竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

手術支援ロボット「ダヴィンチ」導入! 内覧会

2019年06月30日 | 議員活動
令和元年6月30日(日)
お早うございます。

今日は、「手術支援ロボット「ダヴィンチ」導入! 内覧会」の様子を紹介いたします。


昨日(6/29)午後1時~ 蒲郡市民病院2階講義室にて、手術支援ロボット「ダヴィンチ」導入! 内覧会」が開催されました。

会場の様子 中根先生からの説明。















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稲葉正吉 蒲郡市長 三選 不出馬

2019年06月29日 | 議員活動
令和元年6月29日(土)
お早うございます。

昨日はブログをお休みいたしまして誠に申し訳ありませんでした。

6月27日(木)~28日(金)と二日間、
「全国競艇主催地議会協議会第151回役員会・第133回定期大会総会」
会場:兵庫県尼崎市 都ホテル
に、蒲郡市議会副議長として出席した為、昨日のブログをお休みいたしました。
詳細は、後日ブログにてご報告致します。

さて、今日は、「稲葉正吉 蒲郡市長 三選 不出馬」
の新聞記事を紹介いたします。


蒲郡市の稲葉正吉市長(67)は27日、任期満了に伴う10月の市長選に立候補しない考えを初めて表明した。
不出馬の理由について、年齢による体力や気力の衰えを挙げ「もう1期4年間、いまのスピード感で仕事の量と密度を保てるのか。少しでも憂いがあるなら、潔く退くべき」と、勇退への判断にいたった思いも語った。

市役所で記者会見した稲葉市長は、不出馬を決めた経緯について「きのう、きょうの話ではない」と切り出した。体力不安を感じ始めたのは65歳からで、去年の夏ごろから進退について自問自答してきたという。

今月に入って市長選の日程が決まってから、定例の記者会見や市議会本会議でも態度を保留してきた。
最終決断は2日前の25日。後援者から3選出馬を促されてきたが、ようやく了解を得たという。

後継指名について「特定の人はいない」としたうえで、「適当な方がいたら応援したい」と候補擁立に意欲をにじませた。

2期8年を振り返り「やり切った感でいっぱい」と声を張った。「できれば蒲郡バイパスの全線開通式に出たかった」と未練をのぞかせたが、「それはどこまでいっても同じこと」と潔さをみせた。

引退後のことは「これからゆっくり考えたい」とし、「残り4カ月、全力で務める」と力を込めた。

蒲郡市長選は10月13日告示、投票は同20日で即日開票される。これまでに元新聞販売店社長の鈴木寿明氏(56)が出馬の意向を示している。

このニュースは、正副議長、経済委員長、議会事務局長の四人で、全国競艇主催地議会協議会第151回役員会・第133回定期大会総会」に出席の為新幹線にのる名古屋駅のホームにて、携帯のラインで知りました。

今まで態度を保留にしていましたが、稲葉市長らしい幕引きかなと感じ入っています。

これからは新しい蒲郡を、「チーム蒲郡」で、みんなの力を結集にて創りあげ、前に進めて行かなければならないと、身の引き締まる想いが致しました。
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6月定例会 本会議 閉会

2019年06月27日 | 議会活動
令和元年6月27日(木)
お早うございます。


日本の本位貨幣(原貨)旧1円金貨・明治4年銘


米5ドル金貨と等価とされた旧5円金貨 明治6年銘(小型)プルーフ貨

新貨条例(新貨條例、しんかじょうれい)は、明治4年5月10日(1871年6月27日)に制定された日本の貨幣法である。
日本の貨幣単位として「圓(円)」を正式採用した。

明治8年(1875年)6月25日の改正に伴い、名称も貨幣条例(貨幣條例、太政官布告第108号)に改められ、明治30年(1897年)10月1日の貨幣法施行により廃止された。

昨日(6/26)は、6月定例会最終日、午前10時より、8階本会議場にて議案の審議、採択が行われました。

各常任委員会に付託された議案の反対・賛成の討論を行った後、採決を行い全ての議案が賛成多数又は全会一致で可決されました。

*第20号議案(追加議案)
柏原企業用地の売却
・A及びB区画 39,005,53平方メートル
・売却金額 12億8千万円
・売却先 岡崎市渡町字薬師畔1番地 株式会社 丹羽鉄工所

