続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『耕耘部の時計』⑳

2018-09-10 07:33:24 | 宮沢賢治

 それはたちまち器械の中で、きれいな黄色の穀粒と白い細長い芯とにわかれて、器械の両側に落ちて来るのでした。


☆記の解(問題をとく/わかる)を注(書きしるす)。
 往(人が死ぬ/そののち)の私記であると告げる。
 流(一か所に留まらない)と、吐く。
 済(救い)の徴(しるし)を審(正しいかどうかを明らかにする)。
 記の解(問題を解くこと)は、霊(死者の魂)の則(道理)、絡(すじみち)である。


🈞マグリット『自由の入口で』

2018-09-10 06:48:44 | 美術ノート

   『自由の入口で』

 自由の入口ということは、自由でない領域に在るということだろうか。
 作画は室内の態である。
 緑の林、裸婦、板目(壁)、馬の鈴(口承、伝説、噂、主張etc)、集合住宅の窓(人々の生活)、雲の散在する青空(変化を余儀なくされる宿命)炎(情念、情熱、嫉妬、欲望)、相対的に切り刻まれた連続模様(連鎖するDNA)・・・。その前にそれを打破するような大砲の器具が置かれている。天井は黒というか灰色の色面であり、床面はくすんだグリーンである。

 つまりは、存在の態である。物質や景色や想念に置換された精神世界の構築が《自由》を阻み、こうした雑多の想念が真の自由への道を塞いでいる。それらは頑強に結びつき自由への開口を許さない。
「精神には精神を」ではなく、精神には強力な物理的破壊力を以て対抗するという手段を用意しているが、微力に過ぎないかもしれず、失笑の図としての提示にも思える。

 あるいはこの大砲は《権力の象徴》なのだろうか。
 これら存在の態は自由の謳歌であり、束縛からの解放としての世界観である。この自然体、この人類の連鎖(歴史)を、権力という武器を以て崩壊・封鎖させるべく待ち受けている。

『自由の入口で』という作品は《自由》の在処を特定してない。この壁面(室内)の外なのか、この壁面自体が自由(ありのままの自然、ありのままの煩悩)なのか…。それによって大砲の持つ意味も変化する。
 二重の意味が現象として交差する作品である。


(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)


『小岩井農場』98

2018-09-10 06:38:03 | 宮沢賢治

  かほが赤くて新鮮にふとり
  セシルローズ型の円い肩をかゞめ
  燐酸のあき袋をあつめてくる
  二つはちやんと肩に着てゐる

☆釈(意味を明らかにし)真(まこと)を詮(明らかにする)。
 景(ありさま)を掩(隠すこと)を兼ねている。
 倫(人の行うべき道)を算(見込んだ)他意を、普く兼ねて記してる。


『城』3025。

2018-09-10 06:27:27 | カフカ覚書

 Kは、そう言って、フリーダの手を自分の手にとった。フリーダは、それを引きぬこうとしたが、その顔は、微笑を浮かべて、さして力を出しているのではなかった。


☆Kは、そう言って、フリーダ(自由)の側(領域)を自身の側(領域)に引き寄せた。フリーダは奪還しようとしたが、微笑んで、本気で奪還しようとはしなかった。