死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

地獄に堕ちる原因となる悪想念は「百八煩悩」といわれるほど数多くある 

2007-05-10 | あの世には心しか持って還ることができない
勇二 「ところで、その反省についてなんだけど、反省しなくちゃいけないマイナスの思いっていうのは、前に、妬みとか、愚痴とか、不平不満とか、足ることを知らない心、なんかがそれにあたるって聞いたけど、その後、話を聞いていると、他にもずいぶんありそうだね。これから、きっちり反省していくためには、「これが悪想念だ」みたいなリストがあると助かるんだけどな」

正太 「そうだね。そのあたりは、三途の川を渡ってから「地獄めぐり」をするときに、詳しく触れようと思ってたんだけど、とりあえずここでも上げておこう。
 結局、「マイナスの思い」が何なのかというと、実際にあの世の地獄界で渦巻いている想念を、全部列挙していけばいいんだね。地獄界ではこんな思いが展開されているんだよ。

ねたみ、そねみ、感情や本能にもとづく怒り、愚痴、足ることを知らない心、不平不満、悲観的な心、消極的な心、優柔不断、臆病、怠惰な心、自己嫌悪、うらみ、憎しみ、のろい、情欲、自己顕示欲、利己主義、毒舌、二枚舌、躁鬱、酒乱、暴力、排他主義、うそ、いつわり、唯物主義、無神論、孤独、独裁主義、金銭欲、地位欲、名誉欲、不調和  」

勇二 「げーっ、マイナスの想いって、こんなにあるの?」
 
正太 「そうなんだよ。昔から、仏教でも「百八煩悩」とよんでいるくらい、悪想念の数は多いんだ。これらが、「与える愛」の反対の「奪う愛」の思いであって、地獄に堕ちる原因になるから、こうした思いに対してはブレーキを踏む、また心の中にこうした思いが去来したら、きっちり反省し修正していく必要があるんだよ」

勇二 「ふーむ。あの世にいって、天国に還れるか地獄に堕ちるかを分ける基準ていうのは、えーっと、「生きていたあいだに、思ったこと、行ったことを、一つひとつ上げてみて、善いことが多かった場合には天国に還ることができ、悪いことが多かった場合には地獄に堕ちる」ということだよね」

正太 「うん」

勇二 「つまり、オギャーと生まれてから亡くなるまでの、心の中の記録の半分以上を、少なくとも、今上がっていたような思いが占めていたら、地獄に堕ちるということになるわけだ」

正太 「そうだね」

勇二 「うーん。こりゃ、現代人の半分以上は地獄に堕ちてる、といっても不思議はないかもしれないね。第一、そういう思い自体が、マイナスで、地獄行きの原因になることすら、みんな知らないんじゃないか。心の中は、垂れ流しっていうか、無法地帯みたいになってる人も多いと思うよ」
 


「反省」とは、クヨクヨしたり、自分をいじめることではない 

2007-05-09 | あの世には心しか持って還ることができない
正太 「執着を断つ方法について、ここまでいくつか挙げてきたんだけど、その基本となると、やはり反省なんだね。この反省について、もう一点基本的なこと、よく間違えやすい点を指摘しておくと、反省というのは、決して「クヨクヨすること」でも「自分をいじめること」でもないんだね」

勇二 「「クヨクヨすること」っていうのは、それ自体が「執着」だから、まさに反省しなきゃいけない対象になるわけだよね。ただ、反省といっても、「自分を責め苛めばいい」というものじゃないということだね」

正太 「うん。ほんとうの反省ができた後には、湯上りのようなツルっとして気分がいい軽い感じになるんだね。ところが「反省して自分をいじめる」という場合には、湯上りの気分じゃなくて冷蔵庫か泥水に入った感じになって全然サッパリしないんだ。ほんとうの反省ができたときは、執着がとれて顔に赤みが差してくるんだよ」

勇二 「ふうむ。心に執着っていう引っかかり、わだかまりを持っている人ほど、やっぱり顔色もよくないわけだ。執着が原因で憑依霊に憑かれていたら、ますますそうだろうね」

