勇二 「なるほどねえ。「本能の愛」そして「愛する愛」、最後に「生かす愛」か。人を生かす、なんていう高度な愛を目指して、人間、修行をしているわけだ」
正太 「おっと、早まらないでね。「生かす愛」っていうのは、まだまだ愛のゴールじゃないんだ。さらに、その上の段階があるんだよ」
勇二 「えっ、まだ上があるの? 一生懸命努力して自分を磨いて、人様を導いていけるようになって、その上にまだやることがあるわけ?」
正太 「そうなんだ。この上に「許す愛」という境地があるんだよ」
勇二 「許す愛? 人を許すのが、生かすことより上なのかい?」
正太 「うん。生かす愛だけではまだ不十分なんだ。というのも、単に人を生かすだけなら、才能の才があれば、あるいは、他人を上まわる知性があれば可能だからなんだね。だけど、愛には、才能や知性や努力を超えた愛があるんだよ。才能を超えた「徳」をもってはじめて出現する境地、それが「許す愛」なんだ」
勇二 「ほー、才能を超えた徳、ねえ」
正太 「これは、単にこの世的に優れているという基準だけじゃなくて、もう一段大きな宗教的な境地に達していて、善悪を超えて人々を包み込む愛なんだね。「許す愛」の段階というのは、一般の人とはかなり境地が違っていて、愛の器が大きくて、許容する範囲がひじょうに広くなっているんだよ」
勇二 「ふうむ」
正太 「霊的進化の速度というのは、どれだけ多くの寛容さをともなうか、ということで計れるんだね。「生かす愛」の段階だと、その指導者というのは優れているし、他の人たちを伸ばすという力は持っているんだけど、宗教的見地からの許す愛、寛容さの愛というものがにじみ出してくるほどには、まだ魂の器そのものが大きくなっていないんだ」
勇二 「でも「許す愛」といっても、悪いことをしても認めちゃう、ってことじゃないんだよね」
正太 「もちろん。「許す愛」というと誤解されやすいんだけど、べつに「いいよ、いいよ、何をしてもいいよ」ということを言ってるんじゃないんだ。「生かす愛」の段階で、善悪、正邪、あるいは優劣というものを十分学び、また人々の善なるものを伸ばしていくという実践を十分経た上で、さらに、そうした悪なるものをも単に裁きの目で見るんじゃなく、包みこむようにして、善導していく、救っていく境地のことなんだ」
勇二 「ほー、包み込むようにして」
正太 「うん。他人を許そうとする段階というのは、他人の悪というのが小さく見えてくる段階なんだね。これが自分と対立するような敵のように見えているときは、まだなかなか許せないんだ。ところが自分の器というものが大きくなり、いちだんと大きな宗教的境地に飛躍して、大きな光の化身になってくると、ちょうどお釈迦様が慈悲の目でもって衆生を見たように、優しい目でもって人々を見ることができるんだよ」
勇二 「優しい目でねえ。…ふうむ、生かす愛っていうとこの世的に優れたエリートの愛って感じだけど、許す愛っていうのは、仏様っていうか、もっと尊い感じの愛なんだね」
正太 「そう。人を許せるためには、人々の苦しみ、悲しみがわからないと、なかなか許すことができないんだね。ちょうど、頭のいい人が、不器用な人、要領の悪い人を見ても、なぜそうなのかが理解できずにイライラしたりするのと同じなっちゃうんだね。
どんなに優れた資質、才能の持ち主でも、多くの苦難や逆境、苦しみ、悲しみを経験して、そうした辛酸から立ち上がってくることによって、初めて、人々に対するほんとうの意味での優しさが出てくるんだね。この、ほんとうの意味での優しさが出たときが人を許すことができる段階なんだよ」
勇二 「ああ、苦労した人ほど他人の苦しさがよくわかるっていうよね。そうした面があるわけか」
正太 「魂の修行をしていても、つまずいてしまったり、挫折したり、地獄に堕ちていく人もいるわけだね。しかし、ほんとうは、そうした失敗して、挫折していく人たちをも包み込む、神様の大きな愛というものがあるんだよ。地獄の底をも支えている仏の大きな大きな愛があって、人間はその中で生かされているんだね。
失敗して地獄に堕ちたからといって、人間を「廃止」されるわけではない。またチャンスが与えられる。何度でも、何度でも、永遠にやり直しがきくから「よし、がんばってみよう」という気が起きてくるんだね。そこには小さな善悪を超えた大きな許しがあるんだよ。
人間というのは、自分の置かれた環境の中で、悪を捨て善を取る勉強をしているんだけど、それを超えた大きな世界には、それらを包み込む大きな愛があるということなんだ。だから、「人を許す境地」というのは、「人を生かす境地」よりも大きなものなんだね。それは、仏の境地に近いんだよ」
勇二 「そうだね。たしかに、もっと大きな愛だね」
正太 「この許す愛の境地に達した人は、仏教的には「菩薩」、キリスト教的には「天使」と呼ばれてきたんだね。要するに「許す愛」というのは、菩薩(天使)の境涯のことなんだ。
そして菩薩、天使といった人たちの主たる関心は「利他」なんだね。心において「愛」、行いにおいて「奉仕」。自分のためではなく、他人のために生きる。人々の幸福のために、人々を救うために生きる。そうした海のような大海のような境地なんだ。
だから「生かす愛」というのが、この世的に優れた人の愛であるのに対して、「許す愛」っていうのは、この世を越えた愛、あの世的な愛に近づいてきているんだよ」
