労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

労働者の“絶対的窮乏化”とは?

2007-05-04 03:02:51 | Weblog
*申し訳ありません、経済版のブログのパスワードを忘れてしまったために、管理画面に入れなくなってしまいましたので、仕方なくこちらに載せることになりました。



 マルクス主義同志会が、労働者の“絶対的窮乏化”について語っている。
 
 しかし、この組織の場合、「マルクス主義」というのは単に名前だけのものであり、その内容は、つねに、リカードやアダム・スミスといった古典派経済学のそれであり、この組織の理論がそれ以上のものになることは逆立ちしてもありえないことなのである。
 
 したがってマルクス主義同志会もまた、労働者の“絶対的窮乏化”の原因をリカードやアダム・スミスのように資本の本性そのものに求めている。
 
 すなわち、リカードにしても、アダム・スミスにしても、商品の価値はV(賃金に支払われる部分)+M(資本家の利潤)なのであるから、V(賃金に支払われる部分)が少なければ少ないほど、資本家の利益は増えるということになる。
 
 だからこの古典派経済学の継承者(俗流経済学者たち)は、資本に最大限の利益を保障してやるために、あれやこれやの理論を編み出している。
 
 マルクスの時代のプルードンはリカードに立脚して、労働者に賃金闘争をしてはならない、賃金闘争は資本にとって破滅的であるとお説教をたれていた。
 
 もう少し、時代が新しくなると、ラサールの“賃金鉄則”というのがあり、ここでは労働者の賃金が最低限に抑えられるのは“鉄の必然性”があるといわれている。
 
 マルクス主義同志会の賃金論もラサールの“賃金鉄則”ようなものであるが、ここではマルクスの再生産論によって理由づけされている。つまり、労働者の賃金部分は、貨幣によって媒介されているように見えるが、それは単なる仮象で、実体は、資本家によって再生産のために労働者に現物(穀物などの生活必需品)があてがわれるだけであるという。
 
 つまり、マルクス主義同志会によれば、労働者の賃金というのは、奴隷に食べさせる食糧や牛や馬などの家畜、または車のガソリンのような生産のためのコストにすぎないのだから、つねに最低限に抑えられなければならないし、抑えられるというものである。
 
 もちろんこのような議論は、労働者に賃金闘争をあきらめさせることによって、資本家に最大限の利潤を保障してやるためのものであり、このような理論はこの組織が全体として資本主義の永続化のためにのみ活動していることを示しているだけである。
 
 したがって現在、労働者がこの腐りはてた組織の存在とその主張をまったく無視し、自分たち生活を守るために、団結を深めようとしているのはまったく正しい態度といわなければならない。
 
 では、マルクスのいう意味での労働者の“絶対的窮乏化”というのは何であろうか? 
 
 マルクスはその説明を「労賃」のところではなく、「資本の蓄積過程」(剰余価値の資本への転化)のところで説明している。
 
 ① 資本の発展は資本の有機的な構成の高度化(可変資本に比べての不変資本の増加)、つまり資本のうち、設備や機械に投資される部分が増えていく、同じ大きさの資本でも雇用される労働者の数は相対的に減少する。
 
 ② 資本の蓄積につれて、労働者が工場、職場から駆逐されるようになり、労働人口の相対的過剰が生み出される。
 
 ③ この労働者の相対的過剰人口は、いろいろな産業予備軍を累積的に蓄積する。(失業者ばかりではなく、パート、アルバイト、派遣といった不正規雇用の労働者もこの産業予備軍に含まれる)
 
 ④ この産業予備軍の形成は、労働者の間に競争をもたらし、一方において就業労働者に過度労働や資本の命令への強制と他方においての不就業部分の生活困窮をもたらす。
 
 ⑤ このような産業予備軍の存在は労賃を引き下げる圧力ともなっており、生活苦からどのような労働条件でも、どのような低賃金でも働かなければならない人々と、過重労働にあえぐもう一方の人々を生み出すのである。
 
 だからマルクスは
 
 「資本主義的体制のもとでは労働の社会的生産力を高くするための方法はすべて個々の労働者の犠牲において行われるということ、生産の発展のための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具にして部分人間となし、彼を機械の付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛で労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体されるにつれて労働過程の精神的な諸力を彼から疎外するということ、これらの手段は彼が労働するための諸条件をゆがめ、労働過程では彼を狭量陰険きわまる専制に服従させ、彼の生活時間を労働時間にしてしまい、彼の妻子をジャガーノート車の下に投げ込むということ、これらのことをわれわれは知ったのである。しかし、剰余価値を生産するための方法はすべて同時に蓄積の方法なのであって、蓄積の拡大はすべてまたかの諸方法の発展の手段となるのである。だから、資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受け取る支払いがどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえないということになるのである。」といって資本の蓄積の敵対的な性格を告発している。
 
 マルクス主義同志会がこのような観点に立つことができないのは、この蓄積法則が労働力商品の需要と供給、労働者間の競争という価値法則を媒介にしていることである。
 
 なんどもいっているがマルクス主義同志会にとって価値は物質でなければならない。そして価値が物質であるということは、それが不変な一定量であることを前提にしているのである。だから、需要と供給で商品の価格が変化するということは絶対に認められないのである。
 
 「それだからこそ、労働者たちが、自分たちより多く労働し、より多く他人の富を生産し、自分たちの労働の生産力が増進するにつれて、自分たちにとっては資本の価値増殖手段としての自分の機能までがますます不安定になるというのは、いったいどうしてなのか、という秘密を見抜いてしまうやいなや、また彼らが、彼ら自身のあいだの競争の強さの程度はまったくただ相対的人口の圧力によって左右されるものだということを発見するやいなや、したがってまた、彼らが労働組合などによって就業者と失業者との計画的協力を組織して、かの資本主義的生産の自然法則が彼らの階級に与える破滅的な結果を克服または緩和しようとするやいなや、資本とその追従者である経済学者とは、『永遠な』いわば『神聖な』需要供給の法則(価値法則)の侵害について叫びたてるのである。すなわち、就業者と失業者との連結は、すべて、かの法則の『純粋な』働きをかき乱すからである。」
 
 いまでは資本主義の最後の弁護人にまでなりはてたマルクス主義同志会がなぜ、目の色を変えて労働者の賃上げ闘争に反対するのかこれでおわかりであろう。