけど」

勇次 「因果の理法? ああ、よく「因果応報」とか言ったりするけど、それのこと?」

正太 「そうそう。「因果の理法」というのは「原因・結果の法則」のことで、「善因善果、悪因悪果」、つまり「善い種をまけば、善い結果がくる。悪い種をまけば、悪い結果がくる」という法則のことなんだ。
 これは大宇宙の理法の一つで、かつてお釈迦様が詳しく説かれたことだけど、仏教だけじゃなくて、イエス様も「播いた種は刈り取らねばならない」という表現で、この法則について述べているんだよ」

勇次 「そういえば、昔から「いいことをすればいい報いがくる」とか、「悪いことをするとバチがあたる」なんていうよね。こうしたことも、その「因果の理法」からきているんだろうね」

正太 「そうだね。「因果の理法」というものは、誰もくらますことができないんだよ。誰もそこから逃れることはできないんだ。よきにつけ悪しきにつけ、自分がまいた種は、百パーセント確実に自分自身にめぐってくるんだね。自分自身の幸・不幸というのは、過去に必ず原因があるんだよ」

勇次 「ふーむ。でも、その「因果の理法」というのは、あの世まで含めた上で成り立つ、ということだよね。だって、この世だけ見れば、人のことなんか踏みつけにしながら、けっこう大金持ちになったり、社会的にいい立場についたりして、そのまま死んでいくような人もいるしね。
 もちろん、途中で悪事がバレてポシャるような人もいるけど、この世だけ見ると、必ずしも「善因善果、悪因悪果」にはなってない、と思うんだよね」

正太 「そのとおり。「因果の理法」というのは、この世では完結せず、来世まで行って初めて完結するものなんだ。だから、この世的には、善いことをしても悪い結果が出たり、悪いことをしても善い結果が来たりするように見えることもあるけど、あの世の世界まで延長してみれば、因果の理法が外れることは百パーセントないんだね。
 この世だけ見れば、悪人がうまい汁を吸っているように見えることがよくあるけど、必ずどこかで「償い」がくるんだ。たとえ今世で完結しなくても、来世で必ず「戻し」が入るから、「因果の理法自体をくらますことはできない」ということなんだね。
 仏の心に則って生きた人が、死んだ後、地獄でのたうちまわることはないし、仏の心に反して生きた人が、死後、安らぎの世界に入ることもないんだよ」

勇次 「善いことでも悪いことでも、「報い」がない、ってことは全くありえない、ということなんだね」

正太 「そう。今、君が言ったように、悪い原因をつくったにも関わらず、善い結果が現われているように見えたり、善い原因をつくったのに悪い結果が出ているように見えたりすることを、仏教では「異熟(いじゅく)」というんだね。また、そうした結果を「異熟果(いじゅくか)」というんだ。
 ただ、注意しておかなきゃいけないのは、この世的に成功しているように見える人でも、その成功の原動力がその人の持つ「欲望」である場合、よく観察してみると、その人の心というのは煩悩(マイナスの精神作用の総称)の炎に包まれていて、安らぎを失っていることがわかるんだね。欲望とそれと背中合わせの猜疑心や嫉妬心、恐怖心のなかに生きていて、「心に安らぎがない」ということがわかるんだよ。
 だから成功といっても外面的な成功だけを考えてはいけないんだね。人目を意識しただけの成功、外面的な成功だけを求めている人は、心に安らぎがなく、魂じたいは苦しんでいるということも見ておく必要があるんだよ」

