死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

憑依霊を呼び込む原因は、「執着(=心の中の引っかかり)」にある

2008-08-31 | プロローグ
正太 「そう。ここで、憑依という現象について、ちょっとおさらいしといたほうがいいね。
 何度もいうけど、憑依霊に憑かれている人っていうのは、憑依している霊と心の状態が同じなんだ。じゃあ、具体的にどこが同じなのかというと、「執着」を持っている点なんだね。心の中に執着を持っていると、「波長同通(類は友を呼ぶ)の法則」で、地獄霊が「どうも、私に御用のようですね」って、やってきちゃうんだよ」

勇二 「執着って何なのかと言えば、要するに、心の中の「こだわり」「引っかかり」のことだよね」

正太 「そう。憑依霊に憑かれてる人っていうのは、心の中に必ず「引っかかり」があるんだね。フッと気がつくと、いつもいつも考えがそこに戻っていくような「しがらみ」や「わだかまり」、あるいは「葛藤」や「悩み」を必ず持っているんだよ」

勇二 「つまり、心の状態が、サラサラと流れていくような状態じゃないわけだ。
 その人の心が、明るく爽やかで、サッパリして執われがなく、光に満ちているなら、いくら来たくても地獄霊は寄って来れないわけだもんね」

正太 「じゃあ、「引っかかり」になってるものとして何があるかというと、たとえば、お金とか、異性とか、名刺とか、食べ物とか、お酒、…といったような、きわめてこの世的なものなんだね。
 この世的なものに対する欲望に心が執われて、心の針がピタッと離れない状態、「いつもいつも心の針がそこに戻っていく」という状態になると、地獄霊の憑依を呼び込んじゃうんだよ」

勇二 「今、君が言った「引っかかり」というのは、「貪(とん)」のことだよね。貪というのは「貪欲さ」。「欲しくて欲しくてしょうがない」という心のことだね。
 要するに、「貪」というのは「奪う愛」―「与える愛」の逆なわけだ。
 他の人や世の中に対して「尽くしていこう」とか「貢献していこう」なんて方向に心の針が向いてなくて、とにかく「ガツガツして自分が取り込むことばかり考えてる」わけだもんね」

正太 「あの世の地獄にも、そうしたものにすごく執着してる亡者たちがいっぱいいるんだね。
 地獄にいるのは、基本的に「肉体がなくなって、悔しくて悔しくて仕方がない」という人たちばかりなんだ。ほとんどの人が、「この世」と「肉体」に対する執着の塊なんだね。
 「他人の身体でもいいから、何とかもう一度、肉体を手に入れて、思う存分、欲望の人生を送りたい」―こう思ってる人たちが大勢いるんだよ」

勇二 「地獄は苦しいとこだから、なおさら地上が恋しいわけだ。どうにかしてこの世に舞い戻ってきたいんだよね」

正太 「なぜこうなっちゃったかというと、生前に「肉体以外の自分がある」とか「この世以外にすみよいところがある」なんて、まず思ってもいなかったからなんだ。
 「この世しかないんだ」「肉体が全てなんだ」と思ってしまうと、(霊格の低い人ほど)肉体に付随する欲望や快楽にのめりこんでいっちゃうんだね。そうしたものを追求する以外に、生きていく意義が見出せなくなってくるんだよ」

勇二 「ふーむ。「人生、死ねば全部終わり」と思えば、「飲み食いやエッチの悦び、あとはギャンブルでもやる以外に生きていく意味なんてないよ」とか、「とにかく、人より金や地位をゲットできさえすればいいんだよ。そうやって、他人からより多くの愛を奪える自分になれば、人生勝ちなんだよ」って、なるかもね。
 「与える愛? アホくさ。そんなの自分が損するだけじゃん。打算以外の動機でやる人間なんていないよ」って、なっていくかもしれないね」

正太 「肉体っていうのは、この世で魂修行するための「潜水服」なんだけど、自分が着込んでいる肉体のままに生きていくと、必ず「奪う愛」の生き方になるんだね。「欲しい、欲しい」という「取り込み型」の人生になっていくんだよ。
 地獄に行ってる人っていうのは、みんな肉体中心の生き方をした人で、言い換えれば、自分自身の本質である「魂」の領域が十分に耕されていなかった人たちなんだ。
 魂の中にある「仏の子としての本質」(仏性)に気づかず、その芽を出さないまま地上の人生を終えた人たちが、地獄というところで厳しい試練を受けているんだよ」

勇二 「その「仏の子としての本質」のいちばんの基本が、「与える愛」なんだよね。「能力が高いか、低いか」なんてことじゃないんだな。
 「与える」という「善なる志向」をもって、どこまでこの世の人生を生きたか。地獄に行ってる人は、心のベクトルが「与える」とは逆方向を向いてたんだね」