正太 「うん。たとえばノイローゼというものがあるけど、このノイローゼの場合、なにかひとつの悩み事や人の言葉、あるいは事件とかで頭がいっぱいになっていて、いつもそれにとらわれていて、心に余裕が全くないんだね。そんなふうにクヨクヨすること、悩むことというのはまさに「執着」であって、反省とは違うということなんだ。いつも同じことを考えていて「あのときは、しまったー」なんて言ってることが反省かといえば、違っていることが多いんだよ」

勇二 「そりゃ、まさにいつまでも「引きずっている」ということだもんね」

正太 「そう。こういうのは、反省じゃなくて「心の傾向性」なんだね。いつも心が失敗や挫折という一点に止まってしまうという粘着型の性格であって、反省とは違うんだね」

勇二 「なるほどな」

正太 「もちろん、反省の意義というものはいくら強調しても足りないくらいで、この世にいる間に反省というものをきちんとやらずに、あの世に持ち越しているから、現代人の半分以上は大変なことになっているわけだね。だから反省というのは、きわめて大切なことなんだけど、それとクヨクヨすること、悩むことというのは別だということだね。
 「間違った想い、行いは徹底的に反省する必要はあるが、それを引きずる必要はない」、「反省の必要はあるが、いつまでも引きずってはいけない」ということなんだ。「ここが間違っていたんだな。こういう思いはいけないな」「よし、こういう場合は、次からはこうしていこう」という原因と対策が立ったら、扉を閉めることなんだね。いったん徹底的に自分の過ちを分析し、反省したら、そのことについての記憶は、忘却の河に流し去ること、ふり返らないことなんだ」

勇二 「なるほどね。引きずる、っていうのがいけないんだな。引きずっていると、「サッパリ」、「爽やか」、「潔い」じゃないもんね」

正太 「それと、この反省というものを、タイプ別に細かく言うと、積極的で自信をもってバリバリやっていくタイプの人は、この反省というものが非常に重要で、常々肝に銘じておく必要があるんだけど、反対に気が弱くて何かあるとすぐ気が滅入ってしまうようなタイプの人は、あまり「反省、反省」というと、それにとらわれて自分を罪人に追い込んでいくことがあるんだね。
 あるいは「弱々しき善人」、つまり「積極的に善をなそう」というよりも、「何かしたら罪を犯すんじゃないか」といつも冷や冷やしたりオドオドしている人、「道を歩いたらアリを踏み潰すんじゃないか」ということで、「とりあえず何もしないでジーっとしておこう」といった人間になっていくことがあるんだ」

勇二 「そうか。「オレはダメだー」とか「私はダメー」とか、「とりあえず、何もしなきゃ罪を犯さずにすむだろう」なんていうのも、反省とは違っているわけだね」

正太 「だから反省といいつつおかしな方向に曲がりこんでいかないためにも、こうした消極的で気の弱いタイプの人は、まず自己確立をして、ある程度自分に自信をつける必要があるんだね。何かあると「自分なんかダメだ、ダメだ」になっちゃうタイプの人は、自分の中にある長所の部分、優れた部分、人からほめられた部分に意識的に目を向けてみる。そうして「自己信頼」の部分を伸ばした上で、反省したほうがいいんだよ。
 反省というのは現在の自分以上の理想的な自分の姿を描いて、それに照らして行うものだから、それができない人にとっては、反省じゃなくて「自己処罰」になってしまうということなんだね」



お金や異性等は善でも悪でもなく本来「価値中立的」なもの

2007-05-08 | あの世には心しか持って還ることができない
勇二 「なるほどねえ。じゃあ、執着の対象になりがちなもの、たとえば今挙がっていたお金だとか地位とか名誉とか異性とかは、やはりそれ自体が悪いものであって否定すべきものなのかい?」

正太 「いや、決してそんなことはないんだ。昔から、宗教などでそうしたものが否定されてきたのは、そうしたものが執着の対象になりやすかったからなんだね。正しく言えば、「そうしたものに執われている心を否定しなさい」と言っているのであって、それ自体が悪であるとか、否定すべきもの、というわけではないんだよ。「欲しい、欲しい」ととらわれる心、「執着する」という心のあり方が、地獄に堕ちる原因になるから、そうした心を否定しなさい、ということなんだ」