C区画については再公募となりました。


 
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令和元年 6月定例会 一般質問 其の一

2019年06月26日 | 一般質問
令和元年6月26日(水)
お早うございます。

<6月26日今日は何の日>
1968年 - アメリカの統治下にあった小笠原諸島が日本に返還される。

小笠原諸島(おがさわらしょとう)は、東京都小笠原村の行政区域を指す。
東京都特別区の南南東約1,000kmの太平洋上にある30余の島々からなる。
総面積は104km2。南鳥島、沖ノ鳥島を除いて伊豆・小笠原・マリアナ島弧(伊豆・小笠原弧)の一部をなす。

<歴史>
1876年(明治9年) - 3月 小笠原諸島が内務省の管轄となる。日本領土と認められる。
1880年(明治13年) - 10月8日 東京府へ移管する。
1880年(明治13年) - 10月28日 父島に、東京府小笠原出張所を設置する。
1886年(明治19年) - 11月4日 小笠原出張所を小笠原島庁へ改称する。
1926年(大正15年) - 小笠原支庁と改める。
1943年(昭和18年) - 7月1日 東京都制が施行されて、東京府が廃止される。
1946年(昭和21年) - アメリカ軍が統治する。
1952年(昭和27年) - 小笠原支庁が廃止される。
1968年(昭和43年) - 6月26日 小笠原が返還されて、東京都小笠原支庁が設置される。

さて、今日は、6月定例会本会議、竹内しげやすの一般質問の全文を何回かに分けて掲載いたします。

<質問要旨>
1、投票率向上について
(1)蒲郡市における投票率の推移について
(2)今回の投票率の分析について
<以上が今回掲載した内容です>

<以下の項目は次回へ続く>
(3)今後の対策について
  ア) 共通投票所の設置について
  イ) 大学や商業施設、病院等への期日前投票所の設置について
  ウ) 期日前投票の投票時間の弾力化について  
  エ) 投票所等への移動支援等について   
  オ) インターネットの活用推進について   
(4)参議院議員選挙、蒲郡市長選挙に向けての投票率向上策について 
    
2、三河大島について    
(1)歴史について  
(2)昨年度2度にわたる台風の被害について
(3)今後の取り組みについて

3、公共施設マネジメントについて
(1)基本的な考え方について
(2)地域利用型施設について
  ア)西浦地区個別計画について
  イ)塩津地区個別計画について
  ウ)蒲郡南地区のワークショップについて
  エ)三谷地区のワークショップについて
(3)全市利用型スポーツ施設等について

議長のお許しを頂きましたので、通告の順に従い質問させていただきます。

まずもって春の統一地方選挙を終えて、またこうして、この質問席に立つことが出来ましたことを心より感謝申し上げます。

今年は選挙の年といわれています。
2月3日には愛知県知事選挙の投票日
4月7日には愛知県議会議員選挙の投票日、但し、蒲郡市は無投票で、告示日の3月29日に飛田常年さんの三期目の当選が確定いたしました。
そして、4月21日は蒲郡市議会議員選挙の投票が行われました。
全国的にも投票率が下がっているとはいえ、市議会議員選挙においては、昭和29年の蒲郡市制施行以来、補欠選挙を除いて過去最低の53.43%という低投票率でありました。自分も今回の選挙の候補者の一人として、その結果を真摯に受けとめ反省し、議会に身をおく立場からも市民の皆さんから関心を高めて頂けるような議会改革を一層推進していかなくてはならないと強く感じているところであります。そして、同時に、若者の政治離れなど全国的に投票率の低下が問題視されている中で、行政もその結果を検証し、投票率を上げるための手だてをもっと講ずる必要があるのではと感じています。
そこでまず最初に、
(1)蒲郡市における投票率の推移について 伺います。

答弁) 平成31年4月21日執行の蒲郡市議会議員一般選挙の投票率につきましては、53.43%でございました。
過去4回の投票率につきましては、前回(平成27年)が56.32%、前々回(平成23年)が、61.98%、3回前(平成19年)が、65.48%、4回前(平成15年)が68.09%となっております。


(2)今回の投票率の分析について
それでは、今回の投票率についてどのように分析されているのか伺います。

答弁) 市議会議員選挙の投票率は毎回低下してきており、今回の選挙では前回の投票率と比較し、2.89%下回る状況となっております。
ただ、このような状況は蒲郡市だけではなく全国的な傾向となっており、東三河各市の市議会議員選挙の投票率においても軒並み前回の投票率を下回っている状況でございます。
期日前投票の投票者・投票率の状況につきましては、今回の市議会議員選挙では、8,557人で13.12%でございました。前回の平成27年が、5,784人で8.91%でございましたので、2,773人、4.21%の増となっております。
これは、期日前投票制度が周知され、ご自身の都合のよいときに投票ができるという利便性から期日前投票の投票率はあがってきております。ただし、それが必ずしも全体の投票率に反映されていないということも今回の投票結果にあらわれております。
つぎに、世代別の投票率は、10代が38.89%、20代が33.56%、30代が43.83%、40代が48.26%、50代が57.58%、60代が66.18%、70代が67.95%、80代が49.22%でございました。世代毎で前回と比べて投票率の構成は大きく変わりませんが、若者世代の投票率が低くなっております。



次回へ続く!

