どうしても買い物に出かけなくては、でも、風邪ひきの孫を連れては行かれない。
「もう6才だもの、お留守番できるかな? 30分、30分で帰るから」と言ったら、
「うん、3600秒ね。ちょっと長いな」というので、
「じゃ、20分」と言うと、
「ああ、1200秒ね」という。
(まさか、掛け算が?いえ、足し算なのか・・・)
近頃の子供は情報が豊かで、なんでも覚えてしまう。保育園で何を言うかと思ったら、
「これからは、漢字を頑張ります」と言ったそうな。
わたしが小学校へ上がったときは、勉強なんてしどろもどろで、理解ということがさっぱりの劣等生だった。母は代用教員をしていた経験からか、先んじて教えることを決してしなかった。
真っ白な頭で勉強に向かう姿勢を望んでいたようだった。
けれど、ある時は母は言った。
「わたしが間違っていたかねぇ、何でも教えていかないと、馬鹿なまんまだねぇ」と。
「・・・」
どんどん吸収していく、それでいいと思う。
母いわく間違った教育法で、娘のわたしは69歳になってもトロイまま、世間ずれしているかもしれない。
『白紙委任状』
「どうぞご自由に、あなた(鑑賞者)に委ねます」ということである。
馬で行く婦人が、林の中で見え隠れする。
「すべて二重の風景を」と詠った『春と修羅』(宮沢賢治)
異なる時空が一つに重なる光景である。
林の中に夢想する婦人の姿、精神的には確かに見える婦人(母)の姿は、現実の林には存在していないかもしれない。けれど、幻想の時空には明確に婦人(母)の面影が生きている。
精神界の内在は、現実という時空ではない。
しかし、人は風景の中にイメージする。精神の深淵は見えないものを想起させ、心の欠損を埋めることがある。これを誰が咎めることができようか、出来はしない。
この作品はわたくし(マグリット)の極めて個人的な光景であれば、誰それの介入・解釈を求めるものではありません。
「ご自由に、ご覧ください」拒むものでもありません。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)