死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

現代は「青少年の動物化」と「悪霊憑依の低年齢化」が起きている 

2007-08-14 | プロローグ
勇二 「うーむ。まあ、「今の若い人は…」なんて言うほど、僕もオッサン、オッサンした歳じゃないけど、世の中で起きていることや、ふだん自分が見聞きすることからしても、これじゃあ、さすがにマズイんじゃないかと思うよね。
 学科を教えるだけじゃなくて、学校でも家庭でも、何か精神的な規範になるようなものも、少しは教えていかないと、どんどんおかしくなっちゃうんじゃないかね」

正太 「教育というのは、人間を動物的存在から進化させるたいへん文化的な作業なんだけど、経済大国であり教育大国であるはずの日本の中で、青少年はむしろ動物的な存在に近づいているんだね。
 性の乱れ、極端なふしだらさ、あるいは、肉体欲のままに行動する、非常に刹那的な快楽に走るとか、また、いじめにしても一昔前には考えられなかったほど残忍さ、凶悪さが増しているんだけど、霊的に見ても、「悪霊憑依の低年齢化」という現象が起きているんだ。つまり、「地獄霊の憑依が起きる年齢が、以前より下がってきている」という現実があるんだよ」

勇二 「ほーお、「悪霊憑依の低年齢化」ねえ。憑依といっても、地獄霊のほうが一方的に取り憑いてくるわけじゃなくて、あくまでも心の波長が一致しているから憑依が起きるわけだよね。それだけ、子供たちの心の状態が荒んでいる、悪化しているってことだよね。
 まあ、あの、「クラス全員で一人の生徒を自殺するところまでいじめぬく」なんていう最近はやりのいじめの手口を見ても、そんな気はするね。「いじめに参加しないと、自分がいじめのターゲットになる。それが怖いからいじめに加わる」なんていうのは、地獄そのものじゃないか。君の話だと、この世がだいぶ地獄化してきているということだけど、そういう学校現場こそ、あの世の「地獄界」がはっきり現われてる気がするな」

正太 「昔は大人にならないと起きなかったような悪霊憑依が、小さいうちから始まっているんだね。今は、十歳くらい、小学校の高学年から、地獄霊に憑依されだしているんだ。これが中学生や高校生になると、悪霊に憑依されているのはいっぱいいるんだよ。
 とにかく、今くらい、家庭や学校教育のなかで「人間の正しい生き方を教える」ということ、倫理教育、道徳教育、宗教教育が必要なときはないんだね。
 宗教教育なんていうと、日本人は「ペーっ」ていうかんじで拒否反応を示すけど、倫理や道徳の一番大きな源泉は宗教だし、宗教教育を全く行っていない国というのは、日本を除けば世界中で共産主義国くらいしかないんだね。日本人は、これをとても進んだ、文化的なことだと思っているんだけど、仏の目から見たら、神様の目から見たら、たいへん恥ずかしいことなんだよ。文明国の国民の目から見ても、とても恥ずかしいことなんだね。
 たしかに、現代の日本では、人の心を狂わすような邪教の数は多いし、「戦前に国家神道にもとづいた教育をして、戦争をし、負けた。だから、宗教はよくない」という論理もあるかもしれないけど、そうした宗教アレルギーのようなものは払拭しなきゃいけないんだよ。
 会社の中には、成功する会社もあれば、失敗して倒産する会社や、中には悪いことをする会社もあるかもしれないけど、だからといって「会社という存在そのものが悪い」という結論にはいかないよね。ところが、日本では、宗教に関してはそうなっているんだね」

勇二 「道徳教育だとか倫理教育なんて言っただけで風当たりが強いのに、宗教教育なんていったらスゴイ反発があるだろうね。ミッション系の学校とかならともかく、公立校ではね」

正太 「日本という国がなぜこうなっているかというと、その大本には、敗戦後、日本に進駐してきたアメリカをはじめとする連合国の占領政策があるんだね。彼らは、戦争中に体験した日本の強さというものが、とてもコワかったんだね。「これは何とか封じ込めなきゃいけない」と思ったんだ」

