死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

霊界の次元の違いは「愛の発展段階」の違いでもある 

2007-05-25 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
正太 「こんなふうに、魂の向上というのは、その人の愛が発展していくことなんだね。もう一度おさらいすると、愛の発展段階というのは、努力以前の「本能の愛」からはじまって、「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」「存在の愛」という努力の対象となる愛があって、最後に、人間心を超えた「神の愛」があるということなんだ」

勇二 「うーん。まあ、僕なんかだと、会社で部下らしいのはいるけど、僕自身が上司に怒られることも多いし、「生かす愛」を目指していこうとは思うけど、まずはちゃんと「愛する愛」ができるようにならないと、天国入りは難しいかもしれないな」

正太 「「愛する愛」というのは、もっとも根本的で一般的な愛なんだけど、実際には、けっこう難しい愛なんだね。地上世界が、この「愛する愛」に満たされたら、少なくともこの世は、はっきりした天国になるんだよ。
 「愛する愛」っていうのは、すべての人に期待できる愛で、すべての人が、「愛する愛」の素晴らしさを生まれつき理解できるんだね。つまり、人間というのは、もともと、愛を与えることに関して、幸福感を感じるようにできているからなんだ。愛を与えると、魂が喜ぶんだよ」

勇二 「ふーむ。愛を与えると幸福感がある、魂が喜ぶ。愛を奪っていると、心が苦しい。たしかにそうかもしれないな」

正太 「これまで、あの世の世界、霊界というのは、「心境の高い低いによって、世界が分かれている」とか、物理学的にいえば「波長の精妙さによって世界が分かれている。高い世界にいくほど波長が精妙になっていく」という説明をしてきたよね。あるいは、霊界というのは、4次元幽界、5次元善人界、6次元光明界…というふうに次元構造を持っている、と説明をしてきた。
 でも、今説明したように、その人の「心境の向上、霊格の向上」の本質は「愛の発展」にあるわけだから、あの世の世界というのは、「愛の発展段階」によって世界が分かれている、ともいえるんだよ」

勇二 「愛の発展段階が進んだ人ほど、高い世界に住んでいる、というわけだね」

正太 「そう。つまり、あの世を分けている次元というものも「愛の発展段階」に応じて分かれている、ともいえるんだ」

勇二 「へーえ、じゃあ一番下の4次元幽界というのは「本能の愛」ってわけ?」

正太 「そうなんだ。4次元幽界というのは、「愛の発展段階」でいうと「本能の愛」の段階なんだね。そして5次元善人界というのは「愛する愛」、6次元光明界というのは「生かす愛」、7次元菩薩界は「許す愛」、8次元如来界は「存在の愛」、9次元宇宙界は「仏(神)の愛」というふうに、あの世の次元の違いというのは、愛の発展段階の違いでもあるんだよ」

勇二 「なるほどね。あと、地獄というのは4次元幽界の下部にあるわけだよね。愛の発展段階で言えば、っていうか全然発展してなくて逆の方にいってるわけだけど(笑)、「奪う愛」にあたるわけだね」

正太 「そうなんだ」

勇二 「ところで、人間が死んだ後、どういう世界に還るかっていうと、大別すれば「生前、その人が思ったこと、行ったことの両方を見て、善のほうが多ければ天国に還ることができ、悪のほうが多ければ地獄に堕ちる」ということだけど、より詳しく言えば「一生を通算した平均の心の波長の世界に還る」ということだったよね?」

正太 「そうそう」

勇二 「つまり、上がったり下がったりのブレはあっても、一生を平均すると「愛する愛」という5次元善人界の波長を出していた人は、5次元世界に還れるというわけだね。あるいは、上がり下がりのブレはあったけど、一生を平均すると「生かす愛」という6次元光明界の波長を出していた人は6次元世界に還れるというわけだね」

正太 「そうなんだ。ただし、より正確にいうと、波長というのはそんなに大雑把なものじゃなくて、各次元はそれぞれ大きく「上段階」「中段階」「下段階」の三つに分かれているし、さらにそれぞれの領域が、波長の精妙さによって無数といえるほど細かく分かれてはいるんだけどね」

