労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

われわれはいかなる意味でレーニン派か?

2006-12-10 01:27:34 | 政治
 われわれ赤星マルクス研究会は発足した当初からレーニン主義の継承者であることを隠さなかった。
 
 今ではもうなつかしい思い出だが、ホームページの休憩室の最初の写真はレーニン廟で「われわれはイリイッチ(レーニン)とともにある」というプラカードを掲げた老婆の写真であり、この時これはわれわれのスローガンでもあると明言していた。
 
 以来、われわれは何度も「われわれは社会主義の頑固派」(社会主義のレーニン派)であるということを宣言してきた。
 
 しかし現在、レーニンの名で語られていること、すなわち、中央集権的な党とか分派の禁止とかプロレタリア独裁とか、内戦期の赤軍の残虐行為とか、挙げ句の果てはウクライナの大飢饉まで、レーニンが責任を負っているかのような見解には首をかしげるものがある。こういったことにはおいおい反論していきたいと思っているが、今回はとりあえず中央集権的な党とか分派の禁止とかいう「政治的な概念」に限定してわれわれの見解を述べていきたい。
 
 この点ではマルクスとレーニンの見解はきわめて自明だ。政治は上部構造であり、下部構造である経済状態によって規定されるというものだ。マルクス主義者であるならこれ以外の答えは出てこないと思うのだが、どういうわけかこういうことをいう組織はあまりない。
 
 たとえば中央集権的で秘密な党にしても、それは当時のロシアの専制的で民主主義が欠如している社会抜きにしては語ることができないものであろう。
 
 レーニンのように労働者に「資本論」を教えただけで何年もシベリアに流刑される社会では民主的で開かれた党の建設は不可能である。実際、開かれた政党をめざしたロシア社会民主党は党結成と同時に500人もの逮捕者を出して即時に解体している。
 
 そしてわれわれはこれと正反対のことを社労党時代に経験している。資本主義が高度に発達している資本主義日本の中で、われわれは社労党は「レーニンの党組織論」(?)を堅持して、中央集権的で、若干秘密主義的で、組織の横断的な連絡は禁止され、分派も禁止されてきた。
 
 このなかでわれわれが学んだ教訓の第一はいくら分派を規約によって禁止しても、大きな政治的な課題をめぐっては意見の対立がなかば必然的に生じるということであり、こういった意見の対立は公開の討論によってこそ双方が納得できる解決にいたることができるというものである。
 
 しかし公開の討論が禁止され、党員に必要な情報が伝達されなければ、どこどこの誰かが党中央と対立したという事実だけが残り、その人は党に居づらくなる。
 
 たとえば兵庫のS氏は、「価値形態論」をめぐって林紘義氏と対立し、自分の意見をメールを使って他組織の友人に伝えたために、「組織の横断的な連絡禁止」規定に引っかかるとして処分され党を去っている。
 
 また神奈川の「落合グループ」と呼ばれる“分派”がかつて存在したが、われわれを含めて社労党の大多数の党員が「落合グループ」というのはどのような見解をもっており、どのような経緯で党から処分されたかさえ知らない(!)のである。
 
 われわれについてもある日突然、代表委員から「脱会しろ」と迫られて、赤星マルクス研究会を名乗ることになった。
 
 こうしてかつての「レーニンの党組織論」に立脚した前衛政党は、一人去り、二人去り、いつの間にか、哀れにも価値妄想教のご教祖様と“迷える子羊”の群れになってしまったのだが、このマルクス主義同志会の転落には「レーニンの党組織論」が大いに役に立ったのである。
 
 また社労党の“大分裂時代”、すなわち協議会派(現「ワーカーズ」)との分派闘争にしても、われわれは党はすでに分裂状態だから公然たる分派闘争に移行せよと中央に要求していたが、中央はかたくなにそれを拒否していた。
 
 この時、われわれはお行儀がいいので「組織の横断的な連絡禁止」規定を守っていたが、協議会派(現「ワーカーズ」)は最初から組織を割るつもりだったから、「組織の横断的な連絡禁止」規定を無視して、相互に連絡を取りあい全国の反乱軍を糾合してまたたくまに本当の分派になってしまって、党中央が公然たる分派闘争に乗り出した時にはすでに党の分裂は避けられないものになっていた。
 
 結局、社労党の「レーニンの党組織論」なるものは、多くの悲劇だけを残して、くだらない連中を喜ばせるだけに終わったのだが、それもそのはずで、この「レーニンの党組織論」なるものこそ実はスターリン主義の政治理論なのである。
 
 レーニンはロシアで革命を起こすにはどのような組織が必要であるかを考えて『なにをなかべきか』を書いた。彼の正しさはロシア革命が成功したことによって証明されたが、ボルシェヴィキが権力を握った段階で、状況が変わったのだから、ロシアで社会主義を建設するためにはどのような党組織が必要であるのかという観点で『なにをなすべきか』は書き換えられなければならなかったのだが、レーニンはそれを果たせずに死んでしまった。
 
 レーニンに代わったスターリンはレーニンの政治理論とそれを成り立たせていた社会的、経済的な諸連関を切り離して、これを一般化して「レーニンの党組織論」を作り出した。それは権力を握った一握りの共産党の党官僚が、専一的に共産党を支配し、共産党を支配することによって、社会を支配するというわれわれが国家資本主義と呼んでいるスターリン体制の基幹理論となっていったのである。
 
 これに対してわれわれは本当のレーニンの政治思想と党組織論は、高度に発達した資本主義国である日本で、社会主義に向かってわれわれが前進するためにはどのような政治思想と党組織論が必要であるのかということを、日本の現状に合致するかたちで提起することであると考える。