勇二 「神風特攻隊だとか、「なんでそんなことをするのか」やたら怖かった、っていうね」

正太 「だから、日本が二度と自分たちに戦いを挑んだりすることがないように、知恵を絞ったんだよ。
 その方法の一つは「軍備を全廃すること」。これは当然だよね。軍隊がなければ歯向かいようがないからね(もっともその後、自衛隊ができたんだけど)。もう一つが何かというと、「精神性の部分を骨抜きにすること」だったんだね。彼らは、日本人が戦争中に発揮した強い精神力の背景には、戦前に、日本人の精神的な柱になっていた「国家神道」の存在があったことを突き止めていたんだ。だから、戦後の日本の針路を決めるに当たって、「この宗教の部分をどう取り去るか」ということに腐心したんだよ。
 その結果が、(事実上、占領軍がこしらえた)憲法の中で「日本は軍隊を持たない、交戦権もない」という規定になったし、「国の行事として宗教活動をしちゃいけない、国はどんな宗教教育もしてはダメ」という規定になっていったんだね。だから、憲法に規定された宗教への扱いというのは、根本において「日本に対する善意ではないものに基づいていた」ということを認識しておく必要があるんだよ。
 占領軍による、こうした「日本弱体化」を意図した宗教追放の政策と、「「天皇陛下のために」という国家神道の教育を受けて、ひどい目に合わされた」っていう「宗教はコリゴリ」という国民感情があいまって、戦後日本の宗教アレルギーが形成されていったんだね。戦後の宗教否定、あるいは無宗教礼賛の風潮は、第二次大戦における日本の敗戦がもたらした「負の遺産」というわけなんだ。これが霊的な目から見た真相なんだよ。
 じゃあ、そういう連合国、って言うと古いけど(笑)、他の文明国はどうかというと、大統領が就任する際に、聖書に手をざして宣誓するアメリカを見てもわかるように、公的なものから宗教をすべて排除しているような国などないんだね。また、仏教国はもちろん、キリスト教国だって、カトリックであれプロテスタントであれ、子供の人格形成の基盤としてキリスト教的倫理に根ざした宗教教育を行っているわけなんだ。「教育において宗教は一切ご法度」という日本人の常識のほうが、世界の中では非常識なんだよ。だから、こうした偏見やトラウマは卒業しなきゃいけない性質のものなんだね。
 特定の宗教となると、いろいろ支障がでてくるかもしれないけど、「他の人を慈しむ」「感謝の心を持つ」「悪いことを思ったり、行ったりしたら、しっかり反省する」ということは、正しい宗教のエッセンスだし、仏教やキリスト教のような世界宗教でも共通して説かれていることなんだね。だから、こうしたことを、子供たちにしっかり教えていくことは、できるはずなんだ。
 まあ、「貪欲」というテーマからは、だいぶ話がそれたけど、いじめ問題や子供たちをめぐる霊的環境とかについては、いずれまた、じっくり話をすることにしよう」



欲望を肥大化させた結果、「魂が動物化した人」が堕ちる「畜生道」 

2007-08-12 | プロローグ
正太 「餓鬼地獄の横には、「畜生道(動物界)」や「色情地獄」に抜けていく道があるんだね」

勇二 「どっちも、「貪り」の思いが原因で堕ちる地獄というわけだね」

正太 「うん。両方とも前に少し説明したけど、ここに堕ちる現代人がとても増えているんだ。現代は、それこそ「末法の世」さながらで、死んでから半数以上の人が地獄に堕ちているんだけど、なかでもこの二つの地獄に行く人が非常に多くなっているんだよ」

勇二 「まあ「欲望社会」ということで、「快楽こそが生きがいだ」とか「欲望を謳歌しなきゃ何のための人生だ」みたいな価値観の人が多いんだろうね」

正太 「畜生道のほうは、生前、人間としての尊厳を忘れて、本能と欲望のままに生きた人が堕ちる地獄なんだ。食べ物だとか酒やセックス、こうした肉体に関する欲望のけじめがつけられなくて、煩悩に振り回されて生きた人。ふしだらな生きかたをした人。心のあり方において動物に近いような部分、動物的属性が強く出ていた人たちが行く世界なんだ。ギャンブルなんかにのめりこんだような人も行っているんだよ。
 意志が弱くて欲望の節制ができない人、けじめをつけられずに本能や欲望に溺れていく人は、こうした世界が待っていると思わなきゃいけないんだ」

勇二 「僕の職場にも、仕事はしょうがないからやるけど、あとは「酒と女とギャンブル」なんていう人は、けっこういるねえ」

正太 「この世界の特徴は、その人の心性に合った獣に姿形が変わってしまっていることなんだね。
 貪りの気持ちが強かった人、怠惰な生活をしてゴロゴロしていた人なんかはブタの姿に変わってしまっているし、しょっちゅうズルをしたり、ウソをついて人を騙してきたような人、自分の利益ばかりを考えてきたエゴイストは狐の姿になっているんだね。
 犬が物をくわえて取りたがるように、何かあればパッと盗っていきたがるような、欲望を抑えきれない人は、犬のような姿に変わってしまっているし、お金に執着して他人に意地悪をしつづけてきたような人、猜疑心が強く、残忍で、執念深い人、しつこくしつこく人を妬み、恨んでいる人は体が蛇のようになってしまっているんだよ。
 結局、「人間としての品性の低さが、その人の姿を動物に変えてしまう」ということなんだ」

