死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

欧米で臓器移植が盛んなことの宗教的(思想的)背景

2007-03-27 | 脳死臓器移植の問題点
勇二 「でも、臓器移植は日本じゃ結構議論になっているけど、欧米なんかじゃ、抵抗が無いというか、何十年も前から進められているじゃないか。これはどういうことなんだろう?」

正太 「まず、基本的に、「霊肉二元」という現在のキリスト教の考えが大きく影響しているんだね。キリスト教圏では「霊と肉、霊体と肉体は全く別のものだ」と考えているんだよ。「霊は神が息を吹き込んだもの、肉体は神が塵や土をこねてつくったもの」として、「霊体と肉体は全く関係ない。霊は認めるけれど、肉体は切ってもかまわない」と理解しているんだ」

勇二 「実態は、死んだからって、そんなにスパっと分けられないということだよね。」

正太 「そうそう。また、こうした考え方には近代思想の祖となった哲学者デカルトの「精神と物質」の二元論も強く影響しているんだ。西洋医学のもともとの出発点は、デカルトの霊肉二元論あたりから始まっているといえるんだよ」

勇二 「デカルトの二元論?」

正太 「デカルトも、霊そのものがあることは認めていたんだけれど、現実的にはよくわからないので、これは神学や哲学のほうに委ねてしまって、この世的な肉のほう物質のほうは科学が対象にするというふうに分けたんだ。分けたために、結局、もう片方(霊)のことを考慮しなくなってきたという流れがあって、その中に西洋の医学もあるんだよ」

勇二 「自然科学に担当させた物質の研究は進んだけど、霊とか魂はうっちゃってきたような形なのかな」

正太 「そう。西洋の医学をやっている人たちは、あの世のことを知っているかといえば、霊界、あるいは霊があるということ自体はかなりの人が知っているんだ。ただ、「それは学問が対象とするものではないから、自分たちは肉体を治す研究だけに専念している」ということなんだよ。要するに、西洋医学というのは、あの世を知っている人の霊肉二元論で「霊と肉は違う。肉(物質)には肉(物質)の法則があるんだから、その中でどんどん進めていこう」という考えなんだね。

勇二 「霊は否定しないけど、そういう割り切った世界観があるから、臓器移植なんかにも積極的というわけか」

正太 「うん。でも、こうした見方もやはり間違っていて、実態はどうかといえば、むしろ仏教でいう「色心不ニ(しきしんふに)」という考えのほうが正しいんだね」

勇二 「色心不二?」

正太 「これは「色(肉体)と心は二つに分けられず、両者は互いに影響を及ぼしあっている」という意味で、実際人間というのは、肉体が病めば、霊体にも大きな苦痛が生じることがあるし、霊体が驚愕したり病んだりすると肉体に異常な変化が表れることもあるんだ」

勇二 「ふうむ。生きているうちは互いに影響しているし、心臓の鼓動が止まったからといって、お互いすぐに「はい、バイバイ」とはならないということだね」

正太 「そうそう。この点で、キリスト教圏では未熟な理論が通用している、といわざるをえないんだ。一方、日本の場合はどうかというと、医学のほうは、形だけ西洋医学をすっと取り入れたんだけど、霊とか魂はどこかに飛んでしまって、唯物的な医学そのものになりきっている面があるんだね」

勇二 「ははーん、同じ西洋医学といっても西洋と日本じゃ、そこらあたりで違いがあるんだな。ということは、日本の場合、医学以外のところで臓器移植への反発が強いということになるね」

正太 「うん。今言ったように、仏教を中心とした宗教的土壌があって、西洋的な「霊肉二元」という割り切った考えがなじまないこと、またお通夜とか、魂が安らかに離れるために配慮した風習も根強くあって抵抗感があることが大きいね。じゃあ実態はどうなのかといえば、霊的にはこちらのほうが正しいといわざるをえないんだよ」


臓器移植は本当の人助けになっていないことが多い

2007-03-26 | 脳死臓器移植の問題点
正太 「今言ったような霊的な事実を深く理解した上で、それでも「他の人に役立ちたい」という思いから臓器提供するなら、愛の行為になる場合もある。霊的な事実を理解した上で臨めば、ある程度痛みにも耐えられるし、(今君に言っても笑っちゃうかもしれないけど)介添えの天使なんかも来てくれて「あなたは、よいこと、立派なことをしたんだ。肉体的生命は終わったけれど、魂は完全なのだから、今は傷ついたように見えても、すぐまた元に戻るよ」と言って、なぐさめてくれるんだね」