勇次 「そうか。成功っていうのは単に「金持ちになったらOK、出世したらOK」じゃなくて、心の中の安らぎとか幸福感まで見た上で考えなきゃいけない、ってことだね」

正太 「心清く生きたにも関わらず、この世的には恵まれない最期を迎えた人もいるけど、この世において努力したことは、それが成就しなくても、その人の魂の糧として確実に残っているんだね。この世では善人が不幸な死に方をすることもあるけど、それはほんとうの意味での不幸じゃないんだ。そういう人は天上界で必ず報いられることになっているんだよ。
 この世では悪人が栄えるように見えることもあるけど、その繁栄は永遠のものじゃないんだね。それは必ず大きな執着となって、来世の苦しみを生むことになるんだ。
 こういう「異熟」という現象はいろいろな場面で見られるけど、そういう現象が起きるということ自体が、実は、「因果の理法」が「この世では完結せず、来世まで行って初めて完結する」ということを意味しているんだ。
 この世だけでは原因と結果が必ずしも整合していないように見える、という矛盾があるからこそ、「世界はこの世だけではない」ということが明確にわかるんだね。この世以外の世界があって初めて論理が完結するわけなんだ」







「自分を大切にすること」の本当の意味がわかると、悪いことは「することも思うことも」できなくなる 

2007-07-04 | プロローグ
勇次 「反省のコツは、やっぱり、毎日、毎日こまめにしていくことだよね」

正太 「そうだね。今、説明したように、マイナスの「思い」を持ったり、マイナスの「行い」をすると、心の中にある「想念帯」という部分に厳しい灰色の文字で記録されるんだけど、それとともに、この想念帯じたいが曇ってくるんだね。ちょうど、ゴミやほこりがかぶったような状態になって、心そのものが汚れてくるんだ。
 こうして付いた「心の曇り、汚れ」っていうのは、こまめに取っていかないと、とても一生ぶんを一度に落とせるものじゃないんだね」

勇次 「家の掃除だって、何十年もやらずにいたら、それを一日でやれといったって、無理だしね。お風呂だって毎日のように入るから、体も清潔にしておけるんであって、死ぬ前に一回だけなんていうんじゃ、たまったものじゃないよね。魂も同じことだよね」

正太 「そうなんだ。だから反省というのは一生まとめてするなんていうのはとても難しくて、できるだけ毎日するほうがいいんだよ。
 たとえば、水の中に一滴一滴墨汁のようなものを落としてゆくと、一滴一滴だとたいして曇らないけど、だんだんたまっていくと、水が真っ黒になるよね。こうなってしまうと、新しい水を入れたからといってそう簡単にきれいにならなくて、バケツの水ごとひっくり返して、新しい水に替えなきゃいけなくなる。
 それと同じで、何十年もたいへんな生活をした人の反省というのは、それほど難しいもので、いくら「反省すればきれいになる」といっても、真っ黒なバケツの水を入れ替えるみたいに、よほど頑張らないと心を入れ替えることができないんだ。ところが、一滴一滴の小さな曇りを、そのつどそのつど、取り除いていくのであれば、全体はそんなに曇らなくてすむんだよ」

勇二 「ポイントは「反省を習慣化する」ということだね。人生の最後で全部を決算しようとしても、一生ぶんの赤字の膨大さに「お手上げ」ってことになりかねないけど、毎日決算していって、その日のぶんの赤字をその日のうちに摘み取っていけば、最終決算が来ても、なーんにも慌てることはないもんね。
 そして、積極的に「与える愛」の実践をして、黒字をつくっていく努力が大切だよね。赤字を減らすだけで、黒字を増やしていく努力をしなきゃ経営は成り立たないからね。「心の経営」だって同じだよね」

正太 「うん。「与える愛」を実践していく際には、「この人にこうしておけば、後でこう返ってくるんじゃないか」っていう下心や見返りを求める心からするんじゃなくて、「ほんとうにその人のために」っていう「純粋さ」が大切だ、ということだね。
 「与えた愛は与えた人のものになる」という法則があるけれども、見返りを求める思いでいくら愛を与えても、そのぶんが帳消しになって、仏の光はおりてこないんだね。「無償の愛」であって初めて、魂の糧になる、魂の成長につながる、功徳が積めて「魂の黒字経営」につながる、ということなんだ」