勇二 「動物も善と悪ぐらいは勉強するようになっていて、幸せに死んだ動物は天界のほうに還っているんだけど、恨みとか悲しみ、苦しみのもとに死んでいった動物たちは地獄に堕ちている、っていうことだよね。その動物たちが堕ちる地獄に、なんと人間で堕ちるのがいて、しかも現代ではそういう人が非常に増えているということだね。
 動物じたいが悪いわけじゃないよね。イルカは可愛いし、犬だって「おっ、こいつは性格のいい奴だな。天国的な犬だな」っていうのがいるよね」

正太 「そう。人間同様、動物たちも霊なんだけど、それぞれの動物には、その動物に特有の、魂の傾向性があるんだね。魂がつくられたときに刻印された強い傾向があるんだよ。
 そして人間として生きていながら、ある特定の動物の傾向に強く似てきた人は、その動物たちの地獄界に行くことがある、ということなんだ」

勇二 「地獄に堕ちる動物と、人間が同じっていうんだから、考えてみれば情けない話だよね」
 
正太 「たとえば、食欲なんかでも、グルメ・ブームということで食道楽も悪くはないんだけど、肉体が中心になってしまって、馬がまぐさを欲しがるみたいに、そうしたものにのめりこむようだと、おかしくなるんだね。
 世の中には、「あれが食べたい、これが食べたい」と、四六時中、ごちそうのことばかり考えているような人もいるんだけど、これだとおかしくなるんだよ」

勇二 「ああ、女の人でもいるね。舌の喜びっていうか、「おいしいものを食べること」でいつも頭の中がいっぱい、っていうね」

正太 「ちょっと難しい言い方になるけれど、「霊主肉従」じゃなくて「肉主霊従」、つまり霊と肉体の主従が引っ繰り返ってしまって、肉体が主で霊が従になるような生き方をすると間違いになるんだね。結局、「人生観の中心が肉体と霊のどちらにあるか」ということで、天国・地獄は決まるからなんだ。
 それと、食欲に関して言えば、若い女性のなかには、スタイルが気になるということもあるんだろうけど、拒食症でガリガリに痩せてしまう人や、過食症で食べすぎてブクブクに太ったり、またやせたりというのを繰り返している人が大勢いるよね。
 これなんかもほとんどの場合は霊障で、来ているのは「餓鬼霊」といって、飢えて死んだ人間や動物の霊が多いんだよ」

勇二 「餓鬼霊っていうと、さっき言ってた「餓鬼地獄」の霊のこと?」

正太 「これは、「畜生道」の話からは、ちょっとそれるんだけど、昔の貧しかった時代には、飢饉で餓死する人や「即身仏」などと称して断食して死ぬ修行をしたお坊さんがいたんだね。ひもじくて、「食べたい、食べたい」という一心で死んでいった人がけっこういたんだ。そうした人が、「他人から何かをもらいたい」という象徴的な意味でじゃなくて、そのものズバリ「食べ物」のことしか死後も考えることができなくて、「餓鬼地獄」に堕ちている場合があるんだよ。
 ここには動物もかなり行ってるんだね。動物にとっての最大の試練は、食べ物がなくなることで、冬場に食べ物がなくなって餓死する動物はたくさんいるんだ。そうしたとき、飢餓のまま死んでいった動物たちは、そういう餓鬼道に堕ちているんだよ。
 簡単な悟りなんだけど、動物でも「霊と肉体は違うんだ」というくらいの悟りを得てないとダメなんだね。「食欲というものは肉体に付随するものであって、死んで霊体になれば食べなくても大丈夫なんだ」ということが、納得できないと落第なんだよ。まあ、このことがわからない人間も多いんだけどね。
 豊かな時代になると、飢餓が原因で餓鬼道に堕ちる人は減るんだね。食べることで精一杯という時代が終わって、飽食の時代になると、次は食べ物から異性へと関心が向かうんだ。そして今度は「色情地獄」の領域が拡大してくるんだよ」

勇二 「ふーむ、なるほどね」

正太 「色欲関係では、昔から有名な色情地獄、血の池地獄というのもあるけど、畜生道のほうに堕ちて、蛇だとか、狐に姿を変えている人も多いんだよ」

勇二 「蛇っていうのは、その粉末が強壮剤に使われたりするように「性欲が非常に強い」という特徴があるけど、他に「猜疑心、攻撃心が強い」という傾向性がある、ってことだったね。狐のほうは、情欲の強さの他に、「騙す、ウソをつく」、それと「おいしいものが食べたい」という食べ物系で満足しない貪欲さがある、ということだね。
 まあスケベっていうか、同じ色欲にまみれた人生を送ったとしても、その人が畜生道に堕ちて、蛇になるか狐になるかは、その辺の違いで分かれてくるんだろうね(笑)」