勇二 「ふうむ、それ自体は悪くない?」

正太 「うん。お金とか異性とかは「価値中立的」なものであって、それじたいは善でも悪でもないんだね。たとえば、お金を例にとってみると、これは使い方によって善にも悪にもなるものなんだ。また、使い方だけじゃなく、手に入れ方、集め方、つまりよい手段で手に入れたのか、良い動機で集めたのか、悪い手段によって手に入れたのか、悪い動機で集めたのかによって、そのお金の善悪が分かれてくるんだよ」

勇二 「ほーお」

正太 「たとえば、世の中のために役に立つ仕事に一生懸命精励して、正当に富を蓄積するということは善なんだね。またそうして得られた「豊かさ」というものも善なんだ。これを悪だと考えると、ひと昔前のマルクス主義の世界に入っていくので、気をつけなくちゃいけないんだね。さらに、この富をよいことのために使うというのは、さらなる善なんだよ。善が利子を生み、善が善を呼び、幸福が幸福を呼んでいくことになるんだよ」

勇二 「よいことのために使うっていうと?」

正太 「前に、人生の「目的と使命」は「魂修行とユートピア建設」にある、って話したけど、そうした方向に使えばこれは善なんだよ。たとえば、百年くらい昔、アメリカにアンドリュー・カーネギーという鉄鋼王とよばれた企業家がいて、事業で築いた巨億の富を社会のための慈善事業に投じたんだけど、これなんかは、富というものが大いなる善に転化したケースといえるんだね」

勇二 「なるほど。ユートピア建設の推進のために、富を使ったわけだね」

正太 「うん。ただし、くり返しになるけど、お金というのは「両刃の剣」であることは、肝に銘じておく必要があるんだ。たとえば、聖書の中には「金持ちが天国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうがやさしい」という有名な言葉があって、これは非常に誤解されやい言葉なんだけど、何を意味しているかというと、「この世的な価値に執着しすぎて、あの世の世界、霊的世界の意味、存在を無視して生きた人は地獄に堕ちる」ということなんだね。
 物質的な豊かさを求める傾向が強くなってくると、人間はどうしてもこの世的になっていって、あの世のこと、霊的なことを忘れていくんだ。守護霊という存在がいて、自分の心の中をすべて見守っているということを忘れてしまうんだよ。始終、心の中を覗かれていたら、決してできないような、やましいこと、恥ずかしいことにも手を染めていってしまうことが多いんだ」

勇二 「ふうむ。要するに、お金というのが、執着の対象になってくると、地獄への切符が回ってくるということだよね。じゃあ、お金に対する自分の心の姿勢というのが、執着なのかどうかっていうのは、どこらへんで見分ければいいんだい?」

正太 「うん。世の中に尽くしたい、お役に立ちたいという志があって、世の中のために尽くしながら豊かになっていくことは、神様の心、仏の心に適うことで善いことなんだ。だけど、これがひっくり返って、「金銭欲」のほうが先に走った場合、「奪う愛」となって、地獄になるんだね」

勇二 「金銭欲が先に立つ…、そうか、「金自体が目的」というか、世の中のため、とかじゃなくて「とにかく金自体が欲しい欲しい」となると地獄なのか。極端な話、金さえ得られればあくどい商売やってでも、ってなるだろうしね」

正太 「そうそう。具体的に言うと「働きたくはない、仕事はしたくないが、金が欲しい」「悪い仕事をしているが金は欲しい」「能力以上、流した汗以上に金が欲しい」という気持ちが強いと地獄的になるんだね。ところが、お金が欲しい、という人に限ってこういう人が多いんだよ」

勇二 「なるほどね。心の針が「与える」よりも「奪う」ほうに傾いているわけだ」

正太 「また、お金の使い道、つまりお金を得てどうしたいのか、というところも問題で、「お金持ちになって、人よりいい暮らしをして威張りたいだけ」といった虚飾の方向、よくあるケースなんだけど、そうした虚栄心を満足させたい、といった動機だと地獄的になるんだね」

