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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

赤い生地。

2016-03-12 07:39:10 | 日常

 セールで0円でいただいてきた赤い生地。どうしたものかと考えあぐねているうちに、白髪にしたのだから、赤(ピンク系)もいいのではないかと、試しにチュニックを作ってみた。

 今は亡き母親が60歳になったとき、お祝いに妹が赤いちゃんちゃんこと帽子のセットを持参してきた。(だからもう・・・)

 赤…赤、還暦どころか還暦過ぎ、来年は古希である。赤だって黄色だって楽しく身に着けちゃえばOKじゃない?カナ。


 う~ん、迷うなぁ。
 紅茶で染めて少し色を落としてみようかと思ったけど、ムラになってしまっては元も子もない。

 0円で楽しく夢想。これだけでも得したかもしれない。69歳、愉しく遊んでいる。


マグリット『自然の驚異』

2016-03-12 06:49:16 | 美術ノート

 『自然の驚異」
 この画面を見れば確かに驚かざるを得ない。半魚人の男女が寄り添っている遠く海上には水で模られた帆船が浮かんでいるという驚異の光景であれば。

 大きく膨らんだ雲、打ち寄せる波、海岸の岩場・・・自然の風景である。その中に意表を突く半魚人と水の船の対象物があたかも自然に溶け込むように描かれている。

《これは無い、断じて》
 鳥(あるいは他のもの)のように見える岩や雲の形に遭遇することはある。その対象物の形が人間の観念的なイメージに合致して見えた時の驚異である。
 あくまで人間の側の思い込みであり、人間優位の観察眼に過ぎない。

 水は形(容器)の中に留まるが、形(例えば船)に模して固定されることは絶対にありえない。
 岩は風圧により変形を余儀なくされるが、動物(生命体)に模して変形するとは万に一つも考え難い。
 つまり、自然(水や岩)が生命体や人智の成せる創造物に、形態を似せるなどということはない。そういう意思というものが介在しないからである。

 どこまでも人間のイメージは広がるし、精神界はそれを許容する。
 しかし、自然(物質界)はありのままに存在するだけである。

 『自然の驚異』とは、人間の側から見た驚異ではなく、自然の側から見た驚異なのではないだろうか。自然の律を軽々と自由に開放する越権に驚異しているのだと思う。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』253。

2016-03-12 06:33:20 | 宮沢賢治

こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」


☆字は普く換(入れ替わる)。
 然るに現れる双(二つ)が代(他のものに入れ替わる)詞(ことば)の字を吟じている。
 講(はなし)を徹(つらぬきとおす)等(平等)の考えは、闊(心が広い)の法(仏の教え)が題(テーマ)である。


『城』2258。

2016-03-12 06:13:29 | カフカ覚書

「村長さんが、そうおっしゃいましたの」
「そうです。村長が、そう言ったのです」
「そのことをバルナバスに話してやりましょう」と、オルガは早口で言った「あの子は、とても元気づけられますわ」
「いや」と、Kは言った。「バルナバスは元気づけられる必要なんかないんですよ。


☆「会衆の長がそう言ったのですか」と、オルガ(機関/仲介)は尋ねた。「彼がそう言ったのです」と、Kは返事をした。
「バルナバス(生死の転換点)は、物語になるでしょう」とオルガ(機関/仲介)は言った。
「預言者は鼓舞されますが、彼(バルナバス/生死の転換点)は鼓舞されることがありません。