正太 「銀座なんかの盛り場に行くと、蛇の霊もいるんだけど、狐の霊がホステスに憑いていることも多いんだね。水商売系では、蛇や狐の霊がホステスに憑いていることが多くて、それは純粋な動物の霊の場合もあるんだけど、畜生道に堕ちて蛇や狐に姿を変えている人間の霊の場合も多いんだ。
 男女関係のもつれで嫉妬とかの妄念を燃やすと蛇系統が、快楽志向で夜遊びなんかが派手になると狐系統が憑いてくるという傾向があるんだね」

勇二 「ジェラシーとかで執念深くなってくると、蛇っていうのはピッタリしてくる感じはあるね」

正太 「ホステスの髪をなでていたつもりが、フサフサした狐のしっぽを一生懸命なでていた、なんていうパターンが多いんだね(笑)。
 酒なんかも、酒がやめられず飲んだくれになって人生が破滅し、地獄に堕ちた人はいっぱいいるんだけど、そうした霊が「飲んでいる気分」を味わいたくて、この世の酒好きやアル中患者に取り憑いて、毎晩酒を飲んでいることも多いんだ」

勇二 「そもそも、地獄霊がなぜ自分と同じ心の波長を出している地上の人間に取り憑いてくるかっていうと、一つには「地上人に取り憑いている間は、苦しい地獄の世界から抜け出せるから」というのと、もう一つは「生前の感覚が味わえるから」だよね。酒好きの霊にしてみれば、憑依することで、同じ感覚が味わえるっていうのは止められないのかもね。もちろん、そんなことをしたら、罪が重くなってますます地獄から出れなくなり、苦しみが大きくなるだけなんだけどね」

正太 「憑依している相手が酒でヘベレケになっても、迷わずに家に帰れるように、憑いている霊が道を教えて送り届けている、なんてこともよくあるんだね。なぜかっていうと、本人に翌晩からも赤提灯をくぐってもらわないと困るからなんだ(笑)。
 こうした酒欲がらみで取り憑いてくるのは、畜生道に堕ちた霊だけじゃなくて、ふつうの人霊もいるけど、もともと酒が飲めなかったのに、毎晩飲み屋に通ううちに大酒が飲めるようになった、なんていうのには、それこそ「うわばみ」みたいなのが憑いてる場合もあるんだよ」

勇二 「うーむ。アルコールっていうのは、理性・知性を麻痺させる働きがあるから、深酒すると憑依が容易になる、ってことだよね。憑依体質にならないためにも、酒っていうのは本当に節制しないとね」

正太 「それと、バクチ、賭博欲。パチンコ、マージャン、競輪、競馬、こういったギャンブルが現代は盛んだけど、こういう賭け事をしていると、やっぱり来るのは狐とかの類の動物霊なんだね。賭け事で儲かるのが面白くて、それを繰り返していると、生活が乱れてきて、そうした地獄霊の虜になっていくことが多いんだよ。
 酒やギャンブル。こうしたもの自体が必ずしも悪いものとはいえないし、潤滑油として必要なこともあるだろうけど、のめりこむと魂的には「堕落」のほうにいくんだね。高級霊体質からは、はるかに遠ざかっていって、畜生道なんかの地獄霊体質、低級霊体質になっていくんだ」

勇二 「うーむ。魂の向上という観点からすると、やらないのが理想なんだろうけど、少なくとも、しっかり節制する、きちんとした歯止めをかけられなきゃいけないね」

正太 「動物霊の憑依を防ぎ、また自分自身も「畜生道」に堕ちないようにするには、「節制と精神の鍛錬」が重要なんだね。自分を律する心、ストイックな精神態度を身につけて、「ふしだらな生活をしない」ということなんだ。
 もちろん「反省と感謝」というのが王道だけど、学問とか芸術とか奉仕活動といった「人間精神の向上」を伴うような努力をしていくのも有効なんだね。動物霊というのは、そういうふうに向上心があったり、菩提心のある人間が大嫌いなんだよ。精神性の高さや尊さを出してこられると憑いていられなくなるんだ。
 そして、肉体に関する欲望をできるだけ少なくして、生活にけじめをつけること。ゆめゆめ、ふしだらな生活をしない、ということなんだ」

