
透視という現象が《有る》と言っているようでも《無い》と言っているようでもある。
卵を見つめる男の視線を感じるが、描かれているわけでなく見えない線である。にもかかわらず、鑑賞者は見えない線を強く意識せざるを得ない。
《無い、が、有る》わけである。
いかにも綿密に描かれた(しかも飛翔する)鳥である。しかし、その目は筆によって隠されているが、もう一つの目は真実を暴き出すかもしれない。(視線の強さである)
この画の総ては着地点を見せていないが、誰もこの絵に対象が浮上、浮遊しているのだとは考えない。床に着地していることが、この地上界では道理だからである。
絶対の真理、物理学的条理は疑いようのないすべての前提条件である。しかし、この条理を外す…透視という空論を現実に引き寄せて見せるトリックは疑似空間においては可能である。
現実と空想の接点の時空を合わせる試論を背景をベタ(時空を設定しない)することでつないでいる(マグリットの常套手段ではある)。
この作品のまことしやかな噓は凝視の力においても崩れず、静かなる虚空間に魔の風を漂わせている。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
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