
『傑作あるいは地平線の神秘』
任意の男の三態、三日月を基点に考えると、時刻は夕方である。日が沈んだばかり、地上の男はそれぞれ西、東、南を向き。東から西へ太陽が沈んでいくように回転している。西と東を向く男は背中合わせに、南を向く男はまさしく背を向けている。とすればこちら(画面の手前/鑑賞者)は北であり、東西南北の時空が見えてくる。
地上に立つ男は沈んで姿の見えなくなった太陽を実感し、自身の存在を凝視している。地平線そのものは建物に覆われて見えないが、その後方にあることは確かである。夜が来れば地平線は見えなくなるかもしれない。しかし厳然としてそこに在る。地球の自転は東向きであり、太陽は西向きに見える。
人が存在するのはその接線である地表面である。太陽がわたし(自身/地球)を回っているのであって、わたし(地平線)は、あたかも水平を保ったままであるかのようである。わたし(地平線)が回転しているなどとは決して感じられるはずがない。東西南北を自覚しうる人の眼差しも又、地平線と一緒に開店しているからである。
見ることの真実と物理的な絶対の律の落差を、地平線は称賛されるべき冷静さで魔法の杖を振る。地平線は存在の秘密を内包している、すなわち、神秘がそこに在る。
現在では宇宙から地球を回る球体として見ているかもしれないが、論破し得る不思議さを失わない地平線は、やはり傑作と言わなければならない。
写真は『マグリット』展・図録より
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