勇二 「ちょっと耳が痛いけど、やっぱり欲望に流されてちゃダメだね。自分を律していかないとな」

正太 「それと、この「畜生道」には、お金に対する貪欲さで堕ちている人もいるんだね。現代社会で生活していくためには、お金が必要なんだけど、ただ、お金のことを、あまりにも長時間考えすぎたり、欲深く願い続けたりすると、心のバランスが崩れて、魂的には病気の状態になってしまうんだ(これはお金に限らず、欲が過ぎると魂的にはみんな病気の状態になるんだけどね)。
 その結果、普通の人なら何とも思わないような経済活動にまでケチをつけだしたり、金持ちを批判してみたり、急に貧乏な人をさげすんでみたりと、わけの分からない言動をするようになることがあるんだね。
 また、会社が倒産するとか大きな借金をつくったりして、大きな衝撃を受け、心に引っ掛かりが生まれると、そのときの苦しみを繰り返し思い出すようになったりすることもあるんだ。すでに解決して過去の話になっていても、お金に対する心配とか、苦しみとかが、心の中に繰り返し生じてきて、何でもないことで心が揺れ動いたりするんだね。
 そしてあの世に還ってからは蛇と化して、金色に光るものにグルグル巻きついては、それを締め上げるようになるんだ。これは「お金がほしい。お金にしがみつき、それを奪い、自分のものにしたい」という心の作用の表れなんだよ。
 あの世にいってから、こんなみじめな存在にならないためには、「執着を去って、心を平和な状態にして、日常生活を送ること」が大切なんだ」

勇二 「お金は便利なものだけど、お金じたいはあの世に一円も持って還れないし、人生の最終目標であっちゃいけないということだね。こういうことをふだんから言い聞かせてないといけないね」

正太 「お金に対する執着で寄ってくるのは蛇の霊が多いんだけど、豚の霊や餓死した人の霊も、お金に対する貪欲のところに憑依してくることがあるんだよ。
 それと、この「畜生道」について言えば、特に最近たいへん問題なのは、(大人もそうなんだけど)「青少年の動物化」というのがたいへんな勢いで進行している、ということなんだ。
 人間が人間らしく生きることが忘れられて、獣的な生き方が礼賛されるようなっているんだね。獣的な生き方に歯止めがきかなくなって、暴力を振るっても何とも思わなかったり、本能や肉体の欲望のままに行動しても、恥じる気持ちがなかったりする傾向が強くなっているんだ。
 これは、社会の風潮にも原因はあるけど、根本的には教育に問題があるんだね。戦後の日本は、「道徳教育」や「宗教教育」というものを、「戦前の国家神道や軍国主義の復活に結びつく」という理由で、教育現場から一掃してきたんだけど、そのひずみが出てきているんだよ。その結果、「正しい心のあり方」とか「間違った心のあり方」というものについて、全く無知な人たちがどんどん増えてきているんだね。
 親の世代じたいが(場合によってはさらにその親の世代も)、そんなことは家庭でも学校でも教えられたことがないから、「モンスター・ペアレント」だとか、以前には考えられなかったようなことも起きているんだね。
 「肉体から発する欲望をコントロールすることなく、欲望のままに生きたなら、それは地獄に通じる道なんだ」ということだね。子供であっても、いや、子供だからこそ、欲望をコントロールすることの大切さを覚えなきゃいけないんだ。人間は天国から生まれてきた存在だからといって、子供の欲望を野放しにしてしまい、子供が欲望に振り回されるのを黙って見ているようであってはいけないんだよ」



「貪り」の思いで生きた人が堕ちる典型的な所は「餓鬼地獄」

2007-08-08 | プロローグ
正太 「それと、この「貪」の特徴というのは、「自分ではよくわからない」ということなんだね。でも、他人から見ると、すごくよくわかるんだよ。「ああ、この人は欲の深い人だな。強欲な人だな。人の気持ちが全然わからない人だな」「いつも自分が取っていくことばかりするな。奪っていくことばかり考えているな」というのは、本人は知らないことがけっこう多いんだけど、他人が見れば、十人中八、九人は「そのとおり」と言うんだね」

勇二 「自分が取ることで心の中がいっぱいだと、他人の眼に自分がどう映っているかなんて、わかんなくなっちゃうのかもね。なんて言いながら、自分がそう思われてたらマズイんだけど(笑)。
 ところで、こういう「足ることを知らない欲望」で生きた人っていうのは、死んだ後、どういう世界が待っているのかい?」

正太 「いちばん典型的なところは、「餓鬼地獄」という所なんだ。よく昔の絵なんかには、栄養失調で、あばら骨が浮き出るほど痩せて、お腹だけがポッコリ出た亡者の姿が描かれたものがあるけど、餓鬼地獄にいる人たちはそれと同じような格好をしているんだね。目は落ち窪んで、髪は抜け、歯は抜け、口は裂け、耳が尖り、人間とは思えないような亡者の姿をしているんだ。この餓鬼地獄にいる霊というのは、とにかく食べ物を求め求め、探しているんだよ。
 そして、食べ物を見つけて口に入れたとたん、それが火となって燃えてしまい、食べることができないんだ。水を飲もうとしても、水がガソリンのように燃え上がってしまって飲めないんだよ。
 こんなふうに、お腹が空いて、欲しくて欲しくてしかたがないというのが、餓鬼地獄の特徴なんだ」

