竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

日本の神話 蛭子神(ひるこのかみ)

2022年12月28日 | 日本の神話
令和4年12月28日(水)
お早うございます。

[伊邪那岐命と伊耶那美命は]その島(※淤能碁呂島おのごろじまのこと)に天降(あまくだ)って、
天の御柱(あめのみはしら)(※天を支える柱)と八尋殿(やひろどの)(※いく尋(ひろ)もある広い殿舎)を、しっかり見定めてお建てになった。
ここで[伊耶那岐命が]女神・伊耶那美命に「あなたの身体はどのようにできているか」とお尋ねになると、伊耶那美命は「私の身体にはどんどん出来上がって[それでも]足りない処(※成長し切っていながら隙間が合わさって塞がることのない処。女陰のこと)が1箇所ある」とお答えになった。
そこで、伊邪那岐命は「私の身体にはどんどん出来上がって余っている処(※成長し切って余分にできている処。男根のこと)が1箇所ある。
そこで、この私の成長して余った処であなたの成長して足りない処を刺して塞いで国土を生みたいと思う。生むのはどうか。」と仰せになった。
伊耶那美命は「それは善いことでしょう」とお答えになった。
そこで、伊邪那岐命は「それならば、私とあなたとで、この天の御柱の周りを巡って出逢い、みとのまぐわい(※御陰(みと)の目合(まぐわい)、陰部の交わりをしよう。」とお答えになった。

このようにして、二神は男女として交わることになる。
伊邪那岐は左回りに伊邪那美は右回りに天の御柱の周囲を巡り、そうして出逢った所で、伊邪那美が先に「阿那迩夜志愛袁登古袁(あなにやし、えをとこを。意:ああ、なんという愛男〈愛おしい男、素晴らしい男〉だろう)」と伊邪那岐を褒め、次に伊耶那岐が「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやし、えをとめを。意:ああ、なんという愛女〈愛おしい乙女、素晴らしい乙女〉だろう)」と伊邪那美を褒めてから、二神は目合った(性交した)。
しかし、女性である伊邪那美のほうから誘ったため、正しい交わりでなかったということで、まともな子供が生まれなかった。

二神は、最初に生まれた不具の子である蛭子神(ひるこのかみ)を葦船(あしぶね)(※『日本書紀』の場合は、堅固な樟(くす)で作った船『天磐櫲樟船〈あまのいわくすぶね〉』になっている)
に入れられオノゴロ島から流されてしまう。
次に生まれたアハシマと共に、二神の子の数には入れないと記されている。
棄てられた理由について『古事記』ではイザナキ・イザナミ神の言葉として「わが生める子良くあらず」とあるのみで、どういった子であったかは不明。
後世の解釈では、水蛭子とあることから水蛭のように手足が異形であったのではないかという推測を生んだ。
あるいは、胞状奇胎と呼ばれる形を成さない胎児のことではないかとする医学者もある。

流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っている。
『源平盛衰記』では、摂津国に流れ着いて海を領する神となって夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)、と記している。
日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多い。
ヒルコとえびす(恵比寿・戎)を同一視する説は室町時代からおこった新しい説であり、それ以前に遡るような古伝承ではないが、古今集注解や芸能などを通じ広く浸透しており、蛭子と書いて「えびす」と読むこともある。
現在、ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、和田神社(神戸市)、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られているが、恵比寿を祭神とする神社には恵比寿=事代主とするところも多い。

平安期の歌人大江朝綱は、「伊井諾尊」という題で、「たらちねはいかにあはれと思ふらん三年に成りぬ足たたずして」と詠み、神話では触れていない不具の子に対する親神の感情を付加し、この憐憫の情は、王権を脅かす穢れとして流された不具の子を憐れみ、異形が神の子の印(聖痕)とするのちの伝説や伝承に引き継がれた。海のかなたから流れ着いた子が神であり、いずれ福をもたらすという蛭子の福神伝承が異相の釣魚翁であるエビス(夷/恵比寿など)と結びつき、ヒルコとエビスの混同につながったとされる。
また、ヒルコは日る子(太陽の子)であり、尊い「日の御子」であるがゆえに流された、とする貴種流離譚に基づく解釈もあり、こちらでは日の御子を守り仕えたのがエビスであるとする。

不具の子にまつわる類似の神話は世界各地に見られるとされるが、神話において一度葬った死神を後世に蘇生させて伝説や信仰の対象になった例は珍しいという。

<蛭子神を祀る神社>

えびす宮総本社 西宮神社 兵庫県西宮市社家町1-17 




蛭子神社 神奈川県鎌倉市
 その起源は伊弉諾、伊弉冉二尊の子蛭子命が齢3つになっても歩くことをしなかったため、海へ流され、漂着した摂津国西の浦で育てられ夷三郎大明神となったことからに端を発しています。
鎌倉の夷堂橋付近にこの夷三郎神社があり、永享年間(1429~1441)の間、本覚寺境内の中に移築され夷堂となりました。その後明治時代に現在の場所にうつり、同地で祀られていた七面大明神と宝戒寺で祀られていた山王大権現と共に合祀されて蛭子神社となりました。
本殿は、明治七年(1874年)に鶴岡八幡宮の社殿を賜り移築しましたが、関東大震災で崩れてしまいました。ですが、本殿内部に今宮の社殿をそのまま残しました。



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