鑑賞者は床に置かれたコート掛けをどかし、あるべき位置を想起する。《ここではない》と。
この作品には《否定》(多少の憤懣)しかない。絶対に違う、という確信めく否定であり、許容の肯定はない。
しかし、これを提示したデュシャンの意図について考慮を迫られる。通り過ぎてはならない(あるいはどうでもいいが)「考えよ!」という指令である。
偶然在るのではなく、必然を以て置いた真意・・・。
床にコート掛けがある、ストレスである。
何故か? あるべき位置にないからである。
あるべき位置とは? コートを吊り下げるのに相応な高さを計算した壁面への設置である。
そう考える根拠は? 常識というより他はなく、当たり前のことである。
当たり前とは? 自然の理!重力を思えばコート掛けは床に設置するために造られたのではなく、上から下に向けられている空間に働く力(作用)を考え、利便性ゆえに相応な高さを計算した壁面への設置が望ましいというわけである。
この当たり前への問いかけ、必然とは自然の理であり、データの集積により学習された概念である。
『罠』はデュシャンの原理を問う罠である。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.com
二人は疲れた足を曳きずって、日暮れて路遠きを感じながらも、懐かしいような心持で宮地を今宵の当に歩るいた。
☆字を尋(聞き出すと)秘(人に見せないように隠したこと)がある。
化(形、性質を変えて別のものになる)を募(招き集めると)露(現れる)。
掩(おおったもの)を換(入れ替えると)解(わかる)。
審(正しいかどうかを明らかにし)、弐(二つ)を究(つきつめる)。
字に混ぜた章(文章)を問う簿(ノート)である。
わたしがおぼえているかぎりでは、どちらの尋問も、首尾よくいったとおもいます。そのあとであの不祥事がもちあがってしまったわけですが、そのまえにふたつの尋問のことを考えてくだされば、あながちわたしの罪だとばかりきめつけることもできないのではないでしょうか。
☆わたしが知っている限りではまったく(問題)はなかったのですが、そこで不幸(災難)が生じてしまったのです。でもあらかじめ小舟で行ったことに罪を負わせることは殆どありません。