勇二 「うーむ。その食べ物っていうのは、食べ物で象徴されるような「何か人から自分に与えてほしい」という気持ちの表れなんだ、って前に聞いたね」

正太 「そうなんだ。あの世っていうのは、心に思っていることがすぐ現象化してくる世界で、「とにかく何かを他人からもらいたい。何かをしてもらいたい」という貪りの思いが強いと、そうした世界が展開してくるんだよ」

勇二 「あの世っていうのは、「心がすべての世界」ということだったね」

正太 「そう。あの世というのは、その人が心の中で「思っていること、考えていること」がすべての世界なんだね。すべてが意識の世界であって、その人が生前、いちばん繰り返し繰り返し心の中に描いていた世界が、その人の目の前に現われてくるんだよ。そして、そこには、その人だけじゃなくて、そうしたことばかりを心のなかに思い描いてきた人たちが他にもたくさんいるんだね」

勇二 「波長同通、「類は類をもって集まる世界」というわけだよね」

正太 「うん。だから、地獄に堕ちると、お互いにお互いを見て、嫌になるまで自分の醜さみたいなものを味わうことになるんだね。要するに、地獄という所は、自分の欠点、間違っているところを悟る早道なんだ。自分とそっくりな人間ばかりが集まっているわけだから、自分の悪いところに一番気づきやすいんだよ。
 大福を見たとたん、人を押しのけてガッツこうとする人ばかりがいて、延々とそうしたことを繰り返していると、だんだん嫌になってくるんだね。自分と同じような人をあまり見過ぎると、自分の尊厳を害されたような気がして嫌気がさしてくるんだよ。
 この「自分の姿に嫌気がさす」というのが、地獄に堕ちた人にとっての第一歩なんだね。これが反省心への目覚めにつながっていくんだよ」

勇二 「なるほどなあ。地獄に堕ちると、実体験をとおして自分の間違いを勉強させられるわけだね。何を聞かされてもわからない人は、最後はここにいくわけだ」




「足ることを知らない欲望」は、あの世だけではなく、この世の苦しみの大きな原因になっている 

2007-08-07 | プロローグ
正太 「この「貪欲さ」「欲の深さ」というのは、あの世での苦しみの原因になるんだけど、あの世にいく前、この世にいるときから、すでに苦しみの原因であるんだね。
 たいていの人がなんで苦しんでいるかというと、「欲しくて、欲しくてしょうがないんだけど、手に入らない」ということなんだね。その欲しいものが何かというと、「お金」かもしれないし、「地位」かもしれないし、「伴侶」かもしれないし、「学歴」かもしれないし、「豪邸」かもしれないし、「ルックス(美貌)」かもしれないけど、要するに「欲しいんだけど、得られない苦しみ」というのが、人間の苦しみのかなりの部分を占めているんだよ」

勇二 「ああ、そりゃ、そうだろうね。欲望が叶わないとそれが苦しみに変わるけど、元々そういう欲が自分になければ、苦しくも何ともないだろうしね。「もっとイケメンなら、もっと足が長ければ、もっと髪の毛がフサフサなら、女の子にモテるのになー」なんて苦しむけど、「女性にモテたいとも思わない」「髪の毛も身長も欲しくない」ってことなら、べつに苦しくもなんともないだろうしね(笑)」

正太 「「欲しいんだけど得られない」というのが苦しみの根源だから、「ほんとうにそれは、自分にとって適切な思いなのかどうか」をチェックすることが大切なんだね。「欲が強すぎていないか、少し欲が深すぎるんじゃないか」ということを点検する必要があるんだよ。
 「自分が努力した以上のもの、自分の才能以上のもの、自分の資質以上のもの、つまり、自分には許されないようなものを望んで苦しんでいるんじゃないか」ということだね。たいていは、この世の価値観とか周囲の価値観に染まったり、自分と他人を比較して「よし、俺も」とか「よし、私も」というふうに欲しがるんだけど、それがその人にふさわしいとは限らないんだね。
 こんなふうに、自分自身が客観的に見えなくて、その欲望のために苦しんでいる人がいっぱいいるから、この「貪欲」のところをまず振り返る必要があるんだよ。自分が苦しみを抱えている場合、それが「足ることを知らない欲望」から生じていないかをチェックするんだ。この「貪欲」というのは、いちばんポピュラーなところなので、ここで引っ掛かっている人は多いんだよ」

勇二 「「それは分不相応な欲望じゃありませんか」「それだけの努力をしていますか。才能や器はありますか」ということだね。「高嶺の花みたいなものを望んでないか。欲張りになっていないか。欲が過ぎてないか」ってことだね」