勇二 「たしかに、それも、人から自分のほうに「愛をよこせ」っていう「奪う愛」だよね」

正太 「出世についても同じなんだね。出世をしてどうしたいのか。「出世することによって、よりいっそう多くの人のために仕事をしたい。尽くしたい」というなら合格なんだね。ところが「大きなイスに座ってただ威張りたい。大勢の人に命令してみたい」だと地獄なんだね。じゃあ、実際はどうかというと、前者のようなケースは稀で、十中八九は「人を蹴落としてでも出世したい、偉くなりたい」という地獄的な場合が多いんだよ」

勇二 「なるほどね。世の中そういうケースはゴロゴロしているね」

正太 「本来なら、人格のすぐれた人が指導的立場に立つということは、その感化影響が大勢の人に及んでいくことになるわけだから、それはよいことなんだね。だから、出世じたいが悪だとか、否定すべきことでは決してないんだよ」

勇二 「人間的に立派な人が組織の長にいてくれて、困るなんてという人もいないだろうしね」

正太 「異性についても同様で、「異性を好む」「異性を愛する」ということが、家庭ユートピアづくりにつながるなら合格なんだね。ところが、不倫に走って家庭をめちゃくちゃにし、子供の将来までだいなしにするようだと、地獄行きになるんだね」

勇二 「ああ、これまた現代ではよくあるケースだね」

正太 「そもそも、神様がなぜ異性を創ったか、異性を分けたかというと、「愛」というものを教えようとしている、ということなんだね。男女の愛、(あるいは親子の愛)というのは、習わなくても教わらなくてもできるんだ。そうした最低限の愛というものを人間に教えようとして、「本能の愛」というものが設けられているんだよ。男女の愛によって、家庭というユートピアの基礎を築く。そして、そこでできたユートピアを、社会のユートピアづくりへの原動力に変えていってほしい、より高次な愛へと昇華していってほしい、というのが仏の念いなんだ」

勇二 「そうかあ。人間に最低限の愛を教えようとして「本能の愛」っていうのがあるわけか」

正太 「こんなふうに、お金や出世、異性等は、本来価値中立的なものなんだけど、執着や我欲を遂げるための対象になりがちで、地獄に堕ちるきっかけとなることが多かったから、伝統的に否定的に扱われてきたんだね。
 しかし、ほんとうは、それらによって、ユートピア建設を大きく前進させたり、自分の霊性の向上に役立てることは可能なんだよ。そして、仏の願いというのも、そうしたほんとうの意味での発展的な方向を、人間に選び取ってもらいたい、ということにあるんだね」



この世での修行の結果、魂が向上すれば「成功の人生」、堕落すれば「失敗の人生」 

2007-05-07 | あの世には心しか持って還ることができない
正太 「だからあの世に還ると、総理大臣をやった人、大企業の社長をやった人が地獄に堕ちていて、ヒラ社員だった人や平凡な農家のおじさん、おばさんが天国に還っていることもあるんだね。あるいは、一流会社の重役だった夫が地獄に堕ちていて、平凡な主婦だった妻のほうが天国でもそこそこいい世界に還っている、なんていう場合もあるんだ。
 といって、「ヒラ社員なら必ず天国に還れて、社長なら地獄に堕ちる」なんてことは、もちろんないから勘違いしないでね(笑)。総理大臣や大企業の社長をやった人でも、立派な生き方をし、世のため人のためになるような立派な貢献をして、天使や菩薩がいるような高級霊界に還った方もいるんだね。たとえば、経済界でいえば、松下幸之助という方なんかも、そうした世界に還っているんだよ。
 あの世での評価、あの世でどんな世界に還るかは、この世の地位や肩書きじゃなく、ひとえに、この世の修行をとおして、その人がいかなる霊格を築いたか、霊格と言ってわかりにくければ、いかなる人格を築くことができたのか、その高下にかかっているんだね」

勇二 「心境の高下、霊格の高さ低さ、かあ」

正太 「こんなふうに、あの世には心しか持って還れないわけだから、この世にいるときでも、たとえば10年前、5年前と比べて、はたして自分は心がよくなっているのか、心境が向上しているのか、よく考えてみなきゃいけないんだね。たとえこの世的に収入が増えていたとしても、地位が高くなっていたとしても、有名になっていたとしても、一年前と比べて心境が下がっていれば何の意味もないんだよ。心の経営のたとえで言えば、それだけ借金が増えているのと同じなんだ」