勇二 「すると、「現代人の半分以上は地獄に堕ちている」ということは、その半分以上の人たちっていうのは、この世に生きている間、心の状態は上がったり下ったがりのブレはあったけれど、一生を平均すると、「奪う愛」という4次元下部の地獄界の波長を出していた人、ということになるわけだね?」

正太 「そうなんだよ」

勇二 「うーん。心の中で、しょっちゅう「愚痴」とか「不平不満」とか、「足ることを知らない欲望」とか、「怒り」や「嫉妬」とかの思いばかり出していたら、やっぱり一生を平均すると、水面から下、地面から下になっちゃうんだな。愛の発展どころか、合格点すら取れなくなっちゃうわけだ」


人類史にそそり立つ偉人の愛であり、「時代精神」としての「存在の愛」 

2007-05-24 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
勇二 「あの世的な愛、天使の愛かあ。まあ、僕みたいな凡人にはよくわからないけど、ヘレン・ケラーとかマザー・テレサみたいな人の愛なんだろうね。この世的なエリートを超えた聖人のような人の愛という感じがするね」

正太 「愛には、まだこの上の段階があるんだよ」

勇二 「えー、まだあるの? もう、どんな愛かなんて見当もつかないな」

正太 「これは「存在の愛」というんだ」

勇二 「存在の愛? 存在じたいが愛なわけ?」

正太 「そうなんだよ。「存在の愛」というのは、「その人の存在そのものが愛である」という愛なんだね。その人がこの世に存在するだけで、その人が人々の人生のある瞬間を通過するだけで、人々を転迷開悟させるような、人々の人生を一変させるような、人々を廻心に導くような愛なんだ。
 たまたま同じ時代に、その人がこの地上で生きているだけで、世界が明るくなり、人類に希望の灯が灯されるような、そうした人の存在。
 その人が誰かを愛するからそれを愛だというんじゃなく、その人が美しい言葉を語るから、それを愛とよぶのではなく、その人が優しくしてくれるから、それを愛だというんではないんだ。その人の存在じたいが愛であり、愛そのものが存在しているかのような人格をもった人。こうした人が「存在の愛」の体現者なんだ」

勇二 「うーん。存在そのものが愛、ねえ」

正太 「「許す愛」が徳高い宗教家の愛とするなら、「存在の愛」というのは、人類史にそそり立つ偉人の愛であり、この世の光であり、「時代精神」なんだね」

勇二 「ほーお、時代精神」

正太 「そう。「存在の愛」というのは、もはや一対一の愛じゃなく、一対多、あるいは放射線のように発散されている愛なんだ。単に自分のまわりにいる人だけを照らすんじゃなくて、時代を越え、地域を超え、灯台のように光り続ける愛、何百年、あるいはそれ以上経っても人類の歴史の中で燦然とした光を放っている人たち。そうした人類史の中でも大山脈のような人の愛なんだ」

勇二 「なんだか、すごすぎて気が遠くなりそうだな」

正太 「この「存在の愛」というのは仏教でいう「如来」の愛なんだね。キリスト教的にいえば「大天使」の愛なんだよ」

勇二 「へーえ、たとえば、どういう人たちがそうした「如来」なのかい?」

正太 「人類にとって偉人中の偉人であり、「人類の教師」でもあるお釈迦様やイエス様といった方たちも如来ではあるんだけど、厳密には「大如来」といってさらに高い存在なんだね。如来としては、たとえば哲学者だとソクラテスやカント、仏教系では天台大師や薬師如来、キリスト教系ではバプテスマのヨハネや聖アウグスチヌス、中国では老子や荘子、政治家ではガンジーやリンカーン、芸術系ではレオナルド・ダ・ビンチやバッハ、科学者ではアインシュタインやエジソンといった人たちが如来なんだよ。もちろん今上げた人たちはあくまでも一部だけどね」