正太 「うん。欲っていうのを適正なところでコントロールすることが大切なんだね。のさばらせてはいけないし、かといって、全部断とうとして死んでしまうようなのもいけないんだね。自分のほんとうの意味での発展を阻害しない、人格を損なわないところで、ふだんから、これをよく飼い馴らしておくことが大事なんだよ」

勇二 「「欲望の調教」、欲が過ぎないように、しっかり手なずける、ってことだね」

正太 「生前、「あれも欲しい、これも欲しい」という欲望に振り回されて、「足ることを知らない欲望」に苦しんで、死後、地獄に堕ちている人はとても多いし、後でふれる二番目の「瞋(じん)」、つまり「カーッとくる怒り」にしても、この「貪欲」の親戚のようなものなんだね。自分の思い通りにならないという不平不満から、カッときているわけで、怒りというのも実は「足ることを知らない欲望」の一つなんだよ。妬みなんかもこれに近いんだね。
 こんなふうに、地獄に堕ちる原因になる悪想念、マイナスの思いというのは、「過ぎた欲望」というのがその正体だから、「欲望の管理、適正化」というのは、肉体を持って魂修行しているこの世の人間にとって、非常に大切なことなんだ」



「貪」とは、「貪欲」「足ることを知らない欲望」のこと 

2007-08-06 | プロローグ
正太 「そうなんだ。この三つが、地獄に堕ちる原因になる悪い思い、マイナスの思いの代表選手なんだね。現代人の半分以上は現実に地獄に堕ちているんだけど、そうした人たちというのは、この三つのうちのどれかは必ず持っているんだよ」

勇二 「うーん。詳しい説明は聞かなくても、どれもかなりポピュラーな思い、って感じはするよね。人ごとじゃなくて、自分を振り返ってみてもね」

正太 「一番目の「貪」だけど、これは「貪欲」、「足ることを知らない欲望」のことだね。まったく身分不相応に、あるいは、それだけの努力もしていないのに欲しがって、その思いが止まらないことなんだ。
 たとえば、「食べ物」が欲しくて欲しくてしかたがない。あるいは、「地位」が欲しくて欲しくてしかたがない。「収入」が欲しくて欲しくてしかたがない。他にも、「肩書き」とか「名誉」とか、女性なら「容貌」だとか、欲望の対象になるものはいっぱいあるんだね。
 この「貪欲さ」というものがなくて、欲望が盛んでなくて、地獄に堕ちる人はやはり少ないんだね。地獄に堕ちている人というのは、この欲がすごいわけなんだ。物質欲、出世欲、金銭欲、色欲、あるいは酒とかに対する欲とか、みんな、何らかの欲を持っているんだよ」

勇二 「うーむ。たしかに「欲深」とか「貪欲」っていうと、イヤーな感じがするけど、ただ、欲そのものまでダメってなっちゃうと、酷な気がするんだけどなあ。そういうわけではないんでしょ?」

正太 「うん。人間が本能として欲があるのは当然なんだね。じゃあ、「貪」というのはどういうのを指すかというと、程度を超えた欲のことなんだね。その人にとって当然あっていい程度を超えている場合に、この「貪」になるんだよ」

勇二 「ふーむ、程度を超えた欲ねえ。欲そのものが悪いっていうよりも、程度を超えると「悪」になるわけか」

正太 「それが、その人の正当な自己評価であり、ほんとうに努力して、努力しただけの結果をきちんと認められたいという気持ちなら、問題はないといえるんだね。
 だけど、努力を伴わないで欲しようとする心、「棚からぼたもち」みたいに欲しがる心を「足ることを知らない欲望」というんだね。これは、大きな大きな間違いなんだよ。
 たとえば、みんなお金は欲しいんだね。その場合、正当に仕事をしてお金を稼ぐことは正しいことなんだ。ところがあぶく銭というか、きちんとした仕事をしないで稼ごうとすること、たとえば詐欺をしたり、ゆすり、たかり、あるいはそのものズバリ盗みをやったりとか、こういう欲になると悪になり、地獄行きになるんだね」

勇二 「なるほどね。「その人の分を超えてる」っていうか「正当でない欲」が悪になるわけだな。そういえば、お金についても、前に、「世の中に貢献していこう」という努力をして豊かになっていくことはいいことだけど、これが逆転して「とにかく金が欲しい、金が欲しい」というふうに、「欲が先に立つ」と地獄的になる、って聞いたね。
 心のあり方が、「世の中のため、人のため」っていう「与える愛」じゃなくて、「とにかく自分のほうに取り込もう」っていう「奪う愛」になってるからだよね」