勇二 「天使が…ねえ。まあそのへんも聞きたいのは山々だけど「ここで話すと長くなる」んだろうから(笑)、先の楽しみにとっておくよ。ところで、今、君は、愛の行為に「なる場合」もある、と言ったけど、「ならない場合」というのは、拒絶反応が起きてすぐ死んでしまったり、憑依によって人格変化が起きたりする場合という意味かい?」

正太 「うん。そうならないようにするためには、臓器を提供する側が今言ったような心がけを持つと同時に、臓器の提供を受ける人も、感謝の心を持たなくてはいけないんだね。
 拒絶反応などを抑えるためには、「ありがたい」という気持ちをもって移植された臓器と調和しなくてはいけないんだ。感謝しないで、物だけ貰ったように思っていると、大変なことになって、その人も遠からず死ぬことになってしまうんだよ。
 また臓器を提供してくれた人に対しても、ほんとうに成仏してくれるように、一生懸命、お祈りをしておく必要があるんだ。もし、その人が苦しんでいて、「痛い、痛い」と言っていたら、臓器のほうにも影響が出て必ず不調和を起こすんだよ」

勇二 「なるほどね」

正太 「それに外科医自身もこうした事実をしっかり認識して、臓器を提供する側、される側に説明や指導もできなくてはいけないんだ」

勇二 「まあ、でも、いくら「霊的事実を知った上でなら痛みも克服していける」と言われたって、生身の身体から内臓を切り出されるのと同じなんでしょ。僕なんか、どう言われたって絶対ゴメンだな」

正太 「実際、現在の日本のように、まだまだ唯物論がはびこっていて、「霊はない、あの世もない。そうしたことは全て迷信ででたらめである」という論調が主流の所では、愛の行為に見える臓器提供であっても、残念ながら本当の救いになっていないことが多いんだよ」


死んで何十年も病気をやっている人たち

2007-03-25 | 脳死臓器移植の問題点
勇二 「ただ、「霊的な自覚」といっても、現代では「人間はしょせん物質の固まりだ。死んだらすべてオシマイだからいいだろう」と考えて、臓器提供する人も多いよね。そういう人なんかはもっと大変なんじゃないかい?」

正太 「そうなんだ。唯物的な考えを持っていて「死ねば、全部終わり」と思って内臓を提供した人の場合は、あとが大変で、そういう人は実際七転八倒しているんだ。「内臓を抜かれた」ということで「痛い、痛い」と言って苦しんでいるんだよ」

勇二 「いつまでも苦しんでいるのかい?」

正太 「うん。これは臓器移植に限らず病気や事故で死んだ場合にも共通することだけど、死んで何十年も経つのに、まだ病気でウンウン苦しんでいる人とかが結構いるんだね。あるいは交通事故で亡くなってだいぶ経つのに、それこそ「血みどろの幽霊」の姿でずーっとやっている人とかもいるんだよ。こうした人たちは「人間というのは肉体だ。肉体以外の自分はない」という見方から離れられなくて、死んだときの肉体の状態が自分自身だと思い込んでいるんだね。そして、自分が死んだことすらわからないまま、何十年も同じ状態でいるんだよ」

勇二 「肉体を脱いで霊体になっているのに、まだそんな状態なのかい」

正太 「うん。霊っていうのは、「思っていることがすべて」の存在で、自分が思い描いているとおり、思い込んでいるとおりに現象化してくるんだ。だから、こうした人たちに必要なのは「霊的な自覚」、つまり「肉体は乗り物であって人間の本質ではない。自分は本来霊的存在なんだ」「霊体と肉体は違うんだ」ということをしっかり認識することなんだね」

勇二 「ふうむ、霊というのは「思い描いているとおりの自分になる」か…。えーと、そうそう、臓器移植に話を戻すと、要は臓器移植はやるべきじゃない、ということだね」

正太 「全否定まではできないけどね」

勇二 「というと?」


心臓移植後の人格変化は臓器提供者の「憑依」が原因

2007-03-24 | 脳死臓器移植の問題点
正太 「憑依というのは、霊が取り憑くことをいうんだ。心臓移植を受けた人が、移植手術の後に、人格がガラッと変わってしまうことがあるんだけど、こうした現象は、心臓を取られた側の人が、移植された側の人に憑依することによって起きるんだよ」

勇二 「心臓を取られた人の人格が、乗り移ってきてしまうわけか」

正太 「そうそう。臓器を取られた人の「まだ生きたい」という執着の念と、臓器をもらう人の「まだ死にたくない」という執着の念がピタッと重なった場合、「波長同通の法則」によって完全に憑依現象が起きてしまうんだ。
霊的な事実も知らないまま臓器を取られて、あの世への旅立ちを妨げられた人たちは、たいていの場合、不平不満やこの世への執着から、不成仏霊といわれる存在になっていて、さまざまな障りを起こす力、悪い出来事を起こす力を持っているんだね。それが原因で、臓器を移植された人の家庭のなかで、次々と不幸が起きたりすることがよくあるんだよ。これは昔からの言葉で表現すれば「祟り」といわれるものなんだね」