勇二 「へーえ」

正太 「如来というのは根本的な思想を遺せる人で、独自の思想でじゅうぶん文明、文化を創っていける人たちなんだ。そうした如来が、文化的な高み、時代の高みをつくるために地上に出て、大きな「法」の中心、あるいは文化や芸術の中心となって活躍し、時代を押し上げていくんだね」

勇二 「ふうむ。じゃあ、お釈迦様とかイエス様の愛というのは、そうした「存在の愛」のさらに上の段階というわけだね」

正太 「そう。この「存在の愛」の上には、人類としては最高の、人霊としては最高の「救世主の愛」というのがあるんだね。ただ、これはもはや、人間が修行の目標とすべき愛ではないんだ。というのも、この愛の段階というのは、神(仏)によって命じられた神(仏)の道具として、最高の代理人として選ばれた人の愛だからなんだよ。
 だから「存在の愛」の上には、単に「神の愛」あるいは「仏の大悲」があり、神仏の人類に対する大きな導きの愛、進化を願う愛があるんだ、という認識で満足すべきなんだね」


善悪を超えて人々を包み込むように愛する、という宗教的境地に達した「許す愛」 

2007-05-23 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
勇二 「なるほどねえ。「本能の愛」そして「愛する愛」、最後に「生かす愛」か。人を生かす、なんていう高度な愛を目指して、人間、修行をしているわけだ」

正太 「おっと、早まらないでね。「生かす愛」っていうのは、まだまだ愛のゴールじゃないんだ。さらに、その上の段階があるんだよ」

勇二 「えっ、まだ上があるの? 一生懸命努力して自分を磨いて、人様を導いていけるようになって、その上にまだやることがあるわけ?」

正太 「そうなんだ。この上に「許す愛」という境地があるんだよ」

勇二 「許す愛? 人を許すのが、生かすことより上なのかい?」

正太 「うん。生かす愛だけではまだ不十分なんだ。というのも、単に人を生かすだけなら、才能の才があれば、あるいは、他人を上まわる知性があれば可能だからなんだね。だけど、愛には、才能や知性や努力を超えた愛があるんだよ。才能を超えた「徳」をもってはじめて出現する境地、それが「許す愛」なんだ」

勇二 「ほー、才能を超えた徳、ねえ」

正太 「これは、単にこの世的に優れているという基準だけじゃなくて、もう一段大きな宗教的な境地に達していて、善悪を超えて人々を包み込む愛なんだね。「許す愛」の段階というのは、一般の人とはかなり境地が違っていて、愛の器が大きくて、許容する範囲がひじょうに広くなっているんだよ」

勇二 「ふうむ」

正太 「霊的進化の速度というのは、どれだけ多くの寛容さをともなうか、ということで計れるんだね。「生かす愛」の段階だと、その指導者というのは優れているし、他の人たちを伸ばすという力は持っているんだけど、宗教的見地からの許す愛、寛容さの愛というものがにじみ出してくるほどには、まだ魂の器そのものが大きくなっていないんだ」

勇二 「でも「許す愛」といっても、悪いことをしても認めちゃう、ってことじゃないんだよね」

正太 「もちろん。「許す愛」というと誤解されやすいんだけど、べつに「いいよ、いいよ、何をしてもいいよ」ということを言ってるんじゃないんだ。「生かす愛」の段階で、善悪、正邪、あるいは優劣というものを十分学び、また人々の善なるものを伸ばしていくという実践を十分経た上で、さらに、そうした悪なるものをも単に裁きの目で見るんじゃなく、包みこむようにして、善導していく、救っていく境地のことなんだ」

勇二 「ほー、包み込むようにして」

正太 「うん。他人を許そうとする段階というのは、他人の悪というのが小さく見えてくる段階なんだね。これが自分と対立するような敵のように見えているときは、まだなかなか許せないんだ。ところが自分の器というものが大きくなり、いちだんと大きな宗教的境地に飛躍して、大きな光の化身になってくると、ちょうどお釈迦様が慈悲の目でもって衆生を見たように、優しい目でもって人々を見ることができるんだよ」

