死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

「癡(ち)」とは「愚かさ」であり、その本質は「真理を知らない」ということ 

2008-04-25 | プロローグ
正太 「「心の三毒」の二番目の「瞋(じん)」についていろいろ説明してきたんだけど、ひとまず切り上げるとしようかね」

勇二 「そうだね。「瞋」については、けっこう満腹してきちゃったからね(笑)。
 えーっと、「心の三毒」の最後は、「癡(ち)」だったな。「癡」っていうのは、たしか「愚かさ」のことだったよね」

正太 「うん。ただし、ここで言う「愚かさ」というのは、必ずしも「頭が悪い」という意味ではないんだ。この世的には、頭がよくても、この「癡」に該当する人はいっぱいいるんだよ。
 「癡」とは、どういうことかというと、要するに「真理を知らない」ということなんだ」

勇二 「真理を知らない? 「真理」っていうのは、「ほんとうのこと」みたいな意味だよね」

正太 「そう。自然界にはいろんな法則があるけど、人間の心にも法則があるんだよ。そうした物質界や人間界の法則の奥には、大宇宙を創造した「造物主(根本仏)の心」があるんだ。
 真理というのは、「仏の心」のことなんだ。あるいは、仏が定めた「大宇宙の理法(ルール)」だね。というのも、根本の仏というのは、大宇宙を統べる「法」として顕現しているからなんだ」

勇二 「大宇宙を創った神様の心、…うーん、なんだか難しそうだなー」

正太 「もっとわかりやすく言えば、「真実の教え」だね。仏が説かれた「真実の教え」のことを真理というんだよ。
 そして、「真実の教え」というのは、「人間が正しく生きる道」について必ず説いているんだ」

勇二 「それじゃあ、真理っていうのは、「人間が正しく生きる道」と考えればいいわけだね。これなら、わかりやすいな」

正太 「そう。「真実の世界観と人間観」。そして、それに則って「人間が正しく生きる道」― これが真理なんだよ」

勇二 「「人間が正しく生きる道」っていうと、歴史的には、お釈迦様やイエス様が説かれてきたようなことだよね。
 つまり、「人間は、愛と慈悲に生きなくちゃいけない」とか「愛や慈悲に反する思いや行いをしたら、しっかり反省しなさい」といったことだよね」

正太 「そう。真理―仏教的に言えば仏法真理だね―仏法真理を知らない人は愚かに見えるんだね。仏法真理を知っている人から見れば、まったく逆方向のこと、自分の墓穴を掘るようなことを一生懸命やったりしてるんだ。「人を呪わば穴二つ」とか言うけど、死んだら真っ逆さまに地獄に堕ちるような生き方をしているのに、「この世的には頭がいい」なんて人がけっこう多いんだよ。
 生きているうちに真理を知って、それに基づいて生きていけば、地獄になんかそんなに堕ちるものじゃないんだね。ところが知らないから堕ちているんだ。
 「癡」というのは、要するに「真理に疎いこと」を言うんだよ」

勇二 「ふーむ」

正太 「地獄に堕ちる原因の七割以上は「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という「心の三毒」に集約される、ってことは前に話したよね。
 中でも、この「癡」という「愚かさ」の部分が、そのうちのさらに七割以上を占めているんだ。結局、「知らない」ということから、すべての間違いが起きてきているんだよ」

勇二 「なるほどな。そもそも、「貪」とか「瞋」が「地獄行きの原因になる」ってこと自体を知らなきゃ、手の打ちようがないもんね。知らなきゃ、ノー・ブレーキの生き方になっちゃうな。
 真理さえ知っていれば、「与える愛」の生き方だってできるし、「反省」だってできるんだしね。
 まずは、「知ってナンボ」のものだよね。とにかく、「知る」っていうことから、すべては始まっていくんだな」



「瞋(カーッとくる怒り)」に対する処方箋は、「調和のとれた心」

2008-04-08 | プロローグ
勇二 「カッとなって心が乱れたときは、「反省」や「瞑想」できっちりリカバリーしていくことだね。
 でも、一番の基本は、やっぱり「怒りが起きないように努力していく」ことだよね」

正太 「そのとおり。「怒らない」ということは、心の修行の出発点なんだね。「怒らない」ということは、心の修行にとって、イロハのイであり、初歩の初歩なんだよ。
 怒らないための基本は、怒りがこみ上げてくる前に「立場を変えて見てみる、考えてみる」ということなんだ。それも、瞬時の間にやる必要があるんだよ」

勇二 「つまり、「相手の立場に立って見てみる」ということだね」

正太 「そう。怒るときっていうのは、たいてい、自分の立場にだけ立って、相手を非難攻撃しているんだね。でも、一瞬の間に相手の立場を思いやる気持ちがあったら、話は違ってくるんだよ。
 さらには、自分と相手だけじゃなくて、「第三者がいて自分たちを見ている」と思うと、また別の観点が現われてくるんだ」