正太 「そうなんだ。同じように、出世欲についても、実力が備わった上で出世したり、出世しようと思うのはかまわないんだけど、他人を蹴落としてでも出世しようとすると「貪」になるんだね。隙を見て他人の悪口を言って、ブスッと刺して左遷させて偉くなろうとすると「貪」になるんだよ。
 性欲についても、みんなから祝福された結婚をして夫婦になり、子供をつくり、育てていく、という家庭のなかで行われたら、これは聖なるものであって、何ら恥ずかしいことではないんだ。ただ、夫婦の間でも、真っ昼間から外で、なんていうことになると、ちょっとおかしくなるけど、そういうルールさえ守れば、おかしいものではないんだよ。
 だけど、身体の欲に狂って、邪な情欲へと道を外していく人が跡を絶たないんだね。なかには男でも女でも、見境がつかずに何百人、何千人も相手にするような人もいるんだ。こうなると生きながらの地獄なんだね」

勇二 「ふーむ。前に「地獄に堕ちる原因は「執着」だ」って聞いたけど、執着って何なのかっていうと「過ぎた欲望」のことだって言ってたよね。すると、「貪」ていうのは、まさにそれに当たるわけだね。欲が過ぎると悪になるんだな。「与える愛」じゃなくて「奪う愛」になるわけだ」

正太 「うん。生きている人間である以上、その生命に付随して、欲望というものは必ず出てくるんだね。「生きていこう」「伸びていこう」とする思いに付随して、欲望は出てくるものなんだ。
 だけど、欲望っていうのは、氾濫する川に似ていて、田んぼや畑を水浸しにしてしまうものなんだよ。だから、川の水そのものをなくしてしまうことはできないんだけど、堤防をつくって、川の水を氾濫させないで流していくことが大切なんだ。決壊した川みたいに、欲望を氾濫させてしまってはいけない、ということなんだよ」

勇二 「川の土手が崩れて、欲望を氾濫させるような生き方をすると地獄行きになるわけだね」

正太「そう。この欲望というのは、この世での人間の生命力と不可分になっている面があるんだね。
 人間はこの世で魂の修行をするために、肉体っていう「ぬいぐるみ」「潜水服」を着込むんだけど、欲望というのは、このぬいぐるみ(肉体)に付随してどうしても出てくるものなんだ。だから、昔からよくある勘違いなんだけど、もし「欲望を全部断とう」なんて考えたら、生命力そのものを無くさなきゃいけなくなるんだね。それじゃあ自殺と同じことになっちゃうわけで、そういうことが、仏が人間に与えた魂修行ではないんだよ。
 ポイントは、「川の水のように、欲望を氾濫させずによく防ぐ」ということにあるんだね。川の水そのものをなくせないのと同じように、生きていく人間の生命の意欲そのものは否定できないわけだから「それをよく整える」ということなんだ。
 そして、それをまっすぐに流してこそ、世のため、人のためになるんだね。まっすぐに流した川であってこそ、人々のためとなり、世の中の役に立っていくわけなんだ。
 こんなふうに「自分を整える」ということが、限りなく大切なことなんだよ」

勇二 「なるほどな。川だって氾濫させたら、みんな大迷惑だけど、かといって、川がなけりゃ、お米や野菜も作れなくて困っちゃうしね。要は、生命のエネルギーというのを、世の中や他の人々のために、どう整えて使っていくかが大事なんだな」

正太 「この「堤防を築く」ということが、「道を外さないように自分を律していく心」「戒めを課す心」を持つ、ということなんだね。堤防が崩れたとき、つまり、戒めを外れたとき、人間は欲望のままに生きることになるんだ。殺人鬼になったり、強盗になったり、すべて欲望のままなんだね。欲望がストレートに現われたとき、そうなっていくんだよ。大小の違いはあっても、誰の心の中にもそういう痕跡はあるんだね」

勇二 「自分を律する心かあ。たしかに大切だよね」

正太 「この世の修行、つまり「魂が肉体に宿って修行する」っていうのは、たとえて言うと「馬を飼っている」のと変わらないんだね。肉体に宿るっていうのは、馬を飼っているのと同じで、これをどこまで調教できるか、コントロールできるかが魂の力なんだね。その手綱さばきの技量が、霊格の高下に関係してくるんだよ。
 地獄に堕ちる人というのは、みんな「肉体中心」の生きかたをした人たちで、生前に霊的な目覚めが足りなかった人たちなんだね」

勇二 「そうか。乗っている馬(=肉体)に振り回されるような生きかたをするとダメなんだな。ジョッキー(=魂)のほうが馬を制御しなきゃいけないんだな。それが、ジョッキーにとっての修行なんだな」

正太 「そう。肉体に宿ってこの世に生きている間は、欲というものはなくならないから、これを自分のコントロール下において、よく整え、氾濫させないことなんだ。この「欲望の調教」ということができるかどうかが、地獄に堕ちないために、とてもとても大切なことなんだよ」