勇二 「優しい目でねえ。…ふうむ、生かす愛っていうとこの世的に優れたエリートの愛って感じだけど、許す愛っていうのは、仏様っていうか、もっと尊い感じの愛なんだね」

正太 「そう。人を許せるためには、人々の苦しみ、悲しみがわからないと、なかなか許すことができないんだね。ちょうど、頭のいい人が、不器用な人、要領の悪い人を見ても、なぜそうなのかが理解できずにイライラしたりするのと同じなっちゃうんだね。
 どんなに優れた資質、才能の持ち主でも、多くの苦難や逆境、苦しみ、悲しみを経験して、そうした辛酸から立ち上がってくることによって、初めて、人々に対するほんとうの意味での優しさが出てくるんだね。この、ほんとうの意味での優しさが出たときが人を許すことができる段階なんだよ」

勇二 「ああ、苦労した人ほど他人の苦しさがよくわかるっていうよね。そうした面があるわけか」

正太 「魂の修行をしていても、つまずいてしまったり、挫折したり、地獄に堕ちていく人もいるわけだね。しかし、ほんとうは、そうした失敗して、挫折していく人たちをも包み込む、神様の大きな愛というものがあるんだよ。地獄の底をも支えている仏の大きな大きな愛があって、人間はその中で生かされているんだね。
 失敗して地獄に堕ちたからといって、人間を「廃止」されるわけではない。またチャンスが与えられる。何度でも、何度でも、永遠にやり直しがきくから「よし、がんばってみよう」という気が起きてくるんだね。そこには小さな善悪を超えた大きな許しがあるんだよ。
 人間というのは、自分の置かれた環境の中で、悪を捨て善を取る勉強をしているんだけど、それを超えた大きな世界には、それらを包み込む大きな愛があるということなんだ。だから、「人を許す境地」というのは、「人を生かす境地」よりも大きなものなんだね。それは、仏の境地に近いんだよ」

勇二 「そうだね。たしかに、もっと大きな愛だね」

正太 「この許す愛の境地に達した人は、仏教的には「菩薩」、キリスト教的には「天使」と呼ばれてきたんだね。要するに「許す愛」というのは、菩薩(天使)の境涯のことなんだ。
 そして菩薩、天使といった人たちの主たる関心は「利他」なんだね。心において「愛」、行いにおいて「奉仕」。自分のためではなく、他人のために生きる。人々の幸福のために、人々を救うために生きる。そうした海のような大海のような境地なんだ。
 だから「生かす愛」というのが、この世的に優れた人の愛であるのに対して、「許す愛」っていうのは、この世を越えた愛、あの世的な愛に近づいてきているんだよ」




指導者の愛、導き手の愛としての「生かす愛」 

2007-05-22 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
正太 「この「愛する愛」というのは進化していくことがあるんだね」

勇二 「ほーお、それはどんな?」

正太 「うん。その人が霊的に成長、あるいは飛躍していくのに伴って「愛する愛」というのは「生かす愛」というものに高まっていくんだよ」

勇二 「へーえ、生かす愛」

正太 「「生かす愛」というのは「他の人を導く愛」、つまり「指導者の愛」のことなんだ。リーダーとしての愛、教育者としての愛のことなんだね」

勇二 「なるほどね。指導者の愛っていうのは「愛する愛」よりも、たしかにグレードは上だろうね。ほんとうの意味でのリーダーになるには、やっぱり優れた人じゃなきゃなれないだろうしね」

正太 「そうなんだ。他の人たちを導ける人、生かすことができる人というのは、優秀な人じゃなきゃ不可能なんだね。まわりの人に面倒を見てもらわないといけないような人では、人を導くなんてことはできないんだよ。
 人を導こうとする人は、ふつうの人以上に努力精進して、自分の磨きということを重視して生きてきた人じゃなきゃいけないわけなんだ。その人が、学者であるか、芸術家であるか、政治家であるか、経営者であるか、分野はさまざまに分かれてくるだろうけど、いずれにせよ、人を導けるだけの才能、あるいは器というものが必要とされるんだね」