勇次 「なるほどね」

正太 「結局、この世の人生というのは、「魂の修行」が目的なんだけど、一種の「試験」でもあって、「何点以上は合格。何点以下は不合格」という合格点がちゃんとあるんだね。零点なら地獄行きで、100点なら天国に行けるということじゃなくて、たとえば合格点が50点なら、49点取っても地獄行きなんだね。経営にたとえれば、最終決算で黒字より赤字が多ければ、天国には還れない、ということなんだ。
 だから、自分の寿命がいよいよ終わりに近づいて、あの世に還らなくてはならなくなったときに、「なんの功徳も積んでいなければ、反省したこともない」ということくらい恐ろしいことはないんだね。
 人間にとって一番悲しい生き方というのは、「いつかは必ずやってくる「死」というものに目をふさいでしまい、来世のことなんか考えもせずに、この世的な快楽を追いかけて、その日その日を生きている」ということなんだ。しかし、現代では、こういう生き方をしている人が、非常に多いんだよ」

勇次 「うーむ、「老後の生活設計」については多少考えても、死んだあとのことまで考えている現代人は少ないだろうね」

正太 「ただ、死ぬ間際になって、「こういう生き方で自分は本当によかったんだろうか。もっと功徳を積むような生き方をすべきだったんじゃないか」とか「もっと人に親切にしておけばよかった」「もっと世の中の役に立つことをしておけばよかった」「あの人にあんなヒドいことをしなければよかった」「反省すればよかった」といった思いに見舞われる人は、けっこういるんだね。だけど、その時点になってからそう思っても、今世の人生のやり直しはもうきかないんだよ」

勇次 「死ぬときになって人間が何を思うか、なんて考えたこともなかったけど、僕の経験から類推すると、「学校の試験が目前にきて、急にソワソワしだす」なんていうのに少し似てるのかもしれないな」

正太 「ただ、地獄に堕ちた人であっても、実は生前に、人生を立て直すきっかけというのは、何度か与えられていたんだね。「人生はこの世でおしまいなんだから、とにかく自分の得になることをして、あとは快楽享楽で生きていけばいいじゃないか」という生き方に対して、「このままじゃ、いけないのかもしれないな」と思う機会は、何度かあったはずなんだ。
 たとえば、病気で苦しんだときとか、人間関係がうまくいかなくて苦しんだとき、人生に疑問を感じたときとか、人生の軌道修正をして正しい道に入る機会は、一度じゃなくて何度もあったんだね。
 でも、そういう悲しみ、苦しみを通り越してしまうと、また、もとのような生き方を繰り返していた、というのが実情なんだね」

勇次 「うーん。確かに、なにか衝撃的なことがあると「ひょっとすると、今の自分はどこかイカンのかもしれないな」って思うことがあるよね」

正太 「あの世のほんとうの姿を知ってしまうと、悪いことっていうのは「思うこともすることも、全く割が合わない」ということが、よーく分かるんだよ。
 「神だの、霊だの、あの世だの、そういう作り話にダマされちゃいけない。そういうものは全て科学が進歩していなかった時代の迷信だ。人生はこの世限り。人間は最後は焼場で焼かれて全て終わりになるんだ」と思っている人は非常に多いんだけど、そう思っているからこそ、やりたい放題の生き方ができるし、人を傷つけ蹴落としても平気でいられるし、快楽享楽にドップリ漬かる生き方もできるんだね。 だけど、その結果、地獄に堕ち、何十年、何百年と苦しみの中でのたうちまわることを知ったなら、どれだけ割が合わないかがわかるんだよ」

勇次 「まあ、死んだらすべて終わり、と思えば、「人のことなんか、バカらしくて構っちゃいられない」ってなるかもしれないね。少なくとも「自分が心の中で思ったこと考えたことで来世の行き先は決まるから、毎日きちんとチェックしていこう」なんて気はサラサラ起きないだろうね」

正太 「ほんとうの人生観、世界観を知ってしまうと、「よいことは道徳的にいいことだからしたほうがいい」とか「悪いことは道徳的によくないことだからしちゃいけない」というんじゃなくて、ほんとうの意味で自分を大切にする人なら、悪いことはできなくて、よいことしかできなくなってくるんだね。割の合わないことは誰もやりたくないからなんだ。
 しかも、地獄に堕ちる人というのは、たいていの場合、割の合わないことは大キライなタイプの人ばかりなんだね。そういう人は「自分のやっていることが割に合わない」ということを全く知らずにいるわけなんだ」