勇二 「ひゃー、怖いなあ。まだ春先なんだから。お盆の頃にでも企画すりゃ良かったな。まあ、臓器移植とかは、単に機械のパーツでも取り替えるように、唯物的に考えちゃいかんということだな」

正太 「そうなんだ。脳死状態での臓器移植は、今言ったように臓器の提供を受けた人の霊障を促進することになるし、そうならなかった場合でも、臓器提供者に、あの世への旅立ちにおいて、大変なハンディを与えることになってしまうんだ」

勇二 「そうした人もいずれは回復していくのかい?」

正太 「うん。これは霊的な自覚に応じて、つまり「人間は霊的存在なんだ」「霊体と肉体は違うんだ」ということをしっかり自覚して痛みを克服しようとする人ほど、その痛みも早く治まっていくんだね。ただそうは言っても、心臓の部分が空洞になった形であの世にわたっていくことになるので、たいへん情緒不安定な状態だし、中には取り乱している人もいるんだ」

勇二 「その心臓の部分の空洞もふさがっていくわけ?」

正太 「うん。というか、あの世での生活が長くなるにつれて、霊的存在として純化していくので、内臓とかの肉体的な属性の意識じたいが霊体から消えていくんだね。ただ、死後二、三年の人間は、あの世でもまだ内臓器官があるような気持ちでいるんだよ。もちろん5次元以上の世界に還っていくときには、幽体を脱ぎ捨てることになるから、臓器の意識の部分もいっしょに脱ぎ捨てることになるんだけどね」


臓器移植で拒絶反応が起きる霊的な理由

2007-03-23 | 脳死臓器移植の問題点
勇二 「いくら新鮮な臓器が欲しいからといって、死の線引きじたいを前倒しにするというんじゃ本末転倒だな」

正太 「また、臓器移植では、よく「拒絶反応」というのが起きるんだけど、これにも霊的な原因があるんだね」

勇二 「ほう、それはどんな?」

正太 「臓器というのは単なる物質じゃなくて、意識を伴っているんだ。臓器にも霊的意識があるんだね。だから他人の肉体に移植されると、意識に違いがあるから、元の魂に戻りたがって拒絶反応などを起こすんだよ。
 移植されたほうも、他人の魂が体の中に入り込んできた形になるので、それを拒もうとするんだ。そのため、臓器を移植された人はあまり長く生きられずに死んでしまうこともあるんだ」

勇二 「臓器にも意識がある?」

正太 「ここらへんは突っ込んだ説明をしだすと長くなるので詳しくは後に譲るけど、魂というのは、金太郎飴みたいに一様な存在じゃなくて、タマネギみたいに多重構造になっているんだね。西洋の「神智学」なんかでも、「アストラル体」だとか「メンタル体」だとか名前がつけられているけど、要するに、魂というのは、中心、中核の部分があってそのまわりを何層にも取り巻いている構造になっているんだ。その一番外側の部分を「幽体」というんだけど…」

勇二 「幽体離脱の「幽体」のことかい」

正太 「そうだね。ちょうど、この世、つまり3次元の地上界で魂修行するのに「肉体」という衣をまとうように、あの世の入り口である4次元の「幽界」という世界の住人は、この「幽体」を使って生活しているんだ(あの世に還らずに、この世で「幽霊」として徘徊している霊なんかもそうなんだね)。そして、死んであの世に還るときに、肉体を脱ぎ捨てて「幽体」という姿になるように、4次元幽界の住人の心境が進んで5次元世界に上がるときは、この「幽体」を脱ぎ捨てて、その下にある「(狭義の)霊体」という姿になるんだ。そして5次元から6次元に進んでいくときは、今度はこの「霊体」を脱いでその下の「光子体」という身体になる、という具合に進んでいくんだよ」

勇二 「ほー、次元を上がるにつれて、一枚ずつ服を脱いでいくような感じだね」

正太 「そうそう。で、今説明したように、この幽体というのは魂の中でも一番外側、つまり最も肉体に近い部分で、この中に心臓の意識とか肝臓の意識といった臓器の意識があるんだ。たとえば心臓というのは、主に人間の意志や感情を司る中枢なんだけど、この心臓の部分を本人が十分に納得していない段階で取り出して他人に移植すると、霊体の一部も他の人に移植されることになるんだね」

勇二 「うんうん。それで」

正太 「するとその人の魂は、自分の心臓に吸い寄せられるようにして、移植された他人の肉体のほうに移動してしまって、ここで「憑依」という現象が起きるんだよ」

勇二 「憑依?」