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竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

三谷町招魂祭 ・ 厄年記念事業 

2023年04月03日 | 人の和作り
令和5年4月3日(月)
お早うございます。

午前9時30分 三谷町乃木山にて、三谷総代会主催、慰霊奉賛会、ご協力のもと、招魂祭が執り行われました。



三谷町296柱の英霊に心より哀悼の意を捧げます。

招魂祭(しょうこんさい)
幕末に始まった新しい神道(しんとう)の祭祀(さいし)で、国事に殉じた非命の志士の霊を慰めるために営まれたもの。全国的な最初の招魂祭は1862年(文久2)12月、京都の東山(ひがしやま)霊山で執行され、津和野(つわの)藩士福羽美静(ふくばびせい)らが安政(あんせい)の大獄以後の志士の霊を祀(まつ)った。ついで明治維新となり、新政府は68年(慶応4)5月、東山に招魂社を建て、幕末以来の殉難者、戦死者を合祀(ごうし)することを布告した。そして同年7月、京都・河東(かとう)操練場で戊辰(ぼしん)戦争での官軍側戦死者の大掛りな招魂祭を実施した。また東京においても軍務官が招魂祭を行うことを計画、69年(明治2)6月に至って九段に招魂社を設けて招魂祭を営むことになった。これがいまの靖国(やすくに)神社の前身東京招魂社である。

午前11時天白神社にて、本年度厄年会「戌亥栄友会」の皆様方の御祈祷と上区への寄贈式典に出席させて頂きました。

上区会館舞台幕(朝顔日記、大井川の段)を寄贈して頂きました。


今年は四年ぶりに、天白公園にて餅投げが行われました。
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「三河美養さと山会」の活動

2023年01月18日 | 人の和作り
令和5年1月18日(水)
お早うございます。

今日は蒲郡市三谷町の住民らでつくるボランテイア団体「三河美養さと山会」の活動が中日新聞、東三河版に掲載されていましたので紹介いたします。

地元の観光名所、弘法山の竹やぶを伐採し、散策路を整備する活動を続けています。

私のブログで過去に紹介しています。
「三谷の弘法さん」2015年07月01日
↑ ここをクリックすると移動します。

 さと山会の正式名称は「三河美養さと山会」です。
蒲郡の三谷町は昔、美養町と書いたとか…。
長いのでさと山会と呼んでください。
さと山会は、子安弘法大師近くの竹林の整備、伐採、間伐、弘法大師遊歩道の整備、復元を行いながら、地元の交流を深め、楽しく健康に何より安全にをモットーに毎週集まり(正式活動日は毎月第2土曜日)、活動しているボランティア団体です。
また、グループ団体の大塚相楽の森で活動している相楽の森もりクラブと協力して、伐採竹の有効活用のため竹炭作成などの研究をしています。




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第1回 蒲郡市の歴史観光を探るシンポジウム その八

2022年12月04日 | 人の和作り
令和4年12月4日(日)
お早うございます。

さて今日は11月3日に開催された、
「第1回 蒲郡市の歴史観光を探るシンポジウム」の続きを紹介いたします。

蒲郡で「田の神古墳」という遺跡を見つけました。
奥三河にある「さいの神」が斉の神として、斉の国の王族だった田氏にまつわるものだとしたら、田の神は田氏にとって神のような存在だったのかもしれません。
この古墳の東側にある山を越えたところには、「笹子古墳」という遺跡があり、ここからは四つの鳥がついた須恵器、「鳥形装飾付脚付長頸壺」(とりがたそうしょくつききゃくつきちょうけいこ)が出土されています。
このような形の青銅器を、秦の王家の遺跡で見ました。
笹子古墳が日本海側から来た秦氏の末裔の陵墓で、天照大神側の陣営だったと考えると、山を挟んで西側にある「田の神」とは、田氏の血を守った人のことをいうのではないでしょうか。
そうすると、徐福しか考えられません。
田の神古墳が徐福の末裔の陵墓であったとしたら、竹谷荘(たけのやのしょう)と蒲形荘(かまかたのしょう)の開発がしばらく出来なかったのは、徐福の末裔がいた地域であり、それが大国主命といわれる存在だったからなのかもしれません。
その末裔の一部が熊野に移り住んでいたとしたら、秦氏に連なる藤原氏の俊成は、徐福の末裔である熊野の人たちの力を借りることで、竹谷荘と蒲形荘を完成することができたように思えます。