「反省」を「この世」でせず、「あの世」に持ち越してしまうところに、来世の悲劇(堕地獄)が起きる 

2007-07-03 | プロローグ
正太 「そのとおり。要するに、地獄に堕ちている理由は、反省ということを「生きている間に」しなかったからなんだね。間違った「思い」を抱き、間違った「行動」をとってしまったとしても、それを一つひとつしっかり反省していけば、リカバリーできるんだね。にも関わらず、反省ということをやらずにほったらかしたまま、あの世に持ち越してしまうと、大変なことになるんだ。この世でやらずに、あの世で反省するとなると、10倍の反省が必要になってしまうんだよ」

勇次 「しかも、苦しい地獄の世界でやらなきゃならなくなる、ってことだよね。
 とにかく、「心の借金」をつくっても、その度ごとにしっかり反省して、生きている間にチャラにしていくことが大切だね。借金のままあの世に持ち越すと、10倍の負債に変わっちゃうわけだからね」

正太 「そうそう。生きている間に「反省」ということをやらなかったために、おいそれとは返せないような借金をこしらえてしまう人が、現代ではいっぱいいるんだよ。心の中の「赤字」の記録を、この世にいる間に十分反省して清算しておけば、地獄に堕ちるなんていう事態は避けられるんだけど、そういうことすら知らない人がたくさんいるんだ。
 この辺りはとても重要なことだから、前にも説明したけど、もう一度おさらいしておくことにしよう。
 まず、その人が思ったこと、行ったことというのは、心の中の「想念帯」という部分にひとつ残らず記録されている、ということだね。その中でも、愛や慈悲といった仏の光に親和性のある、つまり、仏の心に適ったプラスの思いや行いは、金文字で記されているんだけど、仏の光を排斥するような、つまり仏の心に反するようなマイナスの思いや行いは、灰色で記されているんだね」

勇次 「細かく言うと、マイナスのほうは悪想念の種類ごとに違った色で記されていて、それらが合わさって何ともいえない醜い灰色になっている、っていうことだよね。具体的に言うと、えーっと、前にメモしといたんだよな。

否定的な言葉や、他人を不幸にするような思いや行いは、煤けた灰色。
怒りに燃え上がったときの思いは、血のような赤い文字。
情欲の虜になって異性との不調和な行為の奴隷になると、ピンク色。
他人の欠点や粗ばかりを探しているときの思いは、爬虫類の眼の色のような緑色。
臆病、卑怯、取り越し苦労、持ち越し苦労、不安などの思いは、濃いインクのような藍色。病念をいつも心に把持して、病気の痛みや苦しみばかりを他人に訴えているときは、壁土色。

その他
ねたみ、そねみ、愚痴、足ることを知らない心、不平不満、悲観的な心、消極的な心、優柔不断、怠惰な心、自己嫌悪、うらみ、憎しみ、のろい、自己顕示欲、利己主義、毒舌、二枚舌、躁鬱、酒乱、暴力、排他主義、うそ、いつわり、唯物主義、無神論、孤独、独裁主義、金銭欲、地位欲、名誉欲、不調和  

といったマイナス想念も色分けされていて、こうした色が合わさって、何ともいえない毒々しい灰色になっているわけだよね。人生の記録テープのうち、プラスの思いと行いが記された金色の記録よりも、マイナスの思いと行いが記された灰色の記録ほうが多いと、死んでから地獄が待っているというわけだね」

正太 「うん。結局、人間というのは、一人ひとりが「心の経営」をやっているのと同じで、一人ひとりが「心の経営者」なんだね。心というのは貸借対照表(バランスシート)といっしょで、ちゃーんと、赤字と黒字、負債と資産があるんだ。
 だからマイナスの思い、灰色の記録というのは「心の借金」と同じで、それと同じだけの貯金(つまり愛や慈悲といった金色の記録)を持っていれば清算できるんだけど、それだけの貯えがないと「債務超過」で、「落第」ということになるんだね。この世の人生というのは、厳しい「魂修行」の機会なんだけど、同時に「試験」でもあって、黒字より赤字のほうが多いということは「及第点に達しない」、つまり「不合格」ということになるんだ」