勇二 「じゃあ、「生かす愛」っていうのは、「愛する愛」と違って、誰にでもすぐに実践できる愛というわけにはいかないね」

正太 「そう。この愛を実践するには少し鍛錬が必要だし、そうした鍛錬の結果、リーダーとなれるだけの能力、資格、資質を備えなきゃいけないんだ。この世的にも優れていて、才能もあり、世の人々を指導できる人たちの愛というのは、通常の人間の他の人に対する親切さという意味での愛を超えているといえるし、高級霊の役割に近いところがあるんだよ」



「愛する愛」は、縁あって人生の途上で出会った人たちを愛していこうとする段階 

2007-05-21 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
正太 「この「本能の愛」の上に「愛する愛」というものがあるんだね」

勇二 「愛する愛?」

正太 「これは、いわゆる「与える愛」のことで、愛の本質というのは、手に入れたい、愛されたいということじゃなくて、「人に与えるものなんだ」ということを悟っている段階の愛なんだね。
 つまり、肉親というような、生まれもっての絆のある者を愛するというのをこえて、人生の途上で会った人たち、直接には利害関係のないような人たち、会社とか、学校とか、社会の中とか、そうしたところで出会った人々を愛することに目覚めた段階の愛なんだ」

勇二 「なるほどね。会社の同僚とか学校のクラスメートとかご近所の人とかは、肉親とか異性といったような本能で愛するような対象を越えてるもんね」

正太 「この「愛する愛」というのは、イエス様が言った「隣人愛」のことなんだね。「隣人愛」というのは、隣に住んでいる人を愛しなさい、ということじゃなくて、縁あって人生の途上で出合った人たちを愛しなさい、ということなんだ。こうした愛は、家族とか異性とかへの愛よりは、努力を伴う愛、また霊的にいっそうの目覚めが必要な点で、より高次の愛といえるんだよ」

勇二 「ふーむ。「自分が好きな女の子とか家族のためなら何かしようと思うけど、それ以外の人は知りませーん」なんていう心境じゃ、この愛の段階まできてないわけだね」

正太 「「愛する愛」というのは、すべての人に可能な愛なんだ。すぐに実践ができる愛で、「自分がしてほしいように他人に接する。自分がしてほしくないことは他人にしない」、そして「笑顔と優しい言葉」の大切さ。こうしたことを、日常生活の場で出会う人たちに対して、当たり前のこととして実践できることが、天国に還るための条件なんだよ」

勇二 「なるほどなー。ごく基本的なことのはずだけど、言われてみると、けっこうできてないなあ」


最低限の愛であり、より高次な愛に目覚めるきっかけとしての「本能の愛」

2007-05-20 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
正太 「「愛」つまり「与える愛」といってもレベルに違いがあるんだね。愛にも段階があるんだよ」

勇二 「ほー、じゃあ愛の段階が上がると、魂が向上した、霊格が上がった、ということになるわけだね」

正太 「うん」

勇二 「じゃあ、その愛の段階というのは、どうなっているの?下から順にいくと」

正太 「まず、さっきもちょっと触れたけれど、一番下の愛として「本能の愛」というのがあるんだね」

勇二 「ああ、男女の愛がそうだって言ってたね」

正太 「うん。これは、努力以前、修行以前の愛で、生まれつき愛するようにできている部分のことなんだ。ちょうど子猫が親猫を愛するように、本能的に愛するように義務づけられている愛として、こういうものがあるんだね。たとえば、肉親への愛、親、兄弟、あるいは妻、子供、こうした身内への愛、あるいは男性であれば女性、女性であれば男性という異性への愛だね。
 この「本能の愛」が悪い方向、つまり執着とか「欲しい欲しい」という渇愛として展開してくると、地獄が生まれてくるんだよ。
 結局、「本能の愛」というのは、より高次の愛を知るためのきっかけであって、最低限の愛として与えられているものなんだ。少なくとも魂修行の目標とするようなものではないんだね。これをきっかけとして、もっと高度な愛に目覚めていきなさい、というのが、仏の心なんだよ」

勇二 「へーえ。愛なんていうと、男女の睦みあいばっかりイメージしちゃうけど、こうした愛は、まだ入り口にすぎないということなのか」