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竹島の東側に行くと、面白いものを見ることができます。
片側は黒く平たい岩盤なのに、片側は白く細かいヒビが入った岩盤。
これこそが、中央構造線の境目そのものでしょう。地盤と地盤がぶつかりあっている姿を、自身の目で確認できる場所が竹島なのです。
このような場所が、藤原俊成が来るまでなぜ未開発だったのでしょう。
蒲郡にある赤日子遺跡には、弥生時代の環濠集落だった形跡が確認されています。
これを設楽町の上ヲロウ・下ヲロウ遺跡と同様に、かつて北海道にあったというアイヌと和人の物々交換などの交易の拠点だったと考えると、そのサイズの小ささも理解できるのではないでしょうか。
「国譲り」の神話では、隠居していた大国主命のところに、天照大神の陣営が国を譲るよう伝えに来ています。
大国主命はどこに隠居していたのでしょう。その場所には二つの陣営の、何らかの形跡が残っているはずです。
それが笹子古墳と田の神古墳だったのなら、日本の古代史研究に、新たな1ページが加わるのではないでしょうか。
歴史というのは、文化を伝える為に必要です。
文化を伝えることは、産業の活性化に繋がっていきます。
正しい循環が起きれば、その地域はどんどん良くなっていくでしょう。
蒲郡からは、その可能性を凄く感じました。
東三河全体を見させて頂き、この地域の有識者や心ある人達が繋がり、正しい循環が起きれば、それは日本中に伝播していくのだろうと思いました。
そうやって広がる波は、海を越えて伝わっていくでしょう。
もし、今日の講演の話に興味があるという方がいらっしゃいましたら、この内容について詳しく書かせて頂きました特集号をお持ちしておりますので、入り口にてご購入頂ければ幸いです。
それでは、僕の講演を終えさせて頂きたいと思います。ご静聴ありがとうございました。




” 完 ”


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第1回 蒲郡市の歴史観光を探るシンポジウム その七

2022年11月30日 | 人の和作り
令和4年11月30日(水)
お早うございます。

さて今日は11月3日に開催された、
「第1回 蒲郡市の歴史観光を探るシンポジウム」の続きを紹介いたします。

三河國一之宮である砥鹿神社の主祭神は大己貴命であり、大己貴命と大国主命は同一とされています。砥鹿神社の奥宮がある本宮山には、大己貴命が穂國を作るため国を見下ろしたと伝わる国見岩がありますが、なぜ国を見下ろす必要があったのでしょう。
それはきっと、豊川の流れを見るためだったのではないでしょうか。
昔の豊川は飽海川(あくみがわ)といわれていて、豊川市と豊橋市のあたりは4㎞以上も幅があり、暴れ川だったようです。
飽海川の治水に成功し、稲作の技術で多くの田畑を作り、人口を増やして豊かな国造りに励む、大己貴命はそういう存在だったのでしょう。
しかし、この伝承が中華文明発祥の人と伝わる、夏王朝の始祖であり聖王といわれる禹と一緒なのはどうしてなのでしょう。


本宮山にある「国見岩」といわれる、天磐座(あまのいわくら)から下界を見渡すと、豊川の蛇行が確認できるだけでなく、東三河の平野が一望でき、遠く伊良湖岬(いらごみさき)まで見渡せます。


日本の美称で使われることがある「瑞穂国」ですが、これは「豊葦原千五百秋瑞穂國」(とよあしはらちいおあきのみずほのくに)の略称です。
どこにも稲穂とはありませんが、豊川の治水によって多くの肥沃な地を得た穂の国には、沢山の人を養える稲穂が実るようになったのではないでしょうか。
中華文明の祖といわれる夏王朝の禹も、治水によって国を作ったといわれています。
穂の国を作ったという大己貴命(おおなむちのみこと)と、そっくりな伝承ですね。
伝承というのは、次世代が誇りを持って生きていく為の側面があります。