追伸:今日は、午前10時より8階本会議場にて、6月定例会本会議最終日、議案の採決が行われます。
是非、傍聴にお越し下さい。
よろしくお願いいたします。


   
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ことばのちから 「エレノア・ルーズベルト」

2019年06月25日 | ことばのちから
令和元年6月25日(火)
お早うございます。

今日は、久し振りに 言葉のちから、として、「エレノア・ルーズベルト」を紹介いたします。

アナ・エレノア・ルーズベルト(Anna Eleanor Roosevelt, 1884年10月11日 - 1962年11月7日)は、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻(ファーストレディ)、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家。リベラル派として高名であった。
あくまでもリベラル派(自由主義者)なのであって、左翼運動や共産主義運動に対しては批判的であり、明確に一線を画していた。


偉人は考えを論じ、凡人は出来事について話し、つまらない人間は噂話をする。

もし誰かが一度だけあなたを裏切ったのなら、それは彼らの責任です。もし彼らが二度もあなたを裏切るのなら、それはあなたの責任です。

あなたの心が正しいと思うことをしなさい。どっちにしたって批判されるのだから。

あなたがやりたくないことを他人に頼むのは、フェアではありません。

目の前の恐怖に真正面から立ち向かうたびに、あなたは強さと勇気と自信を身につけることができるのです。「こんなに恐ろしいことをやり遂げたのだから、もう何が来ても大丈夫」と言えるようになります。

知識と賢明さを取り違えないように。知識は生計を立てるのに役立ちますが、賢明さは人生を生きる糧となるのです。

どこに行っても逃げて歩いていたなら、自信は失われるばかりです。

人生は生きることが大事なのです。いつも好奇心を持ち続けることです。どんな理由があっても決して人生に背を向けてはいけません。

自分自身に負けない限り、それは敗北ではないのです。

自分自身を扱う際には、頭を用いなさい。ただし、他人を扱う際には、心を用いなさい。

人の生き方を一番よく表すのは、言葉ではありません。それは、その人の選択なのです。わたしたちの選択とは、つまるところ、わたしたちの責任なのです。

他人の失敗から学びなさい。あなたは全ての失敗ができるほど長くは生きられないのだから。

成功には二つの要素が含まれるべきで、その一つは、自分の個性をできる限り発展させることであり、もう一つは、世間に対して何らかの貢献をすることです。

真摯に勇気を持って人生と向かいあえば、人間は経験を通じて成長します。そうして人格が作られるのです。

未来は美しい夢を信じる人のためにあります。

どんな関係においても大切なことは、何を受け取ったかではなく、何を与えたかです。

この世の中で恐怖心ほど人の心を傷つけるものはありません。わたしよりはるかに不幸な方々を助けることにより、わたしは自分の恐怖と闘い、ついにそれを克服したのです。

世界でもっとも不幸な人間というのは、せっかくの時間を何に使ったらよいかわからなくて、いたずらに一日を迎え一日を送る人間の事を指すのでしょう。

夫F・D・ルーズベルトと(1935年)

<ファーストレディとして>
大恐慌後の世界的な不景気下の1933年3月4日に、ルーズベルトが大統領に就任した。その後ルーズベルトが3選されたホワイトハウス時代の12年間、エレノアは夫フランクリンの政策に対して大きな影響を与えた。ルーズベルト政権の女性やマイノリティに関する進歩的政策は、ほとんどがエレノアの発案によるものである。

なお、エレノアはルーズベルトが第二次世界大戦中に推し進めた日系アメリカ人強制収容に反対している。さらに、この間に多くの友人を得たことが夫の死後「第二の人生」を開く大きな財産となった。

晩年のエレノア・ルーズベルト

1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、エレノアは家族と共にニューヨーク州ハイドパークの私邸に退き、そこで静かな余生を送るつもりだった。
しかし、夫の後を受け継いだトルーマン大統領の要請で国際連合の第1回総会代表団の一員に指名される。
上院の同意を得て正式に任命されたエレノアは、1946年にロンドンに赴任し総会に参加した。
ロンドンの総会では人権委員会に参加し、委員長に選出される。
人権委員会は世界人権宣言の起草に着手し1948年12月に国連総会で採択された。


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