勇二 「ふーむ。天国地獄は「与える愛」に生きたか「奪う愛」に生きたか、で分かれるということだけど、同じ「与える愛」といっても、発揮する愛のレベルによって、心境の高下も変わってくる、ということだったね」

正太 「うん。そうしたあの世の評価、ほんとうの価値基準、というのは、あの世の実際の様相を知らないとわかりにくい面があるし、これから詳しく説明していこうと思うんだけど、要は「この世はこの世であって、やがては去っていく世界なんだ。いくらこの世のものに執着したところで、それらは全てこの世限りで「行き止まり」のものなんだ。「行き止まり」のものに、目を奪われていてはならない。最終的には魂における勝利、魂における成功しかないんだ」ということを認識することなんだね。
 「この世での敗北は、人生の敗北を意味していない。この世において、他の人がどう言おうと、世間がどう評価しようと、この世的な評価は最終的な勝敗には関係ない。最終的な人生の勝敗は、魂における勝利かどうかで決まる」ということなんだよ」

勇二 「なるほどね。サラリーマンだったら、自分の名刺に刷り込まれる肩書が、役員か、部長か、課長か、係長かで、血眼になっている人が多いけど、あの世に還れば、あるいは神様の目から見たら、そうした評価は全然関係ないということだね」

正太 「そうそう。こんなふうに、この世を超えたほんとうの世界の目から見た、人生の勝利とは何かということを知ったときに、執着というものは断つことができるんだよ」



あの世に還って問われるのは「執着が少なく、多くの人たちを幸福にしてきた心だったかどうか」ということ

2007-05-06 | あの世には心しか持って還ることができない
正太 「地獄に堕ちる原因は「執着」だし、実際、地獄に堕ちている人というのは、生前この世的な価値観に惹かれていた人が多かったんだけど、じゃあ、なぜこの世的な評価にそんなに執着するのかというと、そうしたものを得ることによって、結局「他の人から、もっと愛が欲しい、愛をもらいたい」ということなんだね。
 そうした「人から愛されたい、評価されたい」という思いが精神的なものなら、肩書きとか名誉、あるいは他人からの優しい言葉や気持ち、丁重な扱いとかになってくるし、それが物質的なものなら、食べ物、着るものから始まって、お金とか年収とか家とか車とかになってくるわけなんだ」

勇二 「なるほどね。要するに「人から称賛されたい」っていうか「他人から羨ましく思われたい」っていうか、見栄とか虚栄みたいなものだね。さっき君が言った言葉を使えば、「人のために尽くそう」とか「人のために愛を与えよう」という「与える愛」じゃなくて、「人から自分の方に愛を向けさせよう」「人から自分へと愛を集めよう」という「奪う愛」なわけだ」

正太 「うん。ただそうした執着の対象になるようなこの世的なものは、あの世に何も持って還れないし、評価の対象にもならないんだよ」

勇二 「心しか持って還れないわけだね」

正太 「うん。そして、あの世に還ってきたとき問われるのは、果たして、「執われのない自由な心を持って還ってきたかどうか」「執着のない心を持って還ってきたかどうか」「本来の霊性、地上に生まれていく前に持っていた天真爛漫な心を持って還ってきたかどうか」それが問われるんだよ」

勇二 「うーむ」

正太 「どれだけこの世で地位や学歴や財産があろうと、また、たくさんの部下が下にいようが、お手伝いさんたちに囲まれて暮らしていようが関係ないんだ。心一つがどうなのか。「円満な、調和の取れた、執着の少ない心であるのか」「多くの人たちを幸福にしてきた心だったのか」「他の人の喜びを自分の喜びにしてきた心だったのか」それが問われるんだよ」

勇二 「そうか。「欲しい欲しい」という執着が少なくて、「大勢の人たちを幸せにしよう」と努力してきた心だったかどうかが、問題にされるんだね」

正太 「そう。そして、その人のあの世での位置を決めるのは「心境の高下」。つまり、その人の心が、どれだけ愛に満ちていたか。どれだけ、与える心、生かす心、許す心、感謝する心を持っていたか。その人の心がどれだけ広く、またその「志」がどれだけ高かったか。その人格が、その心境が、どれだけ神様に近かったか、仏に近かったか。あの世での評価の基準はこれ以外に何もないんだよ」