勇次 「「不合格」すなわち「地獄で再修業」ということ。死んでこの世を去るときが最後の「総決算」で、ここで貯金より借金が多いと、地獄に行かざるをえないということだね。
 しかし、マイナスの「思いと行い」によって、いったん灰色で書かれた記録であっても、金色に変える方法が一つだけある。それが「反省」ってことだよね。反省することで、マイナスの記録をプラスに変えることができる」

正太 「そのとおり。反省というのは、間違った思いや行いを一つひとつ修正していくことだね。怒りを出したときのことを思い出して、それを仏に詫びること。他人を不幸にする思い、妬みの思い、愚痴や不満や不安な思い、臆病な思い、こうした思いを持ったときのことを一つひとつ思い出して、それを反省して、自分が傷つけた人には詫び、そして神様に許しを請うことだね。そうすると、赤や緑や灰色の醜い色の想念帯は黄金の金文字に変わって、人間の魂は再び輝きを取り戻すことができるんだ。
 だから反省というのは、仏が人間に与えた大きな慈悲であり、許しの原理でもあって、天国へ還っていくためには、欠かすことができない大切な手段なんだ」

勇二 「赤字を出したが最後それで確定、変更不能ってわけじゃなくて、黒字にひっくり返すことができるわけだからね。ありがたいよね。
 だから、生きている間に、灰色の記録を反省によって金色に変えながら、できるだけ愛や慈悲の思いを抱き、行いを積み重ねていけば、「心の経営」としては最高になるよね。反省によって赤字を黒字に変えつつ、「与える愛」の実践によって黒字をどんどん増やしていけば、死んで決算を迎えるときに、大幅黒字を計上できるよね」

正太 「そうなんだ。一般に「反省」というと「道徳的によいこと」ぐらいにしか思われていないけど、実際はこの反省によって、地獄にいる人は地獄から出てくることができるし、そのままであれば地獄に行くような人であっても、地獄に堕ちないようにすることができるんだ。つまり、反省というのは「世界を分けていくもの」なんだね。それだけの偉大な力をもったものなんだ。
 だから、生きている間にしっかり反省することによって、想念帯に記録された赤字(実際は灰色)の記録を、きっちり黒字(実際は金色)に変えておけば、地獄に堕ちるなんていう来世の悲劇は避けられるんだね。借金を10倍にして、あの世で、もがき苦しみながら返していく、なんていう事態は避けられるんだよ」



地獄に堕ちた場合、刑期(修行期間)はどれくらいになるか?

2007-07-01 | プロローグ
勇次 「そうかあ。地獄をなくしていくためには、まず、地上をユートピアにしていくことが先決なんだね。ところで、「この世とあの世を貫く幸福」っていう、さっきの話の続きに戻る前に、ひとつだけ聞いておきたいことがあるんだけど」

正太 「ああ、いいよ。どうぞ」

勇次 「素朴な疑問なんだけど、地獄っていうところは、そこに落っこちた場合、どれくらいの期間いなきゃいけないものなのかね。もちろん、その人の罪の重さによってまちまちなんだろうけど、だいたいの目安みたいなものがあるのかい?」

正太 「これは、誰にとっても関心の高いことだと思うけど、こう考えればいいんだね。
 前に「この世の修行は、あの世の修行の10倍ぐらいの密度がある」「この世の10年はあの世の100年に相当する」ということを説明したよね」

勇次 「うん。この世っていうのは、あの世の10倍くらいの修行密度を持った世界だから、この世でよいことを1つしたら、あの世で10個よいことをしたのと同じ価値があるってことだよね。反対に、この世で悪いことを1つしても、あの世で10個悪いことをしたのと同じになるってことだね」