勇二 「第三者の視点に立って、怒っている自分の姿を見たら、「この人は、些細ことで、ずいぶんカリカリしてるな」とか「自分の都合だけで、ものを言ってるな」とか判る場合も多いだろうしね。
 やっぱり、自分の姿を客観視することが大切なんだな」

正太 「そう。「自分の姿を客観視しなさい」ってことが言われるけど、これは単なる道徳論じゃないんだね。実際、死んであの世にいくと、自分の一生を大勢の前で、バーっと映画みたいに見せられちゃうんだね。「自分がどういう人生を生きたのか」ということが、洗いざらい「これだけは、人に知られたくない」ということまで、全部映されちゃうんだ。
 そのときは、完全に第三者の視点に立って、自分の「人生劇場」を見せられることになるんだよ」

勇二 「そこで初めて、「これがオレの姿だったのか」なんて、わかるようじゃ手遅れなわけだ。
 やっぱり、日頃から自分を客観視していかなきゃいけないね。自分のことを客観視できなきゃ、反省もできないしね」

正太 「さらには、「第三者がいる」というだけでなく、「神様が自分たちを見ている」と思ったら、小さな怒りなんかは消えていくものなんだね」

勇二 「ふーむ。「相手の立場から見る」「第三者の立場から見る」、そして「仏の眼から見る」。これが「視点を変えて見てみる」ということだね」

正太 「それと、「怒り」に関する例外について少し付け加えておくと、「怒りに正当性があるかないか」は、「無所得かどうか」にかかっているんだね」

勇二 「無所得かどうかって、収入があるかないかってこと? 」

正太 「いやいや(笑)、そういう意味じゃないんだ。「自分にとって得るものがないにも関わらず怒っている」のか、「自分が何かを得たいために怒っている」のか、ということなんだね。
 人様のために怒る場合、これは無所得なんだ。ところが、自分のために怒る、つまり自分の利益を守りたい、自分のプライドを守りたい、自分の感情を守りたいといった所得の心がある怒りは地獄的な怒りなんだね。
 これに対して、無所得の怒りのほうは、正しい怒り、聖なる怒りなんだよ」

勇二 「「公憤」とか「叱る」っていうのは、人様のために怒っているわけだもんね」

正太 「そう。だから、子供がおいたをしてるのに叱らないのはダメな親だし、先生が弟子を叱ったりするのも当然だし、ユートピア建設を阻害している人に対して、正当な言論を行使したり、相手の間違いを指摘するのも当然のことなんだね。
 ただ、マスコミに出てる人の中には、「公憤」という形にすりかえて、自分自身の嫉妬やルサンチマンを吐き出してるような人もいるから、その辺は注意する必要はあるんだね。
 その怒りは、「無我の怒り」かどうか。自我我欲を離れた「清い心」に基づいているのかどうか。ここを自分でチェックする必要があるんだよ」

勇二 「「清い心」…、これも天国に入るためのキーワードだよね」

正太 「それと、(悪いほうの)「怒り」というのは、「貪欲」の親戚みたいなものだ、ってことは前に話したよね。だから「足ることを知る心」「少欲知足」ということも、「怒り」の思いを出さないためには、とても大切なんだよ」

勇二 「「怒り」っていうのは、貪欲さの裏返しみたいな面があるわけだ。たしかに、欲が深けりゃ深いほど、それに比例して「欲望が満たされない」「自分の思い通りにならない」っていう不平不満も大きくなるだろうしね。
 反対に、「足ることを知る心」「感謝」の心で生きているような人は、そんなにカッカきたりしないだろうね」

正太 「そう。「怒り」も「憎しみ」も「妬み」も、「過ぎた欲望(奪う愛)」だし、別な面から言えば「愛欠乏症」なんだね。
 愛の大きな人、つまり、「他の人たちに愛を与えていこう」とか「他の人たちを幸せにしていこう」と常々思っている人は、「怒り」とか「憎しみ」とか「嫉み」といった思いは、出にくいものなんだよ。
 だから、「最近、怒りっぽくなってきたな」と思ったら、「自分は欲が強すぎていないか。わがままになってないか」をチェックしてみる必要があるし、「与える愛」と「周囲との調和」を心がけていくことが大切なんだね。

カーッと短気を起こしてはいけないんだ。
他の人もみんな仏の子なんだ。
調和して生きることが大事なんだ。
家族も職場も、みんなが調和して生きるからこそ、幸福になれるんだ。
「自分の思い通りにいくか、いかないか」ということばかり考えていちゃいけないな。
それじゃあ、他の人の迷惑をまったく考えていないな。そういう短気の心はいけないぞ。

地獄に堕ちないためには、こうした自戒が、とてもとても大切なんだよ」