正太 「おっと、早まらないでね。「生かす愛」っていうのは、まだまだ愛のゴールじゃないんだ。さらに、その上の段階があるんだよ」
勇二 「えっ、まだ上があるの? 一生懸命努力して自分を磨いて、人様を導いていけるようになって、その上にまだやることがあるわけ?」
正太 「そうなんだ。この上に「許す愛」という境地があるんだよ」
勇二 「許す愛? 人を許すのが、生かすことより上なのかい?」
正太 「うん。生かす愛だけではまだ不十分なんだ。というのも、単に人を生かすだけなら、才能の才があれば、あるいは、他人を上まわる知性があれば可能だからなんだね。だけど、愛には、才能や知性や努力を超えた愛があるんだよ。才能を超えた「徳」をもってはじめて出現する境地、それが「許す愛」なんだ」
勇二 「ほー、才能を超えた徳、ねえ」
正太 「これは、単にこの世的に優れているという基準だけじゃなくて、もう一段大きな宗教的な境地に達していて、善悪を超えて人々を包み込む愛なんだね。「許す愛」の段階というのは、一般の人とはかなり境地が違っていて、愛の器が大きくて、許容する範囲がひじょうに広くなっているんだよ」
勇二 「ふうむ」
正太 「霊的進化の速度というのは、どれだけ多くの寛容さをともなうか、ということで計れるんだね。「生かす愛」の段階だと、その指導者というのは優れているし、他の人たちを伸ばすという力は持っているんだけど、宗教的見地からの許す愛、寛容さの愛というものがにじみ出してくるほどには、まだ魂の器そのものが大きくなっていないんだ」
勇二 「でも「許す愛」といっても、悪いことをしても認めちゃう、ってことじゃないんだよね」
正太 「もちろん。「許す愛」というと誤解されやすいんだけど、べつに「いいよ、いいよ、何をしてもいいよ」ということを言ってるんじゃないんだ。「生かす愛」の段階で、善悪、正邪、あるいは優劣というものを十分学び、また人々の善なるものを伸ばしていくという実践を十分経た上で、さらに、そうした悪なるものをも単に裁きの目で見るんじゃなく、包みこむようにして、善導していく、救っていく境地のことなんだ」
勇二 「ほー、包み込むようにして」
正太 「うん。他人を許そうとする段階というのは、他人の悪というのが小さく見えてくる段階なんだね。これが自分と対立するような敵のように見えているときは、まだなかなか許せないんだ。ところが自分の器というものが大きくなり、いちだんと大きな宗教的境地に飛躍して、大きな光の化身になってくると、ちょうどお釈迦様が慈悲の目でもって衆生を見たように、優しい目でもって人々を見ることができるんだよ」
勇二 「優しい目でねえ。…ふうむ、生かす愛っていうとこの世的に優れたエリートの愛って感じだけど、許す愛っていうのは、仏様っていうか、もっと尊い感じの愛なんだね」
正太 「そう。人を許せるためには、人々の苦しみ、悲しみがわからないと、なかなか許すことができないんだね。ちょうど、頭のいい人が、不器用な人、要領の悪い人を見ても、なぜそうなのかが理解できずにイライラしたりするのと同じなっちゃうんだね。
どんなに優れた資質、才能の持ち主でも、多くの苦難や逆境、苦しみ、悲しみを経験して、そうした辛酸から立ち上がってくることによって、初めて、人々に対するほんとうの意味での優しさが出てくるんだね。この、ほんとうの意味での優しさが出たときが人を許すことができる段階なんだよ」
勇二 「ああ、苦労した人ほど他人の苦しさがよくわかるっていうよね。そうした面があるわけか」
正太 「魂の修行をしていても、つまずいてしまったり、挫折したり、地獄に堕ちていく人もいるわけだね。しかし、ほんとうは、そうした失敗して、挫折していく人たちをも包み込む、神様の大きな愛というものがあるんだよ。地獄の底をも支えている仏の大きな大きな愛があって、人間はその中で生かされているんだね。
失敗して地獄に堕ちたからといって、人間を「廃止」されるわけではない。またチャンスが与えられる。何度でも、何度でも、永遠にやり直しがきくから「よし、がんばってみよう」という気が起きてくるんだね。そこには小さな善悪を超えた大きな許しがあるんだよ。
人間というのは、自分の置かれた環境の中で、悪を捨て善を取る勉強をしているんだけど、それを超えた大きな世界には、それらを包み込む大きな愛があるということなんだ。だから、「人を許す境地」というのは、「人を生かす境地」よりも大きなものなんだね。それは、仏の境地に近いんだよ」
勇二 「そうだね。たしかに、もっと大きな愛だね」
正太 「この許す愛の境地に達した人は、仏教的には「菩薩」、キリスト教的には「天使」と呼ばれてきたんだね。要するに「許す愛」というのは、菩薩(天使)の境涯のことなんだ。
そして菩薩、天使といった人たちの主たる関心は「利他」なんだね。心において「愛」、行いにおいて「奉仕」。自分のためではなく、他人のために生きる。人々の幸福のために、人々を救うために生きる。そうした海のような大海のような境地なんだ。
だから「生かす愛」というのが、この世的に優れた人の愛であるのに対して、「許す愛」っていうのは、この世を越えた愛、あの世的な愛に近づいてきているんだよ」