《・・・のように見える》ことの確信と裏切り(意外性)は表裏一体である。対象物には常にその危険性があるにもかかわらず、わたし達は経験からくるデータをうのみにし、すでに承知したものとして処理する傾向がある。
この作品を前にしての歓喜はなく、むしろ無感動・困惑あるいは拒否の感情に傾くのが一般的な感想だと思う。
たとえば価値という観点から見ても使用に絶えず美しくもなく、有用性を見出すことが難しい。噴飯物・・・何故?どうして?という不審さが浮上するだけである。
しかし、あえてこの寄せ集めを差し出した英断の根拠に迫ると、見えてくるものがある。
つまり、「この作品自体をご覧になればわかるでしょう、これはわたくしです。」そう言っているのではないか。
無価値で役に立たず無防備で意味不明、大理石を角砂糖に見えるように加工する愚、処分すべきイカの甲を混入する悪ふざけ、計測に意義のない温度計、目的を外した鳥かご(容器)、このメチャクチャなのがわたくしの正体である。
この地球上に只今現在、存在しているという事実、即ち共存の事実は動かし難く、あるいはこの物の性質上、死を免れ不変でさえある。
この作品の底に流れる普遍のメッセージは《存在の重さ》であり、存在の原初、知覚の生理を問うものではないか。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
自身への問いかけは世界への問いかけでもある。
写真は(www.tschen.com)より