令和6年11月26日(火)
お早うございます。
さて今日は、重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)を紹介いたします。
重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)とは、幕末の天保・弘化の頃、幕府教学の大宗であった佐藤一斎が、その出身地である岩村藩の為に作った重役の心構えを書き記したものであり、聖徳太子の十七条憲法に擬して十七箇条に説かれています。
第7条
衆人の圧服する所を心掛くべし。
無利押し付けの事あるべからず。
苛察を威厳と認め、又好む所に私するは皆小量の病なり。
衆人の心理を察せよ。無理・押し付けをするな。苛察を威厳と認めたり、好むところに私するのは皆小量の病である。
最近では「己の欲せざところを人に施すなかれ」という言葉を聞いたこともない人も居るかも知れませんが、やはり人のいやがるところを無理押しすべきではありません。そういことは冷静になってみれば誰でも分かることなのに、「重職」という衣を身に付けると、苛察(かさつ)を威厳と勘違いしてしまう。
「苛察」とは辞書では厳しく調べることとなっていますが、どちらかというと、余計なところに立ち入ってあれこれ探し回ると言う意味に使われます。これを「威厳」と勘違いしてしまうのは「少量」の病気だというのです。少量というのは「器量」が少ないことを言います。つまり、人間としての器量に欠けることを言います。
また、そういう人は、大局を見て公正な判断で動くのではなく、自分の「好み」で判断しがちなものですが、なぜそう言うことになるかといえば、それは「見識」の問題です。
知識が幾らあっても判断は出来ません。判断、決断ができるには、「有るべき姿」が必要です。インターネットの時代にあって、時代の動きや兆候などは、その気になれば幾らでも手に入ります。しかしながらそれらは「知識」にすぎず、それだけでは、判断、決断は出来ません。「知識」が有るべき姿という接着剤で繋がることによって、採るべき行動や判断が見えてきます。それが「見識」です。
時代の大勢を見極め、「機」を事前に察知し、その上で、「有るべき姿」をイメージし、必要な判断を伴って、それに向かって行動を起こすというプロセスには、重職個人の「好き嫌い」の入る余地は有りません。
「威厳」は日々の一つひとつの見識ある言動から作られるものです。丁度「パッチワーク」のように一つづつ縫い込まれていくものです。ところが、重職の地位にあっても、この「見識」を伴わなければ、必然的に威厳を見せるために苛察な行動を採ってしまいます。そして、それは全く逆効果であることに気付くべきなのです。
『宋名臣言行録』(そうめいしんげんこうろく)に、
「人ヲ挙グルニハ、須(すべから)ク退ヲ好ム者ヲ挙グルベシ」
というのがあります。重職というのは、この先の時代の変化を考えると、簡単に勤まるものではありません。それなのに人を押しのけてでも、重職の地位を得たいと思う人は、奔競(ほんきょう)の輩の可能性があります。
「人ヲ挙グルニハ須(すべか)ラク退ヲ好ム者ヲ挙グベシ。退ヲ好ム者ハ廉謹(れんきん)(いさぎよく慎み深い)ニシテ恥ヲ知ル。モシ之ヲ挙ゲナバ、忠節イヨイヨ堅クシテ敗事アルコト少ナカラム。奔競ノ者(スタンドプレーをやって猛烈に競争する者)ヲ挙グルコトナカレ。奔競スル者ハ能(よ)ク曲ゲテ、諂媚(てんび)(おべっかのこと)ヲコトトシ、人ノ己ヲ知ランコトヲ求ム。モシ、コレヲ挙グレバ、必ズ、能ク才ニ矜(ほこ)リ、利ヲ好ミ、累(わずらい)、挙官(その人物を推せんした官)ニマデ及ブコト、モトヨリ少ナカラザラン。ソノ人スデニ奔競ヲ解スレバ、マタ何ゾ挙グルヲ用イン。」
人を抜擢する時には「退を好む人間」を挙げるようにすべきだ。つまり、大臣とか、社長になりたくて、なりたくて仕様がないのをもってきてはいけない。むしろ「いやだ、いやだ」と辞退するくらいの男をもってくるべきである。「退ヲ好ム者」は本来、清廉で恥を知っているから、一度、そういう役職につけると、誠心誠意で働き、決してちゃらんぽらんなことはしない。
一方、人におくれまいと、競馬のうまみたいに「奔競」する奴は、絶対に重要なポストにつけてはならない。そういう人間は、自分の出世のために是を是、非を非として扱わず、正直をも曲げて上にこびへつらい、しまいにスタンドプレーをやって、目立ちたがる。しかも、いったん要職につくと、必ず、自分の才能を鼻先にぶらさげ、賄賂を要求し、ゆきつくところは汚職事件などをおこして、その人間を推せんした関係者たちにまで火の粉を浴びせる仕儀となる。だから、「奔競の人間とわかったら、これを抜擢してはならない」と戒めているわけだが、いったい、「奔競ノ者」とは具体的にいうと、いかなる人物をいうのか。
平成21年三谷祭 海中渡御