令和4年10月31日(月)
お早うございます。
10月も今日で最後、早いもので今年も後2ヶ月となりました。
<10月31日今日は何の日>
1967年 - 日本武道館で吉田茂の国葬。戦後初の国葬。
吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。
位階は従一位。
勲等は大勲位。旧姓・竹内。
内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松学舎大学舎長(第5代)などを歴任した。
(生い立ち)
1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれる。
父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった。
実母の身元はいまでもはっきりしない。
竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。
「4万余人が献花の列 清そに吉田元首相国葬 白菊の中、遺影ほおえむ」(原文ママ、以下同じ)と報じ、おなじみの吉田氏の遺影と日の丸が掲げられた国葬の全景写真が大きく紙面を陣取った。
国葬は、東京・日本武道館で執り行われた。
吉田氏の遺骨は午後0時25分、神奈川県大磯町の自宅を海上自衛隊音楽隊などの吹奏に包まれながら、日本武道館に向けて出発した。国道1号沿いには「小、中学生や老人クラブの人々など地元大磯町民約二千人が並び、軒並みに掲げられた弔旗の下で葬列を見送った」
日本武道館には「天皇、皇后両陛下のお使い、皇太子ご夫妻ら各皇族、七十三カ国の外国代表をはじめ、全国の政、官、財、学術、文化、芸能各界から招かれた約六千五百人が参列」した。一般弔問者も「約三万五千人が夕やみ迫る場外まで列をつくり、霊前に白菊をささげた」
とはいえ、当時も国葬を巡って意見が対立していたようで、例えば野党は、社会党議員の大半が欠席したといい「国会議員席にはポッカリ二百人分ほどの席があいて『画竜点セイを欠いた』感じになった」とある。特に「社会党は勝間田委員長が急に欠席、河野副委員長が代理した。このため野党の党首で献花したのは、〝バカヤロウ〟解散の民社党の西村委員長だけ」。勝間田委員長は、突如予定を変更して新潟の参院補選の応援に向かったが、記事では、吉田氏が死去した時に「国民の心のよりどころだった」と発言したことが党内で問題化。その影響があったとみている。
お早うございます。
10月も今日で最後、早いもので今年も後2ヶ月となりました。
<10月31日今日は何の日>
1967年 - 日本武道館で吉田茂の国葬。戦後初の国葬。
吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。
位階は従一位。
勲等は大勲位。旧姓・竹内。
内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松学舎大学舎長(第5代)などを歴任した。
(生い立ち)
1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれる。
父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった。
実母の身元はいまでもはっきりしない。
竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。
「4万余人が献花の列 清そに吉田元首相国葬 白菊の中、遺影ほおえむ」(原文ママ、以下同じ)と報じ、おなじみの吉田氏の遺影と日の丸が掲げられた国葬の全景写真が大きく紙面を陣取った。
国葬は、東京・日本武道館で執り行われた。
吉田氏の遺骨は午後0時25分、神奈川県大磯町の自宅を海上自衛隊音楽隊などの吹奏に包まれながら、日本武道館に向けて出発した。国道1号沿いには「小、中学生や老人クラブの人々など地元大磯町民約二千人が並び、軒並みに掲げられた弔旗の下で葬列を見送った」
日本武道館には「天皇、皇后両陛下のお使い、皇太子ご夫妻ら各皇族、七十三カ国の外国代表をはじめ、全国の政、官、財、学術、文化、芸能各界から招かれた約六千五百人が参列」した。一般弔問者も「約三万五千人が夕やみ迫る場外まで列をつくり、霊前に白菊をささげた」
とはいえ、当時も国葬を巡って意見が対立していたようで、例えば野党は、社会党議員の大半が欠席したといい「国会議員席にはポッカリ二百人分ほどの席があいて『画竜点セイを欠いた』感じになった」とある。特に「社会党は勝間田委員長が急に欠席、河野副委員長が代理した。このため野党の党首で献花したのは、〝バカヤロウ〟解散の民社党の西村委員長だけ」。勝間田委員長は、突如予定を変更して新潟の参院補選の応援に向かったが、記事では、吉田氏が死去した時に「国民の心のよりどころだった」と発言したことが党内で問題化。その影響があったとみている。