「あの世には心しか持って還れない」という原点を常に忘れないこと 

2007-05-05 | あの世には心しか持って還ることができない
正太 「それと、執着を断つには、「自分が執着している対象は、死んでこの世を去るとき、あの世に持って還ることはできない」ということを、きっちり腑に落とすことも大切なんだ」

勇二 「前に「あの世には心しか持って還れない」って、聞いたね」

正太 「そうそう。たいてい執着の対象になるものっていうと、お金とか地位とか、財産とか土地とか名誉とかなんだけど、こうしたものを手に入れようといくらあくせくして生きたとしても、あの世には何一つ持って還れないんだね。
 この世で総理大臣だったとか、一流企業のワンマン社長だったとしても、死んで地獄に堕ちて、地獄の鬼が、その人の肩書きを見てひれ伏すということはないんだよ。もし運よく天国に還れたとしても、天国で名刺を使う機会なんか、ただの一度もないんだ。天国で通用する名刺というのは、一つしかないんだよ」

勇二 「ほー、天国で通用する名刺、ね」

正太 「それは、その人の心の状態なんだね。少し難しく言うと、その人の悟りの段階なんだ。そして、その人の想念帯のテープに記された記録だけなんだよ。
 生前、その人が何を思い、何を行ったかが一つ残らず記録されているその記録だけが、あの世に入ってからの、その人のパスポートになるんだね。あの世で出会う人たちに、「自分はこういう人間です」ということを示す通行証のようなものになるんだよ」

勇二 「となると、みんなに見られて恥ずかしくない、立派な記録を、作っとかなきゃいけないね」

正太 「また、この世で、億万長者になって、ぜいたくの限りを尽くしたとしても、それが天国へのパスポートになることはないんだね。自家用ヨットとか飛行機、定期預金証書、大豪邸とかはあの世へは持っていけないんだ。いくら有名人になっても、地獄の鬼は、釜の湯の温度を一度も下げてはくれないんだよ」

勇二 「僕の回りにも「人生、金だー」「億万長者になるぞー」という人はいるけど、そういうこと自体を目標にしても、結局は空しいということになるね」

正太 「名誉にしても同じで、学士院や芸術院の会員になったところで、何の役にも立たないんだね。地獄には、元大臣、元学長、元博士、元裁判官、元検事なんかが「こんなはずはない。他人が地獄に堕ちるならともかく、自分が地獄に堕ちるなんて到底承服できない」とか「いったいワシを誰だと思ってるんだ。○○である自分に対してこの扱いはなんだ。おい誰か出てこないのかー」なんて、わめいている姿があちこちで見られるんだ。つまり、自分の名誉や栄達ばかり求めて、他の人たちに愛を与えるということをしてこなかった人たちの哀れな末路なんだね」

勇二 「うーむ。偉くなってやたら威張ってる人っているけど、せっかくビッグになっても、最後が地獄じゃガックリだよね」

正太 「実際、日本の総理大臣といわれた人たちがどれだけの数、地獄に堕ちて苦しんでいるか。人もうらやむような大会社の社長が、何百人、何千人と、色情地獄、阿修羅地獄、畜生道に堕ちているという現実。また、生前、金儲けばかりうまくて、何人もの女性との快楽を貪った人間が、快楽のうちに人生をおえた人間が、たった数十年の快楽のために、一体何百年、苦しみという名の代償を払い続けているか。そうした事実を知ったら、たくさんの人たちが欲しくて欲しくて血相を変えている、この世での肩書きとか財産とかいうものが、いかにはかなく、むなしく、あの世でまったく通用しないかが痛いほどよくわかるんだね」

勇二 「そうか、そんな状態なのか」

正太 「こうした人たちに共通するのは、「この世に執着の多い人ほど、苦しみもまた深い」ということなんだ」

勇二 「うーむ。この世にいたとき、執着が強かった人ほど、あの世での地獄の苦しみが大きくなるわけか…。うー、ブルブルっ、気をつけなきゃなあ」