正太 「そうそう。だから、「地上で悪い生き方をすると、その約10倍の期間、地獄にいなければならなくなる」ということなんだよ」

勇次 「ええーっ、10倍の期間も地獄に…」

正太 「うん。たとえば、ある人が30歳から60歳までの30年間、悪い心と行いで生きてきて、そのまま反省もせずにあの世に還ったとするよね。すると、その10倍の300年ぐらいは地獄に堕ちることになるんだ。「地上で30年ぐらい滅茶苦茶な生き方をしたら、300年ぐらい地獄に厄介になる」と思って、まず間違いないんだよ」

勇次 「うーん、この世の30年が地獄での300年に…。それは厳しいなあ。じゃあ、70年の人生を送った人が、仮に一生マイナスの思いと行いばっかりだったとしたら、10倍の700年間地獄に堕ちることになるわけだ。
 でも「この世の10年はあの世の100年」ということからすれば、たしかにそうなるだろうしね」

正太 「ただし、30年間悪い心と行いで生きた人が、生前に改心して、最後の10年ぐらいは正しい生き方をしたとすれば、30年から10年を差し引くと20年になって、その10倍は200年だから、地獄にいる期間が200年ぐらいに減るかもしれないんだよ」

勇次 「ほーお、なるほどね。悪い心、悪い生き方をした時間から、善い心、善い生き方をした時間を差し引くことができるわけだね。善い思いと行いで生きたぶんは、カンベンしてもらえるわけだ。
 ところで、死後、地獄に堕ちる人というのは、「生きていたあいだに、思ったこと、行ったことを、一つひとつ上げてみて、善いことよりも、悪いことのほうが多かった人」だよね。ということは、一生をハカリにかけてみて悪のほうが善よりも超過したぶん、「心の借金」にたとえれば、「債務超過」になったぶんの10倍くらいの期間は地獄にいかなきゃいけない、ということだね」

正太 「ただし、地獄に堕ちても、反省するどころか、この世の人間に憑依するなんていう悪さを重ねると、もっと深い地獄に堕ちていって、ますます地獄から出れなくなってしまうんだ。
 だから、地獄にいる人は、絶対に「生きている人に取り憑いて、その人を苦しめる」なんてことをしちゃいけないんだね。自分と同じ心境の地上の人間に取り憑くことで、地獄の苦しみからつかの間でも逃れようとする人が多いんだけど、こんなことをしていると、ますます自分の首を絞めることになっちゃうんだよ」

勇次 「地獄に堕ちたら、後はひたすら反省しなくちゃいけないわけだね。
 じゃあ、反省しなきゃいけない「悪い思い」が何なのかっていうと

ねたみ、そねみ、感情や本能にもとづく怒り、愚痴、足ることを知らない心、不平不満、悲観的な心、消極的な心、優柔不断、臆病、怠惰な心、自己嫌悪、うらみ、憎しみ、のろい、情欲、自己顕示欲、利己主義、毒舌、二枚舌、躁鬱、酒乱、暴力、排他主義、うそ、いつわり、唯物主義、無神論、孤独、独裁主義、金銭欲、地位欲、名誉欲、不調和  

といったことだね」

正太 「そうなんだ。結局、地獄に堕ちた人というのは、善よりも悪、プラスよりもマイナス、「与える愛」よりも「奪う愛」のほうが多い人生だったわけだから、自分がなした「悪」について悔い改めるとともに、自分がなさなかった「善」についても反省する必要があるんだね。
 自分は、生前、どれだけ「与える愛」というものを実践したのか。親兄弟や家族から始まって、友人、知人、その他、縁あって人生の途上で出会った人たちに対して、自分はいったいどれだけ「見返りのない愛」を与えたのか。そうしたことを振り返らなくちゃならなくなるんだよ」

勇次 「でも、今の話を聞くと、この世にいる間に「反省」しておくということが、どれだけ大切なことかがわかるね。愚痴とか怒りとか妬みとか、そういう間違った思いの記録、「心の赤字」の記録を、この世に生きている間に十分反省しておけば、地獄なんかに堕ちずにすむわけだからね」