かつての日本では、系譜をとても重視していました。
漫画のキングダムの主人公となっている李信の系譜を中国で見つけたのですが、ここから彼の末裔が日本に来ていることがわかります。
『史記』に記された方士、徐福が王となった「平原広沢の地」とは、東三河にあった穂國ではないでしょうか。
徐福といえば、秦の始皇帝によって不老不死の霊薬を探す命令を受けた方士です。
これを理由に、秦の出身と思う人もいるでしょう。
しかし、徐福とは秦の人ではなく、斉の人なのです。
秦が最後に滅ぼした、春秋戦国時代の六国による連合軍を指揮したのが斉です。
この意味は、軽くありません。方士というのは、自然の摂理や王道や覇道について、よく考え理解している人。
徐福がやろうとした事は、始皇帝を不老不死にすることよりも、斉の王族や連合国の中で、途絶えさせてはいけない血族を生かす道を探すことだったのでしょう。
そう考えると、徐福が連れ出した子供たちというのは、そのような血族の人たちだったのではないでしょうか。

次回へ続く!
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第1回 蒲郡市の歴史観光を探るシンポジウム その六

2022年11月27日 | 人の和作り
令和4年11月27日(日)
お早うございます。

さて今日は11月3日に開催された、
「第1回 蒲郡市の歴史観光を探るシンポジウム」の続きを紹介いたします。

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東三河にかつてあった「穂の国」とは、大和朝廷による律令制がしかれる以前によばれていた国の名で、愛知県東部、豊川流域を中心とする東三河一帯をいいます。
現在の豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市、田原市、設楽町、東栄町、豊根村がそれにあたります。

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弥生初期の遺跡となると、清須市の「朝日遺跡」が有名です。
豊橋市の「瓜郷遺跡」は弥生中期といわれますが、ここから弥生時代の遺跡が東の方に伝播していて、このきっかけが豊川の治水だったとすると、色々な点が繋がっていくようです。
古墳時代の「牟呂王塚古墳」(むろおうづかこふん)や、「磯辺王塚古墳」(いそべおうつかこふん)に埋葬されていた副葬品には金装飾が施されていて、大和朝廷からどれほど重用されていたのかも計り知れません。
これほどの副葬品は、西三河の古墳からは見つかっていないそうです。
そうなると日本の号が定まり、律令国家となりはじめた7世紀、大和朝廷にとって重要な国がこの地にあり、その国の統治者に対して最大限の礼を尽くしていたようにも思えます。
それが現在の東三河であり、穂の国だったのではないでしょうか。
そう考えると、この地域の歴史や文化を知ることは、日本が現在の形になる前の姿、多文化が共生していた時代の姿を知ることに繋がるのかもしれません。
かつての豊川が、暴れ川ともいわれた飽海川(あくみがわ)の時代の治水は、簡単なものではなかったはず。それほどの知識を持つ技術者がなぜ、この時代、この地域にやってくることになったのでしょう。

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弥生時代に大陸から日本に来た人たちが、丸木舟のようなもので来たとは考えにくいでしょう。
その時代の中国が、春秋時代から秦、漢になっていく時代だからです。
そんな時代に丸木舟で外洋に出るとは思えません。エジプトなどの出土品から考えても、その時代の中国には、すでに帆船があったはず。
そうなると、帆船の船体は木で作られたでしょうが、帆は何で作られたのか。それが葦であったのなら、それが豊かに実る地域に住み着き、その素材をいかした製品を作ることで貿易商材にすれば、その国を豊かにできたでしょう。
これは、今の時代と変わらないように感じます。
そう考えると穂の国は、帆船の帆を意味する、「帆の国」とも言えたのかもしれません。

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「記紀」の編纂を命じた天武天皇の妃が持統天皇になり、その父は天智(てんじ)天皇ですが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の名で広く知られています。
中大兄皇子は藤原の祖である中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に「大化の改新」を行いました。
大化の改新の前の政争といえば、蘇我馬子と物部守屋による「丁未の乱」(ていびのらん)が有名ですが、丁未の乱によってやぶれた物部守屋の一族の一部が、葦原中國に匿われたと記録されています。
もちろん、縁もゆかりもない一族を匿うとは思えません。
そして、諏訪大社にかつて祀られていたのはモリヤシンといい、今も上社(かみしゃ)の上の山には、物部守屋神社が祀られています。
このことから、葦原中国は奈良から諏訪湖にかけての、どこかにあった地域のことだろうと感じていました。

次回へ続く!
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