正太 「もう一度、心の中の「引っかかり」に話を戻すけど、こうした引っかかりが、もっとマイナスの性質のものになってくると、他人に対する積極的な「恨み」や「怒り」、「憎悪」や「嫉妬」の念とかになってくるんだよ」

勇二 「そうした引っかかりは、「心の三毒」の二番目の「瞋(じん)=統制できない怒り」だね」

正太 「主婦の場合だと、よくあるのが「夫からの愛情が足りない、足りない」といった愛情不足に対する不平不満。サラリーマンだったら、たいていの場合「上司の悪口」だね。フッと気がつくと、「アイツが、アイツが」「あのヤロウ、あのヤロウ」なんて、思ってる人が多いんだよ」

勇二 「その「あのヤロウ」っていうのが、チラッと心をよぎったくらいなら、地獄霊は来ないけど、寝ても覚めても「あのヤロウ、あのヤロウ」だと(笑)、立派な執着になっちゃうわけだ。そうすると、下のほうから「ハイ、お呼びのようですね」ってやってきちゃうんだな。
 結局、「貪」とか「瞋」のようなマイナスの方向に心の針が向いて、こだわってる時間が長くなるほど、地獄に道がついちゃうんだよね」

正太 「地獄霊の側からすると、自分と同じ心の波長を出している人間が地上にいると、その人の姿がパアっと目の前に見えてくるんだね。そこで、「いたーっ! (地上にも)仲間がいたーっ! 助かったあ」って(実際は、全然助かってないんだけど)、その人にすがりついていくと、地獄からこの世に出て来れるんだ。
 ちょうど、ドラエもんに出てくる「どこでもドア」と同じで、地獄霊とこの世にいる人の心の波長がバチッと一致すると、ドアが開いたのと同じ状態になって、こちらの世界に出て来れちゃうんだよ」

勇二 「人間の「心の針」は、1日24時間、たいていは振り子のように揺れてることが多いけど、執着を持つと、それが下のほうの一点でピタッと止まっちゃうんだな。この「ピターっと下のほうで心の針が止まった状態」が危険なわけだ。
 自分のとこから、地獄にハシゴを降ろしたのと同じ状態になるんだね」

正太 「心の針が、上のほう、天国的な方向で止まっているぶんには、かまわないんだよ。
 でも、たいていの場合は、そんなふうに器用に止まらなくて、マイナスの方向で止まっていることが多いんだね。二階、三階じゃなくて、地下のほうにハシゴを降ろしちゃう人が多いんだ。これが困るんだよ」
 
勇二 「地獄という世界で渦巻いている想念というのは、えーっと

ねたみ、そねみ、感情や本能にもとづく怒り、愚痴、足ることを知らない心、不平不満、悲観的な心、消極的な心、優柔不断、臆病、怠惰な心、自己嫌悪、うらみ、憎しみ、のろい、情欲、自己顕示欲、利己主義、毒舌、二枚舌、躁鬱、酒乱、暴力、排他主義、うそ、いつわり、唯物主義、無神論、孤独、独裁主義、金銭欲、地位欲、名誉欲、不調和  

ということだよね。要するに、こうした思いの方向に心の針がとどまっちゃうのがマズイんだな」

正太 「(一つ補足しておくと)世の中には、「霊体質」といって、霊的なものを感じやすい人、影響を受けやすい人がたまにいるんだけど、こうした人の場合、(自分の心の状態とは関係なく)「電車で隣に座った人から、憑依霊をもらってきちゃった」とか「人ごみの中を歩いたら、そこにいた浮遊霊を背負って帰ってきちゃった」なんてケースもあるんだね。
 ただ、こうした場合も、当人同士の心の波長が合わなければ、「いつまでも」は憑いていられないんだ。心がピカピカで後光が出てるような人に憑いていたら、憑依霊のほうも苦しくてしょうがないんだね。そうした人に、がんばって取り憑いたとしても、一日くらいが関の山なんだよ」

勇二 「ふーむ、霊体質ねえ。たしかに、いろいろ見えたり、感じちゃう人っているみたいだね。
 まあ、霊体質であれ何であれ、憑依霊がずーっと憑いていられるってことは、「自分の心の中に憑依霊と同質のものがある」ってことだよね。「憑依を呼び込んでいる原因は、あくまでも自分自身にあるんだ」ってことを自覚しなきゃいけないね。
 じゃあ、憑依霊にお引き取り願うにはどうしたらいいか? 自分が地獄に降ろしているハシゴを取り払えばいいわけだ。
 この「ハシゴを取り払う」という作業が、「執着(心の中の引っかかり)を取り除く」ということ。執着を取り除くための基本が、「反省」ということなんだね」